ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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カワイイの権化による、静かなるアヤベさん回収作戦

 時刻は夕刻。窓の外では、空が茜色から群青色へとグラデーションを変え始めていた。だが、ヤン・ウェンリーのトレーナー室において、時間の概念は意味を成していなかった。

 

 そこは、重力が機能不全を起こした特異点(シンギュラリティ)であった。スビン・ゴールドのカバー、タラレイ・ラテックスの反発力、そして最高級品アイダーダウンの魔力。これら複合的な「快楽の檻」に捕らわれた二人の人間――ヤン・ウェンリーとアドマイヤベガ――は、泥のような、しかし極めて透明度の高い睡眠の底に沈んでいた。

 

 静寂。

 

 世界から隔絶されたシェルター。

 

 だが、いかなる堅牢な要塞も、内側からの崩壊か、あるいは規格外の侵入者によって破られるのが歴史の常である。

 

 

 コン、コン。

 

 軽やかな、リズム感のあるノックの音が響いた。それは、アヤベの攻城槌のようなノックとは対照的な、小鳥がついばむような愛らしい音だった。しかし、2人に反応はない。

 

 ガチャリ。

 

 鍵がかかっていなかったドアノブが、躊躇なく回された。隙間から、ひょっこりと葦毛の髪が覗く。

 

「……失礼しまーす♪  鍵、開いてますよー?」

 

 現れたのは、カレンチャンである。彼女は、この部屋の主(ヤン)とは特に繋がりがあるわけではない。アドマイヤベガを連れ出した恩人ではあるという認識ぐらいだ。

 だが、彼女にとって「知らないチームの部屋」に入ることなど、隣のコンビニに行くのと大差ないハードルでしかなかった。

 

 今の彼女には、「門限までに迷子のアヤベさんを回収する」というミッションがあるのだから。

 

「もー、アヤベさんったら。寮監が見回りに来ちゃうのに……」

 

 カレンチャンは、音もなく部屋に侵入した。彼女の足取りは、忍びのように気配を消している。そして、リビングの中央に鎮座する「それ」を見て、足を止めた。

 

「……わぁ」

 

 彼女は目を丸くした。そこには、白いカバーと無数のクッションで構築された、巨大な「鳥の巣」のようなものが存在していた。そしてその中心で、二つの影が折り重なるように眠っていた。

 

「……なるほどぉ。これが噂の『魔術師のおじさま』と、アヤベさんの秘密基地ってわけね」

 

 カレンチャンは、興味深そうに近づいた。彼女の鋭い審美眼は、瞬時に状況を分析した。

 

(……あれ?すごい。このクッション、ただものじゃない。……空気の含有量が異常だわ。それに、このカバーの光沢……高級ホテルでも見たことがないレベル)

 

 彼女は、そっとソファの端に指を触れた。吸い付くような感触。

 

「……ヤバっ。これ、一度座ったらカレンでも立ち上がれないかも。……『人をダメにするソファ』の最終進化形だね」

 

 そして彼女の視線は、眠りこける二人へと向けられた。

 

 ヤン・ウェンリーは、帽子を目深に被ったまま、口を半開きにして、実に情けない顔で熟睡している。その肩に頭を乗せ、幸せそうに丸まっているアドマイヤベガ。彼女は自分の身体と同じくらいの大きさの星型クッションを、命綱のように抱きしめていた。

 

「……ふふっ。アヤベさん、こんな顔して寝ることもあるんだ。……レア度、SSRだね♪」

 

 カレンチャンはスマホを取り出し、シャッター音を消して一枚だけ撮影した。これは彼女だけの秘密のコレクションだ。

 

「さてと。……眺めていたいけど、そろそろ時間切れだよー」

 

 カレンチャンは、アヤベの耳元に顔を近づけた。

 

「……アヤベさーん。朝ですよー。カンカンカンカン♪ 起きてくださーい」

 

 彼女は優しく、しかし確実に鼓膜を揺らす周波数で囁いた。アヤベの眉がピクリと動く。

 

「……ん……。……アイダー……ダウン……」

 

 うわ言だった。アヤベは目を開けようともせず、さらに深くクッションに顔を埋めた。

 

「……だめ……。ここは……北極圏……。……離れられない……」

「北極圏じゃないですよー。ここは府中のおじさまのトレーナー室でーす」

 

 カレンチャンは苦笑した。完全に「アッチ側」に行ってしまっている。これは言葉で説得できるレベルではない。

 

「……仕方ないなぁ。おじさまを起こすのも悪いし……」

 

 カレンチャンは、ヤンの寝顔を覗き込んだ。無精髭の生えた、くたびれた中年男性。だが、不思議と嫌悪感はない。むしろ、アヤベがここまで無防備に懐いているのを見ると、やはり、悪い人ではないのだろう。

 

「……おじさま。アヤベさんがお世話になりました。……カレンが責任を持って回収しますね♪」

 

 彼女はヤンに向かって小さく一礼すると、腕まくりをした。

 

「よーし。……えいっ!」

 

 カレンチャンは、アヤベの脇の下に手を差し込み、抱き枕ごと引き剥がしにかかった。ズズズ……。重い。物理的な重さではない。アイダーダウンの「スティッキー(絡み合い)」と、アヤベの「ここから離れたくない」という執念が、強力な引力を生み出している。

 

「……いや……。……私の巣……。……返して……」

「はいはい、巣はまた今度ねー。……ほら、アヤベさん、足動かしてー」

 

 カレンチャンは、アヤベを背負う……のはサイズ的に無理なので、横から抱きかかえるような、いわゆる「介護スタイル」で引きずり出した。

 

「……むぅ……」

 

 アヤベは抵抗をやめたが、手放す気配はない。彼女は星型クッションを抱えたまま、ズルズルとソファから引き剥がされた。その姿は、お気に入りのぬいぐるみを離さない幼児そのものだった。

 

「……よいしょ、っと」

 

 カレンチャンは、アヤベを支えながらドアまでたどり着いた。アヤベは完全に夢遊病者のように、足をもつれさせている。

 

「……おじさま、また今度ゆっくりご挨拶に来ますね。……その時は、カレンにもその『ふわふわ』、体験させてくださいね♪」

 

 カレンチャンは、爆睡するヤンにウインクを投げると、静かにドアを開けた。

 

「ほら、アヤベさん。帰りますよー」

「……アイダー……。……スビン・ゴールド……」

「はいはい、呪文はあとで聞きますからねー」

 

 バタン。

 

 ドアが閉まった。カワイイ嵐は、迷子を回収し、去っていった。

 

 

 それから一時間後。

 完全に日が落ち、部屋が闇に包まれた頃。

 ヤン・ウェンリーは、ふと目を覚ました。

 

「……ん」

 

 意識が浮上する。

 暖かい。背中も、足元も、とろけるように心地よい。

 彼はしばらく、自分がどこにいるのか、今は西暦何年なのか分からなかった。

 

「……ああ、そうか。私は……」

 

 記憶が戻ってくる。

 アヤベの襲来。繊維学の講義。そして、アイダーダウンへのダイブ。

 

 彼は手を伸ばした。

 隣には、誰もいなかった。

 だが、そこには確かに、誰かがいた温もりの名残と、へこんだクッションが残されていた。

 

「……帰ったのか」

 

 ヤンは、のそりと起き上がろうとした。

 だが、できない。

 ラテックスとアイダーダウンの複合装甲が、彼を離そうとしないのだ。

 

「……やれやれ。これは、強力すぎる」

 

 彼は苦笑し、再びソファに沈み込んだ。

 部屋は静かだ。

 だが、それは孤独な静けさではなかった。

 嵐のような講義と、平和な昼寝と、そして最後に訪れた(彼は気づいていないが)小さな来訪者の気配が残した、豊かな余韻のある静寂だった。

 

「……アヤベ君。君の置いていったこの要塞は、確かに難攻不落だ」

 

 ヤンは天井を見上げた。

 腹は減っていたが、キッチンまで歩く気力すら、このクッションは奪い去っていた。

 

「……明日は月曜日か」

 

 憂鬱な響きだ。

 だが、この最強の寝具がある限り、なんとか生き延びることはできるだろう。

 

 魔術師は再び目を閉じた。

 今度は、夢も見ないほど深く、安らかな眠りへと落ちていった。

 

 

 そして、後日。

 

 良家シンボリ家の御令嬢であるシンボリルドルフから、アドマイヤベガが持ち込んだアイダーダウンのクッションのお値段を聞いて、ヤンにしては珍しく動揺し、理事長の元へと足を運ぶ事となり―――。

 

「理事長。学生への贈り物として、アレは高価すぎます」

 

 と、ヤンはたづなさんとタッグを組み、共に理詰めで理事長を追い込む事となるのだが、それはまた、別のお話だ。




アヤベさん可愛い。(結)

以下、裏設定。
高級ふわふわ一式は、アヤベさんのメンタルを心配して理事長が差し入れた物です。ヤンの記念館を一時保留したため、確保していた予算の一部が使われたので値段がバグってます。
 ただ、アヤベさんのメンタル回復後にモノが届いたので、アヤベさんの中では速攻、「トレーナールームにふわふわが足らないから改善しなければならない」と、お気持ちが爆発した感じです。ふわふわ。

ちなみに理事長は最終的に、理事長室で正座する羽目になりました。やりすぎ注意。




次編も少し短いお話、3話ぐらいの予定です。

シンボリルドルフ編 外伝

『皇帝の休息日』

金獅子さん再登場。

22日、1900頃、出走。
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