四月も半ば。中山レース場。
空は高く、雲ひとつない快晴だった。春の日差しがターフの緑を鮮やかに照らし出し、スタンドを埋め尽くす10万人の観衆の熱気が、陽炎のように立ち上っている。
■
クラシック三冠の第一戦、皐月賞。「最も速い者が勝つ」と言われるこのレースは、若き才能たちが己の全存在を懸けて激突する、美しくも残酷な選別の場である。
だが、ウマ娘たちの控室において、アドマイヤベガの周囲だけは、真冬の深夜のように凍てついていた。彼女はベンチに深く腰掛け、両手で耳を塞ぐようにして俯いていた。
物理的な騒音を遮断するためではない。内側から響く声を、押し込めるためだ。
『お姉ちゃん、いよいよだね』
『みんなが見てるよ。お姉ちゃんが、私の命を使って、どれだけ凄いことをしてくれるのか』
妹の声は、弥生賞の時よりも遥かに明瞭で、そして饒舌だった。以前は罪悪感という名のノイズに過ぎなかったものが、今では明確な人格を持ち、アドマイヤベガの思考の隙間に滑り込んでくる。
「……うるさい」
小さく呟く。だが、声は止まない。
『勝ってね。でも、楽をしちゃだめだよ。私の分まで苦しんで、血の味がするまで走って、それで勝つの。……そうじゃないと、私は許されないんだから』
許されないのは私なのか、それともお前なのか。
境界が曖昧になる。アドマイヤベガは自身の太腿を爪で強く引っ掻いた。鋭い痛みが走り、ようやく意識が現実につなぎ止められる。
そうだ。痛みが必要だ。
この一ヶ月、ヤンのメニューは相変わらず緩かった。身体は軽やかで、関節の軋み一つない。それが怖かった。万全であればあるほど、自分が「ただのウマ娘」として生きている実感が強まり、妹を殺して生き延びたという事実が薄れていく気がした。
ガチャリ、とドアが開く。入ってきたのは、黒いベレー帽の男だった。
「……時間だ。出撃準備はいいかね?」
ヤン・ウェンリーの声は、いつも通り平坦だった。彼はアヤベの蒼白な顔を見ても、動揺も心配もしない。ただ、戦場の天気図を確認するような目で、彼女の状態(ステータス)を観察していた。
「……ええ。行けるわ」
「そうか。……一つだけ言っておく」
ヤンは、アヤベの目を見据えた。
「今日のコース状態は良。時計は速くなる。迷いは致命傷になるぞ」
「迷ってなんていない。……私は、あの子のために走るだけ」
「……そうか。なら、行ってくるといい」
ヤンはそれ以上何も言わず、出口を指し示した。その背中を見送る彼の瞳が、哀れみにも似た色を帯びていたことに、アヤベは気づかなかった。
■
パドックから本バ場入場。大歓声が、物理的な圧力となって押し寄せる。
ゲートに向かう各ウマ娘の隊列。その先頭付近で、黄金のオーラを纏うテイエムオペラオーが、観客に向かって優雅に手を振っているのが見えた。彼女は笑っていた。この極限の緊張感すらも、自らを輝かせる演出として楽しんでいる。
その後ろでは、ナリタトップロードが自身の頬を叩き、気合を入れている。その表情には悲壮感もあるが、それ以上に「走れる喜び」が滲み出ていた。
光の中にいる彼女たち。アヤベは眩しさに目を細めた。
違う。ここは私の居場所じゃない。私がいるべきなのは、もっと暗くて、冷たくて、誰もいない場所だ。
『そうだよね、お姉ちゃん』
ゲートに入る直前、また妹の声がした。
『あいつらとは違う。お姉ちゃんは、私と一緒に地獄に行くんだもんね』
ゲートが閉まる。狭い枠内。そこだけが、唯一の安息の地のように思えた。
「各ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました!」
けたたましい音と共に、ゲートが開いた。一斉に飛び出すウマ娘たち。
アドマイヤベガのスタートは悪くなかった。ヤンとタキオンが仕上げた肉体は、彼女の意思とは無関係に、最適な反応速度で地面を捉えた。
(……軽い)
まただ。地面を蹴る足がゴムのようにしなやかに動く。反発力が強い。走れば走るほど、スピードに乗る。風が心地よい。日差しが暖かい。生きていることの喜びが、全身を駆け巡ろうとする。
(――だめッ!)
アヤベは心の中で叫んだ。楽しむな。喜ぶな。これは罰だ。これは苦行だ。彼女は無意識のうちに、呼吸のリズムを崩した。本来なら自然に行える呼吸を、わざと荒くする。自分を苦しめるために。
レースは流れる。先頭集団を見る位置に、テイエムオペラオーがいる。そのすぐ後ろに、ナリタトップロードがいる。二人は競り合うように、しかし互いを高め合うように加速していく。アヤベは中団に控えていた。
そしてやってきた第3コーナー。勝負所だ。
ヤンの作戦通りなら、ここで外に持ち出し、ロングスパートをかけるはずだった。肉体は準備ができている。燃料は満タンだ。
だが。
『行っちゃうの?』
不意に、視界の端に影が映った。コースの内側の柵。そこに、小さな女の子が立っていた気がした。自分と同じ顔をした、もう一人の私。
『私を置いて、光の方へ行っちゃうの?』
心臓が凍りついた。幻覚だ。わかっている。だが、その幻覚はあまりにもリアルで、あまりにも悲しげな目をしていた。
(……行けない)
アヤベの足が一瞬、硬直した。レースにおいて、勝負所での一瞬の遅れは致命的だ。その隙を見逃すほど、ライバルたちは甘くない。
「ハッハッハ!遅いよ、闇のプリマドンナ!」
前を行くオペラオーが、加速した。その背中が、遠ざかる。トップロードも続く。泥臭く、しかし力強く地面を蹴り、前へ、前へと進んでいく。
「待って……!」
アヤベは手を伸ばすように足を動かした。だが、進まない。物理的には走っている。だが、感覚としては、足首まで泥沼に浸かっているかのように重い。
妹の影が、足にしがみついている気がした。
『行かないで。ここにいて。私と一緒に苦しんで』
『勝ったら許さない。楽になったら許さない』
「お姉ちゃん……!前を向いて!」
『苦しんで勝って。楽になったら許さない』
『なんで行っちゃうの。置いて行かないで』
頭の中で吹き荒れる呪詛という名の嵐。愛おしく、憎らしい呪詛。アヤベは混乱した。勝たなきゃいけないのに。償わなきゃいけないのに。勝つことが「裏切り」に思えて、アクセルが踏めない。
第4コーナーを回り、最後の直線。本来なら、ここが彼女の独壇場のはずだった。だが、今日のアヤベに、あの爆発的な末脚はなかった。ただ惰性で流れるように、もがくように、直線を漂うだけ。
「う……うぅ……ッ!」
喉から漏れるのは、気合ではなく嗚咽だった。前方では、オペラオーとトップロードが壮絶な叩き合いを演じている。
光と光の衝突。
観客が総立ちになり、その美しい戦いに熱狂している。そこには、アドマイヤベガの居場所はなかった。
どんどん抜かれていく。伏兵と呼ばれたウマ娘たちが、横を通り過ぎていく。誰も私を見ていない。私は、舞台にすら上がれていなかった。
ゴール板が遠い。永遠に辿り着けない気がした。このまま消えてしまいたい。泥の中に沈んで、二度と浮かび上がりたくない。
やがて、歓声が爆発した。
誰かが勝ったのだ。私ではない誰かが。アドマイヤベガがゴールしたのは、そのずっと後だった。
順位は10着。
掲示板にすら載らない、完敗だった。
■
レース後の検量室前。そこは、勝者の歓喜と敗者の悲嘆が入り混じる混沌とした空間だった。
テイエムオペラオーが、カメラのフラッシュを浴びながらポーズを決めている。ナリタトップロードが、悔し涙を流しながらも、トレーナーと抱き合っている。
アドマイヤベガは、その喧騒から離れた通路の隅で、コンクリートの壁に背を預けて座り込んでいた。タオルを頭から被り、膝を抱える。
身体の震えが止まらない。寒い。春なのに、真冬のように寒い。
「……負けた」
乾いた唇から、言葉が零れ落ちた。負けたことの悔しさではない。何もできなかったことへの絶望。妹のために走ると言いながら、土壇場で妹の影に怯え、勝負から逃げ出した自分への軽蔑。
(私は……何のために生まれてきたの?)
あの子を殺してまで生き残ったのに。こんな無様な姿を晒して。これなら、私が死ねばよかった。あの子が生きていれば、もっと……。
カツ、カツ、カツ。その時だ。アドマイヤベガの元に、硬質な足音が近づいてくる。聞き覚えのある足音が彼女の隣で止まった時。タオル越しに、黒い影が落ちた。
「……お疲れ様。まずは水分を摂りたまえ」
ヤン・ウェンリーの声だ。アヤベは顔を上げなかった。合わせる顔がなかった。罵倒されると思った。「期待外れだ」と言われると思った。だが、彼から降ってきたのは、淡々とした戦況報告だった。
「肉体的なダメージは軽微だ。心拍数も正常値に戻りつつある。……タキオンのデータによれば、君は全能力の6割も出していないそうだ」
「……」
「いわゆる『不完全燃焼』だね。観客は失望し、君を応援していた人間は落胆している事だろう。……だが、私は満足しているよ」
その言葉に、アヤベは弾かれたように顔を上げた。ヤンの顔は、無表情だった。
(満足?この無様な敗北に?)
「……ふざけないで!」
アヤベは立ち上がり、ヤンの胸ぐらを掴んだ。だがその力が弱い。手が、震えている。
「何が満足よ……!私は負けたの!何もできずに、ただ怯えて……!あの子に合わせる顔がない!生きている資格なんてない!」
「資格か。……またその話か」
ヤンは抵抗せず、されるがままになっていた。
「君は勘違いしている。今日の敗北は、君の能力不足でも、妹君の呪いでもない。……君が『どちらを見るか』を決められなかった、ただの優柔不断の結果だ」
「優柔不断……?」
「前を見て走るか、後ろを見て立ち止まるかだ。君は後ろを見ながら、前へ進もうとした。……そんな走り方で、あの覇王に勝てるわけがないだろう?」
ヤンは、アヤベの手をゆっくりと外した。そして、厳しい表情のまま、言葉を続ける。
「妹君のために走る?笑わせるな。君は、妹君を『言い訳』に使っただけだ。勝負の恐怖から逃げるための、便利な盾にな」
「ッ……!」
アヤベの手が振り上げられた。
パチンッ!乾いた音が響く。
ヤンの頬が赤く腫れ上がった。アヤベは自分のしたことに驚き、目を見開いた。
「……最低」
「ああ、私は最低のトレーナーだ。そして君は、最低の敗者だ」
ヤンは頬を撫でることもせず、冷たく言い放った。
「悔しいか?なら、その感情を覚えておけ。……自分を責めるためじゃない。次、勝つためにだ」
ヤンは背を向けた。
「一週間、休暇をやる。……頭を冷やせ。そして考えろ。君が本当に連れて行きたいのは『死んだ妹』なのか、それとも『共に走る相棒』なのかをな」
ヤンが去っていく。残されたアドマイヤベガは、その場に崩れ落ちた。涙は枯れていた。
ただ、ジンジンと痺れる掌の痛みだけが、彼女がまだ生きていることを教えていた。
泥濘の中の敗北。それは、彼女が「再生」するために通過しなければならない、最も暗く、深い谷底だった。