ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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泥んこのティータイム、あるいは魔術師の油断

 メジロマックイーンの劇的な復活勝利から数日たったころ。

 暖かな日々が続く陽気の中、トレセン学園には穏やかな日常が戻ってきていた。

 

 ……はずだった。

 

「……あのね、メジロマックイーン君?ここは私のトレーナー室であって、メジロ家のサロンではないのだが」

 

 ヤン・ウェンリーは、自分のデスクの椅子に座り、困惑の表情で部屋を見渡した。狭いはずのトレーナー室に、なぜか高級なレースのテーブルクロスが敷かれた円卓が持ち込まれ、そこには見たこともないような高級菓子(スイーツ)の塔がそびえ立っていたからだ。

 

「あら、お気になさらないで。これは私からの、ささやかな感謝の気持ちですわ」

 

 優雅に紅茶を淹れているのは、完全復活を遂げたメジロマックイーンその人である。彼女の対面には、いつものジャージ姿のハルウララが、目をキラキラさせて座っていた。

 

「わあー!すごい!これ全部食べていいの!?」

「ええ、もちろんよ。ハルウララさん。……ただし」

 

 マックイーンは、ウララが掴もうとしたマカロンを、手のひらでピシャリと制した。

 

「食べる時は背筋を伸ばして。小指は立てず、一口サイズに割ってから。……いいこと?貴女は私のコーチなのですから、最低限の品格を身につけていただきませんと」

 

「えー?よくわかんないけど、こう?」

「違いますわ。もっとこう、優雅に……ああもう!口の周りにクリームがついてましてよ!」

 

 マックイーンは溜息をつきながらも、ハンカチを取り出し、甲斐甲斐しくウララの顔を拭いてやっている。その光景は、深窓の令嬢と、世話の焼ける妹のようだった。

 

 ヤンは、その光景を遠巻きに眺めながら、ブランデー入りの紅茶を啜った。

 

「……いつの間に、うちはメジロ家の別邸になったんだ」

 

 隣で同じくケーキを頬張っているトウカイテイオーが、口をもぐもぐさせながら答えた。

 

「んぐ、いいじゃん魔術師!マックイーンのスイーツ最高だよ?なんかね、最近マックイーン、練習が休みの日はいっつもここに来てるんだよ」

 

「だからか。しかし、君のライバルの緊張感が欠如しそうで心配なんだが」

 

「大丈夫だよ!走る時はすごいもん!……でも、ウララといる時のマックイーンって、なんか『お母さん』みたいだよねぇ」

 

 的確な指摘だった。

 

 

 あくる日の午後。

 学園の中庭にある、芝生のオープンテラス。

 そこは本来、生徒会役員や成績優秀なウマ娘たちが集う、少し敷居の高い場所だった。

 

 そこに、異様な二人組がいた。

 完璧な制服の着こなしを見せるマックイーンと、どう見ても泥遊び……練習上がりと思われるハルウララだ。

 

「いいですか、ウララさん。紅茶というのは、香りを楽しむものですの。一気飲みしてはいけません」

「うん!でも喉乾いちゃって!おいしい!」

「……はぁ。まあ、美味しそうに飲むのは良いことですけれど」

 

 周りの生徒たちが、ひそひそと囁き合う。

 

「あれ、マックイーンさんよね?」

「なんであの子と?」

 

 その時、よく通る、甲高い声がその場を制圧した。

 

「ちょっと!ウララさん!!」

 

 カツカツカツ!とローファーの踵の音を響かせて現れたのは、キングヘイローだった。

 彼女は柳眉を逆立て、信じられないものを見る目でウララを指差した。

 

「貴女、またそんなに泥だらけにして!ここは中庭よ!?一流のウマ娘が嗜む神聖なティータイムの場に、そんな泥んこで現れるなんて!」

 

「あ、キングちゃん!やっほー!」

 

「『やっほー!』じゃありません!貴女が泥だらけで帰ってくるたびに、誰が玄関の掃除をしていると思っているの!?同室の私の身にもなりなさい!」

 

 まくし立てるキング。だが、その手にはすでにタオルが握られており、文句を言いながらもウララの顔についた泥を拭おうと体が動いてしまっている。完全に「オカン」のムーブだった。

 

「あら、ごきげんよう。キングヘイローさん」

 

 マックイーンが涼しい顔で声をかけると、キングは「ハッ」として居住まいを正した。

 

「……オホン。ごきげんよう、メジロマックイーンさん。お見苦しいところをお見せしましたわ」

 

 キングは髪をかき上げ、不敵に微笑んだ。

 

「それにしても……天下のメジロマックイーンさんが、まさか私の『手のかかるルームメイト』とお茶会だなんて。貴女も随分と物好きというか、懐が広いですわね」

 

 言葉の端々に、「うちのウララがすみませんね」という身内感が滲み出ている。マックイーンはクスリと笑い、カップを置いた。

 

「ええ。確かに彼女は手がかかりますわ。マナーは知らないし、じっとしていないし、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう」

 

「でしょう?まったく、一流の私だからこそ、彼女の同室が務まるのですわ。毎晩毎晩、『明日は勝つぞー』なんて寝言を聞かされながら、彼女の散らかした服やら道具やらを片付ける私の苦労、分かります?」

 

「あら。それは羨ましいですわ。私も一度、その寝言を聞いてみたいものです」

「はぁ!?うるさいだけよ!それに、寝相も悪くて布団を蹴飛ばすし……」

「ふふ。元気でよろしいじゃありませんか」

「……まあ、貴女みたいに上品ぶって遠くから見てるだけの人には、分からない苦労でしょうけどね!」

「ふふっ。ですが……」

 

 マックイーンは、キングに顔を拭かれて「えへへ」と笑っているウララを見た。

 

「彼女は教えてくれました。泥にまみれても、何度負けても、決して自分の走りを卑下しない強さを。……一番近くにいる貴女なら、誰よりもご存知でしょうけれど」

 

 キングは一瞬、虚を突かれたような顔をした。そして、フンと鼻を鳴らし、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。

 

「……当然ですわ。伊達に同じ部屋で暮らしていませんもの」

 

 キングは、拭き終わったタオルをウララに押し付け、ビシッと言い放った。

 

「いいこと、ウララさん!マックイーンさんとご一緒するなら、その泥だらけのジャージはどうにかしなさい!私の顔に泥を塗るつもり!?」

 

「えー、でも着替え持ってきてないよー」

 

「はぁ……仕方ありませんわね。後で私の予備のジャージを貸してあげます」

 

「わーい!キングちゃん大好きー!」

 

「ちょ、抱きつかないで!ああもう!私の制服まで汚れるでしょうが!!」

 

 ギャーギャーと騒ぐ二人を見て、マックイーンは楽しそうに紅茶を啜った。

 

「……ふふっ。やはり彼女には、素敵な『保護者』がたくさんいらっしゃるようですわね」

 

 キングヘイローの小言は、中庭に響くどんな音楽よりも賑やかで、そして温かかった。

 

 

 その様子を、校舎の窓からヤン・ウェンリーが見下ろしていた。

 

「……やれやれ」

 

「嬉しそうだな、トレーナー君」

 

 いつの間にか背後に立っていたシンボリルドルフが言った。

 

「君が送り込んだ『春風』は、どうやら学園の堅苦しい空気を少しずつ変えているようだ。メジロの令嬢が、あそこまで変わるとはね」

 

「私は何もしていないさ。ただ、彼女たちが勝手に引かれ合っただけだ。それに、変わったのは何も、メジロの御令嬢だけじゃあないよ」

 

 ヤンは肩をすくめた。彼の目論見は半分当たり、半分外れていた。ウララの存在が、エリートたちの精神安定剤になることは予想していた。

 だが、まさかエリートたちがこぞってウララを「可愛がり」始め、トレーナー室がサロンと化し、更にはその影響でウララが『勝利』を目指すことまでは、計算外だった。

 

「……ところで、トレーナー君。来週の理事長主催のパーティーだが」

「勿論、欠席させていただく予定だが」

「マックイーンとウララが、君のエスコートを期待していたぞ。特にウララは、『トレーナーさんにも、美味しいケーキ食べさせてあげる!』と喜んでいたな。それに、個人的にも、トレーナー君にはエスコートを任せたい。『チーム・ヤン』としてね」

 

 ヤンは天を仰いだ。戦場(レース)での勝利よりも、この泥んこの平和を守るほうが、遥かに骨が折れそうだ。

 

「私はそのチームを認めていないぞ、ルドルフ」

「既成事実という奴さ。既に、書類は生徒会長権限で通してあるし、理事長の決済も済んでいるよ」

「………胃薬をくれ。特大のやつをな」

 

 魔術師の嘆きは、春の空に吸い込まれていった。だが、その表情は、決して不機嫌ではなかった。

 

 そして、今日もグラウンドからは、春風達の笑い声が響いている。それは、どんな名勝負の実況よりも、平和で、心地よい響きだった。

 

 

 桜が散り、新緑が眩しくなる季節。とある地方のレース場は、奇妙な熱気に包まれていた。

 

「いっけー!ウララー!」

「頑張れー!転ぶんじゃないぞー!」

 

 G1レースのような殺伐とした空気はない。そこに流れているのは、運動会を見守る親戚のような、温かく牧歌的な声援だった。

 

 ダートコースの最終直線。砂煙を上げて、馬群が駆け抜けていく。その最後方。遥か後ろを、一人のウマ娘がポツンと走っている。

 

 ハルウララだ。

 

 今日もまた、定位置の「ビリ」。

 

 だが、彼女の顔に悲壮感はない。泥だらけになりながらも、スタンドの歓声に気づき、走りながらブンブンと手を振っている。

 

「みんなー!応援ありがとー!私、走ってるよー!」

 

 ゴールイン。大差での最下位。

 

 観客たちは笑顔だった。

 

「いやぁ、今日もいい負けっぷりだったな」

 

 と、彼女の元気な姿に癒やされている。

 

 だが。

 

 レース直後、トレーナーの元へ戻ってきたウララは、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、その笑顔を曇らせた。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

「ん?どうしたんだい?今日も人気者だったじゃないか」

 

 ヤン・ウェンリーがタオルを渡すと、ウララは泥だらけの顔を拭きながら、小さく呟いた。

 

「私ね、今日は前の子の背中、ちょっとだけ近く見えた気がするの」

「……ああ。タイムは縮まっているよ」

「そっか……。えへへ、よかった!」

 

 彼女はすぐにいつもの満面の笑みに戻った。

 だが、ヤンは見逃さなかった。

 彼女がタオルを握りしめる手が、以前より強く、白くなっていたことを。

 

 「負けてもいい」と、ただただ楽しそうに笑っていた少女は、もういない。

 

 マックイーンとの出会いを経て、彼女の中には「勝ちたい」「もっと速く走りたい」という、アスリートとしての小さな種火が灯り始めていた。

 

 その「まだ言葉にもならない悔しさ」を笑顔の下に隠して、彼女は今日もファンの期待に応えているのだ。

 

「……だが、いい表情になったな」

 

 ヤンは、紙コップの安っぽいお茶を啜りながら、愛弟子の成長を密かに喜んだ。

 

 

 ブームというのは、少しの火種で着火するものらしい。ハルウララのその瞬間というのは、唐突に訪れた。

 

 天皇賞春の直後に行われた、メジロマックイーンの復帰記念インタビュー。

 一流スポーツ誌『Number』の特集記事がそのブームの発端だった。

 

 記者の質問は、奇跡の復活を遂げた彼女のメンタル面に及んだ。

 

『絶望的な大怪我から、どうやって立ち直ったのですか?やはり、名門メジロ家の誇りでしょうか?』

 

 その問いに、誌面のマックイーンは、どこか遠くを見るような柔らかな表情で答えている。

 

『いいえ。私がもう一度走ろうと思えたのは、ある友人のおかげですわ』

 

 記事には、こう続く。

 

『彼女は、一度も勝ったことがありません。泥だらけになって、いつも負けて帰ってくる。……けれど、彼女は私に言いました。「走ることは楽しいよ」と。

 勝敗という呪縛の中で苦しんでいた私に、走ることの原初的な喜びを思い出させてくれたのは……他ならぬ、ハルウララさんです』

 

『彼女こそが、私の恩人であり……私が最も尊敬する、心の強さを持ったウマ娘です』

 

 このインタビューが世に出た瞬間、日本中がどよめいた。

 

 あの孤高の女王、メジロマックイーンが。

 

 「尊敬する」と公言した相手が、あの連戦連敗のハルウララだと?

 

 『女王を救った、泥んこの天使』

 『最強と最弱の絆』

 『負けても輝く、一等賞の笑顔』

 

 メディアが飛びついた。

 天才と落ちこぼれ。栄光と泥臭さ。その対比はあまりにもドラマチックで、人々の心を見事なまでに鷲掴みにしていった。

 

 

 そして、夏。

 事態は加速する。

 

「ウララちゃーん!こっち向いてー!」

「今日も無事に帰ってきてくれー!」

 

 学園祭で行われた模擬レース。その中で、仮設されたパドックの周りには、満員電車のような人だかりがあった。

 

 カメラの放列。テレビの中継車。そして、ピンク色のペンライト。もはやアイドルコンサートだ。

 

「えへへ、すごーい!みんな私の名前呼んでるー!」

 

 ウララはファンの声援に応え、手を振る。

 だが、スタート地点に向かう直前、彼女はパンパンと自分の頬を叩いた。

 

(……笑ってくれるのは嬉しいけど、やっぱり一番前でゴールして、もっとみんなを喜ばせたいな)

 

 誰にも聞こえない声で呟き、彼女は走った。結果は、最下位。

 それでも、彼女はゴール板を駆け抜けた後、少しの悔しさを飲み込んで、最高の笑顔でスタンドへ手を振った。

 

 その健気さが、さらにファンを増やしていく。

 

 まさに、社会現象とも言えるスピードで。

 

 不況や閉塞感に覆われた日本社会が、彼女の笑顔と、その裏にある「小さなひたむきさ」に救いを求めた結果だった。

 

 

 秋も深まり、冬の寒さが近づいて来た頃。

 トレセン学園のトレーナー室は、お茶の香りの代わりに、段ボールの匂いで満たされていた。

 

 全国から届くファンレターとプレゼントの山だ。

 

「……やれやれ。私の部屋が倉庫代わりになるとはね」

 

 ヤンは、山積みになった「ウララちゃんへ」と書かれた手紙の塔を見上げ、呆れつつも安堵のため息をついた。

 

「まあ、悪いことではないか。彼女の頑張りが報われ、URAや彼女が走りに行く地方も潤う。誰も不幸にならないブームだ」

 

 隣で、マックイーンが誇らしげに紅茶を淹れている。

 

「当然ですわ。私の見込んだ方ですもの。これくらいの人気、あって然るべきです」

「しかし、これだけ騒がれると練習に集中できないのが難点だな。……まあ、冬になれば少しは落ち着くだろう」

 

 ヤンは楽観視していた。

 所詮はブームだ。熱しやすく冷めやすい。

 

 それに、ハルウララはあくまで未勝利ウマ娘。ファンの数こそ大幅に増えてきた。だが、それでも未勝利ウマ娘のレースや、地方のダートレースを主戦場とするウマ娘だ。

 

 特例で所属こそ『中央のウマ娘』だが、とはいえ中央の重賞戦線や、年末のグランプリレースとは無縁の存在だ。残念ながら彼女らとは、住む世界が違う。

 

「そういえばメジロマックイーン君。君は、有マ記念は走るのかい?」

「いいえ。天皇賞秋でトウカイテイオーにしてやられましたから、肉体改造中です。復帰は天皇賞春を予定しています」

「そうか。君が出るならば、出る連中の作戦を練り直さねばならないと思っていた所だが………それなら、冬はコタツで蜜柑でも食べながら、来年のスケジュールをゆっくり考えられそうだ」

「あら、またサボる気ですの?ダメですわよ、ヤンさん」

 

 実に、平和な午後だった。

 

 

 魔術師ヤン・ウェンリーは、この時、完全に油断していた。

 

 彼は知らなかったのだ。

 

 この国の「民主主義」が、時にどれほど暴走的で、予測不能な熱量を帯びるかということを。

 

 そして、全国のファンが、ある「投票用紙」に、彼女の名前を書き込み始めていることを。

 

『有マ記念 ファン投票』

 

 その集計結果が発表された時、魔術師の平穏な冬休みは、跡形もなく吹き飛ぶことになる。

 

 ―――だが、それを知る者は、まだ誰もいない。

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