ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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エピローグ かささぎの懸け橋

 日本ダービーという狂熱の祭典が終わり、東京レース場が祭りの後の静寂を取り戻した頃。

 場所は変わって、トレセン学園のトレーナー室。

 時刻は22時を回っていた。

 

 学園内では、まだ生徒たちがダービーの興奮を語り合っている声が遠くから聞こえてくるが、この部屋だけは別世界のように静まり返っていた。

 部屋の主であるヤン・ウェンリーは、愛用のデスクに足を乗せ、天井を仰ぎながらほうと息を吐いた。

 

「……やれやれ。英雄の補佐も楽じゃないな」

 

 彼のデスクの上には、アドマイヤベガが手にした優勝レイやトロフィーが無造作に置かれている。本来なら神棚にでも飾るべき栄光の証だが、この男にとっては、それらは「激務の残骸」でしかないらしい。

 

「人間万事塞翁が馬とは言うが、なんとか負けずに済んだ。アヤベ君も前を向けた。戦果としては十分だ」

 

 ひとりごちながら、頭を掻く。彼の手には、いつもの紙コップではなく、少し上等なティーカップが握られていた。中身はもちろん、琥珀色の液体――ブランデーをたっぷりと垂らした紅茶だ。

 

 コンコン。

 

 控えめなノックの音がした。ヤンがデスクから足を下ろし、

 

「どうぞ」

 

 と声をかけると、ドアがゆっくりと開いた。

 

 入ってきたのは、ジャージ姿のアドマイヤベガだった。

 

 レース直後の泥だらけの姿はなく、シャワーを浴び、髪を整え、いつもの冷静な少女に戻っている。だが、その瞳に宿る光だけは、以前のような冷たい硬質さではなく、どこか柔らかな温度を帯びていた。

 

「……ヤン。まだ起きていたのね。おじいちゃんみたいに寝ているかと思った」

「ひどい言い草だな。これでも私は、勝利の美酒ならぬ、勝利の紅茶を味わっていたところだよ。アヤベ君」

 

 ヤンは苦笑しながら、向かいのソファを顎でしゃくった。

 

「座りたまえ。……今日の祝勝会の主役が、こんなむさ苦しい部屋に何のようだ?」

「祝勝会は抜け出してきたわ。……騒がしいのは苦手だし、それに」

 

 アヤベはソファに腰を下ろすと、手に持っていたコンビニのビニール袋をテーブルに置いた。

 

「……あなたに、お礼を言っていなかったから」

 

 袋から出てきたのは、高級な洋菓子でもシャンパンでもない。コンビニの「どら焼き」と「パックの牛乳」だった。

 

「……これしか売ってなかったの。購買も閉まってたから」

「ほう。日本ダービーの覇者が、随分と慎ましい差し入れを持ってきたものだ」

 

 ヤンは目を細め、どら焼きを一つ手に取った。

 

「だが、ありがたい。……空腹は最高のスパイスだと言うが、勝利の後の甘味もまた格別だろう」

 

 ヤンはパッケージを開け、大きく一口かじった。あんこの甘さが口いっぱいに広がる。アヤベもまた、ストローを挿した牛乳を一口飲み、小さく息を吐いた。

 

 静かな時間が流れる。

 言葉はいらなかった。

 ただ、同じ空間で、同じ時間を共有し、生きていることを確認し合う。

 それは、言葉以上に雄弁な対話だった。

 

 やがて、アヤベがぽつりと口を開いた。

 

「……ねえ、ヤン」

「ん?」

「レースの時……私、聞こえたの」

 

 彼女は自分の胸に手を当てた。

 

「あの子の声が。……幻聴じゃない。もっとはっきりとした、重みのある声が。『行け』って、背中を叩かれた気がした」

「……そうか」

「不思議ね。……あんなに怖かったのに。あんなに重かったのに。……今は、あの子がいなくなったことが、寂しいけれど、怖くはないの」

 

 アヤベは天井を見上げた。

 その視線は、部屋の天井を突き抜け、はるか彼方の星空を見ているようだった。

 

「あの子は行ったわ。……きっと、空のずっと高いところへ。でも、置いていかれた感じはしない。私の心臓の一部になって、一緒に生きている……そんな気がするの」

 

 彼女の言葉にヤンは頷き、ティーカップを置いた。

 

「……死者は、生者の記憶の中で生き続ける。ありふれた言い回しだが、それは真実だ」

 

 ヤンは言った。

 

「君が走るたびに、君が息をするたびに、妹君もまた走り、呼吸をする。……君が美味しいものを食べて笑えば、妹君も君の中で微笑む。それが『共犯者』として生きるということだ」

「……共犯者」

 

 アヤベは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。

 

「そうね。……私は二人分食べて、二人分生きなきゃいけない。……結構、大変な役回りだわ」

「ああ、大変だとも。……だからこそ、時にはこうしてサボって、甘いものでも食わなきゃやってられないのさ」

 

 ヤンがどら焼きの残りを口に放り込むと、アヤベはくすりと笑った。

 それは、年相応の少女の、あどけない笑顔だった。

 

 

 ふと、アヤベは真剣な眼差しでヤンを見つめた。

 合宿の夜、彼が語った「復讐」という言葉。そして、時折見せる深淵のような瞳が、気になったからだ。

 

「……ねえ。共犯者って、あなたにもいるの?」

「……」

「あなたも……誰か二人分、あるいはもっとたくさんの分を背負って、生きているの?」

 

 核心を突く問いかけ。

 ヤンの手が、一瞬だけ止まった。

 彼はカップの中の紅茶を見つめ、それからゆっくりと視線を外し、肩をすくめた。

 

「さあね。……歴史家というのは、過去の亡霊と話すのが仕事みたいなものだからな。いちいち数えていたらきりがないよ」

「……はぐらかすのね」

「はぐらかしてなどいないさ。それに……」

 

 ヤンはニヤリと笑い、アヤベを指差した。

 

「今の私の共犯者は、目の前にいる君だけだよ。……これ以上増えたら、私の給料と胃袋が持たん」

 

 その軽口に、アヤベは呆れたように息を吐いた。

 

「……あなたはずるいわ。そうやって、私を煙に巻いて」

「魔術師、だからね」

「……でも、ありがとう」

 

 アヤベは真っ直ぐにヤンを見つめた。

 

「あなたが私を連れ出してくれなかったら……私は一生、あの子を呪いにして、自分を殺しながら走っていたと思う。……あなたが、私を生かしてくれた」

「買いかぶりだよ」

 

 ヤンは帽子を目深に被り直して、照れ隠しをした。

 

「私はただ、君という優秀な兵士を、無駄死にさせたくなかっただけだ。……それに、私自身も救われたかったのかもしれないんだ」

「救われたかった?」

「……君が証明してくれたからな」

 

 ヤンは、空になったティーカップを見つめた。

 

「死を背負っていても、人はこんなにも速く、美しく走れるのだと。……君の走りは、私のような古ぼけた敗残兵にとっても、希望の光だったよ」

 

 沈黙が落ちる。

 だが、それは重苦しいものではなく、温かい毛布のような沈黙だった。

 二人は知っていた。お互いの傷が完全に癒えることはないかもしれない。

 夜中にふと目が覚めて、失ったものの重さに押しつぶされそうになる夜が、また来るかもしれない。

 

 けれど、もう一人ではない。同じ傷を持つ「相棒」が、すぐ隣にいる。

 

 

 安らかな沈黙の中、アヤベがふと思い出したように口を開いた。

 

「……そういえば」

「ん?」

「ずっと気になっていたんだけど……『ヤン』って、不思議な響きの名前よね。どこの国の言葉なの?」

 

 シリアスな空気から一転した唐突な問いに、ヤンはきょとんとした顔をした。

 

「ああ、私のルーツは東洋系の古い血筋だからね。漢字で書けば『楊』だ。あちらでは、石を投げれば当たるほどありふれた名字(姓)だよ」

「……え?」

 

 アヤベの手が止まった。彼女は何度か瞬きをして、ヤンの顔と、机の上の名札を交互に見た。

 

「……名字?『ヤン』が?」

「そうだが?」

「……じゃあ、『ウェンリー』は?」

「そっちが名前(名)だ。……まさか君、今の今まで私のことを『ヤン』という名前だと思っていたのか?」

 

 ヤンが苦笑すると、アヤベはあからさまに動揺した。頬がわずかに朱に染まる。彼女のような冷静な少女にしては珍しい反応だった。

 

「だ、だって……みんな『ヤン』って呼ぶから。タキオンさんだって合宿の時に……。それに、あなたが自己紹介で『ヤン・ウェンリーだ』って言うから、響き的にてっきり欧米式なのかなと……」

「………まあ、私はどちらでも構わないんだがね。士官学校時代から『ヤン』と呼ばれ慣れているし」

 

 ヤンは肩をすくめたが、アヤベは納得がいかない様子で唇を尖らせた。

 

「……構うわよ。だって、それじゃあ私、ずっとあなたを名字で呼び捨てにしてたことになるじゃない」

「他人行儀で結構じゃないか。私たちは礼儀正しいビジネスパートナーだろう?」

「……さっき、『共犯者』って言ったばかりなのに?」

 

 アヤベの上目遣いの反論に、ヤンは言葉を詰まらせた。確かに、『運命を共にする共犯者』であり『魂を救われた相手』を、ビジネスライクに名字で呼ぶというのは、彼女の心情的に許せないのだろう。

 

「……わかった、わかったよ。好きに呼んでくれ。減るもんじゃない」

 

 ヤンが降参のポーズをとると、アヤベは満足そうに小さく頷いた。

 

「……ん。そうさせてもらうわ」

 

 彼女の中で、一つの「更新」が行われた瞬間だった。それは、ある意味で自らの内面と向き合うための契約更新であり、そして、隣にいる男との距離の再設定だった。

 

 

「……さて」

 

 ヤンは立ち上がり、大きく伸びをした。

 

「夜も更けた。そろそろ寮に戻りたまえ。寮長に『またヤン・ウェンリーがアヤベ君を連れ回した』なんて怒られたら、今度こそ給料を差し止められかねん」

「……ふふっ。そうね」

 

 アヤベも立ち上がり、ゴミを片付けた。

 ドアに向かう彼女の足取りは軽い。

 その背中には、もう亡霊の影は張り付いていない。

 あるのは、見えない翼と、明日への活力だけだ。

 

「……じゃあ、そろそろ寮へ戻るわね」

 

 ドアノブに手をかけ、彼女は一度だけ振り返った。

 

「次の菊花賞。……獲りに行くわよ。あの子が『もっと景色を見たい』って言ってるの」

 

 それは、命令とも、誘いともつかない、彼女なりの信頼の証だった。

 

「……あなたなら、もちろん付き合ってくれるわよね?」

 

 ヤンは一瞬きょとんとして、それから、今までで一番深い笑みを浮かべた。

 

「……やれやれ。年金生活への道は遠のくばかりか」

 

 彼は帽子を軽く持ち上げた。

 

「了解だ、フロイライン。地獄の底まで………、いや、星の彼方までお供しよう」

「ええ。頼りにしているわ」

 

 アヤベは、今までで一番柔らかく、そして親愛の情を込めて微笑んだ。

 

「――おやすみなさい、ウェンリー」

 

 ドアが閉まる。

 部屋には再び静寂が戻った。

 だが、その空気はもう、孤独の色をしてはいなかった。

 

 

 残されたヤンは、しばらく呆気にとられたようにドアを見つめていたが、やがてポリポリと頭をかいた。

 

「……ユリアンやフレデリカ以外に、そう呼ばれるのは何年ぶりかね」

 

 ヤンは窓際に立ち、夜空を見上げた。

 東京・府中の空に、あの山の中で見た星達は見えない。

 だが、彼の目には見えていた。

 

 あの日見た一等星ベガが。

 そしてその隣で寄り添う小さな星が、空の上で瞬いているのが。

 

 おもむろに彼は、紅茶が入ったカップを、空に掲げた。

 

「……乾杯」

 

 誰に向けたものかはわからない。

 

 遥か彼方の友へか。それとも、今日生まれた新たな英雄へか。

 

 いずれにせよ、今夜の一杯は。

 

 彼がこれまでの人生で飲んだものの中で、一番甘く、温かい味がしたことだろう。




(アドマイヤベガ編 完)
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