日本ダービーという狂熱の祭典が終わり、東京レース場が祭りの後の静寂を取り戻した頃。
場所は変わって、トレセン学園のトレーナー室。
時刻は22時を回っていた。
学園内では、まだ生徒たちがダービーの興奮を語り合っている声が遠くから聞こえてくるが、この部屋だけは別世界のように静まり返っていた。
部屋の主であるヤン・ウェンリーは、愛用のデスクに足を乗せ、天井を仰ぎながらほうと息を吐いた。
「……やれやれ。英雄の補佐も楽じゃないな」
彼のデスクの上には、アドマイヤベガが手にした優勝レイやトロフィーが無造作に置かれている。本来なら神棚にでも飾るべき栄光の証だが、この男にとっては、それらは「激務の残骸」でしかないらしい。
「人間万事塞翁が馬とは言うが、なんとか負けずに済んだ。アヤベ君も前を向けた。戦果としては十分だ」
ひとりごちながら、頭を掻く。彼の手には、いつもの紙コップではなく、少し上等なティーカップが握られていた。中身はもちろん、琥珀色の液体――ブランデーをたっぷりと垂らした紅茶だ。
コンコン。
控えめなノックの音がした。ヤンがデスクから足を下ろし、
「どうぞ」
と声をかけると、ドアがゆっくりと開いた。
入ってきたのは、ジャージ姿のアドマイヤベガだった。
レース直後の泥だらけの姿はなく、シャワーを浴び、髪を整え、いつもの冷静な少女に戻っている。だが、その瞳に宿る光だけは、以前のような冷たい硬質さではなく、どこか柔らかな温度を帯びていた。
「……ヤン。まだ起きていたのね。おじいちゃんみたいに寝ているかと思った」
「ひどい言い草だな。これでも私は、勝利の美酒ならぬ、勝利の紅茶を味わっていたところだよ。アヤベ君」
ヤンは苦笑しながら、向かいのソファを顎でしゃくった。
「座りたまえ。……今日の祝勝会の主役が、こんなむさ苦しい部屋に何のようだ?」
「祝勝会は抜け出してきたわ。……騒がしいのは苦手だし、それに」
アヤベはソファに腰を下ろすと、手に持っていたコンビニのビニール袋をテーブルに置いた。
「……あなたに、お礼を言っていなかったから」
袋から出てきたのは、高級な洋菓子でもシャンパンでもない。コンビニの「どら焼き」と「パックの牛乳」だった。
「……これしか売ってなかったの。購買も閉まってたから」
「ほう。日本ダービーの覇者が、随分と慎ましい差し入れを持ってきたものだ」
ヤンは目を細め、どら焼きを一つ手に取った。
「だが、ありがたい。……空腹は最高のスパイスだと言うが、勝利の後の甘味もまた格別だろう」
ヤンはパッケージを開け、大きく一口かじった。あんこの甘さが口いっぱいに広がる。アヤベもまた、ストローを挿した牛乳を一口飲み、小さく息を吐いた。
静かな時間が流れる。
言葉はいらなかった。
ただ、同じ空間で、同じ時間を共有し、生きていることを確認し合う。
それは、言葉以上に雄弁な対話だった。
やがて、アヤベがぽつりと口を開いた。
「……ねえ、ヤン」
「ん?」
「レースの時……私、聞こえたの」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「あの子の声が。……幻聴じゃない。もっとはっきりとした、重みのある声が。『行け』って、背中を叩かれた気がした」
「……そうか」
「不思議ね。……あんなに怖かったのに。あんなに重かったのに。……今は、あの子がいなくなったことが、寂しいけれど、怖くはないの」
アヤベは天井を見上げた。
その視線は、部屋の天井を突き抜け、はるか彼方の星空を見ているようだった。
「あの子は行ったわ。……きっと、空のずっと高いところへ。でも、置いていかれた感じはしない。私の心臓の一部になって、一緒に生きている……そんな気がするの」
彼女の言葉にヤンは頷き、ティーカップを置いた。
「……死者は、生者の記憶の中で生き続ける。ありふれた言い回しだが、それは真実だ」
ヤンは言った。
「君が走るたびに、君が息をするたびに、妹君もまた走り、呼吸をする。……君が美味しいものを食べて笑えば、妹君も君の中で微笑む。それが『共犯者』として生きるということだ」
「……共犯者」
アヤベは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。
「そうね。……私は二人分食べて、二人分生きなきゃいけない。……結構、大変な役回りだわ」
「ああ、大変だとも。……だからこそ、時にはこうしてサボって、甘いものでも食わなきゃやってられないのさ」
ヤンがどら焼きの残りを口に放り込むと、アヤベはくすりと笑った。
それは、年相応の少女の、あどけない笑顔だった。
■
ふと、アヤベは真剣な眼差しでヤンを見つめた。
合宿の夜、彼が語った「復讐」という言葉。そして、時折見せる深淵のような瞳が、気になったからだ。
「……ねえ。共犯者って、あなたにもいるの?」
「……」
「あなたも……誰か二人分、あるいはもっとたくさんの分を背負って、生きているの?」
核心を突く問いかけ。
ヤンの手が、一瞬だけ止まった。
彼はカップの中の紅茶を見つめ、それからゆっくりと視線を外し、肩をすくめた。
「さあね。……歴史家というのは、過去の亡霊と話すのが仕事みたいなものだからな。いちいち数えていたらきりがないよ」
「……はぐらかすのね」
「はぐらかしてなどいないさ。それに……」
ヤンはニヤリと笑い、アヤベを指差した。
「今の私の共犯者は、目の前にいる君だけだよ。……これ以上増えたら、私の給料と胃袋が持たん」
その軽口に、アヤベは呆れたように息を吐いた。
「……あなたはずるいわ。そうやって、私を煙に巻いて」
「魔術師、だからね」
「……でも、ありがとう」
アヤベは真っ直ぐにヤンを見つめた。
「あなたが私を連れ出してくれなかったら……私は一生、あの子を呪いにして、自分を殺しながら走っていたと思う。……あなたが、私を生かしてくれた」
「買いかぶりだよ」
ヤンは帽子を目深に被り直して、照れ隠しをした。
「私はただ、君という優秀な兵士を、無駄死にさせたくなかっただけだ。……それに、私自身も救われたかったのかもしれないんだ」
「救われたかった?」
「……君が証明してくれたからな」
ヤンは、空になったティーカップを見つめた。
「死を背負っていても、人はこんなにも速く、美しく走れるのだと。……君の走りは、私のような古ぼけた敗残兵にとっても、希望の光だったよ」
沈黙が落ちる。
だが、それは重苦しいものではなく、温かい毛布のような沈黙だった。
二人は知っていた。お互いの傷が完全に癒えることはないかもしれない。
夜中にふと目が覚めて、失ったものの重さに押しつぶされそうになる夜が、また来るかもしれない。
けれど、もう一人ではない。同じ傷を持つ「相棒」が、すぐ隣にいる。
■
安らかな沈黙の中、アヤベがふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば」
「ん?」
「ずっと気になっていたんだけど……『ヤン』って、不思議な響きの名前よね。どこの国の言葉なの?」
シリアスな空気から一転した唐突な問いに、ヤンはきょとんとした顔をした。
「ああ、私のルーツは東洋系の古い血筋だからね。漢字で書けば『楊』だ。あちらでは、石を投げれば当たるほどありふれた名字(姓)だよ」
「……え?」
アヤベの手が止まった。彼女は何度か瞬きをして、ヤンの顔と、机の上の名札を交互に見た。
「……名字?『ヤン』が?」
「そうだが?」
「……じゃあ、『ウェンリー』は?」
「そっちが名前(名)だ。……まさか君、今の今まで私のことを『ヤン』という名前だと思っていたのか?」
ヤンが苦笑すると、アヤベはあからさまに動揺した。頬がわずかに朱に染まる。彼女のような冷静な少女にしては珍しい反応だった。
「だ、だって……みんな『ヤン』って呼ぶから。タキオンさんだって合宿の時に……。それに、あなたが自己紹介で『ヤン・ウェンリーだ』って言うから、響き的にてっきり欧米式なのかなと……」
「………まあ、私はどちらでも構わないんだがね。士官学校時代から『ヤン』と呼ばれ慣れているし」
ヤンは肩をすくめたが、アヤベは納得がいかない様子で唇を尖らせた。
「……構うわよ。だって、それじゃあ私、ずっとあなたを名字で呼び捨てにしてたことになるじゃない」
「他人行儀で結構じゃないか。私たちは礼儀正しいビジネスパートナーだろう?」
「……さっき、『共犯者』って言ったばかりなのに?」
アヤベの上目遣いの反論に、ヤンは言葉を詰まらせた。確かに、『運命を共にする共犯者』であり『魂を救われた相手』を、ビジネスライクに名字で呼ぶというのは、彼女の心情的に許せないのだろう。
「……わかった、わかったよ。好きに呼んでくれ。減るもんじゃない」
ヤンが降参のポーズをとると、アヤベは満足そうに小さく頷いた。
「……ん。そうさせてもらうわ」
彼女の中で、一つの「更新」が行われた瞬間だった。それは、ある意味で自らの内面と向き合うための契約更新であり、そして、隣にいる男との距離の再設定だった。
■
「……さて」
ヤンは立ち上がり、大きく伸びをした。
「夜も更けた。そろそろ寮に戻りたまえ。寮長に『またヤン・ウェンリーがアヤベ君を連れ回した』なんて怒られたら、今度こそ給料を差し止められかねん」
「……ふふっ。そうね」
アヤベも立ち上がり、ゴミを片付けた。
ドアに向かう彼女の足取りは軽い。
その背中には、もう亡霊の影は張り付いていない。
あるのは、見えない翼と、明日への活力だけだ。
「……じゃあ、そろそろ寮へ戻るわね」
ドアノブに手をかけ、彼女は一度だけ振り返った。
「次の菊花賞。……獲りに行くわよ。あの子が『もっと景色を見たい』って言ってるの」
それは、命令とも、誘いともつかない、彼女なりの信頼の証だった。
「……あなたなら、もちろん付き合ってくれるわよね?」
ヤンは一瞬きょとんとして、それから、今までで一番深い笑みを浮かべた。
「……やれやれ。年金生活への道は遠のくばかりか」
彼は帽子を軽く持ち上げた。
「了解だ、フロイライン。地獄の底まで………、いや、星の彼方までお供しよう」
「ええ。頼りにしているわ」
アヤベは、今までで一番柔らかく、そして親愛の情を込めて微笑んだ。
「――おやすみなさい、ウェンリー」
ドアが閉まる。
部屋には再び静寂が戻った。
だが、その空気はもう、孤独の色をしてはいなかった。
■
残されたヤンは、しばらく呆気にとられたようにドアを見つめていたが、やがてポリポリと頭をかいた。
「……ユリアンやフレデリカ以外に、そう呼ばれるのは何年ぶりかね」
ヤンは窓際に立ち、夜空を見上げた。
東京・府中の空に、あの山の中で見た星達は見えない。
だが、彼の目には見えていた。
あの日見た一等星ベガが。
そしてその隣で寄り添う小さな星が、空の上で瞬いているのが。
おもむろに彼は、紅茶が入ったカップを、空に掲げた。
「……乾杯」
誰に向けたものかはわからない。
遥か彼方の友へか。それとも、今日生まれた新たな英雄へか。
いずれにせよ、今夜の一杯は。
彼がこれまでの人生で飲んだものの中で、一番甘く、温かい味がしたことだろう。
(アドマイヤベガ編 完)