1話で終わるわけは無い。
アヤベの手によって「スビン・ゴールド無撚糸サテンカバー」という、王侯貴族のような衣を纏ったヤン愛用のクッション。
だが、アドマイヤベガという「ふわふわ」ソムリエにとってそれは、まだ「外壁」の塗装が終わったに過ぎなかった。
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「……いい?ヤン。テキスタイルはあくまで『皮膚』。重要なのは、その下にある『筋肉』と『脂肪』……つまり、フィリング(中材)よ」
彼女は、2つ目の巨大な圧縮袋の封を切った。
プシューーーッ
………という空気の抜ける音が、ヤンにはこれからの長い講義の開始を告げるサイレンのように聞こえた。
(ああ、平和な午後が彼方へと遠のいていく……)
ヤンの考えなどどこ吹く風。袋から現れたのは、真っ白で、どこか湿り気を帯びたような質感の直方体ブロックだった。一見すると巨大な豆腐か、あるいはチーズのようにも見える。
「……なんだい、それは?非常食のカロリーメイトにしては大きすぎるが」
「食べ物じゃないわ。……これは『ヴィスコエラスティック・フォーム』。通称、メモリーフォームよ」
アヤベはその白い塊を、愛おしそうに撫でた。
「1960年代、アメリカ航空宇宙局がある深刻な課題に直面していたのは知っているわよね?」
「……アポロ計画の予算不足かな?」
「違うわ。ロケット打ち上げ時の『重力加速度』よ」
彼女の語り口が、歴史番組のナレーターのように荘厳になった。
「宇宙飛行士にかかる強烈なGを緩和し、衝撃から脊椎を守るために開発された衝撃吸収素材。……それがこのウレタンのルーツ。つまり、この素材には宇宙開発の遺伝子が刻まれているの」
アヤベは、ヤンの手を取ると、そのウレタンに強く押し付けた。奇妙な感覚だった。スポンジのように軽く凹むのではなく、まるで密度の高い泥か、水飴の中に手を突っ込んだように、ねっとりと沈んでいく。
「……なんだ、この感触は。指が吸い込まれていく」
「これが『粘性』よ。……そして、手を離してみて」
ヤンが手を離すと、くっきりと残った手形が、数秒かけてゆっくりと、まるで生き物が呼吸するように元の形に戻っていった。
「そしてこれが『弾性』。……この素材の最大の特徴は、『ヒステリシス・ロス』が極めて高いことにあるの」
「ヒステリシス……?」
「簡単に言えば、加わった力を『変形』という形で吸収し、反発力として返さない性質のこと。……普通のスポンジなら、押した瞬間にバネのように押し返してくるでしょう?それは血管を圧迫し、血流を阻害する『微弱な暴力』なのよ」
アヤベはヤンを置き去りにして熱弁する。
「でも、このヴィスコエラスティックは違う。……あなたの体重、体温、骨格の歪み。すべてを受け入れ、液状化するように変形し、圧力を分散させる。……毛細血管の一本一本まで圧迫から解放する。いわば、重力に対する『無条件降伏』を可能にする素材なの」
「無条件降伏……。私の好きな言葉だね」
「でしょう?でも、ヤン、聞いて。これだけじゃダメなの。このままだと、貴方に出会う前の私と一緒」
アヤベは、白いウレタンを無造作に放り投げた。ドサッ、と重たい音がした。
「……えっ?ダメなのかい?」
「ええ。低反発には致命的な弱点があるわ。……『温度依存性』と『蒸れ』よ」
アヤベは眉をひそめた。ヤンは相変わらず、あっけに取られている。
「ウレタンは化学発泡体。気泡が独立しているから通気性が悪いし、気温が下がると硬くなる。……冬場の朝、石のように硬くなった枕で寝違えるなんて、ただの悲劇よ。あってはならないわ」
彼女は、3つ目の袋から別の素材を取り出した。今度は、クリーム色をした、無数の穴が開いたプルプルした物体だ。
「そこで、この『タラレイ・ラテックス』の出番よ」
ヤンは頭を掻いた。どうやら、まだまだこの講義は続きそうだ。
「……また知らない単語が出てきたな。タラレイというのは、開発者の名前かい?」
「製法の名前よ。……いい?――ラテックス(天然ゴム)には二つの製法があるわ。ダンロップ法と、タラレイ法」
「天然ゴムはどれも一緒じゃないのかい?」
「そんなことあるわけないじゃない」
アヤベの目が鋭くなった。ここからがテストに出るぞ、と言わんばかりだ。
「いい?ダンロップ法は、ゴムを発泡させて焼き固めるだけ。一番身近なものは車のタイヤ。でも、タラレイ法は違う。……型に流し込んだゴムを、一度『真空状態』にして膨らませ、さらにマイナス30度で『急速冷凍』してから、二酸化炭素を注入してゲル化させ、最後に焼き上げるの」
「……料理番組のレシピを聞いている気分になってきたよ」
「似たようなものよ。……この『冷凍』のプロセスが決定的な違いを生むわ。ゴムの気泡が破壊され、全ての気泡がつながった『オープンセル構造』になる。……つまり、通気性が抜群に良くなるの」
アヤベはそのラテックスを、ヤンの目の前でむぎゅっと握りつぶした。ポンッ!と小気味よい音を立てて、瞬時に元の形に戻る。先ほどのウレタンの「ねっとり」とは対照的な、「ぷるん」とした躍動感。
「見て、このレスポンス。……これを『正反発』と呼ぶわ」
「正反発?」
「低反発でも、高反発でもない。……『正』しい反発よ。……重い部分は深く沈み、軽い部分は浅く沈む。そして、沈んだ分だけ、垂直方向に正確に押し返す。……トランポリンの上で寝ているようなものね」
アヤベは恍惚とした表情で、ラテックスの匂いを嗅いだ。
「……ん。ほのかに甘い、バニラのような香り……。これが天然ゴムの証。……ダニも寄せ付けない、高い抗菌作用。……まさに、森がくれた奇跡の樹脂(レジン)よ」
「……なるほど。NASAのウレタンは『包み込む』、ラテックスは『支える』。どちらも素晴らしいことは分かった」
ヤンは腕を組んだ。
「で、君はどちらを私に勧めるつもりなんだい?私は優柔不断でね、二者択一は苦手なんだ」
「愚問ね。……誰が一つ選べと言ったの?」
アヤベは不敵に笑った。
「答えは『積層』よ」
彼女は、ウレタンの上にラテックスを重ね、さらにその上に、極薄の特殊なシートを挟み込んだ。
「下層には、高密度のラテックスを配置して、骨格を強力に支える。……その上に、ヴィスコエラスティック・フォームを重ねて、肉体の凹凸を隙間なく埋める。……そして、最上層には……」
彼女は、掌に乗るほどの少量の綿のようなものを見せた。
「……『駱駝毛』のパッドを敷くわ」
「……ラクダ?」
「ゴビ砂漠の寒暖差40度を生き抜く、最強の調湿繊維よ。……ウレタンの弱点である『蒸れ』を、このキャメルが全て吸い取り、ラテックスの通気孔を通して外部へ放出する」
アヤベは、完成した「積層クッション」を、スビン・ゴールドのカバーに慎重に押し込んだ。パンパンに詰まったクッションは、もはや単なる寝具ではない。人類の叡智と、地球上のあらゆる過酷な環境(宇宙、熱帯雨林、砂漠)を生き抜くためのテクノロジーが凝縮された、彼女に言わせれば「生命維持装置」だった。
「……完成よ」
アヤベは額の汗を拭った。
「名付けて、『ハイブリッド・ゼロ・グラビティ・システム』」
「……名前が仰々しいな」
「機能に見合った名前よ。……さあ、ヤン。座って」
促されるまま、ヤンは恐る恐る、そのシステム(クッション)に背中を預けた。
……瞬間。背中が消えた。
「……!?」
いや、消えてはいない。だが、背中とクッションの境界線が消失したのだ。最初は、NASAのウレタンが背中のカーブに溶け込むように変形し、次の瞬間、ラテックスの弾力が、まるで水圧のように下から優しく押し上げてくる。そして、肌に触れるスビン・ゴールドとキャメル毛が、不快な湿気を一瞬で吸い取る。
熱くもなく、寒くもなく。硬くもなく、柔らかくもなく。ただ、「そこに存在しても良い」という全肯定の感覚だけがある。
「……アヤベ君」
「何?」
「……これは、危険だ。二度と立ち上がれなくなる」
「計算通りよ」
アヤベは、勝利のVサインをした。その顔は、どことなく、日本ダービーを勝った時よりも誇らしげに見えた。
「……でも、まだ終わらないわ。これはあくまで『背中』の話」
彼女は、残された最後の、そして最大の袋に目を向けた。
「……これから、あなたの『腕』と『精神』を支配する、最強の捕獲兵器……『アイダーダウン』について講義するわ」
ヤン・ウェンリーは、深すぎるクッションの沼に沈み込みながら、遠のく意識の中で悟った。
………今日の夕食までに、この部屋から脱出することは不可能である、と。
まだ続きます。ふわふわTIME。