12月下旬。中山レース場は、物理的な重圧に押し潰されそうになっていた。詰めかけた観衆は10万人以上。その熱気が、冬の冷たい空気を白く濁らせている。
「……やれやれ。イゼルローン回廊の会戦でも、これほど密集してはいなかったぞ」
関係者席のベンチで、ヤン・ウェンリーは紅茶(保温ボトル持参)を啜りながら、眼下のスタンドを見下ろした。隣には、出走しないナイスネイチャとゴールドシップが座っている。
「ヤンさん、手が震えてるけれど、大丈夫ですか?もしかして……武者震いってやつ?」
「カフェインの摂りすぎだよ、ネイチャ君。……それに、胃が痛い」
「流石のトレピッピでも緊張するわなー」
ヤンは視線をターフに戻した。パドックから本バ場入場へ。スターウマ娘たちが次々と紹介され、地鳴りのような歓声が上がる。
『皇帝』シンボリルドルフ。『怪物』ナリタブライアン。『帝王』トウカイテイオー。『刺客』ライスシャワー。
いずれも、歴史に名を残す名将たちだ。その威圧感だけで、空気が張り詰める。そして、最後に紹介されたのが。
『ハルウララ』
歓声の種類が、一瞬変わった。どよめき。失笑。そして、判官贔屓の温かい拍手。ピンク色の勝負服を着た小柄な少女は、巨大なスタンドを見上げ、緊張で強張った顔をしていた。
「……大丈夫かな、あいつ」
ゴルシが珍しく真面目なトーンで呟く。
「大丈夫さ」
ヤンは静かに言った。
「彼女は、私が送り出した『艦隊』の最後尾だ。攻撃力は皆無、速度も遅い。だが、装甲(メンタル)だけは誰よりも厚い。きっと、任務を全うしてくれるはずさ」
ファンファーレが鳴り響く。10万の手拍子が、祭りの始まりを告げる。
■
『各バ、ゲートイン完了……一斉にスタートしました!』
ゲートが開いた瞬間、世界が裂けた。前方で爆発的な加速を見せたのは、大逃げを打つツインターボや、好位につけるトウカイテイオーたち。芝を蹴る音が、まるで砲撃のように響く。
その衝撃波に吹き飛ばされるように、ハルウララは最後方に置かれていた。出遅れたわけではない。彼女なりに最高のスタートを切った。だが、基礎能力が違いすぎたのだ。
第1コーナーを回る頃には、先頭集団は遥か彼方。テレビやウマホなどのモニターには映らない。実況も触れない。彼女はたった一人、10万人の視線の外側で、孤独な旅を始めた。
(……速い)
ウララは、遠ざかる背中を見つめながら走っていた。芝の感触は、いつものダートと違って柔らかく、バネがある。だが、その分、脚への負担も違う。周りには誰もいない。聞こえるのは風の音と、遠くの歓声だけ。
寂しい。
怖い。
「みんなと走りたい」と言ったのに、これじゃあ一人ぼっちだ。孤独が、彼女の足を重くさせる。
その時。ふと、脳裏に声が響いた。あの朝霧のコースで。あるいは、夕暮れのトレーナー室で。何度も繰り返し聞かされた、師の教え。
『――焦るな、ウララ君。君の敵は前のランナーじゃない。時計の針だ』
ヤンの顔が浮かぶ。そうだ。トレーナーさんは言った。「自分のリズムを守れ」と。そして、並走してくれたライスの言葉が重なる。
『心臓の音を聞いて』
ウララは大きく息を吸った。
トクトク、トクトク。
―――大丈夫。私のエンジンは動いてる。この音が聞こえる限り、私はまだ走れる。彼女は前を見るのをやめ、自分の足元を見つめた。一歩ずつ、一歩ずつ、確実に地面を蹴る。
■
レースは中盤から終盤へ。先頭集団では、神話のような戦いが繰り広げられていた。
『残り800!ナリタブライアンが上がっていく!外からシンボリルドルフ!』
怪物が吠え、皇帝が応える。並ぶ間もなく抜き去る次元の脚色。観客は総立ちだ。誰が勝つ?誰が最強だ?
轟音のような歓声の中、シンボリルドルフが半馬身抜け出し、ゴール板を駆け抜けた。
1着、シンボリルドルフ。
2着、ナリタブライアン。
王者の凱旋。電光掲示板にタイムが表示され、どよめきが起きる。……それで、全てが終わったはずだった。
だが。実況アナウンサーが、ふと声を上げた。
『おっと……?まだです!まだ、レースは終わっていません!』
■
王たちがゴールし、スピードを緩めているその遥か後方。第4コーナーを回り、最後の直線に入ってきた、小さな影があった。
ハルウララだ。
ボロボロだった。スタミナは尽きかけ、足は鉛のように重いのだろう。俯いているようにも見える。そして目の前には、中山名物・心臓破りの急坂が壁のようにそびえ立っている。
観客席から、失笑に近い空気が漏れた。
「あーあ、止まりそうだぞ」
「歩いちゃうんじゃねーの?」
「無理すんなって……」
その瞬間だった。一般席の一角で、一人のウマ娘が立ち上がった。
「走んなさいッ!!ウララッ!!」
キングヘイローだ。彼女は周囲の目も憚らず、なりふり構わず叫んだ。
「あんた、私のルームメイトでしょう!?一流の私の隣にいるなら、こんなところで膝をつくんじゃないわよ!!」
悲鳴にも似たその声。毎朝誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで走っている泥だらけの姿を知っているからこその、魂の檄だった。
「足を回して!前を見なさい!あんたが毎晩寝言で言ってる『一等賞』は、歩いてちゃ掴めないのよ!!」
その絶叫に呼応するように、周りの空気が変わった。彼女の必死さが伝播し、失笑が「がんばれ」の声援に変わっていく。
ウララが顔を上げる。視線の先。ゴールラインの向こう。緑、白、青、黒。チーム・ヤンの仲間たちが、ウマ娘達が、振り返って彼女を待っていた。
■
(……高いなぁ)
ウララは、霞む視界で坂を見上げた。もう、歩きたい。止まってしまいたい。誰も見ていないし、もう勝負はついているんだから。
その時。彼女の耳に、聞きなれたルームメイトの声が、微かに届いた。
「走んなさいッ!!ウララッ!!」
(……あ、キングちゃん)
「足を回して!前を見なさい!」
前を向いた彼女の視界に、ゴール付近で待っている人影が見えた。
緑色の勝負服の皇帝。白い勝負服の怪物。青い勝負服の帝王。そして、黒いドレスの刺客。それに、他のウマ娘達まで。
彼女たちは、誰も観客に目を向けていない。ゴールラインの向こうで振り返り、じっとこちらを見ていた。誰一人として、立ち去ろうとするウマ娘はいなかった。
チーム・ヤンの仲間たちが、この有マ記念を共に走ったウマ娘達が、末っ子の帰りを待っていたのだ。
「……う、うおおおおおおおっ!!」
少女が吠えた。残っている力を、根性を、魂を、すべて足に込める。その声は、スタンドにまで届いていた。
「おい、見ろよ!あの子、まだ走ってるぞ!」
「がんばれ!あと少しだ!」
最初はパラパラだった声援が、波紋のように広がっていく。勝敗など関係ない。あの急坂を、泥だらけで登ってくる小さな戦士への、純粋な応援だった。
「ウララ!ウララ!ウララ!」
気づけば、彼女を多くの歓声が包んでいた。
10万人のウララコール。それは、勝者への称賛ではなく、生還者への祈りだ。
「「「「ウララ!ウララ!ウララ!」」」
「うららー!がんばえー!」
ウララの胸の奥で、熱い何かが爆発した。
『待ってるよ』
『絶対に帰ってくるって、約束したもん』
ウララは歯を食いしばった。残っているありったけを、更に、更にと足に込める。
あと100メートル。
視界が白い。音が遠い。でも、ゴール板の前に、大好きな人たちがいるのが見える。
あと50メートル。
足が動かない。でも、耳には歓声が届いている。前を向いて、気持ちだけで体を前に運ぶ。
あと10メートル。
ヤン・ウェンリーが、関係者席から身を乗り出して見ているのが分かった。
そして。
ウララは、倒れ込むようにゴールラインを越えた。
『ハルウララ、今、ゴールイン!最後の最後!見事な激走を見せてくれました!暮の中山有マ記念!全ウマ娘、完走です!』
その瞬間、ウララの体から力が抜けた。芝の上に崩れ落ちそうになる。だが、その体が地面に叩きつけられることはなかった。
「……よく頑張ったな、ウララ」
抱き留めたのは、シンボリルドルフだった。汗と泥にまみれたウララを、皇帝は優しく支えていた。
「ルドルフ……ちゃん……?」
「ああ。見事な走りだった。私たちの背中を、最後まで追いかけてきたな」
「ウララさん!」
ライスシャワーが泣きながら飛びついてくる。
「ウララ!本当にすごいよー!」
トウカイテイオーが頭を撫で回す。
「フン……。最後の根性だけは認めてやる」
ナリタブライアンが、ぶっきらぼうにタオルを乗せた。
ウララは、みんなの顔を見て、へにゃりと笑った。
「えへへ……。ただいま、みんな」
順位は、大差の最下位。
「「「「ウララ!ウララ!ウララ!」」」
「よくやったー!ハルウララー!」
けれど、スタンドから降り注ぐ拍手は、1着のルドルフに向けられたものと同じくらい、温かく、盛大だった。
■
ウララが、倒れ込むようにゴールラインを越えた瞬間。スタンド最上階にある「裁決室」の空気は、張り詰めていた。
なぜならば、先頭がゴール板を通過してから、数秒……いや、十秒近い時間が流れていたからだ。通常であれば、レースのリズムを崩したとして、厳しい処分が下されるタイム差だ。
「……1着のシンボリルドルフとのタイム差、規定時間を大幅に超過しています」
若い裁決委員が、ストップウォッチを見ながら事務的に告げた。
「『タイムオーバー規定』に基づき、ハルウララ選手には、1ヶ月間の出走停止処分を科すべきかと。……ルールはルールですから」
彼は書類にペンを走らせようとした。だが、その手を、年配の裁決委員長が静かに制した。
「……待ちなさい」
「委員長?ですが……」
「モニターを見たまえ」
委員長が指差した先。そこには、ゴール後のターフの映像が映し出されていた。
大差で敗れたハルウララを、勝者であるシンボリルドルフが支え、トウカイテイオーが頭を撫でている。そして何より、10万人の観衆が、ブーイングどころか、割れんばかりの拍手と「ウララコール」を送っているのだ。
「彼女は、ファン投票で選ばれてこの場に立った。いわば、お客様が『この大舞台で彼女の走りを見たい』と願い、彼女はそれに応えて見事に完走してみせたのだ」
委員長は、窓の外を見下ろした。地鳴りのような歓声は、この防音ガラス越しでも微かに振動として伝わってくる。
「君に問おう。競走ウマ娘の本分とは何か?ただ速く走ることか?」
「違うのですか?」
「否だ」
委員長は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「覚えておくと良い、競争ウマ娘とは速さが一つの指標ではあるが、全てではない。
『見る者の心を震わせ、明日への活力を与えること』……それこそが、我々URAが掲げるエンターテインメントの真髄ではないかね?」
「それは……そうですが」
「もし今、彼女を処分すれば、我々は10万人のファンの想いを、そして彼女を迎え入れた勝者たちの敬意を、踏みにじることになる」
委員長は、若手の手元にあった処分通知書を取り上げ、裏返した。
「故に―――本件は、有マ記念という祝祭の特殊性、およびファンの支持、競走者間のスポーツマンシップを考慮し『タイムオーバーの適用除外』とする」
「……適用除外、ですか」
「ああ。それどころか……」
委員長はニヤリと笑い、別の用紙を取り出した。
「最下位ながら、彼女はその走りでこれだけ場内を沸かせてみせたのだ。タダで帰すわけにはいかんだろう」
■
関係者席の端。メジロマックイーンは、レースの一部始終を、祈るように組んだ手で見つめていた。
彼女は知っている。長距離レースの過酷さを。スタミナが切れた時の、肺が焼けるような苦しさを。そして何より、あのハルウララが、自分に憧れて「あの場所」を目指したことを。
(……ウララさん)
ゴール板の前。ボロボロになりながら、それでも笑顔で飛び込んできた小さな姿。そして、その後に巻き起こった、10万人の大歓声。マックイーンの瞳から、真珠のような涙がこぼれ落ちた。
「……あきれましたわ。本当に」
彼女は、濡れた瞳で微笑んだ。
「貴女、全然、優雅じゃありませんわ。泥だらけで、汗まみれで、不格好で……」
マックイーンは、ハンカチで目元を拭った。
「……でも。今日の誰よりも、貴女が一番美しかったですわ」
かつて自分が「走る意味」を見失いかけた時、救ってくれた泥だらけの手。その手が掴み取った「完走」という勲章は、マックイーンにとっても誇りだった。
「……お疲れ様です、私の素敵なライバル」
■
ターフの上。ウララは、みんなの顔を見て、へにゃりと笑っていた。
「えへへ……。ただいま、みんな」
「よく帰ってきた。見事だったぞ」
ルドルフが優しく微笑み、和やかな時が過ぎる。そして、ファンサービスもそこそこにウマ娘達が各々、引き上げようとしたその時。
場内の大型ビジョンに、レース結果と共に、ひとつのアナウンスが流れた。
『結果をお知らせいたします。一着シンボリルドルフ、二着半バ身差でナリタブライアン、三着は2バ身差トウカイテイオーで確定致しました。
………そして、日本中央ウマ娘競技会、URAよりお知らせがございます」
そのアナウンスと同時に、泥だらけのハルウララの顔が大型ビジョンに写された。
「本レースにおいて、最後まで諦めずに走り抜き、満場の観客に感動を与えたハルウララ選手に対し……大会本部より、有マ記念・特別賞が贈られる事が決定いたしました!』
「「「わぁぁぁぁぁっ!!」」」
「まじ!?ハルウララすげぇなー!?」
「ウララー!おめでとうー!」
その放送が流れた瞬間、スタンドからはこの日一番の大歓声が上がった。
「え?なに?私、なにか貰えるの?」
きょとんとしているウララの背中を、ルドルフがパンと叩いた。
「ふふっ。どうやら、君の粘りはルールブックさえ書き換えてしまったようだな。……胸を張りたまえ。それは、君が勝ち取った勲章だ」
■
関係者席で、ヤン・ウェンリーは、椅子に深く沈み込み、大きく息を吐いた。
「……胃に穴が開くかと思ったよ。タイム的にはオーバー……だが、まさか、お役所仕事の裁決委員にまで、彼女のファンがいたとはね」
隣のネイチャが、涙を拭きながら笑った。
「もう、ヤンさんったら。……でも、最高のレースだったね」
「ああ。……作戦目標『完走』、達成だ」
ヤンは、双眼鏡越しに、ターフで仲間たちに囲まれて笑っているウララを見た。その笑顔は、スタート前よりも少しだけ大人びていて、そして何より誇らしげだった。
(……勝てなかった。だが、負けなかった)
「凄いな、ウララ。勝たずに皆の心を掴んじまった」
「全くだよゴルシ。だが、次は勝たせてやりたいかな。道は険しいが」
「何言ってんだ。そのくらいトレーナーなら出来るだろ?」
「………君からそう言われると、何かむず痒いね」
ヤンは、空になった紅茶のボトルを振った。
「さて、じゃあ帰るとするか。とびきり大きなハンバーグを作ると、ウララ君に約束したからね」
冬の空に、一番星が光り始めていた。魔術師と星屑たちの、長く騒がしい一日は、幸福な疲労感と共に幕を下ろそうとしていた。
■
そして、レース後の控室前。チーム・ヤンのメンバーに囲まれているウララの元へ、二つの影が近づいた。
「ウララさん!」
「ウララ!」
マックイーンとキングヘイローだ。ウララは二人を見つけると、泥だらけの顔をパァっと輝かせた。
「あ!マックイーンちゃん!キングちゃん!見て見て、最後まで走れたよ!」
キングは、腕組みをして、ツンと顔を背けた。目は真っ赤だったが。
「ふん!当たり前よ!私の同室者が途中でリタイアなんてしたら、部屋の鍵を替えて締め出すところだったわ!」
「えー!キングちゃんひどーい!」
「……でも、まあ。よくやったわね。褒めてあげるわ」
「えへへ、ありがとう!」
続いて、マックイーンが歩み寄った。彼女は、自分の真っ白なハンカチを取り出すと、ウララの顔についた泥を優しく拭ってやった。
「……相変わらず、お顔が泥だらけですわね」
「ごめんね、汚れちゃうよ?」
「構いませんわ。……これは、貴女が頑張った証ですから」
マックイーンは、泥で汚れたハンカチを、まるで宝物のように握りしめた。
「ウララさん。貴女の走り、しかと目に焼き付けました。最高の有マ記念でしたわ」
「うん!私ね、マックイーンちゃんみたいになりたくて、一生懸命走ったんだよ!」
三人は顔を見合わせ、笑い合った。チームは違っても、住む世界が違っても。泥と汗で繋がった絆は、どんなダイヤモンドよりも強く輝いていた。