ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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ナリタブライアン編
怪物と魔術師


 ヤン・ウェンリーのトレセン学園での日々は、しばらくの間実に平穏だった。

 

 皇帝シンボリルドルフを世界の頂点に導いた後、彼はトレセン学園の片隅にあるトレーナー寮の一室で、念願の休暇生活を満喫していた。歴史書と紅茶、そして気ままな昼寝。それさえあれば、人生は十分に豊かだった。

 

 その平穏は、一本の電話によって終わりを告げた。ディスプレイに表示された名前に、ヤンは思わずため息をつく。

 

「……もしもし、皇帝陛下。ご存じないかもしれないが、私は休暇中でね。ご用件は手短にお願いしたいのだが」

『ふふ、相変わらずだな、トレーナー君』

 

 受話器の向こうから聞こえるのは、シンボリルドルフの変わらぬ、凛とした声だった。

 

『単刀直入に言おう。君に、見てほしいウマ娘がいる』

「お断りする。私は君以外を見る気はないし、新しい娘を担当に持つ気もない。スカウトなら他を当たってくれたまえ」

『スカウトではない。これは、皇帝としての……いや、同じターフを駆けた一人のウマ娘としての、頼みだ』

 

 ルドルフの声から、いつものからかうような響きが消えた。

 

『名を、ナリタブライアン。私と同じ、大きな才能を持つウマ娘、だ。だが、あの子は……あまりに危うい。あのままでは、そのあまりに強大な才能が、あの子自身を壊しかねない。君の『眼』で、一度見てはくれないだろうか』

「ナリタブライアン、ねぇ。しかし、それだけ才能を持つのなら、既に親しいトレーナーは居るんじゃないかい?外野からおいそれと意見を言う訳にはいかないだろう?」

『彼女は一人が好きでね。まだ誰とも契約を結んでいない』

 

 ヤンは沈黙した。

 

 「面倒だ」という本音と、「才能が壊れる」という言葉への抗いがたい反応が、頭の中でせめぎ合う。それは、元々持ちえた艦隊司令としての経験と、この世界に来てから得たトレーナーとしての才能、その両方を刺激する物だった。

 

 そしてまた、ルドルフは魔術師の弟子らしく、ヤンが断りきれないであろう的確な言葉を選んでいる。

 

「……やれやれ。君という人は、本当に人が悪い」

『明日、第三コースにいる。頼んだよ、私の『魔術師』殿』

 

 一方的に切れた電話を眺め、ヤンは微温くなった紅茶を飲み干した。どうやら、平穏な日々は、そう長くは続かないらしい。

 

 翌日、ヤンはルドルフと共に、コースを見下ろせる観覧席にいた。

 

「あれが……」

 

 ヤンの双眼鏡の先に、そのウマ娘はいた。異様に低い姿勢で走る、その前髪に隠されたの奥の瞳は見えない。ただ一人、黙々と、他の誰も寄せ付けないオーラを放ちながら練習コースを走っている。

 

―――音が、違った。

 

 他のウマ娘たちがターフを『蹴る』音だとすれば、彼女のそれは『穿つ』音だった。一歩一歩が、大地に杭を打ち込むような、圧倒的なパワー。だが、ヤンの『眼』は、その奥に潜む致命的な不協和音を聞き逃さなかった。

 

「……なるほど。これはひどい」

 

 ヤンは無意識に呟いていた。隣でルドルフが息を飲む。

 

「分かるか、君にも」

「分かるどころじゃない。あれじゃあ走る爆弾だ。凄まじいパワーを持つエンジンに、脆すぎる駆動系。特に右脚。踏み込みの際の軸足に、ほぼ全ての負荷が集中している。あのアンバランスな走りで、よく今までもったものだ」

 

 ヤンの声には、もはや面倒くさがる響きはなかった。純粋な分析対象を前にした、学者の声だった。

 

「あのままでは、デビューしたとしても、2年もたないだろう」

 

 その日の練習後、ヤンはルドルフと別れ、一人でナリタブライアンの前に姿を現した。

 

「……誰だ、アンタ」

 

 射貫くような鋭い視線。馴れ合いを一切拒絶する、孤高の魂。ヤンは、いつもの調子で気だるげに言った。

 

「君がナリタブライアンだね。私はヤン・ウェンリー。しがないトレーナーさ」

「ヤン………?」

 

 ナリタブライアンの眉がひくりと動く。彼の名前を知らぬ者は、今のトレセン学園には居ないだろう。

 

「老婆心ながら一つ、忠告しておこう」

「……いらない」

「そう言わずに聞きなさい。その走り方を続けていれば、君の右脚は間違いなく壊れる。これは予言ではなく、統計に基づいた客観的な事実だ」

 

 ブライアンの足が、ぴたりと止まった。

 

 図星だった。誰にも言っていない。だが、彼女自身が、練習量を増やすたびに蓄積されていく右足の疲労に、とっくに気づいていた。

 

「……アンタに、私の何がわかる」

「何も。君というウマ娘のことは何も知らない。だが、君の走りを見れば、その先に待つ結末は予測できる。ただそれだけだ」

「フン……」

 

 ブライアンは鼻を鳴らし、ヤンの横を通り過ぎた。

 

「私の走りは、私が決める」

 

 その背中に、ヤンは追い打ちをかけるように呟いた。

 

「そうかね。自ら壊れにいく自由もあるか。だが、惜しいな。君はまだ、本当の走り方を知らないままだ」

 

 

 転機は、雨上がりの午後に訪れた。

 

 ぬかるんだコースで、ブライアンが一人、タイムトライアルをしていた。そして、最終直線を過ぎた、その時。右脚に、これまで感じたことのない、鈍い痛みが走ったのだ。彼女はそれを誰にも悟られまいと歯を食いしばり、何事もなかったかのように歩き出す。だが、その額には脂汗が滲んでいた。

 

 物陰から様子を見ていたヤンは、ため息を一つついて、ブライアンの元へと歩みを進める。そして、彼は何も言わずに一本のスポーツドリンクと、小さなメモを差し出す。

 

「……なんだ、これは」

「今の君に必要な成分のリストと、脚の負荷を軽減させるための、ごく簡単なストレッチの方法だ。やるかやらないかは、君が決めなさい」

 

 ブライアンはヤンを睨みつけた。同情か、憐れみか。だが、ヤンの瞳には、そうした感情は一切なかった。まるで、故障した機械を診断する技術者のような、どこまでも無機質で、客観的な色をしていた。

 

 ブライアンはメモとドリンクをひったくると、無言でその場を去った。

 

 その夜、ブライアンは自室で、半信半疑のままメモに書かれたストレッチを試した。驚くほど、脚が軽くなった。じんじんと疼いていた痛みが、和らいでいる。

 

 初めて、自分以外の誰かが、自分の走りを正しく『見て』いたことを知った。

 

 翌日、ヤンがいつものように木陰で本を読んでいると、目の前に影が差した。ナリタブライアンだった。彼女は何も言わず、ただヤンの隣に立った。気まずい沈黙が続く。

やがて、ブライアンは空を見上げたまま、ぽつりと言った。

 

「……アンタのストレッチ、効いた」

 

 それは、怪物がヤン・ウェンリーというトレーナーに興味を示した瞬間だった。ヤンは読んでいた本に栞を挟むと、やれやれと肩をすくめた。

 

「どうやら君は、自分の脚と対話する気になったらしい」

 

 彼は立ち上がり、ブライアンに向き直る。

 

「いいだろう、少しだけ君にアドバイスを送ろう、ナリタブライアン。ただまぁ、安心してほしい。私は君のトレーナーになる気はないからね。私はただ、君という歴史に残るべき美術品が、みすみす壊れるのを見過ごしたくないだけなんだ」

 

 あまりの言いように、ブライアンは怪訝な視線をヤンに向けた。だが、今までのどのトレーナーよりも、その瞳の奥にあるものは、深く、真摯なものであると感じられる。

 

「……好きにしろ」

 

 空は高く、澄み渡っていた。

 

 誰にも扱えなかったはずの孤独な怪物の隣に、世界で最も働きたくない魔術師が静かに立った。二人の間には、まだ言葉も、信頼も、約束事すらない。

 

 ただ、破滅に向かっていた足音が、ほんの少しだけ、未来へと続く響きに変わった。

 

 これは、そんな始まりの物語である。

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