ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第6話 同盟軍のいない夜

 皐月賞の悪夢から三日が過ぎた。

 

 トレセン学園の栗東寮は、いつも通りの賑やかな夜を迎えていたが、その一角、アドマイヤベガの部屋の前だけは、深海のような沈黙に包まれていた。

 

「……アヤベさん。お願いします、出てきてください」

 

 ドアの前で、ナリタトップロードが悲痛な声を上げていた。彼女の手には、冷めきったお粥の入ったトレイがある。これで何度目だろうか。朝、昼、晩と食事を運び、声をかけ続けているが、ドアが開く気配は一切ない。

 

 部屋の中から物音一つ聞こえないことが、逆にトップロードの不安を掻き立てていた。

 

「このままじゃ、身体を壊しちゃいます……!走れなくなっちゃいますよ……!」

 

 涙声になるトップロード。彼女の善良さは、他人の痛みを自分のことのように感じてしまう。アヤベの拒絶さえも、彼女にとっては「助けを求める悲鳴」に聞こえていたのだ。

 

「無駄だよ、トップロードさん」

 

 その背後で、壁に寄りかかっていたテイエムオペラオーが、静かに言った。いつもの道化じみた大仰さはない。黄金の覇王は、ただ冷静に、閉ざされたドアを見つめていた。

 

「彼女は今、自ら望んで棺桶に入っている。光を浴びれば灰になると信じ込んでいる吸血鬼のように。同室のカレンチャンを追い出してまでね。……ボクたちの『輝き』は、今の彼女にとっては劇薬だ。近づけば近づくほど、彼女は奥へと逃げていく」

「でも……!だからって、放っておけません!」

「ああ。放っておけば、彼女は本当に消えてしまうかもしれない。……魂の質量が、限界まで希釈されている」

 

 オペラオーの瞳に、憂いの色が混じる。彼女もまた、アヤベに声をかけた一人だった。「舞台に戻れ」と。「君のいないオペラなど退屈だ」と。だが、その呼びかけすらも、アヤベの閉ざされた心には届かなかった。

 

 そこへ、コツコツと規律正しい足音が近づいてきた。栗東寮の寮長、フジキセキである。彼女は心配そうな顔をするトップロードの肩に手を置き、静かに首を横に振った。

 

「……そこまでにしよう、トップロードちゃん。君の気持ちは十分伝わっているはずだよ。これ以上は、逆効果になる」

「フジ先輩……。でも、アヤベさんが……」

「わかってる。だからこそ、最後の手段を使うことにしたよ」

 

 フジキセキは、手に持っていた携帯電話を掲げた。

 

「ここは男子禁制の花園。……だけど、毒を制するには毒が必要な場合もある。彼女の心の鍵穴に合う鍵を持っているのは、私たちじゃない」

 

 フジキセキの視線が、携帯電話の画面に表示された名前に落ちる。

 

 『ヤン・ウェンリー』。

 

 学園で最もやる気のない、しかし最も不可解な実績を持つ男の名前。

 

「……彼に賭けてみよう。それが、寮長としての私の判断だよ」

 

 

 ヤン・ウェンリーが栗東寮の玄関に現れたのは、それから三十分後のことだった。

 夜分だというのに、彼はいつもの黒いベレー帽と、くたびれたジャケット姿だった。急いで駆けつけた様子はなく、まるでコンビニに夜食を買いに来たような気楽さで立っていた。

 

「やあ。呼び出しとは光栄だね、フジキセキ寮長。……まさか、私の年金と昼寝の時間がここで支給されるとか?」

「冗談を言っている場合じゃないよ、ヤンさん」

 

 玄関ホールで待ち構えていたフジキセキが、呆れたように腰に手を当てた。その背後には、心配そうな顔のトップロードと、腕組みをしたオペラオーがいる。

 

「わかっているよ。それで、状況は?」

「最悪だね。皐月賞以来、部屋から一歩も出てこない。食事も手付かず。……無理やり部屋に入ろうと思えば合鍵はあるけれど、それをすれば彼女は二度と心を開かなくなる気がしてね」

「賢明な判断だ。籠城している兵士に対して強行突入を行えば、大抵は自爆されるのがオチだからな」

 

 ヤンは淡々と言った。トップロードが詰め寄る。

 

「トレーナーさん!アヤベさんを……アヤベさんを助けてください!お願いします!」

「助ける、か。……私は医者でもカウンセラーでもないんだがね」

 

 ヤンは帽子を少しだけ浮かせ、頭を掻いた。

 

「それに、ここは『部外者立ち入り禁止』だろう?私のような不審者が立ち入れば、君たちの純潔な経歴に傷がつくんじゃないかね?」

「緊急事態だからね。もちろん、私が許可するよ。……ただし」

 

 フジキセキは、鋭い視線でヤンを射抜いた。

 

「部屋には入らないで。ドア越しに話すだけ。……もし妙な真似をしたら、この私が手品のようにあなたの関節を外すから、そのつもりで」

「恐ろしいな。君のマジックの実験台にはなりたくないよ」

 

 ヤンは肩をすくめ、そしてふっと表情を引き締めた。その瞳から、昼行灯の色が消える。

 

「……案内してくれ。少し、昔話をしてくる」

 

 

 アドマイヤベガの部屋の前。

 

 廊下の明かりは落とされ、静寂が支配していた。フジキセキたちは、配慮してエントランスに戻っていった。ここには今、ヤン・ウェンリーただ一人だ。

 

 彼は、ドアの前に無造作にあぐらをかいて座り込んだ。冷たいフローリングの感触。ドアの向こうから漂ってくるのは、澱んだ空気と、そして死の匂い。

 

「……夜分にすまないね、アヤベ君。ルームサービスだ」

 

 ヤンは、持参した保温ポットと紙コップを床に置き、独り言のように語りかけた。返事はない。想定内だ。彼は構わず、コップに紅茶を注ぐ音をさせた。トクトクという水音が、静かな廊下に響く。

 

「三日間の完全休養。……私の指示したメニューにはなかったはずだが、まあいい。君がそれほど休息を欲していたとはね」

「……帰って」

 

 微かな、掠れた声が聞こえた。ドアのすぐ向こう。おそらく、彼女もまた、ドアに背を預けて座り込んでいるのだろう。

 

「顔も見たくない。……最低の敗北者の顔なんて」

「自分を卑下するのは勝手だが、私の指導力を否定するのはやめてもらいたいな。……君は負けるべくして負けた。それだけのことだ」

「そうよ……!だから放っておいて!私はもう走れない。走る資格なんてない……!」

 

 悲痛な叫び。

 

 それは、ただの駄々っ子の癇癪ではない。生きていることそのものを罪と断じ、自らを断罪しようとする、魂の叫びだった。

 

 

 ヤンは紅茶を一口飲んだ。温かい。だが、その温かさが、時として残酷なほどに「生」を実感させることを、彼は知っていた。

 

「……資格か。君は本当にその言葉が好きだな」

 

 ヤンは天井を見上げた。廊下の非常灯が、薄緑色に光っている。

 

「アドマイヤベガ。……私がなぜ、紅茶ばかり飲んでいるか知っているかね?」

「……知らないわよ。ただの怠け者だからでしょう」

「半分正解だ。だが、もう半分は違う」

 

 ヤンは、コップの中の琥珀色の液体を見つめた。

 

「……美味いからだよ。紅茶は美味い。ブランデーを入れればもっと美味い」

「は?」

「昼寝は気持ちいいし、歴史書を読むのは楽しい。……生きているというのは、それだけで快楽だ。五感がある限り、私たちは何かを感じ、何かを享受してしまう」

 

 ドアの向こうの気配が、固唾を呑むのがわかった。

 

「だがね。……その『美味い』と感じる瞬間が、どうしようもなく怖い時がある」

 

 ヤンの声のトーンが落ちた。それは、教え子に語る教師の声ではない。戦友に語る、一人の兵士の声だった。

 

「私の故郷では……いや、私のいた場所では、多くの人間が死んだ。私よりも優秀で、私よりも勇敢で、私よりも未来があったはずの連中が、あっけなく死んでいった」

「……」

「私の友人は、結婚を約束した恋人を残して死んだ。そして、その恋人は後を追うように死を迎えた。私の尊敬する先輩は、民主主義と己の信念のために死を選んだ」

 

 ヤンは目を閉じた。

 

「……彼らは、もう二度と紅茶の味を知ることはない。二度と、春の陽気を感じることもない」

 

 瞼の裏に浮かぶのは、ラップ、ジェシカ、そしてアレクサンドル・ビュコック。他にも、多数の親しかった仲間の顔が思い浮かぶ。敵も味方も、歴史の奔流に飲み込まれていった星々だ。

 

 ―――そして、何故か生き残ってしまった自分。

 

「なのに、私は生きている。彼らの屍の上で、のうのうと紅茶を啜り、『ああ、美味いな』などと思っている。……これは、彼らに対する裏切りじゃないのか?私だけが幸福を享受していいのか?そんな問いが、夜毎、私の首を絞める」

 

「……っ」

 

 ドアの向こうから、再び息を呑む音が聞こえた。

 

 それは、共鳴だったのかもしれない。アドマイヤベガが抱えている闇と、ヤンが抱えている闇が、扉を隔てて重なり合う。

 

「……やっぱり、同じ、なの?」

 

 アドマイヤベガは、自らが見てしまった、あの夜のヤンの姿を思い出していた。

 

「あなたも……聞こえるの?死んだ人の声が」

 

 震える声が、ヤンの鼓膜を揺らした。

 

「ああ、聞こえるとも。うるさくて眠れない夜もあるさ」

 

 ヤンは自嘲気味に笑った。

 

「『なぜお前なんだ』『代われ』……そんな声が聞こえる気がする。……だがね、アドマイヤベガ。それは多分、私たちが勝手に作り出した妄想だ」

 

 ヤンはコップを床に置いた。

 

「死者は何も語らない。彼らは永遠の沈黙の中にいる。……私たちが聞いているのは、彼らの声じゃない。生き残ってしまった私たち自身の、罪悪感という名の独り言だ」

「……でも、苦しいの。あの子を置いて、私だけが生きてることが……申し訳なくて、消えてしまいたくなる」

「わかるよ。……だが、()()()()()()()。いつでもできる。それこそ、()()()()()()()()()()()

 

 ヤンは、ドアに手を触れた。冷たい木材の感触と、その向こうにある、温かい命の鼓動を感じながら。

 

「難しいのは、厚かましく生きることだ。……死んだ友に対して『すまないが、私はまだまだ美味い紅茶を飲むぞ』と宣言し、図太く生き続けることだ。それが、生き残った者の……唯一の、そして最大の復讐だと、私は思う」

 

「復讐……?」

 

 アドマイヤベガの声が震えた。ヤンは扉の前で胡坐をかいたまま、帽子を目深に被り直す。

 

「復讐。そう、復讐だ。

 

 誰に対するものでもない。強いて言うなら、人々の未来を無造作に奪い去る、神とか運命とか呼ばれる『理不尽』そのものに対する反逆と言い換えても良いかもね。

 

 死者が二度と味わえない幸福を、残された者が遠慮して放棄する……。そんなことをすれば、それこそ死の絶対的な暴力に屈服したことになる。

 

 ―――だから、我々は抵抗するんだ。

 

 いいかい、アドマイヤベガ。美味いものを食って、温かい紅茶を啜り、柔らかなベッドで眠って、厚かましく幸せになる。それだけが、ただそれだけが、無力な生者が、沈黙する死に対して突きつけられる、唯一の『勝利』なんだよ」

 

 ヤンは言葉に力を込めた。

 

「……私は君に、レースに勝てとは言わない。速く走れとも言わない」

「……」

「ただ、出来れば、君には共犯者になってくれることを望むよ」

「……共犯者?」

「ああ。死者の沈黙を背負いながら、それでも厚かましくご飯を食べ、走り、生き続ける共犯者だ。……一人では重すぎる荷物でも、二人なら、まあ、何とか持てるかもしれない」

 

 そうして、沈黙が流れた。静寂が、ヤンとアドマイヤベガを包み込む。

 

 長い、長い沈黙だった。やがて。カチャリ、と鍵が開く音がした。

 

 ゆっくりとドアが開く。

 

 そこには、三日間何も食べず、髪もボサボサで、目の下に深い隈を作った、幽霊のような姿のアドマイヤベガが立っていた。

 だが、その瞳だけは、生きた光を宿してヤンを見ていた。

 

「……あなたは、ずるい」

 

 彼女は、乾いた唇を震わせて言った。

 

「そんな話をされたら……私だけが被害者面して、引きこもっていられないじゃない」

「そいつは良かった。被害者面より、共犯者の顔の方が君には似合っている」

 

 ヤンは、まだ温かい紅茶の入ったコップを、彼女に差し出した。

 

「飲みたまえ。……三日ぶりの水分補給だ。きっと、死ぬほど美味いぞ」

「……苦いのは、嫌いよ」

「砂糖とミルクがたっぷり入っている。今の君には猛毒かもしれないな」

 

 アドマイヤベガは、震える手でコップを受け取った。一口、口に含む。

 

(……ああ、甘い)

 

 脳が痺れるほど甘く、そして温かい。それが食道を通って胃に落ちた瞬間、彼女の目から涙が溢れ出した。

 

「……っ、う……ぁ……」

(生きている。私は、生きている)

 

 あの子が死んだ世界で、こんなにも甘いものを味わっている。その罪深さと、どうしようもない幸福感が、彼女の心を揺さぶった。

 

「……美味しい……ッ」

「そうか」

「悔しいけど……美味しいわよ、ヤン……!」

「なら、君はまだ大丈夫だ」

 

 ヤンは、泣きじゃくる彼女の頭に、ぽん、と帽子を乗せた。

 撫でるわけでもなく、抱きしめるわけでもない。ただ、そこに在ることを肯定するように。

 

「さあ、泥沼から這い上がる時間だ。……次は日本ダービー。我々の『復讐戦』の始まりだ」

 

 廊下の陰で、その様子を見ていたフジキセキ、トップロード、そしてオペラオーの3人の顔に、安堵の表情が浮かぶ。

 

 彼女たちは、二人が交わした「闇の契約」の意味を完全には理解できなかったかもしれない。だが、少女が再び前を向いたこと、そして、その隣に立つ男が、彼女にとって唯一無二の支えであることだけは、確かに理解していた。

 

 ―――同盟軍のいない夜。けれど、二人の生存者は、確かにそこにいた。

 

 

 時計の針が深夜0時を回ろうとしていた頃。

 主のいない栗東寮の寮長室では、一人の少女が退屈そうに天井を見上げていた。

 

 カレンチャンである。彼女はフジキセキのベッドの上で、ウマホを放り投げ、ゴロリと寝返りを打った。

 

「……フジさん、遅いなぁ」

 

 彼女がこの部屋に「避難」して、今日で三日目になる。

 理由は単純。同室のアドマイヤベガが、部屋を閉ざしてしまったからだ。

 そして今夜、ついに「最終兵器」として、あのやる気のないトレーナー、ヤン・ウェンリーが投入された。フジキセキたちは、その結末を見届けるために廊下へ出ている。

 

「……カレンは見に行かない方がいいもんね」

 

 カレンチャンは天井に向かって独りごちた。

 

 彼女は知っていた。自分の武器である「カワイイ」や「キラキラ」は、世界を明るくする魔法だが、同時に、深く深く闇に沈んでいる者にとっては、その闇の深さを際立たせる残酷な毒にもなることを。

 

 あの日、アヤベが部屋に引きこもる直前。カレンチャンは、アヤベの瞳を見て悟ったのだ。『あなたの光が痛い』と、そう訴えていることに。

 

 だから、彼女は自ら部屋を出た。

 

「カレン、フジさんの部屋に遊びに行ってくるね!」

 

 と、能天気を装って。

 

 自分がいない方が、アヤベは安心して「暗闇」にいられる。それは、カワイイの権化である彼女なりの、冷徹で優しい計算(戦略的撤退)だった。

 

「……でも、あのおじさまで大丈夫かなぁ」

 

 カレンチャンは頬を膨らませた。あのトレーナーは、カレンの「カワイイ」が通用しない、数少ない大人だ。掴みどころがなく、いつも眠そうで、影が薄い。

 

 そんな人に、あの頑固なアヤベさんの心の扉が開けられるとは――。

 

 ガチャリ。

 

 寮長室のドアが開いた。

 フジキセキが戻ってきたのだ。その表情は、出て行った時の張り詰めたものではなく、安堵に緩んでいた。

 

「……ただいまカレン。退屈させちゃったかな」

「フジさん!……どうだった?」

 

 カレンチャンが身を乗り出す。

 フジキセキはふう、と息を吐き、デスクの椅子に腰を下ろした。

 

「……ミッション・コンプリートだ。見事な手際だったよ」

「えっ、本当に?ドア、開いたの?」

「ああ。……説得というよりは、共犯の勧誘に近かったけれどね」

 

 フジキセキは苦笑いしながら、廊下でのやり取り――ヤンが語った「死者への復讐」と「厚かましい幸福」の話を、かいつまんでカレンチャンに聞かせた。

 

 カレンチャンは、目を丸くしてそれを聞いた。そして、納得したようにポンと手を打った。

 

「……なるほどねぇ」

 

 彼女の瞳から、アイドルの光が消え、鋭い観察者の色が浮かぶ。

 

「カレンたちみたいな『太陽』じゃなくて、一緒に暗闇に座ってくれる『共犯者』が欲しかったんだ。……アヤベさんには、眩しいスポットライトじゃなくて、小さなランタンの火が必要だったってことかぁ」

「そういうことだね。……悔しいけれど、私たちじゃ力不足だったみたい」

「んー、カレンは悔しくないよ!アヤベさんがご飯食べてくれるなら、それでオッケーだし♪」

 

 カレンチャンはベッドから飛び降り、軽く伸びをした。

 

「さてと!カレンの難民生活もこれにて終了!……お部屋に戻ろっかな」

「大丈夫かい?まだヤンさんがいるかもしれないよ」

「平気平気。……それに、一言お礼も言っておきたいしね」

 

 カレンチャンは鏡の前で前髪を整え、完璧な「カレンチャン」の笑顔を作ると、寮長室を後にした。

 

 

 廊下に出ると、ちょうどアヤベの部屋からヤン・ウェンリーが出てくるところだった。彼は帽子を目深に被り、どこか疲れたような背中をしていた。

 

 すれ違いざま。カレンチャンは立ち止まり、彼に聞こえるだけの小声で囁いた。

 

「……やるじゃん、おじさま」

 

 ヤンが驚いて足を止める。カレンチャンは、いつもの「カワイイ」ポーズではなく、人差し指を口に当てる大人びた仕草を見せた。

 

「アヤベさんのこと、よろしくね?……もし泣かせたら、カレンのファン100万人をけしかけちゃうから」

 

 ドスの利いた、しかし愛のある脅し文句。

 ヤンは一瞬きょとんとして、それから困ったように肩をすくめ、ひらひらと手を振って去っていった。

 

「……ふふっ。面白い人」

 

 カレンチャンはクスクスと笑い、自分の部屋のドアノブに手をかけた。中からは、微かに鼻をすする音と、どら焼きの袋を開ける音が聞こえてくる。

 

「ただいま~!アヤベさーん!カレン寂しくて帰ってきちゃった~!」

 

 彼女は勢いよくドアを開けた。そこには、少し驚いた顔で、でも確かに「生きている」顔をしたルームメイトがいた。

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