ヤン・ウェンリーの部屋は、すでに「寝具の見本市」と化していた。
スビン・ゴールドのカバー、タラレイ・ラテックスの反発力、キャメル毛の吸湿性。これら複合的な要素によって、ヤンの背中はすでに重力圏を離脱しつつあった。
だが、アドマイヤベガ――この部屋を支配する繊維学(ふわふわ)の独裁者――は、まだ満足していなかった。
彼女は、部屋の隅に鎮座していた最後の、そして最大の袋に手をかけた。その動作は、核ミサイルの発射スイッチに手をかける兵士のように慎重で、儀式的だった。
■
「……いい?ヤン。心して、聞いて」
アヤベの声のトーンが、一段低くなった。それは恐怖を煽る声ではない。神殿の奥で秘儀を語る巫女のような、静謐な響きだった。
「これまでの装備は、あくまで『肉体』を支えるためのもの。……でも、真の休息には『精神』の安定が不可欠よ。これから紹介するのは、あなたの心を物理的に捕獲し、強制的に安らぎの彼方へ連行する……言わば『魂の檻』よ」
「……魂の檻。随分と物騒な名前だね。中身はなんだい?見た目はダウン……まぁ、君の事だから……例えばだが、高級羽毛……ポーランド産のマザーグースかい?」
ヤンが尋ねると、アヤベは「ふっ」と、哀れむように笑った。
「……マザーグース。ええ、ヤン。貴方の考察は実に素晴らしいわ。通常のダウンの中では最高峰よ。でも……」
彼女は袋のジッパーをゆっくりと開いた。現れたのは、星の形をしたクッション。だが、その佇まいは異様だった。パンパンに膨らんでいるのではない。どこか「しっとり」としていて、置かれた場所に吸い付くように鎮座している。
「……上には上がいるの。これは『アイダーダウン』よ」
「……アイダーダウン?」
「ええ。アイスランドの断崖絶壁、極寒の海岸線に生息する野生のカモ、Somateria mollissima(ソマテリア・モリッシマ)よ」
学名が出た。ヤンは紅茶に伸ばしかけた手を、思わず止めた。
「彼らは渡り鳥じゃない。一年中、あの凍てつく北極圏に留まるの。……だから、その羽毛は進化の極致に達している。マイナス30度の暴風雪の中でも、体温を38度に保ち続ける断熱性能。……これはもはや、羽毛というより『熱交換システム』なのよ」
アヤベはクッションを両手で持ち上げた。
「……軽い。質量を感じさせない軽さよ。理事長には感謝してもしきれないわ」
だが、ヤンの目は誤魔化せなかった。そのクッションが、アヤベの指の形に合わせて、生き物のように変形しているのを。
「トレーナー。あなたはダウンの品質を『フィルパワー(嵩高)』で決まると思っているでしょう?」
「……違うのかい?膨らめば膨らむほど、空気をたくさん含むと聞いたが」
「それは一般論よ。……アイダーダウンの世界では、その常識は通用しない」
アヤベの瞳が、妖しく光った。
「アイダーダウン最大の特徴。それは……『スティッキー(絡み合い)』よ」
「……スティッキー?」
「見て」
アヤベは、クッションの生地越しに、中の羽毛の動きを見せるように揉み込んだ。普通のクッションなら、中の羽毛はサラサラと逃げていく。だが、これは違った。中身が「一塊」になって動くのだ。
「普通のダウンは、タンポポの綿毛のように独立しているわ。でも、アイダーダウンの小羽枝(バービュール)には、特殊な『鉤(かぎ)』状の組織があるの。……それが互いに強固に絡み合って、離れない」
彼女は熱っぽく語る。
「たとえ強風が吹いても、絶対にバラバラにならない。……羽毛同士が手を繋ぎ、スクラムを組んで、温かい空気の層(デッドエア)を逃さないようにロックしているの。……分かる? これは『結束』の力よ。チーム・ヤンの絆よりも強いかもしれないわ」
「……私のチームの結束力がカモ以下だとは認めたくないが、理屈は分かった」
「このスティッキー性が生むのは、圧倒的な『保温力』だけじゃない。……独特の『吸着感』よ」
アヤベはクッションをヤンに手渡した。ヤンは受け取った。その瞬間。彼の両手が、クッションに「食べられた」。
「……!?」
いや、物理的に食べられたわけではない。だが、手を沈めた瞬間、クッションがヤンの腕の形状を完璧にトレースし、吸い付いてきたのだ。反発力はない。かといって、底付き感もない。ただ、そこに「無」があるような。あるいは、温かい水の中に手を突っ込んだような感覚。
「……なんだ、これは。指が……抜けない」
「そう。一度触れたら、もう逃げられない。……体温を瞬時に感知し、輻射熱として送り返してくる。あなたが熱を発する限り、このクッションは永久にあなたを温め続けるわ」
アヤベは恍惚とした表情で呟いた。
「……まるで、母親の胎内にいるような絶対的な安心感。……重力も、義務も、過去の後悔さえも、すべてこの絡み合う羽毛の隙間に吸い込まれて消えていく……。これがアイダーダウンの魔力、事象の地平線(イベント・ホライゾン)よ」
「……すごいな。確かにこれは、ただの寝具ではない」
ヤンは認めざるを得なかった。このクッションを抱いているだけで、脳内のベータ波が消え、アルファ波、いやシータ波が溢れ出してくるのが分かる。だが、一つだけ気になることがあった。
「……ところでアヤベ君。このアイダーダウン、どうやって採取するんだい?野生のカモなんだろう?」
「良い質問ね」
アヤベは、少しだけ悲しげな、しかし誇らしげな顔をした。
「……むしるのよ」
「……えっ?」
「母鳥が、自分で自分の胸の毛をむしるの。……産卵の時期、卵を寒さから守るために、彼女たちは自らの最高品質のダウンをくちばしで引き抜き、巣に敷き詰める。……それは、身を削った『愛』そのものよ」
アヤベは胸に手を当てた。
「人間は、その巣からダウンをいただくわ。でも、卵があるうちは取らない。……ヒナが無事に孵り、巣立った後。その空っぽになった巣に残された『母の愛の抜け殻』を、農家の人々が手作業で、一つ一つ拾い集めるの」
彼女は静かに言った。
「洗浄に洗浄を重ね、不純物を取り除き、わずかに残るダウンは、巣一つからわずか20グラム程度。……このクッション一つを作るのに、どれだけの巣が必要か。どれだけの母鳥の献身が詰まっているか……想像できる?」
ヤンは、腕の中のクッションを見つめ直した。軽い。だが、その軽さの中に、途方もない重みを感じた。それは生命の営みそのものの重さだ。
「……なるほど。これは、値段を聞くのが野暮というものだね」
「ええ。……愛に値段をつけるなんて、資本主義の悪い癖よ。……ただ、これ一つで中古車が買える、とだけ言っておくわ」
「……君、金銭感覚までマリー・アントワネットになっていないかい?」
「ええ。だからこそ、本当に理事長には感謝してもしきれないわ」
■
「……さあ、講義は終了よ」
アヤベは、自分用の――当然のように持ち込んでいた――アイダーダウンの星型クッションを抱きしめた。
「ここからは『実地検証』の時間」
そして、すでに要塞化していたヤンのソファの空きスペース、……と言っても、アヤベ一人が座るのがやっとの隙間に、音もなく滑り込んだ。
「……ちょ、ちょっとアヤベ君。そこは狭いんじゃないか?」
「問題ないわ。……アイダーダウンは圧縮できるから」
彼女はそう言うと、クッションを抱いたまま、ヤンの肩に寄りかかるようにして体を預けた。二つの星型クッションが、ぶつかり合い、そして「スティッキー」な性質によって、互いに絡み合うように一体化する。
「……どう?ヤン」
アヤベの声が、遠く聞こえた。
「背中には、ラテックスの正反発。肌には、スビン・ゴールドの滑らかさ。そして腕の中には、アイダーダウンの温もり……ふわふわの城よ」
ヤンは目を閉じた。抗えなかった。もはや、指一本動かす気力が湧かない。泥のような眠気ではない。温かい雲の上に引き上げられていくような、浮遊感を伴う眠気だ。
「……アヤベ君。……これは、兵器だ。人間をダメにする戦略兵器だ」
「……ふふっ。……光栄ね」
アヤベが小さく笑った。だが、その声にはもう、先ほどまでの「講義モード」の鋭さはなかった。彼女自身もまた、自らが構築した「最強の睡眠環境」の魔力に、抗うすべを持っていなかったのだ。
「……ねぇ、ウェンリー」
「……ん?」
「……ふわふわは……正義、よね……」
「……ああ。……歴史が証明しているよ……」
会話はそこで途切れた。
アドマイヤベガの頭が、ことん、とヤンの肩に乗った。普段なら絶対にありえない距離感。だが、アイダーダウンという「事象の地平線」の中では、個体と個体の境界線すらも曖昧になっていた。
彼女の寝息は、驚くほど静かだった。かつて悪夢にうなされ、夜中に飛び起きていた少女は、今はただ、母鳥の羽毛に包まれて、泥のように深く、安らかに眠っている。
ヤン・ウェンリーは、薄れゆく意識の中で思った。
(……ま、たまにはこんな日曜日も悪くないか)
紅茶が冷めていく。だが、このアイダーダウンがある限り、二人の体温が冷めることはないだろう。
午後の日差しが、二つの「星」を優しく照らしていた。そこにあるのは、トラウマも、義務も、勝利への執着もない。ただ、世界最高峰の素材に守られた、完璧な静寂だけだった。
お付き合いありがとうございました。微力を尽くしましたが、これ以上のふわふわ道を語るのは、私には無理です。
アヤベさんの熱意、ほんの少しでも感じ取っていただけたのであれば幸いでございます。
ちなみに。
ヤンの隣をぶんどったアヤベさんを見て、どっかの妹が「お姉ちゃんナーイス!」と喜んでそう。知らんけど。(完)