ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第3話 弥生賞:一等星(ベガ)の孤独

 三月、中山レース場。

 

 春の訪れを告げる柔らかな日差しとは裏腹に、そこには火薬庫のような熱気が充満していた。

 

 弥生賞。

 

 皐月賞への切符を賭けた前哨戦にして、若き才能たちが初めて「格」を問われる試金石。詰めかけた観衆のどよめき、新聞記者の怒号、そしてターフの匂いとウマ娘たちアスリートの匂いが混じり合った独特の空気。

 

 それはまさに、開戦直前の前線基地の如き様相を呈していた。

 

 だが、パドックの片隅で、ヤン・ウェンリーは心底うんざりした表情で、自身の黒いベレー帽を目深に被り直していた。

 

「……前言撤回だ。やはり君の言う通り、家に引きこもって本でも読んでいるべきだったよ。なんだね、この人口密度は。酸素濃度が著しく低下している気がするんだが」

「おや、もう帰りたくなったのかい?トレーナー君」

 

 ヤンの隣で、生徒会長としての視察に来ていたシンボリルドルフが、その不平不満を極上の音楽のように楽しんで聞いていた。

 

「諦めたまえ。これは君が蒔いた種だ。……あのアドマイヤベガが『奇行(完全休養)』を経て、どのような仕上がりを見せるのか。メディアもファンも、興味津々なのさ」

「奇行ではない、休養だ。戦略的撤退と言ってほしいね」

 

 ヤンはボヤきながら、耳栓をしたい衝動をこらえ、視線をパドックの中央へと向けた。そこには、彼の頭痛をさらに悪化させる「騒音の発生源」が、太陽のように輝いていた。

 

「ハッハッハ!見たまえトレーナー諸君!今日の太陽は、誰を照らすためにあると思う!?そう、このボク、テイエムオペラオーのためだけに輝いているのだよ!さあ、刮目するがいい!世紀末の覇王が刻む、最初の一歩を!」

 

 テイエムオペラオー。

 

 その過剰なまでの自信と、それを裏付ける研ぎ澄まされた筋肉の鎧。彼女が動くたびに、観客席から悲鳴のような歓声が上がる。彼女にとってレースとは、ただの競走ではなく、自身を主役とし、世界を舞台装置とした壮大なオペラなのだ。

 

 その立ち振る舞いは滑稽ですらあるが、ヤンの目は誤魔化されない。あの大仰な身振りの裏にある、完璧な体幹バランス。そして、周囲を睥睨する瞳の奥にある、冷徹な勝利への計算。

 

(……厄介だな。道化の面を被った猛将か)

 

 そして、その対極にいるのが、もう一人の有力候補。

 

「ナリタトップロード、入ります!……よし、やるぞ、やるぞ、やるぞ!」

 

 自身の頬をパンパンと叩き、気合を入れるナリタトップロード。

 

 彼女からは、周囲の期待を一身に背負った者の、悲壮なまでの真面目さが滲み出ていた。一歩一歩の歩みが、地面を噛みしめるように力強い。才能の差を、努力という血の滲むような積み上げで埋めようとする、典型的な秀才型だ。

 

「……道化役者(アルレッキーノ)に、学級委員長か。実に個性的だ」

「彼女たちは強いよ。特にオペラオーのスタミナは規格外だ。トップロードのひたむきさも侮れない」

「わかっているさ。……問題は、私のところのお姫様が、この『光』にどう反応するかだ」

 

 ヤンの視線が、最後にアドマイヤベガへと向く。

 

 彼女は周囲の喧騒を完全に遮断(シャットアウト)し、パドックの隅で一人、静寂の中にいた。一週間の完全休養を経て、彼女の身体つきは劇的に変化していた。

 以前のような、張り詰めたピアノ線のような危うさはない。筋肉には適度な柔軟性が戻り、毛艶も良くなっている。歩様は柔らかく、関節の可動域も広がっている。

 

 物理的には、これ以上ない仕上がりだ。だが、その表情は硬い。能面のように感情を殺している。

 

「……アヤベさん!」

 

 不意に、ナリタトップロードがアヤベに声をかけた。その真っ直ぐすぎる瞳が、アヤベを射抜く。

 

「いよいよですね!私、アヤベさんと走れるのを楽しみにしていました。……今日は、負けません!トレーナーさんと一緒に積み上げてきたものを、全部ぶつけます!」

「……そう」

「つれないねぇ!孤高の星よ!」

 

 割り込んできたのは、当然オペラオーだ。彼女はアヤベの肩に手を回そうとして――アヤベの鋭い殺気に気づき、優雅に手を引いた。

 

「フッ、素晴らしい静謐(サイレンス)だ。ボクの覇道には、君のような凍てつく闇こそが相応しい。さあ、共に踊ろうじゃないか!この美しき春の舞台で!君の絶望が、ボクの輝きをより一層際立たせるだろう!」

「……うるさい。耳障りよ」

 

 アヤベは吐き捨てるように言い、二人から背を向けた。

 

 ヤンは見ていた。彼女の拳が、白くなるほど強く握りしめられているのを。それは武者震いではない。眩しすぎるのだ。彼女たちのような、迷いのない「生」の輝きが。

 

 生きていることを肯定し、未来を信じ、光の中を歩む者たち。それは、アヤベが自ら捨て去った世界であり、最も憎み、そして最も羨んでいる世界だった。

 

(……やれやれ。今日のレースは、彼女にとって『スポーツ』にはなりそうもないな)

 

 

 ファンファーレが高らかに鳴り響き、ゲート入りの刻が来た。スタンドのどよめきが最高潮に達し、そして一瞬の静寂が訪れる。

 

 ガシャアンッ!

 

 けたたましい機械音と共に、ゲートが開いた。10人を超える若きウマ娘たちが、一斉にターフを蹴る。

 地響き。土煙。

 レース展開は、ヤンの戦前予想(シミュレーション)と、わずかな誤差を含みつつ進行した。

 

 先頭集団を形成するのは、逃げ馬たち。

 

 だが、その直後、好位の4番手付近に、早くもテイエムオペラオーがつけていた。

 ―――強い。彼女はバ群に揉まれることを恐れていない。むしろ、自らのプレッシャーで周囲を支配し、自分の走りやすいスペースを強引に作り出している。

 ナリタトップロードもそれに食らいつく。必死の形相で、オペラオーの背中をマークする。

 

 そして、アドマイヤベガ。

 

 彼女は、中団後方にいた。周囲の喧騒が遠のく。風切り音だけが鼓膜を震わせる。

 

(……軽い)

 

 道中、アドマイヤベガは自身の身体の変化に、困惑というよりは恐怖に近い感情を抱いていた。足が、羽のように軽い。

 地面を蹴るたびに、身体が前方へ弾き出される。心拍数は安定し、呼吸も乱れない。

 

 ヤンに命じられた一週間の休養が、彼女の身体を劇的に回復させていたのだ。タキオンの調整した栄養バランスと、ヤンの計算した「超回復」の理論。それが、皮肉にも彼女を最高のコンディションへと押し上げていた。

 

 今までなら、第3コーナー手前のこのあたりで、右膝に鈍い痛みが走り、肺が焼けつくような熱を持っていたはずだ。

 

 その痛みこそが、彼女にとっては「免罪符」だった。

 

 苦しい。痛い。辛い。だから、許して。あの子の分まで苦しんでいる私を、許して。

 

 だが、今は何もない。苦しくない。痛くない。ただ、速いだけ。

 

 (……どうして?)

 

 恐怖が、冷たい水のように背筋を伝う。こんなに楽でいいの?あの子はもっと苦しかったはずなのに。私がこんなに快適に走っていて、それは「償い」になるの?身体が軽くなればなるほど、心に重い鉛が溜まっていく。

 

『お姉ちゃん』

 

 幻聴が聞こえる。風の音に混じって。

 

『楽をしてるの?私を置いて、自分だけ気持ちよくなってるの?』

 

 違う。違うの。私は勝つために……!

 

 

 第4コーナー。

 

 中山の短い直線に入る手前。前方では、早めに仕掛けたオペラオーが先頭に躍り出ようとしていた。トップロードが必死に腕を振り、食い下がる。

 

 二人の気迫が、火花のように散る。輝かしい、命のぶつかり合い。

 

 アドマイヤベガは、無意識のうちに外へと持ち出した。頭では「行くな」と思っていたかもしれない。このままバ群に沈んで、苦しみの中にいたかったかもしれない。

 だが、研ぎ澄まされた彼女の肉体は、魂の迷いを無視して反応した。それは、ウマ娘としての本能。競走本能だったのだろう。

 あるいは、生き残ってしまった生物としての、根源的な生存欲求だったのかもしれない。

 

「――行けッ!」

 

 スタンドの誰かの声か、それともヤンの声か。合図と共に、アヤベの末脚が爆発した。

 

 それは、加速というよりは転移に近かった。一完歩ごとに、空間が縮まる。オペラオーが、驚愕の表情で振り返るのが見えた。トップロードの、絶望に染まる瞳が見えた。

 

 ごぼう抜き。圧倒的な速度差。苦痛も、葛藤も、全てを置き去りにして、彼女の身体だけがゴールへと吸い込まれていく。

 

 1着。アドマイヤベガ。

 2着以下に、決定的な差をつけての完勝だった。

 

 

 大歓声が沸き起こる中山レース場。

 

 「強い!」「本物だ!」という称賛の声が降り注ぐ中、アドマイヤベガはウイニングランをすることもなく、逃げるように地下通路へと引き上げてきた。

 

 その顔に、笑顔はなかった。むしろ、惨敗した時よりも深く、濃い影が落ちていた。

 

「……おめでとう。見事な勝利だ」

 

 地下通路の奥、人目のつかない場所で待っていたヤンが、タオルとスポーツドリンクを差し出した。アヤベはそれを受け取らず、手すりに縋り付くようにして立ち止まり、激しく肩で息をしていた。

 

 肉体的には疲れていない。精神だけが、酸欠を起こしていた。

 

「……これが、あなたのやり方?」

 

 彼女は、血を吐くような声で言った。

 

「不服かな?タイムも優秀だ。上がり3ハロンは最速。作戦通り、君の脚は万全に機能した。タキオンもデータを見て小躍りしているよ」

「機能した……そうね、機械みたいにね!」

 

 彼女は叫んだ。その瞳から、大粒の涙が溢れ出す。それは嬉し涙ではない。屈辱と、自己嫌悪の涙だった。

 

「全然、苦しくなかった……!息も切れない、足も痛くない!……こんなの、走ったうちに入らないわ!私はもっと……もっと削り取らなきゃいけないのに!」

 

 彼女は自身の胸を拳で叩いた。

 

「楽をして勝って……あの子に『私が代わりに生きてます』って、どうやって顔向けすればいいの!?私は泥まみれになって、血を流して、それでも届かないくらいの苦しみの中で勝たなきゃ、あの子への償いにならないのに!」

 

 アヤベはその場に崩れ落ち、子供のように嗚咽した。勝利の美酒などない。あるのは、自分だけが安楽な道を選び、才能という暴力で他者をねじ伏せてしまったという、深い罪悪感だけ。

 楽をして勝ってしまった自分が、許せなかった。

 

 ヤンは、足元で泣き崩れる少女を見下ろした。その瞳には、安っぽい同情の色はなかった。あるのは、歴史の残酷さを知り尽くした者だけが持つ、冷徹で、しかしどこか温かい諦観だった。

 

「……アヤベ君。一つだけ警告しておく」

 

 彼は静かに言った。その声は、地下通路の冷たい空気を震わせた。

 

「君が自分を罰するために走るというなら、私は今ここで契約を破棄する」

「……え?」

 

 涙に濡れた顔が上がる。

 

「勝利は結果だ。生存の証だ。それを『罰』だの『裏切り』だのと呼ぶのは、全力を尽くした対戦相手に対する、そして何より、君の妹君に対する最大の冒涜だ」

 

 ヤンは帽子を被り直し、背を向けた。

 

「君は妹君を、姉の苦しむ姿を見て喜ぶサディストだと思っているのか?……もしそうなら、そんな悪霊は私が除霊してやる」

「……違う!あの子は……!」

「なら証明してみせろ。自虐ではなく、自尊心を持ってな」

 

 ヤンは歩き出した。その背中は、決して振り返らない。

 

「今日は帰って休め。……次戦は皐月賞だ。今日のようにはいかないぞ。あの二人は、敗北を糧にして必ず強くなる。その時、君がまだ『罪滅ぼし』ごっこを続けているようなら……君は負ける。それも、惨めにな」

 

 コツ、コツ、とヤンの足音が遠ざかっていく。残されたアドマイヤベガは、一人、薄暗い廊下で膝を抱えていた。

 

「………ッ」

 

 勝利のトロフィーは、鉛のように重かった。ヤンの言葉が胸に刺さったまま、抜けない。

 

(……私は、あの子を悪霊になんてさせない)

 

 唇を噛み締める。勝つことの意味、生き残ることの意味。その答えはまだ、深い闇の中だった。

 

 

 すべてのレースが終わり、観客たちが去った後の中山レース場。

 

 祭りの後の静寂と、夕暮れの冷気が支配するスタンド裏で、ヤン・ウェンリーは独り、自動販売機の缶コーヒーを啜っていた。

 

「……甘すぎるな」

 

 だが、今の疲弊した脳には、この安っぽい糖分が必要だった。

 

「……やれやれ。これで査定は上がったかもしれんが、私の寿命は確実に縮んだな」

 

 アドマイヤベガの慟哭。その余韻がまだ耳に残っている。除霊、などと大見得を切ったが、果たして上手くいくかどうか。生きた人間を救うのでさえ困難なのに、死者の影と戦うなど、魔術師どころか神父の領域だ。

 

「――嘆く必要はないさ、導き手よ。今日の舞台(レース)は、悲劇としては一級品だった」

 

 不意に、朗々とした声が降り注いだ。ヤンが顔を上げると、茜色に染まる空を背にして、黄金にも見える髪をなびかせる「覇王」が立っていた。

 

 テイエムオペラオー。

 

 敗者であるはずの彼女は、しかし、勝者以上に堂々とした佇まいで、ヤンを見下ろしていた。

 

「……テイエムオペラオーか。負けた人間に声をかけられるほど、私は立派な人格者じゃないんだがね」

「ハッハッハ!勝敗など、ボクの覇道においては一幕の演出に過ぎない!……と言いたいところだが、流石にあの『異次元の加速』には肝を冷やしたよ」

 

 オペラオーは階段を降り、ヤンの隣に立った。彼女からは、激闘の後だというのに、どこか気品ある香りが漂っていた。

 

「……なあ、ヤン・ウェンリー。ボクがなぜ、本来のローテーションをねじ曲げてまで、この弥生賞の舞台に上がったか……わかるかい?」

 

 その問いかけに、ヤンは眉をひそめた。確かに不可解だった。彼女の実績と陣営の方針なら、もっと別のステップを踏む選択肢もあったはずだ。わざわざ、不確定要素の多いアドマイヤベガとぶつかる必要はなかった。

 

「……まさか、アドマイヤベガ。彼女の状態を確認しに来た、とでも言うのかね?」

「半分正解で、半分間違いだ」

 

 オペラオーは、遠くの控室のエリアを見つめた。そこには、泣き崩れていたアドマイヤベガがいるはずだ。

 

「ボクはね、気になっていたんだ。トレセン学園の片隅で、星の光が『内側に向かって』崩壊していくのを」

「崩壊?」

「そう。彼女は輝こうとしていなかった。自らをブラックホールのように収縮させ、飲み込もうとしていたんだ」

 

 彼女の声から、演劇じみた抑揚が消える。

 

「……だから、ボクはこの舞台に上がった。彼女が『走る屍(リビングデッド)』なのか、それとも『傷ついた星』なのかを、この目で確かめるためにね」

 

 そこにあったのは、冷徹なまでの観察者の響きだった。

 

「……それで?覇王の診断結果はどうだったんだ」

「見ての通りさ。彼女の肉体は、君の手によって完璧に整備されていた。だが、魂はまだ死にかけている。……今日の勝利は、彼女にとって祝福ではなく、呪いの上塗りになっただろうね」

 

 ヤンは驚きを隠せなかった。

 この道化めいたウマ娘は、あの一瞬の交錯の中で、アドマイヤベガの抱える矛盾――「楽をして勝ってしまった罪悪感」まで見抜いているというのか。

 

「……君は、見た目によらず観察眼が鋭いな」

「ボクは舞台の主役だからね。共演者のコンディションを把握するのは義務さ。……それに、気づいたよ。彼女の隣にいる『演出家』が、彼女と同じ種類の闇を抱えていることに」

「演出家?」

 

 オペラオーが、ふっとヤンの方を向き、その紫水晶のような瞳で彼を射抜いた。

 

「君だよ、ヤン・ウェンリー。君の瞳は、時々……そう、まるで墓標のように静まり返る」

 

 ヤンの心臓が、ドクリと跳ねた。

 

 図星だった。

 

 この世界に来てから、ルドルフ以外で、彼の本質にここまで踏み込んできた者はいない。

 

「君も置いていかれた口かい?大切なものに」

「……買いかぶりだよ。私はただの、くたびれた年金志願者だ」

「フフッ、隠しても無駄さ。だが、安心したよ」

 

 オペラオーはニカッと笑い、ヤンの背中をバシッと叩いた。

 

「痛っ……!何をするんだ」

「激励さ!……彼女を任せられるのは、君しかいないと確信したからね。光しか知らない者には、彼女の闇は照らせない。同じ闇を知る君だからこそ、彼女を『あちら側』から引き戻せる」

 

 彼女は踵を返した。そして、夕日の中へと歩き出す。

 

「皐月賞を楽しみにしているよ!次はボクも負けない。彼女が迷いを捨てて、真の一等星として輝くなら……ボクはその光ごと飲み込んで、世界最強を証明してみせよう!」

「……やれやれ」

 

 ヤンは溜息をついたが、その表情には微かな笑みが浮かんでいた。

 

 テイエムオペラオー。

 

 彼女はただのナルシストではない。すべての悲劇も喜劇も飲み込み、自らの糧とする、真に強靭な精神の持ち主。アヤベにとって、彼女は最大の壁となり、そして最大の救いとなるかもしれない。

 

「さて、帰ろうか。除霊の準備もしなきゃならんしな」

 

 空になった缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れ、魔術師は歩き出した。その足取りは、来る時よりも少しだけ軽くなっている気がした。

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