ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第9話 日本ダービー(前編):星々の煌(きら)めき

 六月初旬。府中・東京レース場。一年で最も太陽が高く昇り、そして最も残酷な選別が行われる日。

 

 そのレースの名は日本ダービー(東京優駿)。

 

 世代の頂点を決めるこの祭典には、10万人を超える観衆が詰めかけ、その熱気で府中の大気は白く歪んで見えた。地響きのような歓声。飛び交う怒号と祈り。それは単なるスポーツの興奮を超え、一種の宗教的な儀式――あるいは、神に捧げる生贄の選定式にも似た、異様な高揚感に包まれていた。

 

 

 パドックのステージ上に、選ばれし18人の若きウマ娘たちが姿を現す。

 カメラのフラッシュが焚かれ、それぞれの名前が呼ばれるたびに、歓声の波が押し寄せる。

 

 その中で、一際大きな注目を集めているのは、やはり皐月賞を制した「覇王」テイエムオペラオーだった。彼女は観衆に向かって優雅に投げキッスを送り、その黄金の髪をなびかせながら、自信に満ちた足取りだ。

 続いて、ナリタトップロード。彼女は緊張した面持ちながらも、スタンドからの「頑張れ!」という声援一つ一つに丁寧に頭を下げ、真摯な闘志を燃やしていた。

 

 そして。アドマイヤベガが入場した瞬間、パドックの空気が、ふっと変わった。

 

 観客たちが、言葉にできない違和感を感じてざわめく。皐月賞での惨敗。その後の沈黙。多くの専門家は彼女を「終わった有力ウマ娘」として扱っていた。

 だが、今そこにいる少女は、敗者の顔をしていなかった。

 かといって、悲壮な決意を秘めた顔でもない。

 

 ただ、静かだった。

 台風の目のような、あるいは青く燃える恒星のような、圧倒的な静謐。

 彼女が歩くたびに、周囲の喧騒が吸い込まれていくような錯覚を覚える。

 

「……ハッハッハ!なるほど、そう来たか!」

 

 その変化に最初に反応したのは、やはりテイエムオペラオーだった。

 彼女はわざわざアヤベの近くまで歩み寄ると、嬉しくてたまらないといった表情で彼女を指差した。

 

「素晴らしいよアヤベさん!ようやく「こちら側」に立ったようだね!まるで別人のようだ。いや、違うな……。ようやく『殻』を脱ぎ捨てて、その輝かしい姿で世に出てきたのだろうね!」

「……相変わらず声が大きいのね、あなたは。オペラオー」

 

 アヤベは静かに返した。以前のような棘はない。ただの事実として述べただけだ。

 

「言っただろう?ボクの舞台には、最高の役者が必要だと。……それにどうやら君は、地獄の底から這い上がるついでに、とんでもない『相棒』を連れてきたようだね」

「ええ。……あなたを倒すための、最高の武器よ」

「歓迎するよ!闇のプリマドンナ改め……『双星の歌姫』とでも呼ぼうか!さあ、ボクを焦がすほどの熱を見せてくれたまえ!」

 

 オペラオーが大仰に両手を広げる。そこへ、ナリタトップロードも駆け寄ってきた。彼女はアヤベの顔を見ると、一瞬だけ驚きに目を見開き、それから安堵したように胸を撫で下ろした。

 

「アヤベさん……。よかった、顔色がすごくいいです」

「……トップロードさん」

 

 アヤベは足を止めた。皐月賞の前。彼女の純粋な善意を、「何も知らないくせに」と切り捨て、傷つけた記憶が蘇る。アヤベは少しだけ視線を伏せ、不器用に口を開いた。

 

「……あの時は、ごめんなさい。ひどいことを言ったわ」

「え?」

「あなたは私を心配してくれたのに……八つ当たりをした。……謝るわ」

 

 それは、孤高を貫いてきた彼女が初めて見せた、他者への歩み寄りだった。トップロードは数秒きょとんとしていたが、すぐに満面の笑みを咲かせた。

 

「いいえ!気にしないでください!私たちはライバルなんですから、気が立つことだってあります!それに……」

 

 トップロードは、アヤベの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「今のその顔を見れば、わかります。アヤベさんが、どれだけの覚悟でここに立っているか。……だから、謝罪なんていりません。その代わり……」

「ええトップロードさん……正々堂々、勝負しましょう」

「はいっ!」

 

 三人の視線が交錯する。

 

 覇王の自信。

 委員長の直向きさ。

 そして、一等星の静寂。

 

 言葉はもういらなかった。彼女たちは互いに頷き合い、それぞれの持ち場(ゲート)へと向かうために散っていった。

 

 

 いよいよ本バ場入場の合図がかかり、各ウマ娘のもとへトレーナーたちが駆け寄る。ヤン・ウェンリーは、人混みを縫うようにしてアドマイヤベガの元へ歩み寄った。

 その表情は、いつも通り眠たげで、緊張感のかけらもない。

 

「やれやれ。10万人越えとは恐れ入る。……これだけの人間が一箇所に集まると、酸素濃度が心配になるな」

「……文句を言わないで。これからが本番よ」

 

 アヤベは呆れたように言いながら、ヤンに向き直った。これから出撃する兵士が、指揮官に最後の指示を仰ぐように。

 

「……ヤン。作戦は?」

「作戦か」

 

 ヤンは帽子を被り直し、少しだけ考え込むような仕草をした。

 

 皐月賞の時、彼は「迷いは致命傷になる」と警告した。

 弥生賞の時は「休め」と言った。

 常に的確で、論理的な指示を出してきた魔術師。

 

 だが、今の彼が口にしたのは、作戦と呼ぶにはあまりにも抽象的な言葉だった。

 

「……好きに走りたまえ」

「は?」

「位置取りも、ペース配分も、仕掛けるタイミングも。……すべて、君の判断に任せる」

 

 アヤベは眉をひそめた。

 

「投げやりね。……職務放棄?」

「とんでもない。最高の信頼の証だよ」

 

 ヤンは、アヤベの胸元を指差した。

 

「君はもう、一人じゃないんだろう?」

「……っ」

「今の君の中には、君よりも君のことを理解している『相棒』がいる。……なら、私が外野から口を出す必要はない。二人で相談して、二人で決めろ」

 

 それは、軍人としてのヤン・ウェンリーが、最も信頼する部下に対してのみ行う「白紙委任」だった。私の策など必要ない。君たちの判断こそが、現場における最適解だと、強烈に告げている。

 

「アヤベ君。……これは、君の人生だ」

 

 ヤンの声が、周囲の歓声を切り裂いて届く。

 

「誰かのためじゃない。償いのためでもない。……君と、君の相棒が、自分たちの意志で選び取る未来だ。だから、好きなように描いてこい」

 

 アドマイヤベガは、数秒間ヤン・ウェンリーを見つめ、そして深く頷いた。

 

「……わかったわ。行ってくる」

「ああ。……楽しんでおいで」

 

 

 ファンファーレが鳴り響く。G1レース特有の、腹の底に響くような重低音。10万人を超える手拍子が、地殻変動のようにスタジアムを揺らす。

 

 ゲートイン。狭い枠内。以前のアヤベなら、ここで耳を塞ぎたくなっていたはずだ。妹の呪詛と、周囲の重圧に押しつぶされそうになっていたはずだ。

 

 だが、今は違う。静かだ。奇妙なほどに、心が凪いでいる。

 

(……ねえ。聞こえる?)

 

 心の中で問いかける。返事はない。幻聴は聞こえない。

 

 だが、感じる。体温。鼓動。全身を巡る血液の熱さ。あの子は今、お喋りな幽霊としてではなく、私の筋肉となり、心肺となって、これから始まる戦いに備えている。

 

(行くわよ。……私たちが一番速いって、証明しに)

 

 ドクン、と心臓が強く跳ねた。それが合図だった。

 

 ガチャアンッ!!機械音と共に、ゲートが開いた。

 

 18人のウマ娘が一斉に飛び出す。アドマイヤベガのスタートは完璧だった。出遅れることもなく、かかりすぎることもなく、流れる水のようにスムーズにコースへ入る。

 

 先頭争いが激化する。逃げウマ娘たちがペースを作る。テイエムオペラオーは、好位の4番手付近。不気味なほど落ち着いている。ナリタトップロードは、その直後。虎視眈々と前を狙っている。

 

 アドマイヤベガは、中団。バ群の中、前後左右をライバルに囲まれた位置。以前なら「閉じ込められた」と恐怖を感じるポジションだ。だが、今のアヤベには、この密集地帯すらも心地よかった。

 

 風の音。蹄鉄の音。

 

 1コーナーを回り、2コーナーへ。向こう正面の長い直線に入る。東京レース場の広大なコースが、彼女たちの前に広がっている。

 

 アヤベは、前を行くオペラオーの背中を見据えた。黄金の覇王。強大な壁。遠い。けれど、届かない距離じゃない。

 

(……まだよ)

 

 彼女は自分の中のエンジンを抑えた。逸る気持ち。爆発したがっている妹のエネルギー。それを理性で御するように、ギリギリのところで制御する。

 

(まだ。……今は耐える時)

 

 ヤンの言葉を思い出す。

 

「君の人生を、君が選べ」。

 

(ここだ。ここで仕掛けるか、待つか)

 

 ―――行きたがる体を抑えきり、彼女は「待つ」ことを選んだ。勝負所はここではない。もっと先。あの巨大なケヤキの木の向こう側。

 

 レースは淀みなく流れる。1000メートルの通過タイムが表示される。平均ペース。誰も脱落しない。誰も諦めない。嵐の前の静けさを含んだまま、18の魂は第3コーナーへと吸い込まれていく。

 

 神様への挑戦状は、まだ封を切られたばかりだ。

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