後世の歴史家が、ヤン・ウェンリーの用兵思想――あるいはトレーナーとしての育成理論を分析する際、必ずと言っていいほど言及されるのが、この時期に行われた「地獄の合宿」についてである。「地獄」という名称から、人々は血の滲むような特訓や、泥まみれの根性論を想像するだろう。
だが、実際にそこで行われたのは、文明社会から隔絶された静寂の中での、極めて哲学的で、かつ内省的な「対話」であった。
■
四月下旬。ゴールデンウィークを目前に控えたある日。ヤン・ウェンリー率いる一行は、北関東の深い山奥にある、鄙(ひな)びた温泉宿に到着していた。
「……素晴らしい。実に素晴らしい人口密度だ」
車から降りたヤンは、深呼吸をして満足げに頷いた。周囲に見えるのは、鬱蒼と茂る原生林と、まだ雪を残した山肌だけ。聞こえるのは川のせせらぎと鳥の声のみ。コンビニもなければ、携帯電話の電波すら怪しい。
まさに、隠居生活を夢見る男にとっての理想郷(ユートピア)だった。
「魔術師君にとっては天国かもしれないが、私にとっての実験環境としては、実に、劣悪極まりない場所だがねぇ」
車のトランクから大量の機材を降ろしながら、アグネスタキオンがぼやいた。彼女は今回、アドマイヤベガのデータ収集係兼、ヤンの話し相手という名目の監視役として同行していた。
「文句を言うんじゃない、タキオン。ここには上質な硫黄泉がある。君の研究にも役立つ成分が含まれているかもしれないんだぞ?」
「ほう?湯の花の成分分析か。……まあ、それも悪くない暇つぶしだ」
そして、最後に車から降りてきたアドマイヤベガは、無言で周囲を見渡した。
彼女の表情は、寮に引きこもっていた時よりは生気を取り戻していたが、まだどこか硬かった。
あの夜、ヤンと交わした「共犯者」の契約。それが彼女を部屋から連れ出すことには成功したが、彼女の心に巣食う根本的な罪悪感が消えたわけではない。彼女はまだ、妹の幻影と共にここにいる。
「……ヤン。ここを走るの?」
「ああ。舗装されていない山道だ。アップダウンも激しいし、酸素濃度も薄い。……心肺機能と足腰を鍛えるにはもってこいの場所だ。だが」
ヤンは宿の玄関を指差した。
「今日のところは移動の疲れもある。まずは温泉に浸かって、現地の食材を使った料理でも楽しもうじゃないか。……本格的な『調整』は、明日からだ」
■
翌日の早朝。太陽がまだ稜線の向こうにある薄暗い時間帯から、アドマイヤベガは走り始めた。
ヤンが指定したコースは、宿からさらに山奥へと続く、獣道のような林道だった。足場は悪い。木の根が隆起し、濡れた落ち葉が足を滑らせようとする。だが、今のアヤベにとっては、整備されたターフよりも、この荒れた道の方が心地よかった。
タッ、タッ、タッ。
誰も見ていない。歓声もない。実況もない。あるのは、自分の荒い呼吸音と、鼓動だけ。
(……静かだわ)
彼女はペースを上げた。酸素が薄いせいで、肺が焼けるように痛む。乳酸が太腿に蓄積していく。その苦痛が、彼女の意識を研ぎ澄ませていく。
『お姉ちゃん』
いつもの声がした。アヤベは足を止めない。
『こんな山奥に来て、何をするつもり?修行?それとも逃避?』
(……準備よ)
『準備?』
(そう。あなたを……連れて行くための)
彼女は心の中で呟いた。
ヤンは言った。「一人では重すぎる荷物でも、二人なら持てる」と。妹を忘れるのではない。妹に償うのでもない。妹という「死」を背負ったまま、生きていく覚悟を決めるための、これは儀式なのだ。
だが、妹の声は相変わらず冷ややかだった。
『無理だよ。私は死んでるんだもん。死人は走れないよ』
(……わかってる)
アヤベは木の根を飛び越えた。
『お姉ちゃんだけが生きて、美味しいものを食べて、気持ちよく走って……。ズルいよ』
(ズルいのはわかってる。でも、私はもう、謝らないことにしたの)
彼女の瞳に、強い光が宿る。謝罪は、もう十分だ。
これからは、謝りながら進むのではなく、背負ったまま進む。たとえそれが、死者に対する冒涜だとしても。
■
一方、宿の広間では、奇妙な対局が行われていた。
縁側に置かれた将棋盤を挟んで、ヤン・ウェンリーとアグネスタキオンが向かい合っている。盤面は終盤戦。ヤンが攻め、タキオンが受ける展開だ。
「……ふむ。君の打ち筋は独特だねぇ、トレーナー君」
タキオンが「桂馬」を跳ねさせながら、楽しげに言った。彼女の視線は盤面にあるが、その意識は目の前の男の深淵を探っているようだった。
「独特?定石通りだと思うが」
「一見するとね。だが、君は『損耗』を嫌うふりをして、重要な局面では驚くほどあっさりと駒を捨てる」
タキオンが指差したのは、ヤンが捨て駒にした「銀将」だった。その犠牲によって、敵陣への突破口が開かれている。
「最小の犠牲で、最大の戦果を得る。教科書通りの合理性だ。だが、その指し手には『迷い』がない。まるで、誰かを犠牲にすることに慣れきっている指揮官のようだ」
パチリ。
ヤンが「歩」を打った。
その音が、静かな和室に響く。
「……買いかぶりだよ。私はただ、これ以上、対局を長引かせて昼寝の時間を削りたくないだけさ」
「はぐらかすのかい?……まあいい」
タキオンは目を細めた。彼女の瞳孔が、爬虫類のように収縮する。
彼女自身、かつては自身の足を実験台にし、速さのために肉体を崩壊寸前まで追い込んだ過去を持つ。だからこそ、彼女は嗅ぎ取っていた。
―――この、ヤン・ウェンリーという男から漂う、濃厚な「死」の匂いを。
「君は、アヤベ君に『生きろ』と言ったそうだが。……だが、君自身はどうなんだい?」
「何の話だ?」
「君の経歴(キャリア)さ。……書類上は、君は一般大学の史学科を出て、いくつかの職を転々としたことになっている。だが、君の戦術眼、危機管理能力、そして何より……あの『諦観』は、平和な教室で育まれるものじゃない」
タキオンが盤上の駒を取った。
「君は、どこから来たのだろうね?……いや、どこに、何を置いてきたんだい?」
鋭利な刃物のような問いかけ。
ヤンは表情を変えなかった。ただ、湯飲みの茶を一口啜り、盤面を見つめたまま答えた。
「……過去の話だ。歴史家というのは、過ぎ去ったことを記録するのが仕事でね。自分自身のことを語るのは専門外なんだよ」
そう言って、ヤンは手元の駒を弄んだ。
「金将」。守りの要であり、時に攻めの切り札となる駒。
「だが、そうだな。気になるというのならば、一つだけ教えてやろう。……タキオン、君は科学者として『1』と『100万』の違いをどう考える?」
「……ただの数字の違いだね。あるいは、サンプル数の違いだ」
「そうだな。違いだ。数字の違い。科学ではそうだろう。……だが、ある種の職業において、その二つは等価なんだよ」
ヤンの声から、温度が消えた。
彼は盤面を見ていなかった。もっと遠く、何万光年も彼方の、燃え盛る星の海を見ていた。
「1人の友人の死を悲しむことと、100万人の兵士の死を背負うこと」
ヤンは、パチンと駒を置いた。
「その両方の重さを同時に知ってしまった人間は、もう二度と、真っ当な計算ができなくなる」
乾いた音が、タキオンの鼓膜を震わせた。
「タキオン。ある男はね……かつて、作戦目標のために、数千の友軍に『死んでくれ』と命じたことがある。守るべき民主共和主義のために、何万人もの敵兵を――彼ら一人一人に帰りを待つ家族がいると知りながら――宇宙の塵にしたこともある。
……そしてその夜、その男は、
彼はタキオンを見た。その瞳は、あまりにも静かで、空虚だった。
「どうだろうか、タキオン。……そんな男、軽蔑に値するだろう?」
吐き捨てるような魔術師の言葉に、タキオンは息を呑んだ。ヤンの言葉には、誇張も自虐もなかった。ただの事実としての「殺戮」の記録だ。
彼は「見てきた」のではない。「やった」のだ。
今目の前にある将棋という盤上の駒ではなく、生きた人間を、国家や理念という天秤に乗せ、自らの指示で消費した男の業だ。
(……これは、藪をつついてしまったかねぇ?)
タキオンの背筋に、氷柱を差し込まれたような悪寒が走る。目の前の男は、ただの怠け者ではないとタキオンは確信する。自分のような「マッドサイエンティスト」などは裸足で逃げ出すほどの、真正の「怪物」だ。
「……ふっ、あははは!降参だ、降参だよヤン・ウェンリー君!」
タキオンはわざとらしく両手を上げ、将棋盤を乱さないように身を引いた。
これ以上踏み込めば、自分の中の倫理観すらも焼き尽くされそうな気がしたからだ。
「君の勝ちだ。盤上でも、舌戦でもね。……やれやれ、アヤベ君もとんでもない『劇薬』に手を出したものだね」
「お互い様さ。……さあ、詰みだ」
ヤンが最後の一手を指し、勝負は決した。彼は何事もなかったかのように、駒を片付け始める。
その背中は、あまりにも小さく、そしてあまりにも巨大な孤独を背負っていた。
■
その日の夜。夕食を終え、再び走りに出ようとするアドマイヤベガを、ヤンが呼び止めた。
「夜道は危険だ。……少し、話をしないか」
二人は宿の縁側に並んで座った。月が出ていない。満天の星だけが、頭上に広がっている。その星々の輝きは、都会のそれとは比べ物にならないほど鋭く、そして冷たかった。
「……調子はどうだ?」
「悪くないわ。空気も澄んでるし、足も軽い」
「そうか。……だが、心の方はどうだ?まだ、妹君と喧嘩しているのかね?」
アヤベは膝を抱え、星空を見上げた。
「喧嘩なんて……そんな生易しいものじゃないわ。あの子はずっと私を責めている」
彼女は静かに首を振った。
「……いいえ、違うわね。私が、あの子に責めさせたがっているのよ。『許さない』って言ってもらわないと、私が私を許せないから」
「……」
「でも、今日走っていて気づいたの。……あの子の声が、少しずつ変わってきているって」
アヤベは自分の胸に手を当てた。
「今までは『苦しめ』って声だった。でも今日は……ただ、静かに見ている感じがした。……それが、逆に怖いの。あの子が私を見放して、どこかへ行ってしまうような気がして」
彼女の声が震える。罪悪感が消えることへの恐怖。それは、妹との繋がりが消えることと同義だったからだ。
ヤンは、持っていた缶コーヒーを開けた。プシュッという音が響く。
「……アヤベ君。私は以前、死者の声は生者の妄想だと言ったな」
「ええ。……ひどい言い草だったわ」
「訂正しよう。……半分は妄想だが、もう半分は『願い』だ」
ヤンは星空を指差した。
「君は、妹君にどうあって欲しい?永遠に君を呪い続ける悪霊であって欲しいのか?……それとも、君の隣で一緒に笑ってくれる、ただの双子の妹であって欲しいのか?」
ヤンの言葉に、アヤベはハッとした。願い。私が、願っている?
『許さないで』と願っているのは、私?
『離れないで』と願っているのも、私?
(―――そうか。あの子が呪っているんじゃない。私が、あの子に呪ってほしかったんだ)
だって、呪われている間は、あの子は私を見ているから。私に関心を持っているから。もし許されてしまったら、あの子は成仏して、私の前から消えてしまう。
(それが怖くて、私は自分自身で「呪い」を作り続けていた)
「……寂しかったのね、私」
アヤベは夜空を見つめ直した。
そこにある一等星ベガ。青白く、鋭く輝く織姫星。一人ぼっちで輝くその星に、自分を重ねていた。
でも、織姫は一人じゃない。川の向こうに、彦星がいる。離れていても、見えなくても、確かにお互いを想い合っている。
(私が……決めていいの?)
あの子を悪霊にするのも、ただの妹に戻すのも。
私を縛る鎖にするのも、背中を押す風にするのも。
(すべて、私の願い次第だというの?)
「……もし、君が願いを書き換えられるなら、どうしたい?」
ヤンが静かに問いかける。
「君の妹君は、本当に君を恨んでいる役がお似合いかな?」
「……わからないわ。ヤン、あなたならどうするの?」
「そうだな。私ならいっそ、応援団長の役をオファーする。それか、一緒に走る、相棒をお願いするだろうね」
アヤベの瞳が揺れた。
応援団長。一緒に走る相棒。そんな都合のいい書き換えをしていいの?
(……いいえ、誰に許可がいるというの。これは、私の人生(ものがたり)なのに)
彼女はもう一度、ベガを見た。
その光は、遠く離れたアルタイルに向かって、手を伸ばしているようにも見えた。
「……ヤン。私、明日、もう一度あの道を走ってくる」
「ああ」
「一人で行くわ。……そして、あの子とちゃんと話をつけてくる」
「行ってくるといい。……私はここで、タキオンとまた不毛な将棋でも指して待っているよ」
ヤンは優しく笑った。
その笑顔は、かつて数多の悲劇を超えてきた者だけが持つ、静かな包容力に満ちていた。
星々の下、魔術師と少女の夜は更けていく。
翌日、アドマイヤベガが山の中で見つける「真実」が、彼女を真の一等星へと変えることを、この時のヤンは確信していた。