怪物と魔術師
ヤン・ウェンリーのトレセン学園での日々は、しばらくの間実に平穏だった。
皇帝シンボリルドルフを世界の頂点に導いた後、彼はトレセン学園の片隅にあるトレーナー寮の一室で、念願の休暇生活を満喫していた。歴史書と紅茶、そして気ままな昼寝。それさえあれば、人生は十分に豊かだった。
その平穏は、一本の電話によって終わりを告げた。ディスプレイに表示された名前に、ヤンは思わずため息をつく。
「……もしもし、皇帝陛下。ご存じないかもしれないが、私は休暇中でね。ご用件は手短にお願いしたいのだが」
『ふふ、相変わらずだな、トレーナー君』
受話器の向こうから聞こえるのは、シンボリルドルフの変わらぬ、凛とした声だった。
『単刀直入に言おう。君に、見てほしいウマ娘がいる』
「お断りする。私は君以外を見る気はないし、新しい娘を担当に持つ気もない。スカウトなら他を当たってくれたまえ」
『スカウトではない。これは、皇帝としての……いや、同じターフを駆けた一人のウマ娘としての、頼みだ』
ルドルフの声から、いつものからかうような響きが消えた。
『名を、ナリタブライアン。私と同じ、大きな才能を持つウマ娘、だ。だが、あの子は……あまりに危うい。あのままでは、そのあまりに強大な才能が、あの子自身を壊しかねない。君の『眼』で、一度見てはくれないだろうか』
「ナリタブライアン、ねぇ。しかし、それだけ才能を持つのなら、既に親しいトレーナーは居るんじゃないかい?外野からおいそれと意見を言う訳にはいかないだろう?」
『彼女は一人が好きでね。まだ誰とも契約を結んでいない』
ヤンは沈黙した。
「面倒だ」という本音と、「才能が壊れる」という言葉への抗いがたい反応が、頭の中でせめぎ合う。それは、元々持ちえた艦隊司令としての経験と、この世界に来てから得たトレーナーとしての才能、その両方を刺激する物だった。
そしてまた、ルドルフは魔術師の弟子らしく、ヤンが断りきれないであろう的確な言葉を選んでいる。
「……やれやれ。君という人は、本当に人が悪い」
『明日、第三コースにいる。頼んだよ、私の『魔術師』殿』
一方的に切れた電話を眺め、ヤンは微温くなった紅茶を飲み干した。どうやら、平穏な日々は、そう長くは続かないらしい。
翌日、ヤンはルドルフと共に、コースを見下ろせる観覧席にいた。
「あれが……」
ヤンの双眼鏡の先に、そのウマ娘はいた。異様に低い姿勢で走る、その前髪に隠されたの奥の瞳は見えない。ただ一人、黙々と、他の誰も寄せ付けないオーラを放ちながら練習コースを走っている。
―――音が、違った。
他のウマ娘たちがターフを『蹴る』音だとすれば、彼女のそれは『穿つ』音だった。一歩一歩が、大地に杭を打ち込むような、圧倒的なパワー。だが、ヤンの『眼』は、その奥に潜む致命的な不協和音を聞き逃さなかった。
「……なるほど。これはひどい」
ヤンは無意識に呟いていた。隣でルドルフが息を飲む。
「分かるか、君にも」
「分かるどころじゃない。あれじゃあ走る爆弾だ。凄まじいパワーを持つエンジンに、脆すぎる駆動系。特に右脚。踏み込みの際の軸足に、ほぼ全ての負荷が集中している。あのアンバランスな走りで、よく今までもったものだ」
ヤンの声には、もはや面倒くさがる響きはなかった。純粋な分析対象を前にした、学者の声だった。
「あのままでは、デビューしたとしても、2年もたないだろう」
その日の練習後、ヤンはルドルフと別れ、一人でナリタブライアンの前に姿を現した。
「……誰だ、アンタ」
射貫くような鋭い視線。馴れ合いを一切拒絶する、孤高の魂。ヤンは、いつもの調子で気だるげに言った。
「君がナリタブライアンだね。私はヤン・ウェンリー。しがないトレーナーさ」
「ヤン………?」
ナリタブライアンの眉がひくりと動く。彼の名前を知らぬ者は、今のトレセン学園には居ないだろう。
「老婆心ながら一つ、忠告しておこう」
「……いらない」
「そう言わずに聞きなさい。その走り方を続けていれば、君の右脚は間違いなく壊れる。これは予言ではなく、統計に基づいた客観的な事実だ」
ブライアンの足が、ぴたりと止まった。
図星だった。誰にも言っていない。だが、彼女自身が、練習量を増やすたびに蓄積されていく右足の疲労に、とっくに気づいていた。
「……アンタに、私の何がわかる」
「何も。君というウマ娘のことは何も知らない。だが、君の走りを見れば、その先に待つ結末は予測できる。ただそれだけだ」
「フン……」
ブライアンは鼻を鳴らし、ヤンの横を通り過ぎた。
「私の走りは、私が決める」
その背中に、ヤンは追い打ちをかけるように呟いた。
「そうかね。自ら壊れにいく自由もあるか。だが、惜しいな。君はまだ、本当の走り方を知らないままだ」
■
転機は、雨上がりの午後に訪れた。
ぬかるんだコースで、ブライアンが一人、タイムトライアルをしていた。そして、最終直線を過ぎた、その時。右脚に、これまで感じたことのない、鈍い痛みが走ったのだ。彼女はそれを誰にも悟られまいと歯を食いしばり、何事もなかったかのように歩き出す。だが、その額には脂汗が滲んでいた。
物陰から様子を見ていたヤンは、ため息を一つついて、ブライアンの元へと歩みを進める。そして、彼は何も言わずに一本のスポーツドリンクと、小さなメモを差し出す。
「……なんだ、これは」
「今の君に必要な成分のリストと、脚の負荷を軽減させるための、ごく簡単なストレッチの方法だ。やるかやらないかは、君が決めなさい」
ブライアンはヤンを睨みつけた。同情か、憐れみか。だが、ヤンの瞳には、そうした感情は一切なかった。まるで、故障した機械を診断する技術者のような、どこまでも無機質で、客観的な色をしていた。
ブライアンはメモとドリンクをひったくると、無言でその場を去った。
その夜、ブライアンは自室で、半信半疑のままメモに書かれたストレッチを試した。驚くほど、脚が軽くなった。じんじんと疼いていた痛みが、和らいでいる。
初めて、自分以外の誰かが、自分の走りを正しく『見て』いたことを知った。
翌日、ヤンがいつものように木陰で本を読んでいると、目の前に影が差した。ナリタブライアンだった。彼女は何も言わず、ただヤンの隣に立った。気まずい沈黙が続く。
やがて、ブライアンは空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「……アンタのストレッチ、効いた」
それは、怪物がヤン・ウェンリーというトレーナーに興味を示した瞬間だった。ヤンは読んでいた本に栞を挟むと、やれやれと肩をすくめた。
「どうやら君は、自分の脚と対話する気になったらしい」
彼は立ち上がり、ブライアンに向き直る。
「いいだろう、少しだけ君にアドバイスを送ろう、ナリタブライアン。ただまぁ、安心してほしい。私は君のトレーナーになる気はないからね。私はただ、君という歴史に残るべき美術品が、みすみす壊れるのを見過ごしたくないだけなんだ」
あまりの言いように、ブライアンは怪訝な視線をヤンに向けた。だが、今までのどのトレーナーよりも、その瞳の奥にあるものは、深く、真摯なものであると感じられる。
「……好きにしろ」
空は高く、澄み渡っていた。
誰にも扱えなかったはずの孤独な怪物の隣に、世界で最も働きたくない魔術師が静かに立った。二人の間には、まだ言葉も、信頼も、約束事すらない。
ただ、破滅に向かっていた足音が、ほんの少しだけ、未来へと続く響きに変わった。
これは、そんな始まりの物語である。