師走。
歴史家が「教師も走るほど忙しい」と記述したこの季節、トレセン学園のトレーナー室は、いつにも増してカオスな熱気に包まれていた。
「お兄さま、紅茶のお代わりはいかがですか?」
「ああ、頼むよライス。……少し濃いめにしてくれ。頭が痛くなりそうな予感がするんだ」
ヤン・ウェンリーは、こめかみを揉みながらソファに沈み込んでいた。彼の周りには、いつものメンバーが集結している。
優雅に読書をするシンボリルドルフ。筋トレ雑誌を熟読するナリタブライアン。「ボクが一番!」とゲームに興じるトウカイテイオーと、その相手をさせられているナイスネイチャ。怪しげな薬品を調合しているアグネスタキオン。そして、なぜか部屋の隅でコタツを出してミカンを食べているゴールドシップ。
この部屋の人口密度と、偏差値と、戦闘力の高さは異常だ。ヤンは、平和な隠居生活を夢見ながら、窓の外の寒空を見上げた。
「……そろそろ、年末か」
年末といえば、グランプリ・有マ記念。ファン投票で選ばれたスターウマ娘たちが競演する、一年の総決算だ。
当然、この部屋にいる面々の多くも出走を予定している。ヤンにとっては、作戦立案の過労で死にそうになる時期でもあった。
その時。バンッ!と勢いよくドアが開いた。
「トレーナーさーーーん!!!」
寒風と共に飛び込んできたのは、ピンク色の小さなつむじ風。ハルウララだ。彼女は頬を真っ赤にして、一枚の紙を握りしめている。
「見て見て!これ!すごいよ!」
「ん?どうしたんだい、そんなに慌てて」
ヤンは、彼女が突き出してきた紙を受け取った。それは、本日発表されたばかりの『有マ記念ファン投票・最終結果発表』の速報紙だった。
「私がね、載ってるの!すごい順位なの!」
ウララが目をキラキラさせて指差した先。ヤンの視線が、その行を捉える。
1位、2位、3位……とスターたちの名前が続き、そして。
『ファン投票 第4位:ハルウララ』
ヤンは、持っていたティーカップを取り落としそうになった。幻覚か?いや、何度見ても書いてある。
未勝利。地方トレセン出身者。連戦連敗の記録更新中。
そんな彼女の名前が、歴戦の猛者たちと並んで、栄光のリストに刻まれているのだ。
「……正気か、日本のウマ娘ファンは」
ヤンが呻くように呟くと、部屋中の視線が集まった。ルドルフが覗き込み、目を丸くする。
「ほう……。これは驚いたな」
「えっ、ウララが!?」
テイオーがゲームを放り投げて駆け寄ってくる。紙面を見た一同が、どよめいた。
「マジかよ!ウララ、お前すげーな!アタシより人気あるんじゃねーか?」
ゴルシがミカンを放り投げて笑う。
「……興味深い。判官贔屓(ほうがんびいき)という心理現象が、ここまで極端な数値となって表れるとはね」
タキオンが白衣のポケットからメモ帳を取り出す。
だが、当の本人は、事の重大さを全く理解していなかった。彼女は、無邪気に笑って、とんでもないことを口にした。
「ねえねえ、トレーナーさん!私、走れるの?このレース!」
室内の空気が、ピタリと止まった。
有マ記念。中山2500メートル。
―――それは、スタミナとパワー、そして何より「底知れぬ地力」が問われる、過酷な消耗戦の舞台だ。短距離のダートですら勝てていないウララが、芝の長距離、それも国内最強決定戦に挑む。
『無謀』という言葉すら生温い。そもそも、走り切れるかすら怪しい。軍事的に言えば、『ゴムボートで宇宙戦艦の艦隊決戦に突っ込む』ようなものだ。
「……ウララ君。確かに君は中央に所属しているから、出ようと思えば出れる。だがね」
ヤンは、努めて冷静な声を出した。
「これは人気投票だ。出走義務はない。それに、君の適性とこのレースの条件は、水と油ほどに違う。辞退するのが賢明だ」
「えー、なんで?」
ウララは首を傾げた。
「だって、ルドルフちゃんも、テイオーちゃんも、ライスちゃんも、みんな走るんでしょ?私も一緒に走りたい!お祭りなんでしょ?」
「お祭りだが……。君にとっては、そこは祭会場ではなく、処刑台になりかねないんだよ」
ヤンは諭すように言った。だが、ウララは引かなかった。彼女は、部屋にいる「大好きな友達」を見回し、そして再びヤンを見た。
「私、走りたい」
その瞳に、かつて、マックイーンをレースで見た時の、あの「熱」が宿っていた。
「みんなが目指してる『一番すごい場所』がどんなところなのか、見てみたいの。……私、ビリでもいいから、みんなと同じ景色が見たい!」
純粋な憧れ。そして、仲間外れになりたくないという、寂しがり屋の意地。それは、論理や計算では説得できない類のものだった。
ヤンは助けを求めるように、ルドルフを見た。だが、皇帝は腕を組み、静かに微笑んでいるだけだった。
「……私は構わないよ、トレーナー君。彼女が望み、ファンが望んでいるのなら、それに応えるのも『ウマ娘』の務めだ」
「ルドルフ、君ね……。手加減なんてできないだろう?」
「当然だ。全力を尽くして叩き潰すのが、同じターフに立つ者への礼儀だからね」
皇帝の目には、慈悲深さと、それ以上に冷徹な勝負師の色が混じっている。他のメンバーも同様だった。
「ボクも負けないよ!ウララ相手でも、容赦しないからね!」
テイオーが闘志を燃やす。
「……フン。邪魔なら蹴散らすだけだ」
ブライアンが鼻を鳴らす。
ヤンは頭を抱えた。全員、やる気だ。自分の教え子たちが、自分の教え子を、全力で公開処刑にしようとしている。
(これが、私の求めていた平穏な年末か……?)
ヤンは、すがるような目でライスシャワーを見た。彼女なら、止めてくれるはずだ。だが、ライスは、ウララの手をぎゅっと握りしめていた。
「……ライスも、走ってほしいです」
「ライス!?」
「だって、ウララさん……すごく、楽しそうな顔してるから。お兄さまが教えてくれたんです。『自分のために走れ』って。だから、ウララさんにも……」
外堀も、内堀も、完全に埋められていた。ヤンは、深いため息をつき、飲みかけの紅茶を煽った。胃が痛い。キリキリと痛む。
「……分かった。降参だ」
ヤンは、ウララに向き直った。
「出走を許可する。ただし!」
ヤンは人差し指を立てた。その目は、かつてイゼルローン要塞で、数万の敵艦隊を前にした時と同じ、鋭い光を帯びていた。
「これは『レース』ではない。『生存競争(サバイバル)』だ。勝利条件は、『一着になること』ではない。『周回遅れにならず、五体満足でゴール板までたどり着くこと』。
……いいかい?もし途中で足が止まりそうになったら、歩いてもいい。だが、心だけは止めるな」
ウララは、ぱぁっと顔を輝かせた。
「うん!分かった!ありがとうトレーナーさん!」
「礼を言うのはまだ早いよ。……これからの3週間、地獄を見てもらうことになるからね」
ヤンは立ち上がり、ホワイトボードに向かった。そこに書かれたのは、『有マ記念・ハルウララ生還計画(オペレーション・スターダスト)』の文字。
「さて、諸君。これはチーム・ヤンの総力戦だ。私が作戦を立てる間、君たちにはウララ君の『特別講師』を務めてもらう」
ヤンは、部屋にいる怪物たちを見渡した。
「ライスシャワーは『諦めない心(メンタル)』を。アグネスタキオンは『肉体の補強(フィジカル)』を。ナリタブライアンとトウカイテイオーは『実戦形式の併走』を。
……ゴールドシップは、まあ、邪魔しない程度に賑やかしを頼む」
「オイ!扱いが雑だぞ魔法使い!」
騒がしくなる部屋の中で、ヤン・ウェンリーは独りごちた。
「やれやれ。歴史上、これほど勝ち目のない戦いに挑んだ指揮官がいただろうか」
だが、その口元は、微かに笑っていた。
勝率はゼロに等しい。だが、あらゆる可能性はゼロではない。
この「星屑」が、たとえ勝利できなくとも、銀河の英雄たちの中で一瞬でも輝くことができれば。それは、どんな勝利よりも痛快な「歴史の悪戯」になるかもしれない。
魔術師と、星屑のグランプリ。無謀で、過酷で、そして最高に騒がしい冬が、始まろうとしていた。