ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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アドマイヤベガ編
プロローグ 梶の片葉姫


 二月、雨の夜。トレセン学園の理事長室の重厚なドアが、音もなく開いた。

 

 部屋を出ようとするアドマイヤベガの背中に、理事長秘書である駿川たづなの、静かで事務的な声が投げかけられた。

 

「……アドマイヤベガさん。念のため、忠告しておきます」

 

 彼女は足を止めたが、振り返らなかった。

 

「あなたは現在、クラシック戦線の只中にいます。次走の皐月賞まで、もう猶予はありません」

 

 たづなの言葉には、学園を管理する者としての冷徹な響きがあった。

 

「早急に、次の担当トレーナーを見つけて契約を結んでください。……本学園の規定により、トレーナー不在の状態では、公式レースへの出走は認められません」

「……わかっているわ」

「あなたがどれほど優秀な成績を収めていても、例外は認められませんので」

「……失礼します」

 

 ガチャリ。ドアが閉ざされ、廊下に冷たい静寂が戻っていた。

 

 

 理事長室を出たアドマイヤベガの手には、一枚の書類が握られていた。契約解除通知書。つい先ほど、印鑑を押したばかりの紙切れだ。

 

「……これで、三人目」

 

 彼女は小さく呟き、その書類をくしゃりと握り潰すと、廊下のゴミ箱に無造作に放り込んだ。

 

 別れ際のトレーナーの顔を思い出す。――彼は優秀な男だった。実績もあり、情熱もあった。アドマイヤベガというウマ娘に惚れ込み、献身的に尽くしてくれた。

 

 だが、彼女を担当したトレーナーは、最後には恐怖に歪んだ顔で契約を破棄する。

 

 1人目は、『君を見ていると、怖くなるんだ』と、言いながら。

 2人目は、『君はレースに勝とうとしていない。……ただ、走ることで自分を罰そうとしているように見える』と、目を伏せがちに。

 3人目は、『私には、君の「自滅」を手助けすることはできない』と、睨みつける様に。

 

 自滅。言い得て妙だ、とアドマイヤベガは思った。

 

 彼らは正しい。スポーツトレーナーとして、教え子の健康と未来を守ろうとするのは、あまりにも正しい。けれど、その「正しさ」こそが、彼女にとっては猛毒なのだ。

 

(健康?未来?そんなものが何になるというの。あの子は生まれてくることさえ許されなかったのに。未来なんて言葉、どの面を下げて口にすればいいの?)

 

「……甘いのよ、みんな」

 

 彼女は靴を履き替え、傘もささずに外へ出た。冷たい雨が降り注いでいる。春の雨ではない。冬の残滓を含んだ、骨まで凍みるような雨だ。

 

 

 誰もいない夜の練習コース。街灯の明かりが雨に滲んでいる。

 

 ザッ、ザッ、ザッ。

 

 泥を跳ね上げる音が、規則正しく響く。アドマイヤベガは走っていた。ウォーミングアップもそこそこに、いきなりトップスピードに近い負荷をかける。筋肉が悲鳴を上げ、冷たい空気が肺を焼き焦がす。

 

 痛い。苦しい。寒い。だが、その感覚だけが、彼女を安心させた。

 

(もっと……もっとよ)

 

 彼女は地面を強く蹴った。苦痛が強まれば強まるほど、内側の罪悪感が少しだけ薄まる気がした。自分が生きているという「不当な事実」を、苦痛という代償で支払う。それが、今の彼女にとっての唯一の精神安定剤だった。

 

 ――静寂。

 

 それが一番怖かった。恨み言も、励ましも、何一つ言わず、ただ静かに消えてしまったあの子。だからこそ、証明し続けなければならない。

 私が今、ここで生きていることが「間違い」ではなかったと。私のこの足が、あの子の命を喰らってまで動いているこの心臓が、誰よりも速くゴールに辿り着くための「機能」であることを。

 

(止まれない。一秒だって、休むわけにはいかない)

 

 泥が顔に跳ねる。寒さで指先の感覚がない。それでも、彼女は足を止めない。

 

 「君は才能がある」「君は輝ける」。大人たちは口々にそう言う。

 

 だけど、違う。これは、才能じゃない。あの子から奪い取ったものだ。輝きなんかじゃない。これは、あの子の命が燃え尽きる時の残り火だ。

 

 だから、優しさも、温かさも、安らぎもいらない。

 

 必要なのは、私が壊れるまで走り続けさせてくれる、冷徹な監視者だけ。私の心を気遣う「パートナー」ではなく、私の機能を使い潰してくれる「ユーザー」だけ。

 

「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

 

 限界が来た。

 アドマイヤベガは足をもつれさせ、泥の中に膝をついた。

 冷たい泥水が、ジャージに染み込んでくる。

 

 空を見上げる。

 分厚い雨雲に覆われて、星など一つも見えない。

 あの子の星も、私の星も。

 

「……どこにいるのよ」

 

 彼女は、沈黙する雨空に向かって呟いた。

 

「私を……壊してくれる人は、どこ……」

 

 私のこの罪を、狂気を、ただの「機能」として使い潰してくれる人はいないのか。

 同情も慰めもいらない。ただ、この呪いを背負ったまま、地獄の底まで付き合ってくれる「共犯者」は、この世界のどこにもいないのか。

 

 雨は激しさを増し、彼女の孤独な背中を打ち据え続ける。

 

 ―――彼女が出会うことになる「4人目」の男。

 

 ヤン・ウェンリーという名の、死に損ないの魔術師が、彼女の前に現れるまで、あと数日。

 

 その夜はまだ、明ける気配すらなかった。




1月5日 1900 アドマイヤベガ編第一話 発走


アンケート誠にありがとうございました。

多数票を頂きました「新たなウマ娘との出会い」。
主軸に据えて、新たな物語のスタートです。

アドマイヤベガ、そしてヤンウェンリー。
暗いものを背負う2人が出会った時、死と生の物語は動き出します。
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