ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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外伝:血塗られざる旗の下(もと)に

 夕闇の生徒会室。

 窓の外には、ダービーの狂騒が嘘のように静まり返った学園の風景が広がっている。

 部屋の中には、書類をめくる音と、時計の秒針の音だけが響いていた。

 

「……それで?君は結局、ダービーの勝利報告書をまだ書いていないんだね?」

 

 生徒会長の執務机から、呆れたような声が飛んだ。シンボリルドルフ。「皇帝」と呼ばれるこの少女は、ヤンに言わせれば『勤務時間外』だというのに、背筋を伸ばし、完璧な執務をこなしていた。

 その対面のソファでは、ヤン・ウェンリーがだらしなく足を組み、紅茶を啜っている。ダービーを制したトレーナーとは思えない、いつもの「穀潰し」の姿だ。

 

「勘弁してくれ、ルドルフ。私の仕事は現場での指揮であって、デスクワークじゃない。それに、勝った理由なんて『運が良かった』の一行で十分だろう?」

「却下だ。……あのアドマイヤベガを、あの短期間で再生させた手腕だ。運で片付けられては、他のトレーナーたちに示しがつかない」

 

 ルドルフはペンを置き、ふう、と息を吐いて椅子に背を預けた。彼女の瞳が、ヤンを真っ直ぐに見つめる。そこにあるのは、純粋な信頼と、尊敬の眼差しだった。

 

「……君は不思議な男だ、トレーナー君」

「そうか?」

「ああ。君はいつも『楽をしたい』『引退したい』『年金生活をしたい』とうそぶく。だが、いざ生徒が危機に瀕すると、誰よりも的確に、そして誰よりも『優しく』救い上げる」

 

 優しく。その言葉に、ヤンはカップを持つ手を僅かに止めた。

 

「……アヤベ君のことか?」

「彼女だけではない。……君の采配には、常に『一人の犠牲も出したくない』という、強い信念を感じるんだ」

 

 ルドルフは微笑んだ。それは、理想に燃える指導者が、同志を見つけた時の清らかな笑みだった。

 

「君は、誰かが傷つくことを誰よりも嫌う。……だからこそ、あのような奇跡的な逆転劇を描けるのだろう?私は、君のその『高潔な精神』を高く評価しているんだ」

 

 ヤンは、何も言えなかった。

 

 ―――高潔。犠牲を嫌う。

 

 もし、彼女が知ったらどう思うだろうか。目の前にいるこの男が、かつて数十万、数百万の将兵を死地に送り込み、作戦とはいえ、多くの人々を死へと追いやった「虐殺者」であることを。「一人の犠牲も出したくない」と思いながら、「より多くの未来」を守るために、友人の死体の上を歩いてきた男であることを。

 

 アグネスタキオンなら、鼻で笑って「矛盾だね」と言うだろうか。

 アドマイヤベガなら、「共犯者ね」と静かに受け入れるだろうか。

 

 だが、シンボリルドルフは違う。彼女は、あまりにも眩しい。彼女の語る「正義」や「理想」には、まだ血の跡がついていない。彼女は本気で、すべてのウマ娘が幸福になる世界を信じている。

 

(……ああ、そうか)

 

 ヤンは、紅茶の湯気越しに彼女を見つめた。なぜ自分が、この堅苦しい「皇帝」のそばにいると、妙に落ち着くのか。その理由がわかった気がした。

 

(彼女は、知らないんだ。私の経歴を)

 

 ヤン・ウェンリーという男の「汚れ」を。

 彼女の瞳に映るヤンは、「ちょっと風変わりだが、有能で優しい魔術師」でしかない。

 

(だがそれは、誤解だ―――しかし、これほど心地よい誤解があるだろうか)

 

 彼女の前でだけは、ヤンは「血塗られた英雄」ではなく、「ただの善良な怠け者」でいられる。彼女の無垢な信頼は、ヤンにとっての「聖域(サンクチュアリ)」だったのかもしれない。

 

「……買いかぶりだよ、ルドルフ」

 

 ヤンは、苦い笑みを隠すようにカップを傾けた。

 

「私はただ、後味が悪いのが嫌いなだけさ。……それに、ルドルフ。君のような完璧超人が睨んでいる前で、あくどい真似はできないよ」

「ふふっ、私が監視役というわけか。……ならば、これからも目を光らせておくとしよう。覚悟したまえ、トレーナー君」

 

 ルドルフは楽しげに笑い、再びペンを執った。

 

 その横顔は、かつてヤンが対峙した「金髪の若者」に似ていて、しかし決定的に違っていた。

 

 彼女には、覇道のために何かを切り捨てる冷酷さがない。その甘さが、危うくもあり、そしてどうしようもなく愛おしい。

 

(……守らなければ、ならないかな)

 

 ヤンは心の中で独りごちた。

 

 この「皇帝」が、血に汚れず、理想を語り続けられるように。君はただ、その綺麗な旗を掲げて、先頭を走っていけばいい。汚れ仕事は、私の役目だ。

 

「……ところで、トレーナー君。報告書の期限は明日までだぞ」

「わかっているよ」

 

 ヤンはわざとらしく肩をすくめた。

 

 窓の外、既に帳が落ちた夜空には、星が見えない。

 

 だが、この部屋の中には、確かに一つの「太陽」があった。

 

 魔術師は、その温かい光に目を細め、静かに夜の紅茶を飲み干した。

 

「……やれやれ、ルドルフの独裁政治には困ったものだ」

「何か言ったかな?トレーナー君。もし、それほどまでに君が望むのならば、書類の提出期限は今日まで、と変更することも出来るが?」

「冗談、冗談だよルドルフ。勘弁してくれ」

 

 ここは、彼が唯一、過去の亡霊から解放される、安らかな場所なのだから。




(アドマイヤベガ編 結)


次編は18日、1900発走

アドマイヤベガ編 外伝

君は、アイダーダウンを知っているか?
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