春。2月も半ばのこと。
極東の島国にある「トレセン学園」のカフェテリアは、今日も平和な喧騒に包まれていた。
若きウマ娘たちの笑い声。食器が触れ合う音。テレビモニターから流れるレース実況。その全てが、眩いばかりの生命力に満ち溢れている。
■
だが、その陽だまりの片隅で、一人だけ異質な空気を纏う男がいた。
ヤン・ウェンリー。
彼は窓際の席で、琥珀色の液体が満たされたティーカップを揺らしながら、どこか遠い目をして外の景色を眺めていた。
(……平和だ)
それは、彼が心から望んでいたはずのものだった。民主主義の維持だの、専制国家との戦争だのといった血生臭い義務から解放され、ただ惰眠を貪り、歴史書を読み耽る生活。
年金こそ、まだ、もらえていないが、この学園のトレーナーとしての給与は、彼の慎ましい生活を支えるには十分すぎるほどだった。
だが、とヤンは思う。この平和は、本当に自分が享受して良いものなのだろうか、と。
彼の記憶の最後にあるのは、紅茶の香りではない。太腿の激痛。流れ出る血液の熱さ。そして、意識が暗転する瞬間に聞いた、野蛮な銃声と狂信者たちの叫び声だ。
『魔術師、還らず』
彼の歴史はそこで終わったはずだった。なのに、なぜ自分は今、五体満足で、あろうことか「ウマ娘」などという超生物が闊歩する異世界で、のうのうと紅茶を啜っているのか。
「……死に損ない、というやつだな」
自嘲気味に呟き、カップを口に運ぶ。
ユリアンはうまくやっているだろうか。フレデリカは、キャゼルヌ先輩は。自分だけが、こんな場所で「余生」のような時間を過ごしていることへの、得体の知れない罪悪感。
それが、ブランデーの入っていない紅茶のように、日々の生活に僅かな物足りなさと苦味を与えていた。
「――辛気臭い顔をしているな、トレーナー君」
不意に、頭上から凛とした声が降ってきた。ヤンが顔を上げると、そこには学園の制服を隙なく着こなした長身のウマ娘――皇帝シンボリルドルフが立っていた。
彼女の手には、分厚いファイルが握られている。
「やあ、ルドルフ。君こそ、眉間に皺が寄っているよ。そんなに怖い顔をしていると、学園内での君の支持率が下がってしまうぞ」
「君が私の支持率を心配してくれるとは光栄だ。だが、あいにくこの皺の原因の半分は、君という『働かないトレーナー』の処遇について悩んだ結果でね」
ルドルフは苦笑しつつ、断りもなくヤンの向かいの席に座った。
周囲の生徒たちが「会長だ」「皇帝陛下だ」とざわめくが、彼女は意に介さない。彼女にとって、この冴えない男の向かい席は、すでに「指定席」のようなものだった。
「人聞きが悪いな。私はいつだって、労働契約に基づいた必要最低限の勤務はしているつもりだよ」
ヤンは肩をすくめた。目の前の「皇帝」とは、彼女がまだデビューする前からの付き合いだ。今でこそ生徒会長として多忙を極めているが、ヤンにとっては、気兼ねなく皮肉を言い合える数少ない「戦友」の一人だった。
「その『必要最低限』の基準が、一般より著しく低いのが問題なんだがね。……まあいい」
ルドルフは、持っていたファイルをテーブルの上に滑らせた。
「君にしか頼めない、個人的な依頼だ」
彼女の声のトーンが、一段階落ちた。
ヤンはファイルの表紙を見た。『アドマイヤベガ』。聞いたことのある名前だ。今年のクラシック戦線における、有力候補の一角のはずのウマ娘。そのファイルが、なぜかヤンの目の前に置かれている。
「アドマイヤベガ?確か、私の記憶が正しければ、既に皐月賞に名前が挙がっているウマ娘だ。彼女が、どうかしたのか?」
「君好みの話、と言いたい所だが、話は単純ではない」
ルドルフは一呼吸置いて、ヤンに真剣な眼差しを向けた。
「彼女の担当トレーナーが、数日間に契約を解除した。これで、三人目だ」
「三人目?クラシック級を走るウマ娘が契約解除とは、実に思い切ったことをするね。担当が居なければ、レースに出れないのがこの学園のルールだろうに」
「ああ。それすらも承知の上で契約が解消されている。そのことが、異常なんだ」
ヤンは思わず天を仰いで、頭を掻いた。こいつは、なかなかに厄介ごとらしい。
「……それはまた、随分と相性が悪いようだね。まるでライス、あるいはタキオンの時のようじゃないか。あるいは、君のようにトレーナーをこき使うのが趣味なのか」
「まさか。だが、タキオンとは似ているかもしれない。……つまり、生き方の問題だよ」
ルドルフは視線を窓の外へ向けた。そこには、昼休みにも関わらず、一人で黙々と走り込みを行う小柄な影があった。
「彼女は、生き急いでいる。勝利への渇望や速さの追求なんて生易しいものじゃない。まるで、走ることで自分の命を削り取ろうとしているかのようだ。……誰も彼女を止められない。前のトレーナーたちは皆、彼女の放つ『死の気配』に耐えられなくなった」
「死の気配、か……」
ヤンはファイルを手に取り、アドマイヤベガの写真を見た。
その瞳は、カメラのレンズを見ていない。その虚ろで、どこか諦観を漂わせた瞳。
ヤンは、その目をよく知っていた。イゼルローン回廊で、アムリッツァ星域で、そしてバーミリオンで。散っていった多くの部下たちや、敵将たちが、最期に見せた目。あるいは、鏡の中でヤン自身が見てきた目。
――生き残ってしまった者の目だ。
「……彼女に、何があった?」
「双子の妹がいたそうだ。だが、生まれてくることができたのは彼女だけ。……彼女は背負っているんだよ。亡き妹の分まで走らなければならないという、呪いにも似た義務感を」
ルドルフの説明を聞きながら、ヤンは心の中で深いため息をついた。どこの世界でも、死者は生者を放してはくれないらしい。
「断ってもいい。……だが、放っておけば彼女は壊れる。物理的にか、精神的にかはわからないがね」
「……ルドルフ、私がそう言われて、『見捨てる』性格じゃないと知っていて、こういう厄介ごとをわざと持ってきているんだろう?」
ヤンはファイルの重みを手の中で確かめた。ずしりと重い。それは紙の重さではなく、そこに記された一人の少女の人生の重さだった。
「引き受けるとは言っていない。だが、一度会ってみるくらいはしよう。……断るのは、それからでも遅くはないからね」
「ありがとう、トレーナー君。………やはり君に頼んで正解だった」
ルドルフは安堵したように微笑み、席を立った。ヤンは彼女の背中を見送りながら、冷めた紅茶を一口啜った。
やはり、その紅茶はいつもより、ほんの少しだけ苦く感じた。
■
その日の夜。
ヤンは、人気のないトレセン学園の練習コース付近で、ぼんやりと夜空を見上げていた。季節外れの冷たい風が、彼の黒髪を揺らす。
手にはいつもの保温ポット。中身は紅茶だが、今夜は少し渋めに淹れてある。
ザッ、ザッ、ザッ。規則正しい、しかし拒絶的な足音が近づいてくる。
その足音の主はアドマイヤベガ。
彼女は夜のトレーニングを終え、寮へと戻る途中だった。汗に濡れた前髪、乱れた呼吸。だが、その表情には疲労感よりも、もっと暗い情念が張り付いていた。
彼女はヤンの存在に気づくと、露骨に顔をしかめ、視線を逸らして通り過ぎようとした。その顔が語っている。また新しい勧誘か。お説教か。どちらにせよ、私の邪魔をする敵が現れた、と。
「……月が綺麗だね」
そんな彼女の顔は無視し、すれ違いざま、ヤンが声をかけた。あまりにも陳腐な、そして場違いな台詞。アドマイヤベガは足を止め、怪訝そうに彼を睨んだ。
「……何?」
「いや、ただの感想だ。この世界の月は、私の故郷で見ていた月よりも、少しだけ大きく見える」
ヤンは彼女の方を向かず、まだ月を見ていた。
「君はアドマイヤベガ君だね。ルドルフから話は聞いている。……随分と、熱心に自分を痛めつけているそうじゃないか」
その言葉には、皮肉の色が含まれていた。アヤベの瞳が鋭く細められる。
「……あなたも、私を止めに来たの?『身体を大切にしろ』とか、『休むのも練習だ』とか」
「まさか。他人の健康管理に口を出せるほど、私は立派な生活をしていない。君が自分の身体をどう使おうと、それは君の所有権の範囲内だ」
「なら、放っておいて」
彼女は再び歩き出そうとした。だが、次のヤンの言葉が、彼女の足を縫い止めた。
「……だが、死ぬために走っているなら、それは感心しないな」
アヤベが振り返る。その顔には、明確な敵意があった。
「取り消して。……私は、勝つために走っているの。あの子の分まで、誰よりも速く」
「勝つため、か。……私にはそうは見えないがね。君の走りは、ゴールを目指しているんじゃない。ゴールしたその先にある『破滅』を目指しているように見える」
ヤンはゆっくりと彼女に向き直った。
街灯の薄明かりに照らされた彼の顔は、昼間の昼行灯とは別人のように、冷たく、静かだった。
「罪滅ぼしか?自分が生き残ったことへの」
「ッ……!」
「図星か。……くだらない。実にくだらないな」
ヤンは吐き捨てるよう、そして、自らに語り掛けているかのように言った。
「あなたに……あなたに何がわかるの!?」
アヤベが叫んだ。今まで誰にもぶつけたことのない感情が、この見ず知らずの男に対してなら、なぜか溢れ出した。それは、おそらく、同族嫌悪のようなものだったのだろう。
「私は奪ったのよ!あの子の、妹の命を、未来を!私だけが生まれて、私だけが走って……!だから私は償わなきゃいけない!私の全てを捧げて、あの子を輝かせなきゃいけないの!それが私の……生き残った私の義務でしょう!?」
悲痛な叫びが、夜の闇に吸い込まれていく。
彼女は肩で息をしながら、ヤンを睨みつけた。否定してほしいわけじゃない。肯定してほしいわけでもない。ただ、この身を焦がす罪の意識を、誰かに知ってほしかったのかもしれない。
ヤンは、しばらく無言で彼女を見ていた。そして、ふっと力を抜くように息を吐き、ポットの蓋を開けた。
「……義務、か。そうだ。生き残った者の義務、だ」
彼はコップに紅茶を注ぎ、湯気の立つそれを彼女に差し出した。
「一つだけ真実を言えば、そんなものは存在しないんだよ、お嬢さん」
「……え?」
「もし、生き残った者に義務があるとするなら、それは『死ななかったこと』を悔やむことじゃない。……ただ、明日も生きて、美味い紅茶を飲むことだ」
ヤンは強引に彼女の手にコップを握らせた。
(温かい)
冷え切った彼女の手指に、その熱が伝わる。
「私は君の妹君を知らない。だが、もし私がその妹君の立場なら、姉が自分のためにボロボロになって、苦痛に顔を歪めて走る姿など見たくはないがね。……まあ、これは私の個人的な感傷だ」
ヤンは自身の分も注ぎ、一口飲んだ。
「アドマイヤベガ君。私はヤン・ウェンリー。しがない歴史家志望のトレーナーだ」
「……ヤン……。噂の……」
「どのような噂を君が聞いているのかは知らないし、君が破滅に向かって走るというなら、私は止めない。だが、もし君が『生きて』勝ちたいと願うなら……私が少しばかり、手助けできるかもしれない」
「生きて、勝つ……」
その言葉は、彼女にとって未知の響きだった。
今まで「死ぬ気で」「命を懸けて」と言われたことはあっても、「生きて」と言われたことはなかったからだ。
「……私に、そんな資格があるの?」
「資格なんてものは必要ない。『生きている』。それだけで十分だ。……少なくとも、私はそう思って、図々しく生きているよ」
ヤンは自嘲気味に笑った。
アヤベは、手の中の紅茶を見つめた。揺れる水面に、自分の顔が映っている。そこにあったのは泣きそうで、迷子の子供のような顔だった。
「……苦いのは、嫌いよ」
「砂糖ならある。ミルクもな。……私のチームに来れば、好きなだけ入れてやる」
アヤベは顔を上げ、ヤンを見た。視線が交錯する。
直感で理解する。―――この男もまた、何かを背負っている。自分と同じ、死者の影を。だからこそ、彼の言葉には嘘がない気がした。
「……利用させてもらうわ。私の贖罪が終わるまで」
「ああ、構わないさ。どうせ私は、お人好しの年金生活者(トレーナー)だからね」
こうして、奇妙な契約は結ばれた。
それは傷ついた二つの魂が、互いに寄りかかりながら歩き出す、静かな夜の出来事だった。