ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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怪物と魔術師1―設計図と足音

 ヤン・ウェンリーとナリタブライアンの奇妙な師弟関係、いや、「アドバイザー契約」とも言える日々が始まった。

 

 ヤンは、トレーナー寮の自室から一歩も出ようとしない日も多かった。彼がブライアンに行う指導とは、共に汗を流すことではなく、分厚いレポートを定期的に彼女のロッカーに置くだけ、というものだった。

 

 そのレポートは、トレーニングメニューと呼ぶにはあまりに異質だった。

 

『右脚の着地時衝撃を現状から1割程度、軽減させるための歩幅とピッチの最適解について』

『コーナーリングにおける遠心力を最小化するための身体の傾斜角度、及び視線の位置に関する一考察』

『レース終盤における心拍数と乳酸値の相関データに基づく、ラスト200mでのスパート開始タイミングの蓋然性』

 

 根性論はおろか、精神論さえ一行もない。そこにあるのは、膨大なデータと歴史的統計、そして物理法則に基づいた、冷徹なまでの分析結果だけ。まるで、戦闘機の設計図のようだった。

 

 ブライアンは最初、そのあまりに回りくどい「指導」に、レポートを何度も握り潰しかけた。

 

「……無駄口が多い」

 

 だが、このナリタブライアンというウマ娘も、ヤンに負けず劣らず、違うベクトルの合理性を持つウマ娘だった。言い換えれば、自分の身体が上げる悲鳴に、誰よりも敏感だった。レポートに書かれたフォームを、半信半疑で試してみる。すると、どうだ。以前より明らかに楽に、それでいて、時計が示すタイムは以前より速い。脚の重さや疲れも、明らかに和らいでいる。

 

「皇帝を皇帝足らしめたトレーナー、か」

 

 彼女は認めざるを得なかった。あの気だるげな男の言葉は、ただ一つの嘘も含まない、事実の集合体なのだと。

 

 周囲は、そんな二人を奇異の目で見ていた。

 

 正式なトレーナーもつけず、ただ黙々と、まるで精密機械のように走り続ける新人。そして、時折コース脇のベンチに現れては、紅茶を飲みながらその走りを眺め、一言二言呟いては去っていく、伝説のトレーナー。

 

『皇帝を育てた手腕は本物だが、やり方が独特すぎる』

『あんな放任で、あの新人は大丈夫なのか?』

 

 そんな囁きは、二人には届かない。ブライアンは他人の評価に興味がなく、ヤンは他人の評価が心底どうでもよかった。そして、そんな日々が続いたある日。

 

「デビューをしたい。トレーナーはお前がやれ」

 

 いつものようにレポートを受け取ったブライアンは、ぶっきらぼうにそう、ヤンに投げかけた。

 

「……名前を貸すくらいならかまわないさ」

 

 ヤンは頭を掻きながら、肩を竦める。ここに、奇妙なトレーナーとウマ娘の関係は成り立った。もちろん、魔術師が二人目の担当を持ったという事で、大騒ぎにもなったのだが、本人達はどこ吹く風であったし、なんならシンボリルドルフも、特に気にはしていなかったようだ。

 

 そして、注目された彼らの、運命のデビュー戦が近づいた前日。ヤンはブライアンに、いつもより薄い、たった数枚のレポートを手渡した。レースシミュレーションだった。

 

「君の実力なら、まず勝てる。99%だ。だが、問題は『どう勝つか』だ」

 

 ヤンは、ぬるい紅茶を飲みながら言った。

 

「君の目標は、このレースで派手に勝つことじゃない。無事に走り終え、万全の状態で次の戦場に向かうことだ。いいかね、歴史上、緒戦の勝利に酔いしれて無謀な突撃をし、無駄に兵力を損耗した将軍はごまんといる。君はそうなるな」

 

 彼は、初めて命令に近い言葉を使った。

 

「8割の力で勝て。それが明日の君の、唯一の勝利条件だ」

「……指図するな」

 

 ブライアンはそう短く返したが、レポートを受け取る手は力強かった。

 

 そうして迎えたデビュー戦当日。例年のそれとは違い、多くの観客が見守る中でのレースとなった。

 

 ゲートが開く。ブライアンは、ヤンの指示通り、序盤は馬群の中団で力を抑えていた。その走りに、観客も解説者も首を傾げる。

 

『前評判の高かったナリタブライアン、伸びない!どうしたことか!』

 

 だが、ヤンの『設計図』をインプットされたブライアンの身体は、冷静にレースを分析していた。周囲のペース、風向き、バ場の状態。全ての変数が、ヤンのシミュレーション通りに進んでいる。

 

 そして、最終直線。

 

『さあ、ナリタブライアン、まだ中団だ!届くのか!』

 

 ―――今だ。

 

 ブライアンは、ヤンがレポートで示していた「最もエネルギー効率の良い進路」へと滑り込む。そして、ここ暫くで叩き込まれた「最も負荷の少ないフォーム」で、身体を解放した。

 

 それは、加速と呼ぶにはあまりに静かで、異次元の走りだった。

 

 まるで一頭だけ、風や重力の影響を受けていないかのように、滑らかに、しかし恐ろしいほどの速度で、前方のウマ娘たちを抜き去っていく。

 

 ゴール板を駆け抜けた時、2着との差は3バ身。圧倒的な差と言ってもいいだろう。しかし、何より観客を戦慄させたのは、レース後も息一つ乱さず、まるで散歩でも終えたかのように涼しい顔で佇む、ナリタブライアンの姿だった。

 

『な、なんだこの強さは!とんでもない新人が現れた!全く底が見えないぞ!』

 

 レース後、ウィナーズサークルを抜け出したブライアンは、コース脇で紅茶の準備をしているヤンの元へ向かった。

 

「……言われた通り、8割で勝った」

 

 その声には、初めて走る以外のことで、何かを成し遂げたような、微かな響きがあった。ヤンはカップに紅茶を注ぎながら、満足げに頷いた。

 

「上出来だ。見事な走りだったよ、ナリタブライアン。だが、まだこれは君という美術品の骨格が定まったに過ぎない」

 

 彼は、湯気の立つ紅茶の向こう側で、静かに告げた。

 

「君という歴史書は、まだ1ページ目が始まったばかりだ」

「判ってる」

 

 怪物の伝説が、静かに、しかし確実な足音を立てて、始まった

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