ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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外伝:あるウマ娘の前日譚

 トレセン学園、理事長室。

 豪奢な執務机の上で、理事長・秋川やよいは扇子をバシバシと叩きつけ、頭を抱えていた。

 

「難航ッ!極めて難航であるッ!」

 

 部屋に響き渡る声。その対面に立つ秘書・駿川たづなは、静かにタブレットの画面を見つめていた。画面に表示されているのは、学園内でもトップクラスの実績を持つベテラン・トレーナーの顔写真。

 

 そして、その上に押された無慈悲な『REJECT(拒絶)』の赤文字だった。

 

「これで12人目ですね。……先ほど、シンボリルドルフさんから正式にお断りの連絡が入りました」

「なぜだッ!彼はG1ウマ娘を何人も育てた名伯楽だぞ!?『君となら伝説を作れる』『命を燃やして走ろう』という彼の情熱的なプレゼンは、完璧だったではないか!」

 

 理事長の嘆きに、たづなは静かに首を横に振った。

 

「……だからこそ、ですよ。理事長」

「何?」

「ルドルフさんが求めているのは、勝利のために『命を燃やす』ことではありません。彼女が目指しているのは、全てのウマ娘が幸福に走り続けられる世界……。

 勝利と引き換えに、誰かが燃え尽きて消えてしまうような悲劇を、彼女は何よりも忌避しています」

 

 たづなの脳裏に、かつての記憶が過ぎる。速すぎたがゆえに、誰にも止められず、伝説と引き換えに消えてしまった「幻」のウマ娘の記憶。この学園の影に刻まれたその悲しみを、彼女は誰よりも深く理解していた。

 

 ルドルフもまた、恐れているのだ。今の勝利至上主義のままでは、いつか第二、第三の悲劇が生まれることを。

 

「彼女に必要なのは、共に熱狂する指導者ではありません。彼女の理想――『誰も犠牲にならない勝利』を、論理的に構築できる設計者(アーキテクト)です」

 

「ならばッ!我々は既に『解答』を用意したはずではないか!」

 

 理事長はバンと机を叩いた。

 

「先日確保した、あのヤン・ウェンリー!彼こそがその『設計者』たる器!なぜシンボリルドルフは彼を見ようとしないのだッ!」

 

 理事長の憤りに、たづなは苦笑混じりに答えた。

 

「……残念ながら、書類上の彼はただの『無気力な新人』に過ぎませんから。挨拶もしない、勤務中に紅茶を飲んでサボっている……。規律を重んじるルドルフさんの目には、ただの『不純物』としてしか映っていないのでしょう」

 

「ぬぬぬ……。確かに、勤務態度には難ありとの報告が……。だが、あの中身を見ずに切り捨てるのは損失であるッ!」

 

「ええ。ですから……」

 

 たづなは、ふっと微笑んだ。

 彼女の手元には、先日図書館で回収した、一冊の薄汚れた大学ノートがあった。

 

「『劇薬』を一滴、皇帝の喉元に垂らしてみようかと」

 

 たづなはノートを手に取り、一礼した。

 

「失礼します。少し、生徒会室へ行って参ります。お粗末な履歴書の裏にある、彼の『脳髄』を……直接お見せするために」

 

 

 その日の夕刻。トレセン学園、生徒会室。

 

 生徒会長シンボリルドルフは、執務机で深い溜息をついていた。先ほど、有力なトレーナーからのスカウトを断ったばかりだ。

 

『君の才能を限界まで引き出す!後のことは考えるな、今は勝つことだけを考えろ!』

 

 熱意ある言葉だった。だが、ルドルフにはその言葉が、若者を戦場へ送り出す指揮官の無責任な檄(げき)に聞こえてならなかった。―――『後のこと』を考えなくていいはずがない。彼女たちの人生は、レースの後も続くのだから。

 

「……はぁ。誰も、私の意図を理解してはくれないか」

 

 ルドルフは疲労を滲ませ、次の書類――先日、理事長室から回ってきた「推薦枠」のトレーナーの履歴書ファイルに手を伸ばした。

 

(ベテランですら私の理想とは程遠い。ならば、理事長が推薦するこの人物はどうだ。少しはマシな人材なのだろうか)

 

 一縷の望みをかけて、彼女は書類を開いたのだが、思わず眉間に皺が寄った。そこに記されていた内容を見た瞬間、彼女の望みが、呆れと苛立ちへと変わってしまったからだ。

 

「……理事長の突飛な思い付きには慣れているつもりだが、今回は度が過ぎる」

 

 トレーナーの名前は、ヤン・ウェンリー。

 

 経歴不明。

 資格なし。

 実績ゼロ。

 

 備考欄には『歴史学的見地からの直感採用!』という、勢いだけの判子が押されている。客観的に見ても、真剣に悩んでいるシンボリルドルフへの当てつけだろうか?と疑いたくなるほどのお粗末さだった。

 

 その横で、副会長のエアグルーヴが、書類の束を整えながら、冷ややかに告げた。

 

「会長。その、ヤン・ウェンリーという人物ですが、現場より、看過できない報告が上がっています」

 

 彼女はペン先で書類の一点を叩いた。

 

「挨拶もろくにせず、オリエンテーション中に紅茶を飲んで欠伸をしていた、と。指導教官が『やる気がないなら帰れ』と一喝しても、『帰っていいんですか?』と喜ぶ始末……」

 

 エアグルーヴは短く息を吐き、呆れたように、しかし鋭く付け加えた。

 

「現場の士気に関わる問題です。規律を乱す存在は、即刻、対処すべきでしょう」

「……ああ、分かっている。何かしらの処分は必要だろう。今日は多くの優秀なトレーナーを断ってしまったが……この男のような『論外』に構っている暇はない。理事長の推薦ではあるが、断りを入れておく」

 

 ルドルフが書類を「不適格」の箱へ移そうとした、その時だ。ノックと共に、理事長秘書の駿川たづな入室してきた。

 

「失礼します、会長」

「たづなさんか。……担当トレーナーの案件ならば、今は控えてほしい。それとも、例の昼行灯なトレーナーの勤務態度についての相談かな?」

「昼行灯、ですか」

 

 たづなは、困ったように微笑んだが、その瞳の奥には普段見せない強い光が宿っていた。彼女は一冊の、使い古された大学ノートをルドルフの机に置いた。

 

「シンボリルドルフさん。その昼行灯なトレーナーについてご判断される前に、これを読んでいただけませんか?」

「これは?」

「彼が……ヤン・ウェンリー氏が、図書館に置き忘れていったものです。理事長が彼を採用した『本当の理由』が、そこにあります」

 

 ルドルフは、怪訝な顔でノートを手に取った。表紙には『Y.Wenli』の走り書きがある。

 

(どうせ、ウマ娘の歴史オタクの妄言か、ウマ娘レース初心者の落書きだろう)

 

 そう高を括って、ページを開いたルドルフであるが、その予想は見事に裏切られることとなる。

 

 

 ――数分後。

 

 生徒会室の空気は、凍りついていた。ページをめくる音だけが、静寂に響く。ルドルフの表情から、呆れや軽蔑といった感情は消え失せ、代わりに戦慄にも似た真剣な色が張り付いていた。

 

「……会長?顔色が優れませんが、どうかされましたか?」

 

 異変を察知したエアグルーヴが、怪訝そうに眉を寄せた。

 

「そのノートに、何が書かれているのです?」

 

 しかし、ルドルフは反応しない。彼女の視線は、ノートに書き殴られた文字列に釘付けになっていた。

 

『逃げ(先行策)とは、補給線(スタミナ)を限界まで延伸した単独突出行動である』

『群に包囲されることは、艦隊運動の自由を失うことと同義。個艦優越(フィジカル)に依存しない脱出ルートの確保が、生存率を規定する』

 

 そこに書かれているのは、スポーツ理論ではない。

 

 軍事ドクトリンだ。

 

 ウマ娘を「兵器」として、レースを「会戦」として定義し、勝率と生存率を冷徹な数式で算出している。だが、ルドルフの心を射貫いたのは、戦術論の先にある記述だった。

 

勝利とは結果であり、目的ではない。目的はあくまで生存(サバイバル)である』

 

『名誉ある特攻よりも、不名誉な撤退こそが、次なる反攻の礎となる。故に如何なる場合においても、名誉のためなどと宣い、壊れるまで走らせる指揮官は、万死に値する

 

 ドクン、と。ルドルフの心臓が早鐘を打った。

 

 彼女が求めていた「理想」が、ここにある。「勝てばいい」のではない。「勝って、かつ誰も壊れない」ことこそが、真の勝利なのだと断言する論理。

 

 この学園を支配する「勝利至上主義」という呪縛を、断ち切ることができる思想。

 

「……彼は、何者だ」

 

 ルドルフは、掠れた声で呟いた。

 

 とあるページで、指が止まる。そこには、過去の映像記録を見た感想が記されていた。対象は、かつて幻のように消えた無敗のウマ娘――『トキノミノル』と思われる走りについて。

 

『この機体のスペックは、構造上の限界を超えている。勝利と引き換えに未来を食い潰す走りだ。

 私が指揮官なら、彼女を出走させない。日本ダービーの勝利、という栄光ある死よりも、退屈な生存を優先させる』

 

 ルドルフは顔を上げ、たづなを見た。たづなは、静かに頷き返した。

 

「……彼は図書館で言いました。『紅茶の一杯でも飲んで、あの時は失敗したなと、笑い合える未来のほうが価値がある』と」

 

 

 ルドルフはノートを閉じた。パタン、という音が、重く響いた。

 

「……処分は撤回だ、エアグルーヴ」

「何ですって?」

「彼の処分は取り下げる。……それどころか、これは私が探し求めていた『答え』だ。他所のウマ娘に渡すわけにはいかない」

 

 ルドルフは立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの疲労の色はなく、未来を掴み取ろうとする「皇帝」の強い光が宿っていた。

 

「……会長」

 

 エアグルーヴは、ルドルフの表情を見て言葉を飲み込んだ。長年連れ添った彼女には分かる。その瞳に宿っているのは、迷いではなく、確信だ。ならば、副会長(女帝)が果たすべき責務は一つしかない。

 

「承知しました。……残りの書類仕事と、理事会への根回しは私が引き受けましょう」

 

 エアグルーヴは、机の上のノートを顎でしゃくった。

 

「その『答え』とやら、確実に確保してきてください。貴女の未来に必要ならば」

「ああ、任せてくれ。……すまないな、エアグルーヴ」

 

 ルドルフは微かに笑みを見せ、たづなに向き直った。

 

「たづなさん。ヤン・ウェンリーは、今どこに?」

「この時間でしたら、まだ図書館にいらっしゃるかと。……彼の『定位置』のようですから」

 

 たづなの言葉に、ルドルフは深く頷いた。

 

「感謝します」

 

 ルドルフは、壁に掛けてあった緑色の勝負服の外套を羽織った。その背中からは、先ほどまでの重圧が嘘のように消え、代わりに清々しい覇気が立ち上っていた。

 

「―――図書館だな」

 

 小さく呟きながら、窓の外、図書館の方角を見据える。そこにいるのは、凡庸な昼行灯などではない。彼女が掲げる理想――「全てのウマ娘の幸福」を実現するために不可欠な、最後のピース。

 

「確かめに行かねばならない。彼が持っているその『眼』が……私の覇道を、そしてこの学園の未来を支え得る、本物かどうかを」

 

 

 颯爽と部屋を出ていく皇帝の背中を見送りながら、エアグルーヴは山積みの書類に向き直り、ペンを執った。やれやれ、と小さく息を吐くその横顔には、呆れと共に、確かな信頼の色が滲んでいた。

 

「まったく……。人使いの荒い会長だ」

 

 彼女は手元の書類に、迷いなく『決裁』の印を押した。

 

「……ここの雑務は、私が片付けておきます」

 

 誰に聞かせるでもなく、彼女は独りごちた。

 

「……ですから、必ず連れてきてくださいよ……貴女の隣に立つに相応しい、その男を」

 

 その独り言を聞き届けたのは、部屋に残っていた駿川たづなだけだった。彼女は、主の留守を完璧に守ろうとする副会長の凛とした背中に向けて、深く一礼した。そして、静かに部屋を後にする。

 

 運命の歯車が、音を立てて噛み合った。

 

 ルドルフは向かう。情熱という名の狂信者ではなく、全てを俯瞰する「眼」を持つ男の元へ。魔術師と皇帝の邂逅は、もはや偶然ではなく、皇帝の意志による必然となった。

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