ヤン・ウェンリーは、ホワイトボードの前に立ち、黒のマーカーを持ったままフリーズしていた。
彼の背後では、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、トウカイテイオーといった、そうそうたるG1ウマ娘たちが、固唾を飲んで「魔術師の次の一手」を待っている。
数秒の沈黙の後、ヤンはボードに大きく、たった二文字を書いた。
『 完 走 』
「……以上だ」
ヤンが振り返ると、部屋中から「は?」という空気が漏れた。
「ま、魔術師?完走って……当たり前じゃないの?」
テイオーが首を傾げる。だが、ヤンは極めて真面目な顔で、指示棒でその文字を叩いた。
「いいかい、諸君。今回の戦場は中山レース場、芝の2500メートルだ。ハルウララ君の主戦場であるダート1300メートルとは、環境も、距離も、求められるスキルも、何もかもが違う」
ヤンは、ソファで小さくなっているハルウララを見た。
「例えるなら、近所の公園で砂遊びをしていた子供に、いきなり『アルプス山脈をフル装備で踏破しろ』と命じるようなものだ。……普通なら登れるはずもないし、よしんば登れたとしても、十中八九遭難する」
ウララが「そうなの?」と子供のような反応を返すが、ヤンは無視して続けた。
「有マ記念の出走メンバーを見る限り、ペースは極めてハイレベルになるだろう。冒頭からツインターボが暴走し、そして後半でルドルフやブライアンが牽引する展開になれば、通常のウマ娘ならスタミナ切れで失速し、先頭から遥か後方に置き去りにされる」
ヤンは、残酷な現実を淡々と告げた。
「そして、もし1着のウマ娘から規定以上の大差をつけられてゴールすれば……待っているのは『タイムオーバー(出走停止処分)』だ」
場の空気が凍りつく。
タイムオーバー。
それは、レース自体は最後まで走らせてもらえるものの、「君はこのレベルのレースに参加する資格がなかった」と公式に宣告されることに他ならない。そうなった場合のペナルティは、一定期間のレース出場禁止。それは、人気投票で選ばれたウマ娘にとって、死刑宣告にも等しい屈辱だ。
「だからこそ、我々の第一目標は『勝つこと』ではない。『レースを成立させること』だ。最強のメンバーが作る殺人ペースの中で、規定タイム内に、五体満足でゴール板を駆け抜ける。……ハルウララ君。君に課せられたミッションは、これだ」
ヤンはウララの目の前にしゃがみ込んだ。
「できるかい?」
「うん!走るだけなら任せて!私、丈夫だもん!」
「よろしい。あとは――焦るな、ウララ君。君の敵は前のランナーじゃない。時計の針だ」
ウララの即答に、ヤンは微かに口元を緩めた。
「よし。ではこれより3週間、地獄の特訓を開始する。……各員、配置につけ!」
■
初日の特別講師は、ライスシャワーだった。冬の朝霧が立ち込めるダートコース。二人の小柄なウマ娘が、並んで走っていた。
「はぁ、はぁ………」
「ご、ごめんねウララさん!ペース、落とすね……」
ライスシャワーは慌てて速度を緩めた。彼女は長距離のスペシャリスト(ステイヤー)だ。無尽蔵のスタミナを持つ彼女にとっての「ジョギング」は、短距離ウマ娘のウララにとっては「全力疾走」に近い。
「ううん、待って!私、ついていく!」
ウララは汗を飛び散らせながら、ライスの背中を追った。ライスは、チラチラと後ろを気にしながら、それでも一定のリズムを刻み続けた。
(……ウララさん、すごい)
ライスは思っていた。普通、これだけ実力差があれば、心が折れてしまう。あるいは「待ってよ」と不満を言う。けれど、ウララは一度も弱音を吐かない。泥だらけになっても、その目は真っ直ぐにライスの背中、目標を見つめている。
「……ウララさん。有マ記念はね、すごく怖いの」
走りながら、ライスはポツリと言った。
「お客さんの声が、地響きみたいに聞こえるの。周りのみんなが、怪物みたいに大きく見えるの。……ライスね、初めての時、足が震えて動かなくなりそうだった」
「えっ、ライスちゃんでも?」
「うん。……でもね、お兄さまが言ってくれたの。『ブーイングは、君への恐怖の裏返しだ』って」
ライスは、自分の胸に手を当てた。
「ウララさんが走る時、きっと周りは笑うかもしれない。……でも、笑い声なんて気にしちゃダメ。大切なのは、ウララさんの心臓の音。トクトクって音だけを聞いて。それが聞こえている限り、ウララさんはどこまでだって走れるから」
「心臓の……音……」
ウララは自分の胸に意識を向けた。苦しい呼吸の奥で、早鐘を打つ心臓。――生きている音。
「わかった!私、私の音を聞く!」
「うん!がんばろ、ウララさん!」
黒い刺客と、ピンクの春風。
対照的な二人は、朝霧の中を、いつまでも走り続けた。
■
2週目。場所は理科準備室――もとい、アグネスタキオンの研究室。
「素晴らしい……!実に興味深いねぇ!」
タキオンは、ランニングマシンで走らされているウララのデータモニターを見ながら、恍惚の表情を浮かべていた。
「心拍数、乳酸値、筋繊維の損傷率……すべてが『限界』を示している数値だ。普通ならとっくに倒れている。なのに、なぜ彼女はまだ笑顔で走っているんだ?」
タキオンの横で、ヤンが紅茶を啜りながら答えた。
「だから言ったろう。彼女は論理の枠外にいると」
「非論理的だ!精神論で筋肉が動くわけがない!……だが、事実として動いている!」
タキオンは白衣を翻し、ウララに駆け寄った。
「ハルウララ君!今、何を考えているんだい!?」
「え?うーんとね……。今日の晩ご飯、ハンバーグかなぁって!」
「ハンバーグ!カロリー摂取への渇望が原動力か!いや、それだけではないはずだ!」
タキオンはブツブツと呟きながら、怪しげな色をしたドリンクを差し出した。
「飲みたまえ!私の特製『スタミナ増強・改三式(味は保証しない)』だ!」
「わーい!ジュースだ!いただきまーす!」
ウララは躊躇なく一気飲みした。直後、
「んぐっ!?」
と白目を剥きかけたが、すぐに、
「……にがーい!でも、なんかポカポカする!」
と復活した。
「……味覚神経まで規格外か。ますます気に入ったよ」
タキオンはニヤリと笑い、ヤンに向き直った。
「トレーナー君。彼女の肉体スペックは、G1級には程遠い。だが、『回復力』と『燃費』だけは一級品だ。……ペース配分さえ間違えなければ、中山の坂も越えられるかもしれない。まぁ、タイムは別だがね?」
「ああ、承知の上さ。それを計算するのが、私の仕事だからね」
科学と魔術。二人の参謀は、モニターの中で走り続ける「無限の心臓」を見つめ、不敵な笑みを交わした。
■
そして、レース3日前。最終調整。相手は、ナリタブライアンだった。
「行くぞ。ついてこい」
「うん!」
芝コースでの併走。ブライアンが加速する。
それは、今までの誰とも違った。暴風。そう言えるほどに、隣を走っているだけで、体が吹き飛ばされそうになるほどの圧倒的な質量とスピード。これが「シャドーロールの怪物」の本気である。
「っ……!」
ウララは必死に食らいつこうとした。だが、一歩ごとに差が開く。足がもつれる。肺が焼ける。今まで「楽しい」だけで走っていた彼女の前に、冷酷な「実力差」という壁が立ちはだかる。
ブライアンは、遥か前方で足を止め、振り返った。芝の上に大の字に倒れ込んだウララを見下ろす。
「……ここまでか」
「ま……だ……!」
ウララは、震える手で地面を掴み、立ち上がろうとした。膝が笑っている。顔は泥と芝だらけだ。それでも、彼女の目は死んでいなかった。
「まだ……走れる……もん……」
ブライアンの瞳が、僅かに細められた。彼女は知っている。弱者が強者に挑む時、最も必要なのは才能ではない。「恐怖に打ち勝つ飢え」だ。
「……フン。悪くない目だ」
ブライアンはウララの元へ歩み寄り、無造作にタオルを投げつけた。
「立て。有マ記念の相手は、私だけじゃない。皇帝も、帝王もいる。……こんなところで寝ている暇はないぞ」
「うん……!ありがと、ブライアンちゃん!」
ウララはタオルで顔を拭き、再び走り出した。その背中を見て、コース脇のベンチで見ていたトウカイテイオーが、ヤンに話しかけた。
「ねえ魔術師。ウララは本当に制限時間内に完走できるかな?」
「さあね。確率は五分五分といったところか」
ヤンは、冷え切った紅茶を飲み干した。
「だが、彼女はチーム・ヤンのウマ娘だ。私の教え子が、戦う前から白旗を上げることだけはあり得ないよ」
■
レース前夜。
トレーナー室は、静まり返っていた。明日の本番に備え、他のウマ娘たちは早めに寮へ戻っている。残っているのは、デスクで最終のペース配分表を確認するヤンと、ソファで膝を抱えているハルウララだけだった。
「……眠れないかい?」
「うん。……なんかね、ドキドキするの」
ウララは、自分の胸を押さえた。
「いつもは楽しみでドキドキするんだけど、今日は違うの。……怖いような、泣きたいような、変な感じ」
それは、武者震いであり、責任感の芽生えだった。自分に投票してくれたファンの想い。特訓に付き合ってくれた仲間たちの想い。それらを背負って走ることの重さを、彼女は初めて知ったのだ。
ヤンは席を立ち、ウララの隣に座った。そして、温かいミルクティーを差し出した。
「それはね、ウララ君。君が『ウマ娘』になった証拠だよ」
「ウマ娘に?」
「ああ。ただ走るのが好きな少女から、勝負の世界に生きるアスリートになったんだ。……その恐怖は、恥じることじゃない。ルドルフだって、テイオーだって、みんなスタート前はそうやって震えている」
ヤンは、彼女の頭にポンと手を置いた。
「大丈夫だ。君は一人じゃない。私の作戦と、仲間たちがくれた武器がある。自分のリズムを守ればいい。……そして何より」
ヤンは、窓の外、中山の方角を見据えて言った。
「君には、最強の武器がある」
「最強の……武器?」
「そう。『負けることを恐れない強さ』だ。失うものがない者は、王様よりも強いんだよ」
ウララは、ミルクティーを一口飲んだ。温かさが体に染み渡る。恐怖が、少しずつ勇気に変わっていく。
「トレーナーさん」
「ん?」
「私、明日は一番にはなれないかもしれない」
「……まあ、客観的に見てその可能性は高いね」
「でもね、私、約束する!」
ウララは、カップを置いて、満面の笑みでヤンを見た。それは、マックイーンが憧れた、あの太陽のような笑顔だった。
「絶対に帰ってくる!みんなが待ってるゴールまで、笑顔で『ただいま!』って帰ってくる!」
ヤンは、数瞬目を見開き、そして優しく微笑んだ。
「ああ。待っているよ。……最高のハンバーグを用意してね」
時計の針が12時を回る。運命の有マ記念。魔術師と星屑たちのグランプリが、祭典が、幕を開けようとしていた。