ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第4話 花曇(はなぐも)りの亡霊

 四月。極東の島国において、この月は「始まり」の季節として祝福されている。

 

 

 トレセン学園の敷地内に植えられた桜並木は、一斉にその蕾をほころばせ、薄紅色の雲となって学園全体を覆い尽くしていた。新入生たちの希望に満ちた足音。進級した生徒たちの賑やかな笑い声。

 どこを見渡しても、そこには眩いばかりの「青春」と「未来」があった。

 

 だが、アドマイヤベガにとって、その光景は自身の孤独を際立たせる残酷な背景画でしかなかった。

 

 放課後の教室。ホームルームが終わるや否や、彼女は誰とも言葉を交わすことなく席を立った。クラスメイトたちが「ねえ、今日どこ寄ってく?」「新しいカフェができたんだって」と盛り上がっている声を、意識の外へと追いやる。

 

 彼女たちの時間は、未来へと流れている。だが、私だけは違う。私の時間は、あの日――双子の妹が産声も上げずに消え去った日から、一歩も進んでいない。いや、進むことを許されていない。

 

 廊下を歩く彼女の背中に、ひらりと一枚の花びらが舞い落ちた。

 

 彼女はそれを無造作に払い落とす。

 

(春なんて、来なくていい。あの子が見ることのできなかった季節が、また一つ増えるだけだから)

 

「お姉ちゃん、桜、綺麗だね」

 

 不意に、耳元で声がした。周囲には誰もいない。いつもの幻聴だ。だが、弥生賞での勝利以来、その声は以前よりも遥かに鮮明な輪郭と、湿度を帯びていた。まるで、目に見えない誰かが、物理的に肩に顎を乗せて囁いているかのように。

 

(……そうね)

 

 アヤベは心の中で答えた。拒絶はしない。この声こそが、彼女をこの世界に繋ぎ止めている唯一の鎖なのだから。

 

『みんな楽しそうだね。……お姉ちゃんは、楽しくないの?』

(………楽しくなんて、ないわ)

『そっか。よかった。お姉ちゃんだけ楽しかったら、私、寂しいもん』

 

 無邪気で、そして残酷な声音。アヤベは唇を噛み締め、ジャージに着替えるために更衣室へと足を速めた。

 

 そうだ。私は楽しんではいけない。

 

 もっと自分を追い込まなければ。もっと苦しまなければ。

 

 あの弥生賞のような「楽な勝利」など、二度と繰り返してはならないのだ。

 

 

 午後四時。トレーニングコース。

 

 春の陽気が降り注ぐターフの上で、アドマイヤベガは黙々とラップを刻んでいた。ヤン・ウェンリーから渡されたメニュー表には、今日の指示として『軽めの調整(流す程度)』と書かれている。

 だが、彼女はその指示を明確に無視していた。

 

 タッタッタッタッ……。

 

 規則正しいリズム。だが、その強度は明らかに「調整」の域を超えていた。肺が熱い。太腿の筋肉が悲鳴を上げている。

 

 だが、足りない。もっと。もっと負荷を。

 

 肉体的な苦痛が強まれば強まるほど、精神的な罪悪感が薄れていく気がする。それは、自傷行為にも似た倒錯した安らぎだった。

 

「――アヤベさん!」

 

 その孤独な儀式を妨げる声があった。アヤベが眉をひそめて視線を向けると、コース脇からナリタトップロードが手を振っていた。彼女もまた、皐月賞に向けて最終調整を行っている最中なのだろう。額には玉のような汗が浮かび、ジャージは泥で汚れている。

 

「……何の用?トップロードさん」

「いえ、あの、ちょっと休憩しませんか?私、スポーツドリンクを多めに持ってきたので、よかったら一緒に……」

 

 トップロードは屈託のない笑顔で、ボトルの入ったカゴを差し出した。

 

 そこには、一点の曇りもない善意があった。ライバルであるはずのアヤベを気遣い、共に切磋琢磨しようとする、眩しいほどの健全さ。

 だからこそだろう、アヤベには耐え難かった。その光が、自分の影を濃くするように思えてしまったからだ。

 

「……いらない。自分の分はあるわ」

「そ、そうですか。……あの、アヤベさん。最近、少し顔色が悪い気がして。無理してませんか?」

 

 トップロードは食い下がった。彼女の委員長気質、あるいは、生まれつきのお節介焼きが、孤立するアヤベを放っておけないのだろう。

 

「弥生賞の走り、凄かったです。でも、勝った後も……なんだか悲しそうで。私、鈍いからよくわからないんですけど、何か悩みがあるなら……」

「……あなたには関係ない」

「関係なくないです!私たちは同じ世代を走る仲間(ライバル)ですから!困っているなら、力になりたいって思うのは当然です!」

 

 仲間。力になりたい。美しい言葉だ。教科書通りの正論だ。だが、アヤベの喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてきた。

 

「……仲間?」

 

 アヤベは足を止め、トップロードを冷ややかに見下ろした。

 

「あなたは、自分が生きていることを疑ったことがある?」

「えっ……?」

「朝起きて、息をしていることに罪悪感を覚えて、鏡を見るたびに『死ねばよかったのに』って誰かに言われているような気がしたことは?……ないでしょうね。あなたはそんな顔をしていないもの」

 

 トップロードが息を呑む。その瞳が動揺に揺れる。アヤベは、残酷な優越感と自己嫌悪が混ざり合った感情をぶつけた。

 

「何も知らないくせに、わかったような口を利かないで。あなたのその『善意』が、私には何よりも不快なの。……()()()()()

 

 吐き捨てるように言い残し、アヤベは再び走り出した。背後で、トップロードが呆然と立ち尽くしている気配がする。

 

(傷、つけた)

 

 また、壁を作った。それでいい。誰も私の領域には入れない。私とあの子だけの世界を、誰にも邪魔させない。

 

『ひどいこと言うね、お姉ちゃん』

 

 妹の声が、クスクスと笑う。アヤベは、その声を振り払うように、加速していく。

 

 

 トップロードを振り切り、コースの反対側へ差し掛かった時だった。今度は、別の圧力が彼女を襲った。

 

「ハッハッハ!素晴らしい殺気だ!さすがはボクが見込んだ『闇のプリマドンナ』だね!」

 

 鼓膜を震わせる声が、アドマイヤベガの耳に届く。テイエムオペラオーだ。

 

 彼女は、まるで舞台に登場する主役のように涼しい顔で、優雅なストライドでアヤベの横に並んできた。その速度は、全力疾走に近いアヤベと完全に同調している。

 

「……今度はあなた?今日は厄日ね」

「ノン!吉日だよ。桜舞い散るターフで、これほどの役者が揃っているのだからね。……それにしても、君の走りは相変わらず重い。物理的な体重の話ではないよ?魂の質量の話さ」

 

 オペラオーは、走りながら歌うように言った。

 彼女の言葉は常に演劇的で、真意が掴みにくい。だが、アヤベは直感的に理解していた。この道化は、トップロードよりも遥かに深く、アヤベの内面を見透かしていると。

 

「……私の魂の重さなんて、あなたには関係ない」

「関係大ありさ!ボクの覇道には、君のような『悲劇』が必要不可欠だからね」

 

 オペラオーの瞳が、スッと細められた。

 

「……だが、今の君は美しくない」

 

 その瞬間、道化の仮面が剥がれ、冷徹な王者の眼光が覗く。

 

「君は『悲劇のヒロイン』を演じているつもりかもしれないが、今の君はただの『舞台袖で震える端役』だ。……観客(ボク)が見たいのは、闇を切り裂いて輝く一等星だよ?たとえその光が、自らを焼き尽くすものであってもね」

 

「……私は演じてなんていない。これが私よ」

「嘘だね。君はまだ、本当の自分を舞台に上げてすらいない。……君が背負っている『誰か』に遠慮して、自分の足で立つことを拒否しているだけさ」

 

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃。アヤベは足をもつれさせそうになった。

 

 誰かに遠慮して。

 

 自分の足で立っていない。

 

 それは、彼女が最も恐れていた真実――「妹のために」という大義名分を使って、自分自身の人生から逃げているという事実を、残酷なまでに暴き立てる言葉だった。

 

「……うるさいッ!!」

 

 アヤベは絶叫し、さらに加速した。酸素の供給が追いつかない。視界が白く明滅する。それでも、このウマ娘から逃げなければ。

 

 暴かれる。私の嘘が。私の罪が。

 

「ハッハッハ!逃げるのかい?いいだろう、追いかけっこも悪くない!だが覚えておきたまえ、アドマイヤベガ!ボクという太陽からは、どんな闇も逃げられないということをね!」

 

 背後で響く高笑い。アヤベは耳を塞ぐこともできず、ただ無心に足を動かした。

 

(光が、怖い)

 

 あの圧倒的な肯定感が、私の存在を否定するようで怖い。

 

 

 その一部始終を、スタンドの最上段、屋根の影が落ちる薄暗い片隅から見下ろしている二つの影があった。

 

 ヤン・ウェンリーと、アグネスタキオンである。

 

 周囲に他の生徒やトレーナーの姿はない。ヤンが好んで陣取る、文字通りの「死角」だ。

 

「……ピッチが乱れているねぇ。ストライドも以前より少々狭い」

 

 タキオンが手元のストップウォッチをカチリと押し、双眼鏡を下ろしながら呟いた。彼女の瞳は、科学者が実験動物を見る時のように冷徹に細められている。

 

「過呼吸の兆候(サイン)だ。肩の上下動が激しすぎる。それに、妹の幻聴だかも聞こえるらしい、となれば……典型的な『心身解離』だよ。ハードウェアは最新鋭だが、OSが恐怖でフリーズしかけている」

「ああ。まるで、包囲された塹壕の中で、見えない敵に怯えて乱射している兵士のようだ。全く、どうしたものかな」

 

 ヤンはコンクリートの階段に腰を下ろし、冷めた紅茶を一口啜った。

 

 彼には見えていた。

 

 コースを走るアヤベの背後にへばりつく、巨大な死者の影が。そして、その影に飲み込まれまいと足を動かせば動かすほど、逆に深みにはまっていく少女の姿が。

 

 弥生賞での「楽な勝利」は、彼女にとって劇薬だった。苦しまずに勝ってしまったことで、彼女の中の「贖罪の天秤」が大きく傾いたのだ。

 

 ―――天秤の釣り合いを取るためには、もっと苦しまなければならない。

 

 その強迫観念が、彼女の視野を極端に狭めている。

 

「……止めないのかい?今ならまだ、出走回避という手もある。『原因不明の発熱』という診断書を捏造するのは、私の得意技だよ?」

 

 タキオンが白衣のポケットからペンを取り出し、面白くもなさそうに提案する。だが、ヤンは即答した。

 

「いや、皐月は出走させる」

「ほう?このまま行けば壊れるかもしれないよ?それを、わかって言っているのかい?」

「勿論だ。壊れなければ、治らないものもある」

 

 ヤンは立ち上がり、錆びついた手すりに手を置いた。眼下では、まだアヤベが走っている。その姿は、まるで回し車の中のハムスターのように、どこにも行けない円環の中を彷徨っているように見えた。

 

「今の彼女に必要なのは、説得でも休養でもない。……『敗北』だ」

「敗北?」

「中途半端に勝ててしまうから、彼女は自分のやり方、―――その精神すらすり減らしてしまう自傷的な走り―――が間違っていると認められない。あの手合いは、……一度、徹底的に叩きのめされる必要がある。自分の殻に閉じこもったままでは、あの『覇王』や『委員長』には絶対に勝てないという事実を、骨の髄まで理解させる必要があるんだ」

 

 それは、賭けだった。

 

 敗北がトドメとなって、彼女の心が完全に砕けてしまう可能性もある。トレーナーとして、教え子を見殺しにするような采配は、褒められたものではない。

 

 だが、ヤン・ウェンリーという歴史家は知っていた。

 

 ―――人は、理屈では変われない。痛みを伴う経験……それも、決定的な失敗だけが、凝り固まったパラダイムを破壊しうるのだと。

 

「……辛そうな顔だねぇ、ヤン・ウェンリー。まるで、全滅するとわかっている戦場へ、部下を送り出す指揮官のようだ」

 

 タキオンの指摘に、ヤンは苦笑いを浮かべた。図星だった。

 その証拠に、彼の手は、空になった紙コップを微かに握り潰していた。

 

「……違いない。私は最低の指揮官だ。だが、タキオン。ここで彼女は負けておかなければ、本当の意味で死ぬことになる。……生かすための敗北だ。そう自分に言い聞かせるしかないさ」

 

 ヤンは帽子を目深に被り直し、未だ走り続けるアヤベに背を向けた。

 

 ……かつて、多くの友人を死なせ、自分だけが生き残ってしまった罪悪感。それが今、古傷のように疼いている。だが、だからこそ、彼女を同じ地獄に落とすわけにはいかなかった。

 

「行け、アヤベ君。……そして、絶望してこい」

 

 ヤンの呟きは、スタンドを吹き抜ける春風にかき消され、誰にも届くことはなかった。

 

 

 四月中旬。皐月賞まで、あと数日。

 

 アドマイヤベガは、寮の自室で一人、膝を抱えていた。部屋の電気はつけていない。カーテンの隙間から、月明かりだけが差し込んでいる。

 

 静寂。

 

 だが、彼女の頭の中だけは、数千人の観衆がいるかのように騒がしかった。

 

『勝てるよね?お姉ちゃん』

『あんな派手な女に負けたりしないよね?』

『私のために、一番になってよ。……ねえ、聞いてる?』

 

 妹の声が、脳髄を直接揺さぶる。アヤベは耳を塞ぎ、小さく丸まった。

 

「……勝つわ。勝つ。だから……」

 

 だから、少しだけ静かにして。

 

 そう言いたかったが、言葉にならなかった。妹を否定することは、自分を否定することだ。彼女は、自分の中に巣食う「幽霊」を抱きしめたまま、泥沼のような眠りへと落ちていった。

 

 破滅へのカウントダウンは、もうゼロになろうとしていた。

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