ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第2話 微睡(まどろ)みは硝子の檻

 後世の歴史家が「チーム・ヤン」の内部事情を調査した際、最初に突き当たる矛盾は、その「極端な二面性」にある。

 

 一方で、そこは魔窟であった。皇帝シンボリルドルフが政務の合間に紅茶を啜り、怪物ナリタブライアンが肉を貪り、トウカイテイオーやナイスネイチャが遊びに来ては、黄金の不沈艦ゴールドシップが意味不明な儀式を行う、混沌の坩堝。

 

 だが他方で、そこは学園で最も「静寂」が支配する場所でもあった。なぜなら、刺客であるライスシャワーが静かに部屋の手入れを行い、アグネスタキオンがデータを好き勝手に分析する。

 

 そしてなによりこのチームの最高責任者であるヤン・ウェンリーが、執務時間の八割を「思索」という名の昼寝と読書に費やしていたからである。

 

 アドマイヤベガがその扉を叩いたのは、契約を結んだ翌日の放課後だった。

 

 彼女は覚悟を決めていた。

 

 地獄のような特訓。吐くまで走らされるインターバル。それこそが、罪深き自分が受けるべき「罰」であり、贖罪への道だと信じていたからだ。

 

「……失礼するわ」

 

 緊張と共にドアを開ける。漂ってくるのは、汗と湿布の臭いではなく、芳醇な紅茶の香りと、微かな薬品の刺激臭。

 そして、部屋の中央にあるデスクでは、黒いベレー帽を目深に被った男が、椅子の背もたれに深く沈み込んでいた。

 

「……来て早々で悪いが、静かにしてくれ。今、歴史的な会戦の真っ最中なんだ」

「会戦?」

「ああ。少々、気になる書物を見つけてしまってね」

 

 アヤベが視線を向けると、ヤンの手元にあるのは作戦盤ではなく、分厚い架空の歴史小説だった。ページをめくる指だけが動いている。

 

()()()()()()()()()()だ。……ふむ、やはりここで撤退するべきだったな。功名心というのは、いつの時代も補給線を伸ばしすぎる」

 

 ヤンはパタンと本を閉じ、ようやくアヤベの方を向いた。

 

「やあ、いらっしゃい。アドマイヤベガ君。……顔色が悪いな。昨日は眠れなかったかね?」

「……問題ない。走れば目は覚める。それと、アヤベでいいわ」

 

 アヤベは短く答え、ジャージの襟を正した。

 

「それで、今日のメニューは?坂路?それともトラック?」

「ああ、それならそこに置いてある」

 

 ヤンが顎でしゃくった先。サイドテーブルの上に、一枚のペーパーが無造作に置かれていた。アヤベはそれを手に取る。そして、彼女の表情が凍りついた。

 

『月曜日:完全休養』

『火曜日:プール歩行(負荷なし)』

『水曜日:完全休養』

『木曜日:マッサージ、およびストレッチ(昼寝推奨)』

『金曜日:精密検査』

『土曜日:完全休養』

 

 視線が、紙の上を何度も往復する。書き間違いを探した。あるいは、隠された暗号があるのではないかと疑った。

 だが、何度見ても、そこには「走る」という文字が一つも存在しなかった。

 

「……ふざけてるの?」

 

 アヤベの声が、怒りで低く震えた。彼女はペーパーをヤンのデスクに叩きつけた。

 

「私はあなたと契約した。それは認めるわ。でも、これは何?飼い殺しにするつもり?こんなふざけたメニューで、どうやってレースに勝つつもりなのよ!」

「勝つために休むんだよ。古代の兵法書にもある。『進むこと矢の如く、止まること山の如し』とな」

「意味が違うわ!私には時間がないの!一日休めば感覚が鈍る。三日休めば筋肉が衰える。こんなメニューをこなしていたら、私は……あの子に顔向けできない!」

 

 彼女の叫びは切実だった。

 走っていない時間、身体を痛めつけていない時間は、彼女にとって「妹への裏切り」の時間だったのだろう。静寂が怖い。立ち止まることが怖い。

 耳の奥で、妹の声が「サボるな」と責め立ててくる気がするからだ。

 

 ヤンは、溜息をついて紅茶を一口啜った。

 

「……君の言い分は、精神論としては正しい。俗に言う『昭和のスポ根漫画』なら、血尿が出るまで走れば必殺技でも身につくのかもしれない」

 

 彼はカップを置き、どこか冷ややかな瞳でアヤベを見据えた。

 

「だが、ここは現実だ。そして私は、君を壊すために雇われたわけではない」

「壊れたって構わない!勝てるなら……!」

「構うさ。私がね」

 

 ヤンはピシャリと言い放った。その声の鋭さに、アヤベは思わず口をつぐんだ。

 

「いいかい、アヤベ君。君は自分の身体を『無限に再生する資源』だと勘違いしているようだが、それは大きな間違いだ。君の右膝、左の股関節、そして腰椎。……悲鳴を上げているのが聞こえないのかね?」

「そ、んなの……気合いで……」

「気合いで金属疲労は治らない。構造力学を無視した精神論は、敗北への直行便だ」

 

 ヤンはデスクの引き出しから、別の資料を取り出した。それは、アヤベのこれまでの走行データと、身体のスキャン画像だった。

 

「見てみたまえ。君の筋肉は常に過緊張状態にある。バネで言えば、限界まで引き絞られたままだ。この状態でさらに負荷をかければどうなるか。……弾けるか、折れるかだ」

「でも……!」

 

 アヤベは反論しようとした。だが、言葉が出てこない。図星だったからだ。

 

 最近、朝起きると足が鉛のように重い。走っていても、以前のような爆発力が発揮できない。それを「練習不足」だと思い込み、さらに負荷をかける悪循環に陥っていたことを、彼女自身も薄々は気づいていたのだ。

 

「……お困りのようだね、新入り君」

 

 その時、部屋の奥にあるパーテーションの陰から、白衣を纏ったウマ娘がぬらりと姿を現した。ボサボサの髪。目の下のクマ。そして手には、怪しげな発光液体が入った試験管。

 アグネスタキオン。このチームの外付けの頭脳であり、同時に最大のトラブルメーカーでもあるウマ娘だ。

 

「アグネスタキオンさん……」

「やあ。タキオンでいい。それにしても君の脚は実に、素晴らしいね。実に美しい『崩壊の予兆』だ」

 

 タキオンはアヤベに近づくと、遠慮なくその太腿やふくらはぎを触診し始めた。

 

「硬い。硬すぎる。君の脚はまるで石膏像だ。これでは衝撃を吸収できまい。……魔術師君の見立て通り、あと二週間、いや十日も今のペースを続ければ、君は『引退』だね。再起不能の故障で」

「ッ……!」

「君は、妹君のために走ると、この魔術師君に言ったそうだね?だが、足が折れてしまえば、君は一生、妹君に詫び続けるだけの存在になる。……それでもいいのかい?」

 

 タキオンの言葉は、科学者特有の残酷なまでの客観性に満ちていた。アヤベは唇を噛み締め、拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。

 

 走りたい。でも、走れば壊れる。壊れれば、贖罪すらできなくなる。出口のない迷路。

 

「……じゃあ、どうすればいいのよ」

 

 絞り出すような声。ヤンは、静かに告げた。

 

「休むんだ。恐怖に打ち勝って、勇気を持って『停滞』するんだ」

 

 ヤンは立ち上がり、アヤベの前に立った。

 

「一週間だ。一週間、私のメニューに従え。走るな。考えすぎるな。ただ食べて、寝て、本でも読め。……もしそれで、一週間後のタイムが落ちていたら、私は辞表を書く。君は好きなトレーナーのところへ行けばいい」

「……本気?」

「私は嘘はつかない。……まあ、言いにくいことを黙っていることはあるがね」

 

 ヤンの目は、真剣だった。その奥に、昨日見た「死者の影」が揺らいでいる気がした。アヤベは、大きく息を吐き出した。

 

「……わかったわ。一週間だけよ。……もし、なまって走れなくなったら、一生恨んでやる」

「ああ。呪い殺されないように善処しよう」

 

 

 「休養」という名の拷問が始まった。アヤベにとって、何もせずに寮の部屋にいる時間は、永遠にも等しかった。

 

 静かだ。

 

 静かすぎて、耳鳴りがする。

 

『お姉ちゃん、サボるの?』

『私ならもっと走るのに』

 

 幻聴が聞こえる。それを振り払うために身体を動かそうとするが、ヤンの顔が脳裏に浮かび、踏みとどまる。

 

(……辞表を書く、って言ったわね)

 

 あの男の、自信に満ちた、いや、どこか諦めたような瞳。彼は知っているようだった。生き残った人間が、どうすれば壊れずに生きていけるのかを。

 

 三日目の夜。

 

 どうしても眠れず、アヤベは寮を抜け出した。走るためではない。ただ、夜の空気を吸いたかった。だが、なぜか足は自然と、トレーナー室のある建物へと向いていた。

 

 部屋の明かりがついている。まだ残っているのだろうか。あの怠け者が。アヤベは吸い寄せられるようにドアに近づき、少しだけ開いた隙間から中を覗いた。

 

 予想通りヤン・ウェンリーは、ソファで眠っていた。

 

 読みかけの本を胸に抱き、帽子を目深に被って。だが、その寝息は、安らかなものではなかった。

 

「……う、うぅ……」

 

 苦しげな呻き声。脂汗が額に浮かんでいる。

 

 彼は夢を見ていた。燃え盛る旗艦。千切れ飛ぶ四肢。モニターに映る「SIGNAL LOST」の文字の羅列。そして、トリガーの音。彼を置いて死んでいった者たちが、彼を取り囲み、口々に叫んでいる。

 

『なぜお前だけが』

『命令をくれ』

『提督、提督』

 

「……すまない……ラップ……みんな……」

 

 ヤンの口から漏れた、掠れた名前。

 

 アヤベは息を呑んだ。その表情は、昼間の飄々とした魔術師のものではない。罪悪感に押しつぶされ、恐怖に震える、ただの無力な男の顔だった。

 

(……あなたも、なの?)

 

 アヤベはドアノブから手を離した。入ってはいけない気がした。

 

 そこにあるのは、私と同じ闇だ。

 

 彼は、知っているのだ。生き残ることの苦しさを。自分だけが温かいベッドで眠ることの罪深さを。それでも彼は、私に「休め」と言った。「生きて、紅茶を飲め」と言った。

 

 それは、彼自身が自分に言い聞かせている言葉なのかもしれない。

 

 アヤベは、音を立てずにその場を離れた。

 

 夜空を見上げる。星が滲んで見えた。孤独だと思っていた。世界で私だけが、死者の重みに耐えているのだと。けれど、あの部屋には、もう一人の「生存者」がいた。

 

(……信じてあげるわ。一週間だけ)

 

 彼女は、初めて心からそう思った。ヤンの理論を信じるのではない。ヤン・ウェンリーという、同じ傷を持つ男の「痛み」を信じるのだ。

 

 

 翌朝。

 

 トレーナー室に現れたアドマイヤベガの顔には、まだ迷いはあった。

 だが、その手には、コンビニで買った安物のティーバッグが握られていた。

 

「……おはよう。紅茶、淹れてあげるわ」

「おや、それは光栄だ。……昨日はよく眠れたかね?」

 

 ヤンは、いつもの眠たげな目で笑った。アヤベは少しだけ視線を逸らし、小さく答えた。

 

「……まあまあね」

 

 休養期間はまだ続く。

 だが、アヤベの身体の中で、何かが変わり始めていた。

 それは、凍りついていたバネが、ゆっくりと溶け出すような、静かな再生の始まりだった。

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