ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第7話 双貌(そうぼう)のアステリズム

 後世の歴史家が、ヤン・ウェンリーの用兵思想――あるいはトレーナーとしての育成理論を分析する際、必ずと言っていいほど言及されるのが、この時期に行われた「地獄の合宿」についてである。「地獄」という名称から、人々は血の滲むような特訓や、泥まみれの根性論を想像するだろう。

 

 だが、実際にそこで行われたのは、文明社会から隔絶された静寂の中での、極めて哲学的で、かつ内省的な「対話」であった。

 

 

 四月下旬。ゴールデンウィークを目前に控えたある日。ヤン・ウェンリー率いる一行は、北関東の深い山奥にある、鄙(ひな)びた温泉宿に到着していた。

 

「……素晴らしい。実に素晴らしい人口密度だ」

 

 車から降りたヤンは、深呼吸をして満足げに頷いた。周囲に見えるのは、鬱蒼と茂る原生林と、まだ雪を残した山肌だけ。聞こえるのは川のせせらぎと鳥の声のみ。コンビニもなければ、携帯電話の電波すら怪しい。

 

 まさに、隠居生活を夢見る男にとっての理想郷(ユートピア)だった。

 

「魔術師君にとっては天国かもしれないが、私にとっての実験環境としては、実に、劣悪極まりない場所だがねぇ」

 

 車のトランクから大量の機材を降ろしながら、アグネスタキオンがぼやいた。彼女は今回、アドマイヤベガのデータ収集係兼、ヤンの話し相手という名目の監視役として同行していた。

 

「文句を言うんじゃない、タキオン。ここには上質な硫黄泉がある。君の研究にも役立つ成分が含まれているかもしれないんだぞ?」

「ほう?湯の花の成分分析か。……まあ、それも悪くない暇つぶしだ」

 

 そして、最後に車から降りてきたアドマイヤベガは、無言で周囲を見渡した。

 

 彼女の表情は、寮に引きこもっていた時よりは生気を取り戻していたが、まだどこか硬かった。

 あの夜、ヤンと交わした「共犯者」の契約。それが彼女を部屋から連れ出すことには成功したが、彼女の心に巣食う根本的な罪悪感が消えたわけではない。彼女はまだ、妹の幻影と共にここにいる。

 

「……ヤン。ここを走るの?」

「ああ。舗装されていない山道だ。アップダウンも激しいし、酸素濃度も薄い。……心肺機能と足腰を鍛えるにはもってこいの場所だ。だが」

 

 ヤンは宿の玄関を指差した。

 

「今日のところは移動の疲れもある。まずは温泉に浸かって、現地の食材を使った料理でも楽しもうじゃないか。……本格的な『調整』は、明日からだ」

 

 

 翌日の早朝。太陽がまだ稜線の向こうにある薄暗い時間帯から、アドマイヤベガは走り始めた。

 

 ヤンが指定したコースは、宿からさらに山奥へと続く、獣道のような林道だった。足場は悪い。木の根が隆起し、濡れた落ち葉が足を滑らせようとする。だが、今のアヤベにとっては、整備されたターフよりも、この荒れた道の方が心地よかった。

 

 タッ、タッ、タッ。

 

 誰も見ていない。歓声もない。実況もない。あるのは、自分の荒い呼吸音と、鼓動だけ。

 

(……静かだわ)

 

 彼女はペースを上げた。酸素が薄いせいで、肺が焼けるように痛む。乳酸が太腿に蓄積していく。その苦痛が、彼女の意識を研ぎ澄ませていく。

 

『お姉ちゃん』

 

 いつもの声がした。アヤベは足を止めない。

 

『こんな山奥に来て、何をするつもり?修行?それとも逃避?』

(……準備よ)

『準備?』

(そう。あなたを……連れて行くための)

 

 彼女は心の中で呟いた。

 

 ヤンは言った。「一人では重すぎる荷物でも、二人なら持てる」と。妹を忘れるのではない。妹に償うのでもない。妹という「死」を背負ったまま、生きていく覚悟を決めるための、これは儀式なのだ。

 

 だが、妹の声は相変わらず冷ややかだった。

 

『無理だよ。私は死んでるんだもん。死人は走れないよ』

(……わかってる)

 

 アヤベは木の根を飛び越えた。

 

『お姉ちゃんだけが生きて、美味しいものを食べて、気持ちよく走って……。ズルいよ』

(ズルいのはわかってる。でも、私はもう、謝らないことにしたの)

 

 彼女の瞳に、強い光が宿る。謝罪は、もう十分だ。

 これからは、謝りながら進むのではなく、背負ったまま進む。たとえそれが、死者に対する冒涜だとしても。

 

 

 一方、宿の広間では、奇妙な対局が行われていた。

 

 縁側に置かれた将棋盤を挟んで、ヤン・ウェンリーとアグネスタキオンが向かい合っている。盤面は終盤戦。ヤンが攻め、タキオンが受ける展開だ。

 

「……ふむ。君の打ち筋は独特だねぇ、トレーナー君」

 

 タキオンが「桂馬」を跳ねさせながら、楽しげに言った。彼女の視線は盤面にあるが、その意識は目の前の男の深淵を探っているようだった。

 

「独特?定石通りだと思うが」

「一見するとね。だが、君は『損耗』を嫌うふりをして、重要な局面では驚くほどあっさりと駒を捨てる」

 

 タキオンが指差したのは、ヤンが捨て駒にした「銀将」だった。その犠牲によって、敵陣への突破口が開かれている。

 

「最小の犠牲で、最大の戦果を得る。教科書通りの合理性だ。だが、その指し手には『迷い』がない。まるで、誰かを犠牲にすることに慣れきっている指揮官のようだ」

 

 パチリ。

 

 ヤンが「歩」を打った。

 

 その音が、静かな和室に響く。

 

「……買いかぶりだよ。私はただ、これ以上、対局を長引かせて昼寝の時間を削りたくないだけさ」

「はぐらかすのかい?……まあいい」

 

 タキオンは目を細めた。彼女の瞳孔が、爬虫類のように収縮する。

 

 彼女自身、かつては自身の足を実験台にし、速さのために肉体を崩壊寸前まで追い込んだ過去を持つ。だからこそ、彼女は嗅ぎ取っていた。

 ―――この、ヤン・ウェンリーという男から漂う、濃厚な「死」の匂いを。

 

「君は、アヤベ君に『生きろ』と言ったそうだが。……だが、君自身はどうなんだい?」

「何の話だ?」

「君の経歴(キャリア)さ。……書類上は、君は一般大学の史学科を出て、いくつかの職を転々としたことになっている。だが、君の戦術眼、危機管理能力、そして何より……あの『諦観』は、平和な教室で育まれるものじゃない」

 

 タキオンが盤上の駒を取った。

 

「君は、どこから来たのだろうね?……いや、どこに、何を置いてきたんだい?」

 

 鋭利な刃物のような問いかけ。

 ヤンは表情を変えなかった。ただ、湯飲みの茶を一口啜り、盤面を見つめたまま答えた。

 

「……過去の話だ。歴史家というのは、過ぎ去ったことを記録するのが仕事でね。自分自身のことを語るのは専門外なんだよ」

 

 そう言って、ヤンは手元の駒を弄んだ。

 「金将」。守りの要であり、時に攻めの切り札となる駒。

 

「だが、そうだな。気になるというのならば、一つだけ教えてやろう。……タキオン、君は科学者として『1』と『100万』の違いをどう考える?」

「……ただの数字の違いだね。あるいは、サンプル数の違いだ」

「そうだな。違いだ。数字の違い。科学ではそうだろう。……だが、ある種の職業において、その二つは等価なんだよ」

 

 ヤンの声から、温度が消えた。

 彼は盤面を見ていなかった。もっと遠く、何万光年も彼方の、燃え盛る星の海を見ていた。

 

「1人の友人の死を悲しむことと、100万人の兵士の死を背負うこと」

 

 ヤンは、パチンと駒を置いた。

 

「その両方の重さを同時に知ってしまった人間は、もう二度と、真っ当な計算ができなくなる」

 

 乾いた音が、タキオンの鼓膜を震わせた。

 

「タキオン。ある男はね……かつて、作戦目標のために、数千の友軍に『死んでくれ』と命じたことがある。守るべき民主共和主義のために、何万人もの敵兵を――彼ら一人一人に帰りを待つ家族がいると知りながら――宇宙の塵にしたこともある。

 ……そしてその夜、その男は、()()()()()()()()()()を飲んで、ぐっすりと眠ったんだ」

 

 彼はタキオンを見た。その瞳は、あまりにも静かで、空虚だった。

 

「どうだろうか、タキオン。……そんな男、軽蔑に値するだろう?」

 

 吐き捨てるような魔術師の言葉に、タキオンは息を呑んだ。ヤンの言葉には、誇張も自虐もなかった。ただの事実としての「殺戮」の記録だ。

 

 彼は「見てきた」のではない。「やった」のだ。

 

 今目の前にある将棋という盤上の駒ではなく、生きた人間を、国家や理念という天秤に乗せ、自らの指示で消費した男の業だ。

 

(……これは、藪をつついてしまったかねぇ?)

 

 タキオンの背筋に、氷柱を差し込まれたような悪寒が走る。目の前の男は、ただの怠け者ではないとタキオンは確信する。自分のような「マッドサイエンティスト」などは裸足で逃げ出すほどの、真正の「怪物」だ。

 

「……ふっ、あははは!降参だ、降参だよヤン・ウェンリー君!」

 

 タキオンはわざとらしく両手を上げ、将棋盤を乱さないように身を引いた。

 これ以上踏み込めば、自分の中の倫理観すらも焼き尽くされそうな気がしたからだ。

 

「君の勝ちだ。盤上でも、舌戦でもね。……やれやれ、アヤベ君もとんでもない『劇薬』に手を出したものだね」

「お互い様さ。……さあ、詰みだ」

 

 ヤンが最後の一手を指し、勝負は決した。彼は何事もなかったかのように、駒を片付け始める。

 その背中は、あまりにも小さく、そしてあまりにも巨大な孤独を背負っていた。

 

 

 その日の夜。夕食を終え、再び走りに出ようとするアドマイヤベガを、ヤンが呼び止めた。

 

「夜道は危険だ。……少し、話をしないか」

 

 二人は宿の縁側に並んで座った。月が出ていない。満天の星だけが、頭上に広がっている。その星々の輝きは、都会のそれとは比べ物にならないほど鋭く、そして冷たかった。

 

「……調子はどうだ?」

「悪くないわ。空気も澄んでるし、足も軽い」

「そうか。……だが、心の方はどうだ?まだ、妹君と喧嘩しているのかね?」

 

 アヤベは膝を抱え、星空を見上げた。

 

「喧嘩なんて……そんな生易しいものじゃないわ。あの子はずっと私を責めている」

 

 彼女は静かに首を振った。

 

「……いいえ、違うわね。私が、あの子に責めさせたがっているのよ。『許さない』って言ってもらわないと、私が私を許せないから」

「……」

「でも、今日走っていて気づいたの。……あの子の声が、少しずつ変わってきているって」

 

 アヤベは自分の胸に手を当てた。

 

「今までは『苦しめ』って声だった。でも今日は……ただ、静かに見ている感じがした。……それが、逆に怖いの。あの子が私を見放して、どこかへ行ってしまうような気がして」

 

 彼女の声が震える。罪悪感が消えることへの恐怖。それは、妹との繋がりが消えることと同義だったからだ。

 

 ヤンは、持っていた缶コーヒーを開けた。プシュッという音が響く。

 

「……アヤベ君。私は以前、死者の声は生者の妄想だと言ったな」

「ええ。……ひどい言い草だったわ」

「訂正しよう。……半分は妄想だが、もう半分は『願い』だ」

 

 ヤンは星空を指差した。

 

「君は、妹君にどうあって欲しい?永遠に君を呪い続ける悪霊であって欲しいのか?……それとも、君の隣で一緒に笑ってくれる、ただの双子の妹であって欲しいのか?」

 

 ヤンの言葉に、アヤベはハッとした。願い。私が、願っている?

 

 『許さないで』と願っているのは、私?

 『離れないで』と願っているのも、私?

 

(―――そうか。あの子が呪っているんじゃない。私が、あの子に呪ってほしかったんだ)

 

 だって、呪われている間は、あの子は私を見ているから。私に関心を持っているから。もし許されてしまったら、あの子は成仏して、私の前から消えてしまう。

 

(それが怖くて、私は自分自身で「呪い」を作り続けていた)

 

「……寂しかったのね、私」

 

 アヤベは夜空を見つめ直した。

 

 そこにある一等星ベガ。青白く、鋭く輝く織姫星。一人ぼっちで輝くその星に、自分を重ねていた。

 でも、織姫は一人じゃない。川の向こうに、彦星がいる。離れていても、見えなくても、確かにお互いを想い合っている。

 

(私が……決めていいの?)

 

 あの子を悪霊にするのも、ただの妹に戻すのも。

 私を縛る鎖にするのも、背中を押す風にするのも。

 

(すべて、私の願い次第だというの?)

 

「……もし、君が願いを書き換えられるなら、どうしたい?」

 

 ヤンが静かに問いかける。

 

「君の妹君は、本当に君を恨んでいる役がお似合いかな?」

「……わからないわ。ヤン、あなたならどうするの?」

「そうだな。私ならいっそ、応援団長の役をオファーする。それか、一緒に走る、相棒をお願いするだろうね」

 

 アヤベの瞳が揺れた。

 

 応援団長。一緒に走る相棒。そんな都合のいい書き換えをしていいの?

 

(……いいえ、誰に許可がいるというの。これは、私の人生(ものがたり)なのに)

 

 彼女はもう一度、ベガを見た。

 その光は、遠く離れたアルタイルに向かって、手を伸ばしているようにも見えた。

 

「……ヤン。私、明日、もう一度あの道を走ってくる」

「ああ」

「一人で行くわ。……そして、あの子とちゃんと話をつけてくる」

「行ってくるといい。……私はここで、タキオンとまた不毛な将棋でも指して待っているよ」

 

 ヤンは優しく笑った。

 その笑顔は、かつて数多の悲劇を超えてきた者だけが持つ、静かな包容力に満ちていた。

 

 星々の下、魔術師と少女の夜は更けていく。

 翌日、アドマイヤベガが山の中で見つける「真実」が、彼女を真の一等星へと変えることを、この時のヤンは確信していた。

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