ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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怪物と魔術師2―孤独な戴冠式

 ナリタブライアンの衝撃的なデビューは、序章に過ぎなかった。

 

 皐月賞、日本ダービー。

 

 クラシックの栄光ある二つの舞台は、彼女にとっては文字通りの、ただの通過点となった。ヤンが提示する冷徹なまでの『設計図』と、ブライアンが持つ規格外のエンジンが組み合わさり、他者はその影さえ踏むことが許されなかった。

 

「流石だな、トレーナー君。ブライアンをここまで昇華させるとは」

「ルドルフ。そうは言うけどね。彼女の考えうる本来の実力からすると、こんなもんじゃないんだ」

「ほう?」

「もしかしなくても、君以上かもしれないよ」

 

 だが、ヤンは決して満足していなかった。それが証拠に、ダービーを圧勝し、二冠を達成した直後。祝勝ムードに沸く周囲をよそに、ヤンはブライアンに一枚のデータを突きつけた。

 

「……なんだ、これは」

 

「君の、レース中の身体にかかった負荷の部位別データだ。皐月賞の時と比較して、右脚への負担がすこしばかり上昇している。誤差の範囲内だが、看過はできない」

 

「……勝った。レコードも更新した」

 

 ブライアンの声には、わずかな苛立ちが混じっていた。これだけの結果を出しても、この男は「おめでとう」の一言も言わない。

 

「お前、何が不満なんだ」

 

 ヤンは、ぬるい紅茶を一口すすると、静かに言った。

 

「戦いに勝つことと、戦争に勝つことは違う。君の最終目標は、ダービーを勝つことなのかな?」

 

 その言葉に、ブライアンはハッとした。そうだ、私にとってはここは通過点である、と。

 

「……違うだろう?我々が目指しているのは、君という存在を、歴史上、誰にも到達し得なかった『完璧な競走ウマ娘』として完成させることだ。そのためには、どんな些細な綻びも見逃すわけにはいかない」

 

 そして彼女は気づいていなかった。この男が目指している場所の、途方もない高さを。彼は、目の前の勝利ではなく、その先にある「歴史」そのものを見据えているのだ。

 

「……好きにしろ」

 

 そう吐き捨てて背を向けたブライアンの胸に、初めて「勝利」以上の、未知なる目標への渇望が灯っていた。

 

 そして、三冠最後の菊花賞。世間の注目は、ナリタブライアンが()()の三冠を達成できるか、その一点に注がれていた。だが、ヤンがブライアンに渡した『設計図』は、これまでで最も不可解なものだった。

 

『レース中盤、一度だけ、完全に力を抜け』

 

 長距離レースである菊花賞。スタミナ温存が鍵となるのは分かる。だが、ヤンの指示は単なるペースダウンではなかった。呼吸、筋肉の弛緩、精神の集中に至るまで、まるで走行中に「睡眠」をとるかのような、極めて高度で危険な要求。一歩間違えば、致命的な遅れにつながる。

 

「……正気か?」

「歴史を変える者は、いつだって正気と狂気の間にいるものだよ」

 

 ヤンはこともなげに答えた。

 

「君ならできる。君の身体は、私が保証する」

 

 そして迎えたレース当日。

 

 ブライアンは淀のターフを、いつものように力強く駆けていた。そして、運命の向こう正面。観客も解説者も、誰もが固唾をのんで見守る中、彼女の走りが、ふっと、静かになった。

 

 まるで風と一体化したかのように、一切の力みが消える。順位がずるずると後退していく。

 

『な、ナリタブライアン、どうしたーッ!故障か!?まさかの失速!』

 

 悲鳴が上がるスタジアム。だが、その喧騒の中、ブライアンはヤンの言葉だけを信じていた。自分の身体が、かつてないほど軽く、力が満ちていくのを感じながら。

 

 そして、最後の直線。

 

 他者がスタミナの限界を迎え、脚色が鈍り始めた、その瞬間。眠りから覚めた怪物は、再びターフを『穿った』。

 

「―――ッ!」

 

 それは、加速という現象ではなかった。他のウマ娘たちが走る世界と、ナリタブライアンが走る世界。まるで、流れる時間の速さそのものが違うかのようだった。温存され、回復さえしたエネルギーが、一度に爆発する。

 

 ごぼう抜き、という言葉では生ぬるい。まるで静止しているライバルたちの横を、一人だけが未来へと突き進んでいく。

 

 ゴールした時、2着との差は、菊花賞史上最大着差となる7バ身。ここに、史上5人目となる、無敗の三冠ウマ娘が誕生した。

 

 だが、歴史的な偉業を成し遂げたブライアンがトレーナー室に戻った時、ヤン・ウェンリーは、祝杯をあげるでもなく、一人静かに次のレースのデータを眺めていた。

 

「……アンタは、嬉しくないのか」

 

 ブライアンは、ずっと疑問だったことを口にした。デビュー戦の時も、二冠の時も、そして今も。この男は、一切の歓喜を見せない。ヤンは、画面から目を離さずに答えた。

 

「嬉しいか、と聞かれれば、嬉しいのかもしれない。だが、一つの勝利は、歴史という長大な物語における、たった一つの句読点に過ぎない。重要なのは、その文章がいかに美しく、淀みなく、完璧な論理で構築されているかだ」

 

 彼は初めて、画面から顔を上げ、ブライアンをまっすぐに見た。

 

「今日の君の走りは、実に美しかった。特に、あの中盤の『静寂』は。あれで、君の身体への負荷は、ダービー時よりも()()()()()は軽減されている。これこそが、私にとっては最高の勝利だよ」

 

 ブライアンは、何も言えなかった。

 

 この男が味わっている歓喜は、自分が知るものとは全く違う次元にある。勝利の美酒ではなく、完璧な数式が証明された瞬間に似た、静かで、どこまでも深い知的な悦びなのだろう。

 

「……次は何をすればいい」

 

 気づけば、ブライアンはそう口にしていた。ヤンは、満足げに口の端を上げた。

 

「よくぞ聞いてくれた。次は、年末の有マ記念だ。ベテランの猛者たちが相手になる。つまり、君という『兵器』が、いよいよ本格的な実戦に投入されるわけだ。実に興味深いと思わないかい?」

 

 無敗の三冠達成。それは、ナリタブライアンにとって、ヤン・ウェンリーにとって、ゴールではなく、真のスタートラインだった。

 

「トレーナー。アンタ、変わっているな」

「何、君ほどではないさ」

 

 魔術師が描く完璧な『設計図』を、その身で体現するために。彼女は、孤独な戴冠式を終え、次なる戦場へと静かに歩みを進める。

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