皐月賞の悪夢から三日が過ぎた。
トレセン学園の栗東寮は、いつも通りの賑やかな夜を迎えていたが、その一角、アドマイヤベガの部屋の前だけは、深海のような沈黙に包まれていた。
「……アヤベさん。お願いします、出てきてください」
ドアの前で、ナリタトップロードが悲痛な声を上げていた。彼女の手には、冷めきったお粥の入ったトレイがある。これで何度目だろうか。朝、昼、晩と食事を運び、声をかけ続けているが、ドアが開く気配は一切ない。
部屋の中から物音一つ聞こえないことが、逆にトップロードの不安を掻き立てていた。
「このままじゃ、身体を壊しちゃいます……!走れなくなっちゃいますよ……!」
涙声になるトップロード。彼女の善良さは、他人の痛みを自分のことのように感じてしまう。アヤベの拒絶さえも、彼女にとっては「助けを求める悲鳴」に聞こえていたのだ。
「無駄だよ、トップロードさん」
その背後で、壁に寄りかかっていたテイエムオペラオーが、静かに言った。いつもの道化じみた大仰さはない。黄金の覇王は、ただ冷静に、閉ざされたドアを見つめていた。
「彼女は今、自ら望んで棺桶に入っている。光を浴びれば灰になると信じ込んでいる吸血鬼のように。同室のカレンチャンを追い出してまでね。……ボクたちの『輝き』は、今の彼女にとっては劇薬だ。近づけば近づくほど、彼女は奥へと逃げていく」
「でも……!だからって、放っておけません!」
「ああ。放っておけば、彼女は本当に消えてしまうかもしれない。……魂の質量が、限界まで希釈されている」
オペラオーの瞳に、憂いの色が混じる。彼女もまた、アヤベに声をかけた一人だった。「舞台に戻れ」と。「君のいないオペラなど退屈だ」と。だが、その呼びかけすらも、アヤベの閉ざされた心には届かなかった。
そこへ、コツコツと規律正しい足音が近づいてきた。栗東寮の寮長、フジキセキである。彼女は心配そうな顔をするトップロードの肩に手を置き、静かに首を横に振った。
「……そこまでにしよう、トップロードちゃん。君の気持ちは十分伝わっているはずだよ。これ以上は、逆効果になる」
「フジ先輩……。でも、アヤベさんが……」
「わかってる。だからこそ、最後の手段を使うことにしたよ」
フジキセキは、手に持っていた携帯電話を掲げた。
「ここは男子禁制の花園。……だけど、毒を制するには毒が必要な場合もある。彼女の心の鍵穴に合う鍵を持っているのは、私たちじゃない」
フジキセキの視線が、携帯電話の画面に表示された名前に落ちる。
『ヤン・ウェンリー』。
学園で最もやる気のない、しかし最も不可解な実績を持つ男の名前。
「……彼に賭けてみよう。それが、寮長としての私の判断だよ」
■
ヤン・ウェンリーが栗東寮の玄関に現れたのは、それから三十分後のことだった。
夜分だというのに、彼はいつもの黒いベレー帽と、くたびれたジャケット姿だった。急いで駆けつけた様子はなく、まるでコンビニに夜食を買いに来たような気楽さで立っていた。
「やあ。呼び出しとは光栄だね、フジキセキ寮長。……まさか、私の年金と昼寝の時間がここで支給されるとか?」
「冗談を言っている場合じゃないよ、ヤンさん」
玄関ホールで待ち構えていたフジキセキが、呆れたように腰に手を当てた。その背後には、心配そうな顔のトップロードと、腕組みをしたオペラオーがいる。
「わかっているよ。それで、状況は?」
「最悪だね。皐月賞以来、部屋から一歩も出てこない。食事も手付かず。……無理やり部屋に入ろうと思えば合鍵はあるけれど、それをすれば彼女は二度と心を開かなくなる気がしてね」
「賢明な判断だ。籠城している兵士に対して強行突入を行えば、大抵は自爆されるのがオチだからな」
ヤンは淡々と言った。トップロードが詰め寄る。
「トレーナーさん!アヤベさんを……アヤベさんを助けてください!お願いします!」
「助ける、か。……私は医者でもカウンセラーでもないんだがね」
ヤンは帽子を少しだけ浮かせ、頭を掻いた。
「それに、ここは『部外者立ち入り禁止』だろう?私のような不審者が立ち入れば、君たちの純潔な経歴に傷がつくんじゃないかね?」
「緊急事態だからね。もちろん、私が許可するよ。……ただし」
フジキセキは、鋭い視線でヤンを射抜いた。
「部屋には入らないで。ドア越しに話すだけ。……もし妙な真似をしたら、この私が手品のようにあなたの関節を外すから、そのつもりで」
「恐ろしいな。君のマジックの実験台にはなりたくないよ」
ヤンは肩をすくめ、そしてふっと表情を引き締めた。その瞳から、昼行灯の色が消える。
「……案内してくれ。少し、昔話をしてくる」
■
アドマイヤベガの部屋の前。
廊下の明かりは落とされ、静寂が支配していた。フジキセキたちは、配慮してエントランスに戻っていった。ここには今、ヤン・ウェンリーただ一人だ。
彼は、ドアの前に無造作にあぐらをかいて座り込んだ。冷たいフローリングの感触。ドアの向こうから漂ってくるのは、澱んだ空気と、そして死の匂い。
「……夜分にすまないね、アヤベ君。ルームサービスだ」
ヤンは、持参した保温ポットと紙コップを床に置き、独り言のように語りかけた。返事はない。想定内だ。彼は構わず、コップに紅茶を注ぐ音をさせた。トクトクという水音が、静かな廊下に響く。
「三日間の完全休養。……私の指示したメニューにはなかったはずだが、まあいい。君がそれほど休息を欲していたとはね」
「……帰って」
微かな、掠れた声が聞こえた。ドアのすぐ向こう。おそらく、彼女もまた、ドアに背を預けて座り込んでいるのだろう。
「顔も見たくない。……最低の敗北者の顔なんて」
「自分を卑下するのは勝手だが、私の指導力を否定するのはやめてもらいたいな。……君は負けるべくして負けた。それだけのことだ」
「そうよ……!だから放っておいて!私はもう走れない。走る資格なんてない……!」
悲痛な叫び。
それは、ただの駄々っ子の癇癪ではない。生きていることそのものを罪と断じ、自らを断罪しようとする、魂の叫びだった。
■
ヤンは紅茶を一口飲んだ。温かい。だが、その温かさが、時として残酷なほどに「生」を実感させることを、彼は知っていた。
「……資格か。君は本当にその言葉が好きだな」
ヤンは天井を見上げた。廊下の非常灯が、薄緑色に光っている。
「アドマイヤベガ。……私がなぜ、紅茶ばかり飲んでいるか知っているかね?」
「……知らないわよ。ただの怠け者だからでしょう」
「半分正解だ。だが、もう半分は違う」
ヤンは、コップの中の琥珀色の液体を見つめた。
「……美味いからだよ。紅茶は美味い。ブランデーを入れればもっと美味い」
「は?」
「昼寝は気持ちいいし、歴史書を読むのは楽しい。……生きているというのは、それだけで快楽だ。五感がある限り、私たちは何かを感じ、何かを享受してしまう」
ドアの向こうの気配が、固唾を呑むのがわかった。
「だがね。……その『美味い』と感じる瞬間が、どうしようもなく怖い時がある」
ヤンの声のトーンが落ちた。それは、教え子に語る教師の声ではない。戦友に語る、一人の兵士の声だった。
「私の故郷では……いや、私のいた場所では、多くの人間が死んだ。私よりも優秀で、私よりも勇敢で、私よりも未来があったはずの連中が、あっけなく死んでいった」
「……」
「私の友人は、結婚を約束した恋人を残して死んだ。そして、その恋人は後を追うように死を迎えた。私の尊敬する先輩は、民主主義と己の信念のために死を選んだ」
ヤンは目を閉じた。
「……彼らは、もう二度と紅茶の味を知ることはない。二度と、春の陽気を感じることもない」
瞼の裏に浮かぶのは、ラップ、ジェシカ、そしてアレクサンドル・ビュコック。他にも、多数の親しかった仲間の顔が思い浮かぶ。敵も味方も、歴史の奔流に飲み込まれていった星々だ。
―――そして、何故か生き残ってしまった自分。
「なのに、私は生きている。彼らの屍の上で、のうのうと紅茶を啜り、『ああ、美味いな』などと思っている。……これは、彼らに対する裏切りじゃないのか?私だけが幸福を享受していいのか?そんな問いが、夜毎、私の首を絞める」
「……っ」
ドアの向こうから、再び息を呑む音が聞こえた。
それは、共鳴だったのかもしれない。アドマイヤベガが抱えている闇と、ヤンが抱えている闇が、扉を隔てて重なり合う。
「……やっぱり、同じ、なの?」
アドマイヤベガは、自らが見てしまった、あの夜のヤンの姿を思い出していた。
「あなたも……聞こえるの?死んだ人の声が」
震える声が、ヤンの鼓膜を揺らした。
「ああ、聞こえるとも。うるさくて眠れない夜もあるさ」
ヤンは自嘲気味に笑った。
「『なぜお前なんだ』『代われ』……そんな声が聞こえる気がする。……だがね、アドマイヤベガ。それは多分、私たちが勝手に作り出した妄想だ」
ヤンはコップを床に置いた。
「死者は何も語らない。彼らは永遠の沈黙の中にいる。……私たちが聞いているのは、彼らの声じゃない。生き残ってしまった私たち自身の、罪悪感という名の独り言だ」
「……でも、苦しいの。あの子を置いて、私だけが生きてることが……申し訳なくて、消えてしまいたくなる」
「わかるよ。……だが、
ヤンは、ドアに手を触れた。冷たい木材の感触と、その向こうにある、温かい命の鼓動を感じながら。
「難しいのは、厚かましく生きることだ。……死んだ友に対して『すまないが、私はまだまだ美味い紅茶を飲むぞ』と宣言し、図太く生き続けることだ。それが、生き残った者の……唯一の、そして最大の復讐だと、私は思う」
「復讐……?」
アドマイヤベガの声が震えた。ヤンは扉の前で胡坐をかいたまま、帽子を目深に被り直す。
「復讐。そう、復讐だ。
誰に対するものでもない。強いて言うなら、人々の未来を無造作に奪い去る、神とか運命とか呼ばれる『理不尽』そのものに対する反逆と言い換えても良いかもね。
死者が二度と味わえない幸福を、残された者が遠慮して放棄する……。そんなことをすれば、それこそ死の絶対的な暴力に屈服したことになる。
―――だから、我々は抵抗するんだ。
いいかい、アドマイヤベガ。美味いものを食って、温かい紅茶を啜り、柔らかなベッドで眠って、厚かましく幸せになる。それだけが、ただそれだけが、無力な生者が、沈黙する死に対して突きつけられる、唯一の『勝利』なんだよ」
ヤンは言葉に力を込めた。
「……私は君に、レースに勝てとは言わない。速く走れとも言わない」
「……」
「ただ、出来れば、君には共犯者になってくれることを望むよ」
「……共犯者?」
「ああ。死者の沈黙を背負いながら、それでも厚かましくご飯を食べ、走り、生き続ける共犯者だ。……一人では重すぎる荷物でも、二人なら、まあ、何とか持てるかもしれない」
そうして、沈黙が流れた。静寂が、ヤンとアドマイヤベガを包み込む。
長い、長い沈黙だった。やがて。カチャリ、と鍵が開く音がした。
ゆっくりとドアが開く。
そこには、三日間何も食べず、髪もボサボサで、目の下に深い隈を作った、幽霊のような姿のアドマイヤベガが立っていた。
だが、その瞳だけは、生きた光を宿してヤンを見ていた。
「……あなたは、ずるい」
彼女は、乾いた唇を震わせて言った。
「そんな話をされたら……私だけが被害者面して、引きこもっていられないじゃない」
「そいつは良かった。被害者面より、共犯者の顔の方が君には似合っている」
ヤンは、まだ温かい紅茶の入ったコップを、彼女に差し出した。
「飲みたまえ。……三日ぶりの水分補給だ。きっと、死ぬほど美味いぞ」
「……苦いのは、嫌いよ」
「砂糖とミルクがたっぷり入っている。今の君には猛毒かもしれないな」
アドマイヤベガは、震える手でコップを受け取った。一口、口に含む。
(……ああ、甘い)
脳が痺れるほど甘く、そして温かい。それが食道を通って胃に落ちた瞬間、彼女の目から涙が溢れ出した。
「……っ、う……ぁ……」
(生きている。私は、生きている)
あの子が死んだ世界で、こんなにも甘いものを味わっている。その罪深さと、どうしようもない幸福感が、彼女の心を揺さぶった。
「……美味しい……ッ」
「そうか」
「悔しいけど……美味しいわよ、ヤン……!」
「なら、君はまだ大丈夫だ」
ヤンは、泣きじゃくる彼女の頭に、ぽん、と帽子を乗せた。
撫でるわけでもなく、抱きしめるわけでもない。ただ、そこに在ることを肯定するように。
「さあ、泥沼から這い上がる時間だ。……次は日本ダービー。我々の『復讐戦』の始まりだ」
廊下の陰で、その様子を見ていたフジキセキ、トップロード、そしてオペラオーの3人の顔に、安堵の表情が浮かぶ。
彼女たちは、二人が交わした「闇の契約」の意味を完全には理解できなかったかもしれない。だが、少女が再び前を向いたこと、そして、その隣に立つ男が、彼女にとって唯一無二の支えであることだけは、確かに理解していた。
―――同盟軍のいない夜。けれど、二人の生存者は、確かにそこにいた。
■
時計の針が深夜0時を回ろうとしていた頃。
主のいない栗東寮の寮長室では、一人の少女が退屈そうに天井を見上げていた。
カレンチャンである。彼女はフジキセキのベッドの上で、ウマホを放り投げ、ゴロリと寝返りを打った。
「……フジさん、遅いなぁ」
彼女がこの部屋に「避難」して、今日で三日目になる。
理由は単純。同室のアドマイヤベガが、部屋を閉ざしてしまったからだ。
そして今夜、ついに「最終兵器」として、あのやる気のないトレーナー、ヤン・ウェンリーが投入された。フジキセキたちは、その結末を見届けるために廊下へ出ている。
「……カレンは見に行かない方がいいもんね」
カレンチャンは天井に向かって独りごちた。
彼女は知っていた。自分の武器である「カワイイ」や「キラキラ」は、世界を明るくする魔法だが、同時に、深く深く闇に沈んでいる者にとっては、その闇の深さを際立たせる残酷な毒にもなることを。
あの日、アヤベが部屋に引きこもる直前。カレンチャンは、アヤベの瞳を見て悟ったのだ。『あなたの光が痛い』と、そう訴えていることに。
だから、彼女は自ら部屋を出た。
「カレン、フジさんの部屋に遊びに行ってくるね!」
と、能天気を装って。
自分がいない方が、アヤベは安心して「暗闇」にいられる。それは、カワイイの権化である彼女なりの、冷徹で優しい計算(戦略的撤退)だった。
「……でも、あのおじさまで大丈夫かなぁ」
カレンチャンは頬を膨らませた。あのトレーナーは、カレンの「カワイイ」が通用しない、数少ない大人だ。掴みどころがなく、いつも眠そうで、影が薄い。
そんな人に、あの頑固なアヤベさんの心の扉が開けられるとは――。
ガチャリ。
寮長室のドアが開いた。
フジキセキが戻ってきたのだ。その表情は、出て行った時の張り詰めたものではなく、安堵に緩んでいた。
「……ただいまカレン。退屈させちゃったかな」
「フジさん!……どうだった?」
カレンチャンが身を乗り出す。
フジキセキはふう、と息を吐き、デスクの椅子に腰を下ろした。
「……ミッション・コンプリートだ。見事な手際だったよ」
「えっ、本当に?ドア、開いたの?」
「ああ。……説得というよりは、共犯の勧誘に近かったけれどね」
フジキセキは苦笑いしながら、廊下でのやり取り――ヤンが語った「死者への復讐」と「厚かましい幸福」の話を、かいつまんでカレンチャンに聞かせた。
カレンチャンは、目を丸くしてそれを聞いた。そして、納得したようにポンと手を打った。
「……なるほどねぇ」
彼女の瞳から、アイドルの光が消え、鋭い観察者の色が浮かぶ。
「カレンたちみたいな『太陽』じゃなくて、一緒に暗闇に座ってくれる『共犯者』が欲しかったんだ。……アヤベさんには、眩しいスポットライトじゃなくて、小さなランタンの火が必要だったってことかぁ」
「そういうことだね。……悔しいけれど、私たちじゃ力不足だったみたい」
「んー、カレンは悔しくないよ!アヤベさんがご飯食べてくれるなら、それでオッケーだし♪」
カレンチャンはベッドから飛び降り、軽く伸びをした。
「さてと!カレンの難民生活もこれにて終了!……お部屋に戻ろっかな」
「大丈夫かい?まだヤンさんがいるかもしれないよ」
「平気平気。……それに、一言お礼も言っておきたいしね」
カレンチャンは鏡の前で前髪を整え、完璧な「カレンチャン」の笑顔を作ると、寮長室を後にした。
■
廊下に出ると、ちょうどアヤベの部屋からヤン・ウェンリーが出てくるところだった。彼は帽子を目深に被り、どこか疲れたような背中をしていた。
すれ違いざま。カレンチャンは立ち止まり、彼に聞こえるだけの小声で囁いた。
「……やるじゃん、おじさま」
ヤンが驚いて足を止める。カレンチャンは、いつもの「カワイイ」ポーズではなく、人差し指を口に当てる大人びた仕草を見せた。
「アヤベさんのこと、よろしくね?……もし泣かせたら、カレンのファン100万人をけしかけちゃうから」
ドスの利いた、しかし愛のある脅し文句。
ヤンは一瞬きょとんとして、それから困ったように肩をすくめ、ひらひらと手を振って去っていった。
「……ふふっ。面白い人」
カレンチャンはクスクスと笑い、自分の部屋のドアノブに手をかけた。中からは、微かに鼻をすする音と、どら焼きの袋を開ける音が聞こえてくる。
「ただいま~!アヤベさーん!カレン寂しくて帰ってきちゃった~!」
彼女は勢いよくドアを開けた。そこには、少し驚いた顔で、でも確かに「生きている」顔をしたルームメイトがいた。