ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第10話 日本ダービー(後編):ベガはアルタイルを連れて

 大欅(おおけやき)の向こう側。

 第3コーナーから第4コーナーにかけて、レースは急速にその密度を増していた。18人のウマ娘たちが凝縮し、蹄鉄の音が重なり合って一つの巨大な地鳴りと化す。

 

 スタンドの最上段、屋根の影が落ちる場所で、ヤン・ウェンリーは双眼鏡を構えたまま微動だにしていなかった。その隣で、シンボリルドルフが感嘆のため息を漏らす。

 

「……見事だ。皐月賞の時とは、まるで走りの質が違う」

 

 彼女の視線の先には、バ群の中で虎視眈々と前を伺うアドマイヤベガの姿があった。

 無理がない。力みがない。

 周囲の喧騒やライバルの圧力に摩耗することなく、ただ自身の内側にあるエネルギーを循環させ、爆発の時を待っている。

 

「君は彼女に、どんな魔法をかけたんだ?トレーナー君」

「魔法?……そんな便利なものは持ち合わせていないよ」

 

 ヤンは双眼鏡を下ろさずに答えた。

 

「ただ、荷物の持ち方を変えさせただけだよ。……背負って歩くには重すぎる岩でも、転がせば強力な武器になるからね」

「……ふふっ、君らしい合理主義だ」

 

 ルドルフは微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。

 

「だが、相手は甘くないぞ。……見ろ、覇王が動く」

 

 コース上。第4コーナー手前。

 

 それまで不気味なほどの沈黙を守っていたテイエムオペラオーが、ついに動いた。

 

 外へ。外へ。

 

 誰もが恐れる「外枠」の不利すらも、自らを際立たせる演出と言わんばかりに、大外からまくり上げていく。その背中を追って、ナリタトップロードもスパートをかける。

 

 先頭集団が飲み込まれる。王者の進撃。その圧倒的なプレッシャーが、バ群全体を揺さぶる。

 

「……ここからが、本当のレースの始まりだ」

 

 ヤンの呟きと共に、18人が最後の直線へと雪崩れ込んだ。

 

 

 府中の長い直線。525.9メートル。それは、若き走者たちにとっては永遠にも等しい、心臓破りの坂を含む荒野だ。

 

「――ハッハッハ!さあ、フィナーレだ!!」

 

 テイエムオペラオーが先頭に躍り出る。その足取りは、力強く、美しい。彼女は知っている。この瞬間のために、このレースを走るウマ娘たちがどれほどの汗を流し、どれほどの孤独に耐えてきたかを。だからこそ、彼女は一番に笑う。苦しければ苦しいほど、彼女の魂は黄金に輝く。

 

「負けません……ッ!!」

 

 ナリタトップロードが食らいつく。歯を食いしばり、泥臭く、一歩一歩地面を噛みしめる。彼女の原動力は「期待」だ。トレーナーの、ファンの、みんなの想い。それを裏切るわけにはいかない。

 

 二つの光が競り合い、後続を引き離していく。皐月賞の再現だ!誰もがそう思った瞬間だった。

 

 バ群を割って、青い流星が飛び出した。アドマイヤベガだ。

 

(……捉えた!)

 

 彼女の視界に、オペラオーの背中が入る。距離は3バ身。射程圏内。彼女は内側の「相棒」に合図を送った。

 

(行くわよ!全開で!)

 

 自身の心臓と、妹の魂を掛け合わせて前に、前にと進む。爆発的な加速に、観客席からは大きな歓声が上がる。一気に差が縮まる。2バ身。1バ身。あっという間にテイエムオペラオーとナリタトップロードに並ぶ。

 

「――素晴らしい!待っていたよ、双星の歌姫!」

 

 横に並んだオペラオーが、狂喜の笑みを向けてくる。

 

 だが、抜かせない。王者の意地が、さらなる加速を生む。トップロードも変わらずに粘る。誰も遅れない。誰も飛び出ない。横一線の叩き合いだ。

 

 残り200メートル。坂を登り切った地点。ここからが、肉体の限界を超えた領域。

 

(……くっ!)

 

 アヤベの足が、悲鳴を上げた。酸素がない。筋肉が焼き切れる。やはり、オペラオーは、トップロードは強い。彼女らのその底なしのスタミナと精神力が、壁となって立ちはだかる。

 

 わずかに、アドマイヤベガの足色が鈍る。

 

 離される。

 

 数センチ。数十センチ。

 

(……だめ、なの?)

 

 皐月賞の記憶がフラッシュバックする。泥沼。敗北。届かない光。私の罪。私の弱さ。―――「死人が勝てるわけがない」という神の嘲笑が聞こえる気がした。

 

 その時だった。

 

「――お姉ちゃん!」

 

 幻聴ではない。鼓膜を物理的に震わせるほどの、重みを伴った叫び声が。

 

「負けないで!」

 

 ドクン!!心臓が、内側から殴られたように跳ねた。背中に、温かい手の感触。誰かが押している。もう限界のはずの肉体に、どこからともなく熱い奔流が注ぎ込まれる。

 

(……あの子?)

 

 そう。あの子だ。幻でも、私の願望が生み出した影でもない。私の片割れ。私にすべてを託してくれた、私の妹。あの子が今、私の背中を全力で押している。

 

「かっこいいところ、見せてよ!お姉ちゃんは世界一なんだから!あんな金色のやつ、ぶち抜いてよ!!」

 

「……ふふっ」

 

 極限状態で、アヤベの口元が緩んだ。

 

 生意気。誰に口を利いているの。

 私は、あなたのお姉ちゃんよ。

 

「……わかってるわよ、バカ!」

 

 アドマイヤベガが咆哮した。理屈ではない。理論ではない。魂の質量保存の法則を無視した、生命の暴走とも言える一歩がターフを抉った。

 

 その一歩が、たった一歩が、世界を置き去りにした。

 

「――なッ!?」

 

 オペラオーが驚愕に目を見開く。トップロードが置き去りにされる。

 

 伸びる。

 伸びる。

 まるで、見えない翼で滑空するように。

 光を超えて、星が走る。

 

 先頭。

 ゴール板が見えた。

 誰もいない、風の向こう側へ。

 

「――やった!」

 

 歓喜の声と共に、アドマイヤベガは1着でゴールを駆け抜けた。

 

 

 大歓声が、空から降り注ぐ。

 

 ウイニングラン。だが、アドマイヤベガは観客席を見なかった。彼女は空を見上げていた。青く、澄み渡った六月の空。

 

(……勝ったわよ)

 

 心の中で語りかける。息は上がっている。足はガクガク震えている。けれど、心の中は不思議なほど静かだった。

 

「うん。見てた。……お姉ちゃん、すごく、速かった」

 

 ―――声がする。それは今までのような、耳元にへばりつくような声ではなかった。もっと澄んだ、風に乗って聞こえてくるような、暖かな声だった。

 

「かっこいいよ、お姉ちゃん。……私のお姉ちゃんは、やっぱり世界一だった」

 

 その声には、もう未練も、執着もなかった。あるのは、心からの祝福と、満足感。

 

「……ねえ、お姉ちゃん」

(なあに)

「私、もう行くね」

 

 アヤベの足が止まった。

 

(……行くって、どこへ?)

「わかんない。でも、もう大丈夫だから。……お姉ちゃんが証明してくれたから。私が生きてたこと。―――私たちが、強かったこと」

 

 妹の声が、少しずつ遠ざかっていく。

 背中の重みが、フワリと軽くなる。

 翼が解けて、光の粒子になって空へ還っていく感覚。

 

「これからも、ずっと、かっこいいお姉ちゃんでいてね。……応援しているよ。ずっと、ずっと」

「……待って」

 

 アヤベは空に手を伸ばした。寂しい。どうしようもなく寂しい。――でも、それ以上に、誇らしかった。

 

 あの子が、笑顔で旅立とうとしていることが。

 

「……ありがとう」

 

 彼女は呟いた。

 

「さよなら。……私の、最高の妹」

 

 風が吹き抜けた。手の中に残ったのは、確かな勝利の実感と、あの子が生きていたという温かい記憶だけ。

 

 

「――おめでとう!完敗だ!!」

 

 背後から、明るい声がかけられた。テイエムオペラオーだった。彼女は悔しそうな、それでいて晴れやかな顔でアヤベの肩を叩いた。

 

「君の勝ちだ。……最後のあの加速、ボクの想像を超えていたよ。一体どんな魔法を使ったんだい?よかったら教えてくれないかな、アヤベさん!」

「……秘密よ。オペラオー」

「アヤベさん!おめでとうございます!」

 

 トップロードも駆け寄ってきて、涙ぐみながらアヤベの手を握った。

 

「凄いです……!本当に、星みたいに綺麗でした!」

 

 かつては眩しくて直視できなかったライバルたち。でも今は、真っ直ぐに見ることができる。私も、この光の中に立っているのだから。

 

「……ありがとう。二人とも」

 

 アドマイヤベガは、小さく微笑んだ。それは、憑き物が落ちたような、一等星のように澄んだ笑顔だった。

 

 

 スタンド最上段。大歓声に包まれるコースを見下ろしながら、シンボリルドルフは深く息を吐いた。

 

「……さすがだね、トレーナー君。まさか、あの状況から差し切るとは」

「私は何もしていないさ」

 

 ヤンは、持参していた古びた水筒の蓋を開けた。立ち昇る湯気と共に、芳醇な紅茶の香りが漂う。

 

「走ったのは彼女の脚だし、勝てたのは彼女の意志が強かったからだ。……あとは」

 

 ヤンは空を見上げた。

 そこには、昼間の星は見えない。だが、彼は知っていた。そこにあるはずの星が、今は少女の胸の中で輝いていることを。

 

「彼女には、とびきりのファンがついていたからな。……最後の一押しは、そのファンの声援だろう」

「ファン?」

「ああ。一番近くて、一番熱心なファンだ」

 

 ヤンは帽子を被り直し、ニヤリと笑った。そして、空の彼方にいるであろう「神様」に向かって、心の中で語りかけた。

 

(……どうだい、神様)

 

 彼は、水筒の紅茶を一口啜った。……甘い。

 砂糖とブランデーがたっぷりと入った、生きている味だ。

 

(死者は何も語らない。死者は何も成さない。……それが君の決めた理(ルール)だったな)

 

 眼下では、アドマイヤベガが観衆の声援に応え、手を振っている。その姿は、死の影など微塵も感じさせない、生命の輝きそのものだった。

 

(だが、見てみろ。これが、生きている者の輝きだ。……死者の想いすらも糧にして、理不尽すらもねじ伏せて、厚かましく輝く命の色だ)

 

 ヤンは鼻を鳴らした。

 

(ざまあみろ、だな)

 

「……トレーナー君?何をニヤニヤしているんだ」

「いや。……今日の紅茶は、いつもより少しだけ美味いと思ってね」

 

 ヤン・ウェンリーは背を向け、歩き出した。

 その足取りは軽い。彼の背中にもまた、かつて散っていった友たちの「想い」が、翼のように寄り添っているのだろう。

 

 星々の墓標を超えて、魔術師と一等星の旅は、まだ続いていく。

 

 生者の食卓には、今日も温かい紅茶と、未来への物語が用意されているのだから。

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