ナリタブライアンの衝撃的なデビューは、序章に過ぎなかった。
皐月賞、日本ダービー。
クラシックの栄光ある二つの舞台は、彼女にとっては文字通りの、ただの通過点となった。ヤンが提示する冷徹なまでの『設計図』と、ブライアンが持つ規格外のエンジンが組み合わさり、他者はその影さえ踏むことが許されなかった。
「流石だな、トレーナー君。ブライアンをここまで昇華させるとは」
「ルドルフ。そうは言うけどね。彼女の考えうる本来の実力からすると、こんなもんじゃないんだ」
「ほう?」
「もしかしなくても、君以上かもしれないよ」
だが、ヤンは決して満足していなかった。それが証拠に、ダービーを圧勝し、二冠を達成した直後。祝勝ムードに沸く周囲をよそに、ヤンはブライアンに一枚のデータを突きつけた。
「……なんだ、これは」
「君の、レース中の身体にかかった負荷の部位別データだ。皐月賞の時と比較して、右脚への負担がすこしばかり上昇している。誤差の範囲内だが、看過はできない」
「……勝った。レコードも更新した」
ブライアンの声には、わずかな苛立ちが混じっていた。これだけの結果を出しても、この男は「おめでとう」の一言も言わない。
「お前、何が不満なんだ」
ヤンは、ぬるい紅茶を一口すすると、静かに言った。
「戦いに勝つことと、戦争に勝つことは違う。君の最終目標は、ダービーを勝つことなのかな?」
その言葉に、ブライアンはハッとした。そうだ、私にとってはここは通過点である、と。
「……違うだろう?我々が目指しているのは、君という存在を、歴史上、誰にも到達し得なかった『完璧な競走ウマ娘』として完成させることだ。そのためには、どんな些細な綻びも見逃すわけにはいかない」
そして彼女は気づいていなかった。この男が目指している場所の、途方もない高さを。彼は、目の前の勝利ではなく、その先にある「歴史」そのものを見据えているのだ。
「……好きにしろ」
そう吐き捨てて背を向けたブライアンの胸に、初めて「勝利」以上の、未知なる目標への渇望が灯っていた。
そして、三冠最後の菊花賞。世間の注目は、ナリタブライアンが
『レース中盤、一度だけ、完全に力を抜け』
長距離レースである菊花賞。スタミナ温存が鍵となるのは分かる。だが、ヤンの指示は単なるペースダウンではなかった。呼吸、筋肉の弛緩、精神の集中に至るまで、まるで走行中に「睡眠」をとるかのような、極めて高度で危険な要求。一歩間違えば、致命的な遅れにつながる。
「……正気か?」
「歴史を変える者は、いつだって正気と狂気の間にいるものだよ」
ヤンはこともなげに答えた。
「君ならできる。君の身体は、私が保証する」
そして迎えたレース当日。
ブライアンは淀のターフを、いつものように力強く駆けていた。そして、運命の向こう正面。観客も解説者も、誰もが固唾をのんで見守る中、彼女の走りが、ふっと、静かになった。
まるで風と一体化したかのように、一切の力みが消える。順位がずるずると後退していく。
『な、ナリタブライアン、どうしたーッ!故障か!?まさかの失速!』
悲鳴が上がるスタジアム。だが、その喧騒の中、ブライアンはヤンの言葉だけを信じていた。自分の身体が、かつてないほど軽く、力が満ちていくのを感じながら。
そして、最後の直線。
他者がスタミナの限界を迎え、脚色が鈍り始めた、その瞬間。眠りから覚めた怪物は、再びターフを『穿った』。
「―――ッ!」
それは、加速という現象ではなかった。他のウマ娘たちが走る世界と、ナリタブライアンが走る世界。まるで、流れる時間の速さそのものが違うかのようだった。温存され、回復さえしたエネルギーが、一度に爆発する。
ごぼう抜き、という言葉では生ぬるい。まるで静止しているライバルたちの横を、一人だけが未来へと突き進んでいく。
ゴールした時、2着との差は、菊花賞史上最大着差となる7バ身。ここに、史上5人目となる、無敗の三冠ウマ娘が誕生した。
だが、歴史的な偉業を成し遂げたブライアンがトレーナー室に戻った時、ヤン・ウェンリーは、祝杯をあげるでもなく、一人静かに次のレースのデータを眺めていた。
「……アンタは、嬉しくないのか」
ブライアンは、ずっと疑問だったことを口にした。デビュー戦の時も、二冠の時も、そして今も。この男は、一切の歓喜を見せない。ヤンは、画面から目を離さずに答えた。
「嬉しいか、と聞かれれば、嬉しいのかもしれない。だが、一つの勝利は、歴史という長大な物語における、たった一つの句読点に過ぎない。重要なのは、その文章がいかに美しく、淀みなく、完璧な論理で構築されているかだ」
彼は初めて、画面から顔を上げ、ブライアンをまっすぐに見た。
「今日の君の走りは、実に美しかった。特に、あの中盤の『静寂』は。あれで、君の身体への負荷は、ダービー時よりも
ブライアンは、何も言えなかった。
この男が味わっている歓喜は、自分が知るものとは全く違う次元にある。勝利の美酒ではなく、完璧な数式が証明された瞬間に似た、静かで、どこまでも深い知的な悦びなのだろう。
「……次は何をすればいい」
気づけば、ブライアンはそう口にしていた。ヤンは、満足げに口の端を上げた。
「よくぞ聞いてくれた。次は、年末の有マ記念だ。ベテランの猛者たちが相手になる。つまり、君という『兵器』が、いよいよ本格的な実戦に投入されるわけだ。実に興味深いと思わないかい?」
無敗の三冠達成。それは、ナリタブライアンにとって、ヤン・ウェンリーにとって、ゴールではなく、真のスタートラインだった。
「トレーナー。アンタ、変わっているな」
「何、君ほどではないさ」
魔術師が描く完璧な『設計図』を、その身で体現するために。彼女は、孤独な戴冠式を終え、次なる戦場へと静かに歩みを進める。