書き初めは、ある秘書とヤンの邂逅からです。
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外伝:ある秘書の前日譚
意識が浮上したとき、最初に感じたのは「暑さ」だった。不快な湿気を帯びた熱気が、肌にねっとりとまとわりつく。ヤン・ウェンリーは、鉛のように重い瞼(まぶた)を押し上げた。
(……やれやれ。地獄の釜の蓋が開いたにしては、随分とセミの鳴き声が喧しいな)
視界に飛び込んできたのは、無機質な病院の白い天井でもなければ、ハイネセンの自宅の寝室でもなかった。突き抜けるような、残酷なほど鮮やかな青空と、視界を遮る緑色の木々の葉だった。背中には硬い感触がある。どうやら、木のベンチで寝ていたらしい。
彼はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。ここは、どこにでもあるような公園だった。
色褪せたペンキの剥げたブランコ。誰もいない砂場。遠くに見える、見慣れない形状の――しかし、明らかに文明的なデザインの――高層ビル群。そして、数メートル先には自動販売機が唸っている。
ヤンは、恐る恐る自分の身体を確認した。テロリストの凶弾に倒れ、大腿動脈を損傷し、意識が遠のいていったはずの身体には傷一つなかった。痛みもない。失血による冷えもなく、むしろ猛烈な喉の渇きと、軽い空腹感があるだけだ。
「……死後の世界、というわけではないらしい」
彼は立ち上がり、ズボンのポケットを探った。入っていたのは、見慣れない硬貨と紙幣が入った革財布。そして「ヤン・ウェンリー」という名が、この国の言語で書かれた身分証明書のようなカードが一枚。
どうやら、この世界の誰かが、あるいは神ごときものが、彼の存在を保証してくれているらしい。
状況は全く理解できない。だが、歴史家としての彼の理性が、パニックを起こす前に冷静な観察を命じていた。ここで喚いても事態は好転しない。まずは、生存に必要な情報を集め、そして水分を確保することだ。
「……言語は理解できる。不思議なものだ」
ヤンは自動販売機の前に行き、財布の中の小銭を投入した。硬貨の規格は合っているようだ。「紅茶」と書かれたボタンを押す。ガコン、という音と共に落ちてきた冷たい缶を開け、一気に呷る。
「……甘い」
砂糖を限界まで溶かし込んだような、暴力的な甘さだ。ユリアンが淹れてくれる、香りを重視した繊細な紅茶とは比較にもならない。
―――だが、その安っぽい甘さが、渇いた喉を潤し、脳に糖分を行き渡らせ、彼に「生」の実感を再確認させた。
「まあいい。少なくとも、ここは紅茶がある世界だ。それだけで、絶望するには早すぎる」
ヤンは、空になった缶をゴミ箱に捨てた。それが、ヤン・ウェンリーの、この世界での最初の感想だった。
■
それから数週間。
かつて「奇跡のヤン」と呼ばれ、イゼルローン要塞を攻略し、民主共和制の守護者であった男は、日本の地方都市にある交差点の片隅で、パイプ椅子に座っていた。
手にはプラスチック製のカウンター。目の前を通過する車を、「大型」「小型」に分類して、カチカチと数える。シンプルに言えば、交通量調査のアルバイトである。
(……悪くない)
ヤンは、心の中で呟いた。
この仕事は素晴らしい。まず、誰とも喋らなくていい。『作戦案を提出しろ』という上官からの理不尽な命令もなければ、『査問会に出頭しろ』という政治家からの呼び出しもない。
ただ座って、流れる車を数えるだけで、今日一日を生きるだけの日銭が手に入る。そして何より、頭の中が自由だ。思考の海に沈んでいても、指先さえ動かしていれば仕事になる。
彼はこの数週間で、図書館の新聞やテレビを通じて、この世界の「常識」をおおよそ把握していた。ここは地球だ。言語も文化も、彼が知る「西暦」の時代の地球に近い。テクノロジーのレベルは21世紀初頭相当。宇宙への進出はまだお遊び程度で、人類は重力に縛られたままだ。
そして最大の違いは――『ウマ娘』という種族の存在だ。
ヤンの目の前を、一人の少女が、原動機付自転車並みの速度で駆け抜けていった。頭には耳があり、お尻には尻尾がある。彼女たちは人間社会に完全に溶け込み、そして『トゥインクル・シリーズ』と呼ばれる国民的スポーツ興行の主役として、人々の熱狂と尊敬を集めている。
「……異種族の共存か。人類史において最も困難な課題の一つだが、この世界ではうまくいっているようだな」
ヤンは感心しながら、カウンターを押した。英雄としての重責も、虐殺への加担も、民主主義への義務もない。ただの「歴史好きの無職(フリーター)」。
もしユリアンやフレデリカが見たら、『提督、またそんなところでサボって!』と呆れるだろうか。それとも、『ようやくゆっくりできますね』と笑ってくれるだろうか。
「……ユリアン……フレデリカ……」
―――ふと、ヤンの胸に鋭い痛みが走る。元の世界への未練がないわけではない。残してきた家族、友人、部下たちのことを思えば、胸が張り裂けそうになる。
(彼らは今どうしているだろうか。私の死を知り、悲しんでいるのだろうか)
―――だが、帰る方法が分からない以上、ここで野垂れ死ぬわけにはいかない。
(生きていれば、いつか何かが変わるかもしれない)
―――それに、ここで自暴自棄になることは、彼を生かしてくれたかもしれない、誰かへの裏切りになる。
「……さて。今日のノルマは達成したかな」
夕方。交代の時間が来ると、ヤンは誰よりも早く椅子を畳んだ。彼には、この後、行くべき場所があった。安アパートに帰る前の、ささやかな贅沢。そして、この異世界における彼の知的好奇心を満たす「聖域」。
それが、トレセン学園の正門横にある『一般開放図書館』だった。
■
日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。未来のスターウマ娘を育成するこの巨大な教育機関は、地域貢献の一環として、付属図書館の一部を一般市民に開放していた。
自動ドアを抜けると、そこには静寂と、古い紙の匂い、そして完璧に調整された空調の涼しさが満ちていた。ヤンにとって、ここはハイネセンの官舎よりも居心地の良い天国だった。
「……さて。今日のルーティーンを始めるとするか」
ヤンは、閲覧室の奥、あまり人が寄り付かない「スポーツ医学・運動力学」のコーナーに陣取り、分厚い専門書を数冊、机に積み上げていた。
『ウマ娘生体工学概論』
『競走ウマ娘における骨格構造と限界速度』
『近代トレーニング理論の変遷』
どれも、トゥインクルシリーズのファンが読むような華やかな雑誌ではなく、研究者が読むような堅苦しい本ばかりだ。だが、ヤンはページをめくる手を止めなかった。彼にとって、これは「分析」であり「娯楽」だったからだ。
「……なるほど。ウマ娘の脚力は、人間の数倍から数十倍。だが、それを支える『腱』や『靭帯』の強度は、必ずしも筋肉量に比例して強化されるわけではない、か」
ヤンは、本の一節を指でなぞり、ふむ、と頷いた。
彼はスポーツマンではない。走るのは大嫌いだ。だが、軍人として「兵器(ユニット)のスペック」を把握することは、指揮官の最低条件だと心得ていた。ウマ娘という生命体は、確かに強力だ。だが、生物である以上、必ず構造上の限界(ボトルネック)が存在する。
「出力(エンジン)が強すぎれば、機体(シャーシ)が耐えきれずに空中分解する。……戦闘艇もウマ娘も、物理法則からは逃れられないということだな」
彼は手元の大学ノートに、本から得た知識をメモしていった。
『高速走行時の着地衝撃は体重の数倍』
『前傾姿勢が深すぎると、空気抵抗は減るが、脚への負荷が指数関数的に増大する』
数時間にわたる座学を終え、基礎知識を頭に叩き込んだヤンは、凝り固まった首を回して顔を上げた。
「……さて。理論(セオリー)は分かった。次は実戦(データ)を見てみるとしよう」
ヤンは書架から数本のビデオテープを抜き出し、視聴覚ブースへと向かった。
■
個室ブースに入り、ヘッドフォンをつける。モニターに映し出されるのは、数十年前に活躍したとされる、伝説的なウマ娘たちのレース映像だ。
まず彼が選んだのは、かつて『鉈の切れ味』と呼ばれたウマ娘の映像だった。彼女の走りは、派手さがない。どんな相手が来ても、必ず最後は計ったように「ハナ差」などの僅差で先着して勝つ。
「……素晴らしい。実に合理的だ」
ヤンは、先ほど読んだ本の内容と照らし合わせながら、感心した。彼女は自分の能力の限界を理解し、無駄な消耗を避けている。100の力を持つ相手には101の力で。50の相手には51の力で。これぞ、用兵の極致だ。
最小の被害(消耗)で、最大の戦果(勝利)を得る。
「彼女なら、私の艦隊運用を理解してくれたかもしれないな」
そして次に、ヤンは別のテープを手に取った。ラベルには『幻の馬』と記されている。
再生ボタンを押す。白黒の粗いノイズ交じりの映像の中で、一人のウマ娘が走っていた。
「…………」
ヤンの目が、画面に釘付けになった。速い。次元が違う。他のウマ娘が止まって見えるほどの加速。レコードタイムを連発し、10戦して10勝。圧倒的な才能の塊。
だが、ヤンの表情は、感嘆よりも、深い憂いに沈んでいった。彼は、先ほど読んだ『骨格構造と限界速度』の一節を思い出していた。
―――関節の可動域を超えたストライドは、筋肉への断裂負荷を生む。
画面の中の彼女は、まさにその「理論上の限界値」を超えて走っていた。美しく、力強く、そしてあまりにも危うく。ヤンの目には、それが「崩壊寸前の機械」のように映っていた。限界を超えた出力で稼働し、きしみを上げているエンジンのように。
「……危ういな」
彼は独りごちた。先ほど仕入れた知識と、冷徹な分析が導き出した結論だった。
「……私がもし、トレーナーという職業なら、このウマ娘はレースに出走させない」
ヤンは、映像の中の彼女が、生涯最後のレースとなる『日本ダービー』で優勝し、観客の歓喜に包まれるシーンを見ながら、静かに呟いた。
「あの本にも書いてあった通りだ。このとてつもない出力に、骨格という器が追いついていない。……勝利と引き換えに、機体寿命を前借りしている状態だ」
画面の中で、彼女は誰よりも速く駆け抜けた。だが、ヤンには見えていた。その一歩ごとに、目に見えないヒビが広がっていく様が。
「名誉あるダービーウマ娘の称号と引き換えに、未来を失うか……。どう考えても、割に合わない取引だ」
「―――割に合わない、ですか?」
不意に。
背後から、凛とした、それでいてどこか震えるような声が掛かった。
ヤンはビクリと肩を震わせた。反射的に映像を停止し、振り返る。
そこにいたのは、緑色の独特な制服を着た女性。帽子を目深に被り、手には返却用のブックカートを押している。
(……しまった。職員か)
ヤンは内心で舌打ちした。一般開放エリアとはいえ、ブース内で不吉な独り言は不謹慎だった。
「あ、いや……すみません。少し熱が入ってしまいまして」
ヤンは、机の上に積み上げていた専門書を指差して言い訳した。
「ほら、さっきまでこの本を読んでいたもので。本に書いてある『故障のリスク』と、映像の彼女のフォームが、あまりに合致していたものですから……つい、知ったかぶりを」
ヤンは愛想笑いを浮かべ、縮こまった。だが、彼女は咎める様子も怒る様子もない。彼女は、モニターに静止画として映し出された『幻のウマ娘』の姿をじっと見つめ、それからゆっくりとヤンに視線を移した。
その瞳は、凪いだ湖面のように静かだったが、その奥底には、決して消えることのない熾火(おきび)のような感情が揺らめいていた。
「……本に書いてある通り、ですか」
彼女は、誰に言うともなく呟いた。
「彼女は、勝ったのですよ。ダービーに。全てのウマ娘が憧れる、最高の栄誉を掴んだのです。……それでも貴方は、出走させるべきではなかったと?」
「……ええ」
ヤンは、頭を掻きながら、短く答えた。相手が誰であれ、自分が学んだ論理と、用兵思想を曲げるつもりはなかった。
「死んでしまえば、栄誉も勝利もただの記録です。……生きていれば、負けたとしても、また次の景色が見られたかもしれない。
紅茶の一杯でも飲んで、『あの時は失敗したな』と笑い合えたかもしれない」
ヤンは肩をすくめた。
「私は、どんな劇的な勝利よりも、退屈な生存のほうが価値があると思う性分でしてね。……まあ、今日かじったばかりの、素人の戯言ですよ」
場に沈黙が落ちた。
数秒の後、彼女は深く、深く息を吐いた。
「……退屈な生存、ですか」
彼女は、まるで何十年もの時を経て、ようやく欲しかった答えを聞けたかのような、そんな表情を浮かべた。それは泣き出しそうな、それでいて救われたような、複雑な笑みだった。
「面白いお考えを、お持ちなんですね」
そう言った女性の雰囲気が変わった。柔らかな図書館員に見えるその仮面の下から、どこか鋭い「選定者」の顔が覗く。
「では、私はこれで。……あ、この本とビデオ、カウンターに返しておきます」
ヤンは逃げるようにブースを出た。この女性と話していると、何か、自分の正体まで見透かされそうな気がしたからだ。
「……では、失礼。お騒がせしました」
ヤンは自動ドアを抜け、夕暮れの通りへと出た。冷や汗を拭う。明日は図書館を変えよう。市民図書館のほうが蔵書は少ないが、平和かもしれない。
そう決心して、彼は家路についた。
■
―――しかし。
稀代の智将ヤン・ウェンリーは、一つの致命的なミスを犯していた。それは、彼が「魔術師」と呼ばれる一方で、私生活においては「生活無能力者」と評される所以でもあった。
視聴覚ブースの机の上。
専門書の下に、薄汚れた一冊の大学ノートが置き去りにされていたのだ。
表紙には『Y.Wenli』という走り書き。
そして中身には、この数週間で彼が本から学び、映像で確認した、膨大な量のレース分析と、独自の戦術理論が記されていた。
女性は、そのノートを手に取った。
ページをめくる。
そこには、ただの感想ではない、冷徹なまでの「生存戦略」が記されていた。
才能に溺れず、勝利に狂わず、いかにしてウマ娘たちを「無事」にゴールへ導くか。
それは、かつて『幻』となって消えた彼女が、もし持っていたならば――運命を変えられたかもしれない「道標」だった。
ページをめくる指が、微かに震える。
「……見つけました」
女性は、懐からスマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルの『1番』を押した。
コールは一瞬で繋がった。
「……はい、理事長。駿川です」
その声は、獲物を追い詰めた狩人のそれであり、希望を見出した祈り子のようでもあった。
「『稀代の魔術師』と言える才能が、野に埋もれています。……はい。至急、スカウトの準備を」
―――運命の歯車が、音を立てて回り始めた。
この先の展開につきまして。どの方向性を見たいですか?
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前日譚的な物語をもっと見たい
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新たなウマ娘とヤンの邂逅を見たい
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