ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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シンボリルドルフ編 外伝 皇帝の休息日
玉座の居眠りと、悪い癖


 深夜23時。トレセン学園、生徒会室。窓を叩く雨音だけが、静寂を埋めていた。

 

 

 シンボリルドルフは、執務机で書類の山と格闘していた。ペンの走る速度は、全盛期の末脚のように鋭く、迷いがない。

 ファン感謝祭の規模拡大に伴う警備計画、新設されるドリームトロフィーリーグの放映権交渉、メディア対応のスクリプト作成、そしてゴルシが校庭に埋めた「謎のタイムカプセル(爆発物)」の撤去申請。

 次から次へと湧いてくるタスクを、彼女は淡々と、しかし確実に処理し続けていた。

 

 その瞳に、かつてのような悲壮感はない。ただ、目の下に刻まれた深い隈と、時折こめかみを抑える仕草だけが、彼女が生身の少女であることを雄弁に物語っていた。

 

「……ふぅ」

 

 ルドルフはペンを置き、眉間を揉んだ。精神は充実している。未来への道を作る作業は、苦痛ではない。だが、肉体という器が、魂の燃焼に追いついていないだけだ。

 

「――精が出ますね、カイザー(皇帝)。労働基準局が見たら、即座に是正勧告レベルですよ」

 

 部屋の隅にあるソファから、呆れたような声が飛んできた。ヤン・ウェンリーだ。彼はいつの間にか入室し、ブランデー入りの紅茶を片手に、古びた歴史書を読んでいた。

 

「……トレーナー君か。夜分遅くにどうしたんだい?」

「帰ろうと思ったんだがね。外は雨だし、私の寮には今、タキオンが『発光する新薬』を持って待ち構えているらしい。……避難所として使わせてもらっている」

 

 ヤンはパタンと本を閉じ、苦笑した。

 

「君こそ、いい加減に切り上げたらどうだ?……独裁者が過労で倒れると、後の権力闘争が面倒なことになる」

「口が悪いな。……だが、そうもいかないさ」

 

 ルドルフは、椅子の背もたれに体を預け、天井を仰いだ。

 

「今度のドリームトロフィー……。これは、ウマ娘の未来を拓く重要な一歩だ。失敗は許されない。……私が、やらなければならないんだ」

「……出たな、君の悪い癖だ」

 

 ヤンはカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。

 

 彼は知っている。彼女がもう、かつてのように「孤独」に逃げ込んでいるわけではないことを。

 彼女はただ、責任感が強すぎるあまり、人に任せるコストよりも自分でやるコストを選んでしまっているだけだ。優秀すぎるが故の、悪癖。

 

「土壌を作るのは結構だが、種を蒔く前に農夫が倒れては世話がないだろう」

 

 ヤンはポットを持ち上げ、彼女のデスクへと歩み寄った。

 

「……一杯どうだ?特製の紅茶だ」

「ありがとう。頂こうか」

 

 ルドルフが手を伸ばした、その時。

 

 カタリ。

 

 カップを受け取ろうとした指先が震え、ソーサーが音を立てた。限界だった。気力だけで繋ぎ止めていた肉体の糸が、ふっと緩んだ瞬間。

 

「――っ、」

 

 視界が暗転する。ルドルフの上体が、ゆっくりと傾いた。

 

「おい、ルドルフ!」

 

 ヤンがポットを放り出し、駆け寄る。床に倒れ込む寸前、ヤンは彼女の身体を受け止めた。

 ズシリとした質量。そして、服越しにも伝わってくる、異常な熱。

 

「……すまない、少し……立ちくらみが……」

「馬鹿を言え。火傷しそうな熱さだぞ」

 

 ヤンは彼女の額に手を当て、顔をしかめた。ウマ娘の平熱が高いことは知っているが、これは明らかに異常値だ。指先に吸い付くような湿った熱気。頬は上気し、呼吸も浅く速い。

 

「……まだ、承認印が……」

「寝言は寝てから言え」

 

 ヤンは強い口調で遮り、彼女を抱え上げて、鍛え上げられたウマ娘の重さに、腰が悲鳴を上げそうになりつつも、自分が座っていたソファへと運んだ。

 上着をかけ、その乱れた前髪を払う。

 

「……少し眠れ。君が倒れたら、それこそ未来もへったくれもない」

「だが……明日の朝までに、この案件を……」

「私がやる」

「……なに?」

 

 うわ言のように呟くルドルフに、ヤンは即答した。

 

「私がやると言っているんだ。……伊達に艦隊司令官をやっていない。書類仕事と責任逃れの手順なら、君より手慣れているつもりだ」

「ふ……また、適当なことを……」

 

 ルドルフは、安心したように力を抜いた。抗う力はもう残っていない。瞼が、重力に負けて閉じていく。

 

「……頼む、ヤン。……あと少しなんだ……」

「ああ。任せておけ」

 

 数秒後。規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 

 

 ヤンはしばらくルドルフ寝顔を見つめていたが、やがて「やれやれ」と頭を掻いた。

 

「……さて。安請け合いはしたものの」

 

 ヤンは執務机に戻り、山積みの書類を見下ろした。予算折衝、許認可申請、外部団体との政治的調整。

 

 確かに、これは学生の手に余る。「皇帝」というカリスマ性と、個人の超人的な能力だけでねじ伏せてきた難問の数々。

 

「これを一晩で片付けるには、魔術師の手品でも足りないな」

 

 ヤンは懐に手を入れ、一枚のカードを取り出した。

 

 黒い、重厚なカード。

 

 かつて銀河を統べた、もう一人の皇帝から託された「貸し」。『困った時は使え』と、あの黄金の獅子は言った。

 

「……ルドルフ。君の重荷を少しだけ、別の『皇帝』に肩代わりさせるとしよう。だが、その前に、だ」

 

 ヤンはまず、「共犯者」に連絡を入れた。

 

「……もしもし、アヤベ君か?……ああ、夜分にすまない。タキオンを連れて、生徒会室に来てくれ。……いや、幽霊じゃない。皇帝陛下がダウンした」

 

 窓の外、雨脚が強まる中。生徒会室の灯りは、まだ消えない。

 

 だが、それは孤独な灯台の光ではなく、謀略と友情に満ちた、温かい作戦本部の光へと変わろうとしていた。

 

 

 深夜24時。生徒会室のドアが、ノックもなく開かれた。

 

「やあ、魔術師君。……おや、これは壮観だねぇ」

 

 白衣の裾を揺らしながら入ってきたのは、アグネスタキオンだ。彼女はソファで泥のように眠るシンボリルドルフを見ると、興味深そうに目を輝かせた。

 

「『皇帝』の機能停止(シャットダウン)か。実に貴重なサンプルだ。過労による脳内物質の枯渇か、あるいは自律神経のオーバーヒートか……。とりあえず、採血してもいいかい?」

「ダメに決まっているだろう」

 

 ヤンは即座に却下し、その後ろから入ってきたアドマイヤベガに視線を送った。

 

「すまないね、アヤベ君。こんな時間に」

「……別に。寮にいても、カレンさんが動画配信を始めてうるさかったから」

 

 アヤベは淡々と言いながら、手際よくブランケットを掛け直し、持参したクッションを体の下に差し入れた。その手つきは、不器用ながらも優しさに満ちている。

 

「で?……私たちを呼んだってことは、この山を3人で片付ける気?」

 

 アヤベが顎でしゃくった先には、エベレストのように聳え立つ未決裁書類の山があった。

 

「その通りだ。……だが、決裁者が私一人では物理的に手が足りないし、権限もない」

 

 ヤンは、手に持っていた黒いカードを弄んだ。

 

「そこで、だ。……少しばかり『反則技』を使おうかと思ってね」

 

 ヤンはスマホを取り出しそして、深夜にも関わらず、躊躇なくある番号をタップした。

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