大欅(おおけやき)の向こう側。
第3コーナーから第4コーナーにかけて、レースは急速にその密度を増していた。18人のウマ娘たちが凝縮し、蹄鉄の音が重なり合って一つの巨大な地鳴りと化す。
スタンドの最上段、屋根の影が落ちる場所で、ヤン・ウェンリーは双眼鏡を構えたまま微動だにしていなかった。その隣で、シンボリルドルフが感嘆のため息を漏らす。
「……見事だ。皐月賞の時とは、まるで走りの質が違う」
彼女の視線の先には、バ群の中で虎視眈々と前を伺うアドマイヤベガの姿があった。
無理がない。力みがない。
周囲の喧騒やライバルの圧力に摩耗することなく、ただ自身の内側にあるエネルギーを循環させ、爆発の時を待っている。
「君は彼女に、どんな魔法をかけたんだ?トレーナー君」
「魔法?……そんな便利なものは持ち合わせていないよ」
ヤンは双眼鏡を下ろさずに答えた。
「ただ、荷物の持ち方を変えさせただけだよ。……背負って歩くには重すぎる岩でも、転がせば強力な武器になるからね」
「……ふふっ、君らしい合理主義だ」
ルドルフは微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。
「だが、相手は甘くないぞ。……見ろ、覇王が動く」
コース上。第4コーナー手前。
それまで不気味なほどの沈黙を守っていたテイエムオペラオーが、ついに動いた。
外へ。外へ。
誰もが恐れる「外枠」の不利すらも、自らを際立たせる演出と言わんばかりに、大外からまくり上げていく。その背中を追って、ナリタトップロードもスパートをかける。
先頭集団が飲み込まれる。王者の進撃。その圧倒的なプレッシャーが、バ群全体を揺さぶる。
「……ここからが、本当のレースの始まりだ」
ヤンの呟きと共に、18人が最後の直線へと雪崩れ込んだ。
■
府中の長い直線。525.9メートル。それは、若き走者たちにとっては永遠にも等しい、心臓破りの坂を含む荒野だ。
「――ハッハッハ!さあ、フィナーレだ!!」
テイエムオペラオーが先頭に躍り出る。その足取りは、力強く、美しい。彼女は知っている。この瞬間のために、このレースを走るウマ娘たちがどれほどの汗を流し、どれほどの孤独に耐えてきたかを。だからこそ、彼女は一番に笑う。苦しければ苦しいほど、彼女の魂は黄金に輝く。
「負けません……ッ!!」
ナリタトップロードが食らいつく。歯を食いしばり、泥臭く、一歩一歩地面を噛みしめる。彼女の原動力は「期待」だ。トレーナーの、ファンの、みんなの想い。それを裏切るわけにはいかない。
二つの光が競り合い、後続を引き離していく。皐月賞の再現だ!誰もがそう思った瞬間だった。
バ群を割って、青い流星が飛び出した。アドマイヤベガだ。
(……捉えた!)
彼女の視界に、オペラオーの背中が入る。距離は3バ身。射程圏内。彼女は内側の「相棒」に合図を送った。
(行くわよ!全開で!)
自身の心臓と、妹の魂を掛け合わせて前に、前にと進む。爆発的な加速に、観客席からは大きな歓声が上がる。一気に差が縮まる。2バ身。1バ身。あっという間にテイエムオペラオーとナリタトップロードに並ぶ。
「――素晴らしい!待っていたよ、双星の歌姫!」
横に並んだオペラオーが、狂喜の笑みを向けてくる。
だが、抜かせない。王者の意地が、さらなる加速を生む。トップロードも変わらずに粘る。誰も遅れない。誰も飛び出ない。横一線の叩き合いだ。
残り200メートル。坂を登り切った地点。ここからが、肉体の限界を超えた領域。
(……くっ!)
アヤベの足が、悲鳴を上げた。酸素がない。筋肉が焼き切れる。やはり、オペラオーは、トップロードは強い。彼女らのその底なしのスタミナと精神力が、壁となって立ちはだかる。
わずかに、アドマイヤベガの足色が鈍る。
離される。
数センチ。数十センチ。
(……だめ、なの?)
皐月賞の記憶がフラッシュバックする。泥沼。敗北。届かない光。私の罪。私の弱さ。―――「死人が勝てるわけがない」という神の嘲笑が聞こえる気がした。
その時だった。
「――お姉ちゃん!」
幻聴ではない。鼓膜を物理的に震わせるほどの、重みを伴った叫び声が。
「負けないで!」
ドクン!!心臓が、内側から殴られたように跳ねた。背中に、温かい手の感触。誰かが押している。もう限界のはずの肉体に、どこからともなく熱い奔流が注ぎ込まれる。
(……あの子?)
そう。あの子だ。幻でも、私の願望が生み出した影でもない。私の片割れ。私にすべてを託してくれた、私の妹。あの子が今、私の背中を全力で押している。
「かっこいいところ、見せてよ!お姉ちゃんは世界一なんだから!あんな金色のやつ、ぶち抜いてよ!!」
「……ふふっ」
極限状態で、アヤベの口元が緩んだ。
生意気。誰に口を利いているの。
私は、あなたのお姉ちゃんよ。
「……わかってるわよ、バカ!」
アドマイヤベガが咆哮した。理屈ではない。理論ではない。魂の質量保存の法則を無視した、生命の暴走とも言える一歩がターフを抉った。
その一歩が、たった一歩が、世界を置き去りにした。
「――なッ!?」
オペラオーが驚愕に目を見開く。トップロードが置き去りにされる。
伸びる。
伸びる。
まるで、見えない翼で滑空するように。
光を超えて、星が走る。
先頭。
ゴール板が見えた。
誰もいない、風の向こう側へ。
「――やった!」
歓喜の声と共に、アドマイヤベガは1着でゴールを駆け抜けた。
■
大歓声が、空から降り注ぐ。
ウイニングラン。だが、アドマイヤベガは観客席を見なかった。彼女は空を見上げていた。青く、澄み渡った六月の空。
(……勝ったわよ)
心の中で語りかける。息は上がっている。足はガクガク震えている。けれど、心の中は不思議なほど静かだった。
「うん。見てた。……お姉ちゃん、すごく、速かった」
―――声がする。それは今までのような、耳元にへばりつくような声ではなかった。もっと澄んだ、風に乗って聞こえてくるような、暖かな声だった。
「かっこいいよ、お姉ちゃん。……私のお姉ちゃんは、やっぱり世界一だった」
その声には、もう未練も、執着もなかった。あるのは、心からの祝福と、満足感。
「……ねえ、お姉ちゃん」
(なあに)
「私、もう行くね」
アヤベの足が止まった。
(……行くって、どこへ?)
「わかんない。でも、もう大丈夫だから。……お姉ちゃんが証明してくれたから。私が生きてたこと。―――私たちが、強かったこと」
妹の声が、少しずつ遠ざかっていく。
背中の重みが、フワリと軽くなる。
翼が解けて、光の粒子になって空へ還っていく感覚。
「これからも、ずっと、かっこいいお姉ちゃんでいてね。……応援しているよ。ずっと、ずっと」
「……待って」
アヤベは空に手を伸ばした。寂しい。どうしようもなく寂しい。――でも、それ以上に、誇らしかった。
あの子が、笑顔で旅立とうとしていることが。
「……ありがとう」
彼女は呟いた。
「さよなら。……私の、最高の妹」
風が吹き抜けた。手の中に残ったのは、確かな勝利の実感と、あの子が生きていたという温かい記憶だけ。
■
「――おめでとう!完敗だ!!」
背後から、明るい声がかけられた。テイエムオペラオーだった。彼女は悔しそうな、それでいて晴れやかな顔でアヤベの肩を叩いた。
「君の勝ちだ。……最後のあの加速、ボクの想像を超えていたよ。一体どんな魔法を使ったんだい?よかったら教えてくれないかな、アヤベさん!」
「……秘密よ。オペラオー」
「アヤベさん!おめでとうございます!」
トップロードも駆け寄ってきて、涙ぐみながらアヤベの手を握った。
「凄いです……!本当に、星みたいに綺麗でした!」
かつては眩しくて直視できなかったライバルたち。でも今は、真っ直ぐに見ることができる。私も、この光の中に立っているのだから。
「……ありがとう。二人とも」
アドマイヤベガは、小さく微笑んだ。それは、憑き物が落ちたような、一等星のように澄んだ笑顔だった。
■
スタンド最上段。大歓声に包まれるコースを見下ろしながら、シンボリルドルフは深く息を吐いた。
「……さすがだね、トレーナー君。まさか、あの状況から差し切るとは」
「私は何もしていないさ」
ヤンは、持参していた古びた水筒の蓋を開けた。立ち昇る湯気と共に、芳醇な紅茶の香りが漂う。
「走ったのは彼女の脚だし、勝てたのは彼女の意志が強かったからだ。……あとは」
ヤンは空を見上げた。
そこには、昼間の星は見えない。だが、彼は知っていた。そこにあるはずの星が、今は少女の胸の中で輝いていることを。
「彼女には、とびきりのファンがついていたからな。……最後の一押しは、そのファンの声援だろう」
「ファン?」
「ああ。一番近くて、一番熱心なファンだ」
ヤンは帽子を被り直し、ニヤリと笑った。そして、空の彼方にいるであろう「神様」に向かって、心の中で語りかけた。
(……どうだい、神様)
彼は、水筒の紅茶を一口啜った。……甘い。
砂糖とブランデーがたっぷりと入った、生きている味だ。
(死者は何も語らない。死者は何も成さない。……それが君の決めた理(ルール)だったな)
眼下では、アドマイヤベガが観衆の声援に応え、手を振っている。その姿は、死の影など微塵も感じさせない、生命の輝きそのものだった。
(だが、見てみろ。これが、生きている者の輝きだ。……死者の想いすらも糧にして、理不尽すらもねじ伏せて、厚かましく輝く命の色だ)
ヤンは鼻を鳴らした。
(ざまあみろ、だな)
「……トレーナー君?何をニヤニヤしているんだ」
「いや。……今日の紅茶は、いつもより少しだけ美味いと思ってね」
ヤン・ウェンリーは背を向け、歩き出した。
その足取りは軽い。彼の背中にもまた、かつて散っていった友たちの「想い」が、翼のように寄り添っているのだろう。
星々の墓標を超えて、魔術師と一等星の旅は、まだ続いていく。
生者の食卓には、今日も温かい紅茶と、未来への物語が用意されているのだから。