山頂へ続く獣道は、昨日よりも険しく、そして冷たく感じられた。早朝の霧が立ち込める中、アドマイヤベガは一人、黙々と地面を蹴り続けていた。
随行者はいない。ペースメーカーもいない。聞こえるのは、自分の荒い呼吸音と、砂利を踏みしめる音、そして時折響く野鳥のさえずりだけだ。
(……出てきなさいよ)
彼女は心の中で呼びかけた。昨日まで、あれほど饒舌に彼女を責め立てていた『妹』の声が、今日は不気味なほど沈黙していたからだ。呪いの言葉も、恨み言も聞こえない。ただ、自身の心臓が早鐘を打つ音だけが、耳の奥で反響している。
(怒ってるの?私があなたを『呪い』じゃなくて、別のものに変えようとしているから?それとも、もう私に愛想が尽きたの?)
答えはない。
ただ、白い霧が彼女の視界を塞ぐだけ。
彼女は焦燥に駆られ、ペースを上げた。肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。血液が沸騰したように駆け巡る。苦しい。死ぬほど苦しい。だが、その苦痛の果てに、彼女は奇妙な感覚に囚われた。
(この苦しさを、私は、ずっと前から、知っている?)
肉体的な苦痛が臨界点に達し、思考が白く飛びそうになったその時、不意に視界が開けた。山の中腹にある、小さな展望台だ。手すりといくつかのベンチが設置されている簡素な場所だが、そこからは雲海の下に広がる下界と、頭上に広がる蒼穹が見渡せた。
彼女はそこで足を止め、膝に手をついて激しく息をした。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
汗が滴り落ちる。視界が明滅する。
彼女は顔を上げ、空を見た。
太陽が昇り始め、薄明の空を茜色に染めようとしている。
その光を見ても、今日は目を背けたいとは思わなかった。
静寂。恐ろしいほどの静寂が、そこにあった。だが、それと同時に。
ドクン。ドクン。ドクン。
激しく、強く、生きようとして脈打つ音が、彼女の鼓膜を揺らす。
「……ねえ」
アヤベは自分の胸を鷲掴みにした。
「どうして……こんなに強く動くのよ。私は一人なのに。あの子はいないのに……どうして、私だけがこんなに生命力に溢れているのよ……ッ」
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。その時、ヤンの言葉が、脳裏をよぎった。
(そういえば、ヤンが言ってたわ。……あの子の声は、私の『願い』だって)
アドマイヤベガは、その瞬間にはっと息を呑んだ。
願い――違う。私が願っていたのは、贖罪だ。罰だ。
「じゃあ、この鼓動は……?」
この、溢れ出して止まらないエネルギーは、誰の『願い』だというの?
■
その瞬間、世界が反転した。
霧が晴れるように、アドマイヤベガの記憶の蓋が開く。言葉でもなく、映像でもない。もっと原始的な、魂に刻まれた、記憶の蓋が。
それは、暗くて、狭い場所。命の選別が行われる場所。
誰かと共に、一緒に過ごしていた。一緒に生を受け、一緒に大きくなっていた。誰かと一緒に、これからも過ごすのだろうと思っていた。
だが、ある時に。異変が起こった。血液が沸騰したように駆け巡る。苦しい。死ぬほど苦しい。
その時だ。隣にいた「誰か」。その誰かが、ふっと力を失っていく感覚。私はその時、確かに感じた物があった。
――流れてきたのだ。消えゆくあの子の命が、体温が、意志が。
まるで奔流のように、それは私の身体へと注ぎ込まれた。拒絶することもできたはずだ。一緒に行こうと、手を引くこともできたはずだ。けれど、私はそれを受け入れた。あの子もまた、それを望んで注ぎ込んだ。
『――生きて』
それは、私の細胞の一つ一つに刻まれている、あの子の最期の意志だった。
『ふたりは無理だから。お姉ちゃんにあげる。全部あげる。私の命も、足も、心臓も。全部使って』
(……あぁ。そうだ。妹は、あの子は、一度だって私を責めたことなんてなかった)
あの子は、私を道連れにはしなかった。しがみつくこともしなかった。それどころか――。
(……背中を、押してくれた)
アヤベは息を呑んだ。そうだ。あの時、消えゆくあの子は、残った自分の命を、力を、すべて私に注ぎ込んだのだ。
「私はいいから、お姉ちゃんが行って」と。
私を光の射す方へ、生の世界へと、力一杯押し上げてくれた感触が、魂に刻まれている。
『――いっぱい、走って』
「……ずっと、いたのね」
頭の中に響いていたあの言葉は、その根本は、『願い』は、呪詛なんかじゃなかった。自分のすべてを託した相手への、純粋で、あまりにも切実な『想い』だったのだ。
私の足が速いのは、あの子の分まで力があるから。
私の心臓が強いのは、あの子がくれた命が上乗せされているから。
「……っ!」
全てを自覚した時、アヤベはその場に崩れ落ちそうになった。
「呪っていたんじゃない。……中から、ずっと私の心臓を動かしていた。……走れって。生きろって。……ずっと、叫んでいたのね」
嗚咽が漏れる。それは悲しみの涙ではなく、圧倒的な『愛』に触れた時の、魂の震えだった。
なんという勘違い。なんという独りよがり。あの子はずっと、私を生かそうとしていた。それを私が勝手に「重荷」と呼び、「呪い」へと歪め、あろうことか「自分を傷つける道具」として利用していたなんて。
「……ごめん。……ごめんね」
彼女は自分の胸を強く抱きしめた。そこにある心臓の鼓動は、励ますように、強く強く脈打っている。
ドクン、ドクン。
それは一人分にしては強く、二人分にしては哀しいリズム。けれど、その強さは「罪の証」ではない。あの子が私にくれた「ギフト」だ。私は一人じゃなかった。孤独だと思っていたレースの最中も、絶望していた夜も、この心臓はずっと、二人分の力で私を生かし続けていたのだ。
(……そうだ。『願い』は叶えるものだ)
彼女は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
(―――あの子が自分を犠牲にしてまで、私に見せたかった景色。走って欲しかった場所。それを私が拒絶してどうするの。私が走らなければ、私が前を向かなければ、あの子の死は本当に無駄になってしまう。そんなのは、絶対に嫌だ。あの子の『想い』を無駄にはしない)
世界が変わって見えた。山々の緑は鮮やかで、空はどこまでも高く、風は冷たくも優しかった。それらすべてが、妹が「見たかった」「見せたかった」景色なのだ。
「わかったわ。……もう、呪いだなんて言わない。もう、置いてもいかない。背負うなんて格好いいことも言わない」
彼女は空に向かって、宣言した。
「あなたは私よ。私があなた。……二人で一人のウマ娘、アドマイヤベガ。そうでしょう?」
フワリと、風が彼女の背中を押した気がした。完全に重みが消えたわけではない。だが、その重みは「足枷」から「翼」へと変わっていた。
彼女の背中には、目には見えないが、確かに一対の翼があった。
「……行きましょう。2人で。日本ダービーへ」
彼女は再び走り出した。
来た道を戻る。下り坂。スピードが乗る。普通ならば恐怖を感じるほどの速度だ。
だが、怖くなかった。隣に――いや、内側に、最強の相棒がいるのだから。
■
宿の入り口では、ヤン・ウェンリーが腕組みをして待っていた。その横には、アグネスタキオンが面白そうにストップウォッチを弄んでいる。
「……予定より30分遅いね。遭難でもしたんじゃないかい?」
「いや、いいんだ。……迷子が道を見つけるには、それくらいの時間はかかるさ」
ヤンは山道の方角を見つめたまま言った。
やがて、ザッ、ザッという力強い足音が近づいてきた。姿を現したアドマイヤベガを見て、タキオンが「おや」と声を上げた。
泥だらけのジャージ。乱れた髪。見た目はボロボロだった。だが、その纏っている「気配」が、劇的に変質していた。
昨日までの彼女にあった、内側へ向かう陰鬱な湿り気がない。代わりに、周囲の空気を焼き焦がすような、静かで青白い炎が揺らめいている。
「……おはよう、アヤベ君。随分と長い散歩だったね」
「ええ。……ちょっと、話し込んでいたから」
アヤベは足を止めず、そのまま二人の前まで歩いてきた。
その瞳が、ヤンを射抜く。
そこにはもう、迷いも、依存もなかった。あるのは、対等な「共犯者」としての強い意志だけ。
「……いい顔になった」
「そう?……あなたのおかげよ、ヤン」
アヤベは微かに口角を上げた。それは、彼女が初めて見せた、皮肉っぽくも晴れやかな笑みだった。ヤンは彼女の答えに満足そうに頷いた。
「妹君とは、和解できたかね?」
「和解?……そんな他人行儀なことはしなかったわ」
彼女は自分の胸をトン、と叩いた。
「ただ、一緒になっただけよ。……あの子はもう、私の足を引っ張る幽霊じゃない。私と一緒に走る、もう一つの心臓よ」
「ほう、それは興味深い」
割り込んだのはアグネスタキオンだ。彼女は遠慮なくアヤベに近づくと、その大腿四頭筋に手を触れ、触診を始めた。
「……筋肉の過緊張が完全に消えている。ふむ……ストレス臭と呼ばれる独特な匂いもしない。コルチゾールが落ち着いたか?……それどころか、心拍の回復速度が異常なほど速い」
タキオンは目を細め、白衣のポケットからペンライトを取り出し、アヤベの瞳孔反応を確認した。
「なるほどねぇ。精神的ストレスという『ブレーキ』が消滅したことで、君の持っていた出力が、ロスなく100%駆動系に伝わっている。……理論上はあり得ても、ここまで劇的に肉体が反応するとは」
タキオンは満足げに頷いた。
「おめでとう。君の身体は今、心身ともパーフェクトだ!これなら、あの覇王とも渡り合えるかもしれないねえ!」
「ヤン。……私、決めたわ」
アヤベはタキオンの分析を聞き流し、空を見上げた。雲の切れ間から、太陽の光が差し込んでいる。
「私とあの子をこんな風にした……神様だか運命だかに、喧嘩を売ってやる」
「……喧嘩?」
「ええ。双子としてこの世に生を受けろって言った癖に、蓋を開けたら一人しか生きられませんなんて、理不尽極まりないでしょう?……そんな運命を決めた奴がいるなら、そいつの鼻を明かしてやるの」
彼女の声に、ドス黒いまでの力強さが宿る。それは、あの日、ヤンが語った「復讐」への、彼女なりの回答だった。
「『片割れを失った可哀想な子』?『悲劇のヒロイン』?……ふざけないで。そんなつまらないシナリオ、私が破り捨ててやる」
彼女は拳を握りしめた。
「見てなさい。神様。……あなたが殺したあの子を連れて、私が世界で一番速くゴールする。……『死人が走るわけがない』っていうあなたの理屈(ルール)を、私がこの足で踏み砕いてやるわ」
宣戦布告。天に対する、傲慢極まりない挑戦状。だが、その傲慢さこそが、生き残った者に許された最大の特権だった。
ヤンは、眩しそうに目を細めた。目の前にいるのは、もう守るべき儚い少女ではない。歴史を変える可能性を秘めた、若き英雄だ。
「……やれやれ。神様も相手が悪くてお困りだろうな」
ヤンは帽子を被り直し、ニヤリと笑った。
「いいだろう。その喧嘩、私も一口乗らせてもらおうか。……魔術師として、神様の裏をかくのは得意分野なんでね」
「期待しているわ。……相棒(パートナー)」
アヤベが差し出した手に、ヤンが軽く拳を合わせた。コツン、と硬い音が響く。
■
二人の新たな契約が完了したのを見届け、タキオンが意地悪そうにニヤリと笑った。
「……ところでアヤベ君。一つ質問があるんだが」
「何?タキオンさん」
「大したことではないのだけどねぇ。君、いつから、あの皇帝ですら「トレーナー君」と呼んでいるこの魔術師君のことを、『ヤン』、などと呼び捨てにしているんだい?
皐月賞の前までは、名前で呼ぶどころか『あなた』とか『そこの』とか、ひどい扱いだったじゃないか」
その指摘に、アヤベの動きが一瞬止まった。
「……うるさい」
彼女はバツが悪そうに視線を逸らし、顔を赤くして呟いた。
「……呼びやすいから、……ッ………気まぐれよ、……気まぐれ……!」
そう言って、彼女は逃げるように宿の中へと歩き出した。その背中を見送りながら、ヤンとタキオンは顔を見合わせた。
合宿は終わった。だが、本当の戦いはこれからだ。
皐月賞の覇王テイエムオペラオー。
不屈の委員長ナリタトップロード。
そして、星の願いをその身に宿したアドマイヤベガ。
日本ダービー。すべての星々が衝突する瞬間が、刻一刻と迫っていた。