東京、赤坂。
路地裏にひっそりと佇む、隠れ家的な鉄板焼きの店。その重厚なカウンター席の端で、ヤン・ウェンリーは所在なげにブランデーの氷を揺らしていた。
「……やれやれ。まさか私が、自腹で『銀河帝国の皇帝』を接待する羽目になるとはね」
彼は小さく溜息をついた。財布の中身を気にしながら、高い酒をちびちびと飲む。その背中は、かつての「奇跡の魔術師」というよりは、ただの「生活に疲れた年上の男」のそれだった。
事の発端は、シンボリルドルフの一件だ。過労で倒れかけた「皇帝」を救う際、ヤンはこの世界におけるラインハルトの力――ブラックカードという名の無制限の財力と、電子印鑑という名の絶対的な権威――を借りた。
借りたものは返さねばならない。それが大人の、そして『民主共和主義者』の流儀だ。
■
約束の時間は19時ジャスト。秒針が天頂を指すと同時に、重厚な扉が開いた。
「……待たせたな、ヤン・ウェンリー」
現れたのは、黄金の髪と蒼氷色の瞳を持つ青年……ではなく、日本人の青年だ。ラフなジャケット姿だが、その身に纏う「支配者」のオーラは隠しようもなく、店内の空気を一瞬で塗り替えた。
ラインハルト・フォン・ローエングラム。
―――かつての宿敵であり、現在のヤンにとっては「頭の痛くなるパトロン」である。
「いえ、時間通りですよ、閣下。……どうぞ、狭い席ですが」
「フン。卿にしては、悪くない隠れ家だ」
ラインハルトは優雅にコートを脱ぎ、ヤンの隣に腰を下ろした。
■
二人の間に、特選和牛の脂が弾ける音と、香ばしい匂いが漂う。ラインハルトは年代物の赤ワイン……当然、ボトルで一番高い品物を。ヤンは安くないブランデーを。
「……それで?今日は卿の奢りだそうだな」
ラインハルトは、グラスを傾けながら悪戯っぽく笑った。その表情は、年上の友人をからかう無邪気な少年のようでもあった。
「安月給の非常勤講師が、無理をするものではないぞ?私がこの店の権利ごと買い取ってやっても構わんのだ」
「お断りします。私の矜持に関わりますから。……ルドルフの件の返済です。これで貸し借りなし、ということで」
ヤンは肩をすくめ、心の中で(ユリアン、すまない)と謝罪した。
「それに……貴方ほどの権力者になれば、誰もが下心を持って食事に誘うでしょう。たまには、何の利益も求めない相手と飲むのも、悪くないのでは?」
「……違いない」
ラインハルトは、ふっと表情を緩めた。
「平和とは退屈なものだ。……戦場もなければ、知略を競う敵もいない。いるのは、媚びへつらう有象無象ばかりだ」
彼は、ミディアムレアに焼かれた肉を口に運んだ。
「だが……卿とこうして話していると、あの『熱狂の時代』を思い出す。……不思議なものだな。殺し合った相手と、こうして同じテーブルについているとは」
「私は思い出したくもありませんがね。……今の、怠惰で、生産性のない日々が最高ですよ」
ヤンが憎まれ口を叩くと、ラインハルトは声を上げて笑った。
■
食事が進み、アルコールが程よく回ってきた頃。
デザートを運んできた若い女性店員が、二人の独特な空気感――尊大だが楽しげな青年と、疲れているが居心地の良さそうな中年――に気づき、微笑ましそうに声をかけた。
「あの、お二人は……職場の先輩と後輩、ですか?」
その質問は、ヤンを大いに困らせた。なんと答えるべきか。かつての宿敵?現代のパトロンと被雇用者?少なくとも「先輩後輩」という平和な関係ではない。ヤンは言葉に詰まり、頭をポリポリと掻いた。
「え?あー……まあ、職場は……近いと言えば近いです。……ただ、そちらのお客様(ラインハルト)が大変立派な方なので、私はいつも頭が上がらないんですよ。……はは」
ヤンは「取引先の年上の下請け的な立場」を装って誤魔化そうとした。しかし、店員は屈託のない笑顔で、決定的な一言を放った。
「ふふっ。でも、お話されている雰囲気、とっても素敵ですよ。……きっと、仲の良いご友人なんですね?」
(友人。私と、ラインハルトが?)
ヤンは、ブランデーを喉に詰まらせそうになった。それは歴史に対する冒涜であり、何よりこの男のプライドが許さないだろう。
「いや、友人というのは少々語弊が……」
ヤンが慌てて否定しようとした、その時だった。
「……否定する必要はない、ヤン・ウェンリー」
遮ったのは、ラインハルトの静かな、しかし凛とした声だった。彼はワイングラスを手に持ったまま、どこか遠い目をして、揺れる赤い液体を見つめていた。
「……私は、かつて唯一無二の友を喪った。……彼を失って以来、私は誓ったのだ。覇者に友は不要。必要なのは、忠実な臣下と、倒すべき敵だけだと」
ヤンは息を呑んだ。その言葉の響きには、銀河を統べる皇帝が抱えるにはあまりにも人間臭い、痛切な喪失感が滲んでいた。若き皇帝の心に空いた、埋まることのない巨大な空洞をヤンは感じ取る。
そして、何も言わず、ただ静かに、青年の次の言葉を待った。
「……だが、私に一つの……説教を説いた老人がいた。『マル・アデッタ』で散った老将だ」
ラインハルトは顔を上げ、ヤンを射抜くように見た。
「あの老人は死の間際、私に言ったのだ。『民主主義とは対等の友人を作る思想であって、主従を作る思想ではない』と」
彼は自嘲気味に、しかしどこか晴れやかに口元を緩めた。
「そして彼は、こう断言した。『ヤン・ウェンリーもあなたの友人にはなれるが、やはり臣下にはなれん』……とな」
ラインハルトは、グラスの中の赤ワインを静かに見つめた。その脳裏には、あの時、無意識に胸のペンダントを握りしめていた熱さが蘇っていた。
「あの時は、友を喪った我が身には……あまりに深く突き刺さる真実だと、ただ唇を噛むしかなかった」
彼は顔を上げ、穏やかな瞳でヤンを見た。
「……だが、ここは帝国ではない。卿の望む、民主主義の世に近い世界だ」
ラインハルトは、論理のパズルを完成させるように続けた。
「卿は私の臣下にはなり得ない。敵でもない。ならば、……あの老人の論理に従えば、残る席は一つしかないではないか」
彼は一度言葉を切り、少し照れくさそうに、しかし堂々と店員に告げた。
「……そうだ、お嬢さん。貴女の言う通りだ。……我々は『良き友』に見えるだろうか?」
「はい!とっても。素敵ですよ!」
店員が去った後、二人の間には奇妙なほどの静寂が満ちた。
■
ヤンは、呆気にとられていた。この独裁者は、ビュコック提督の言葉を「論理的帰結」として採用し、不本意ながらも自分を友と認めたのだ。
なんとも回りくどく、面倒くさい、彼らしいやり方だ。ラインハルトは、ふと独り言のように呟いた。
「……
その「あいつ」が誰なのか、ヤンにはわからない。だが、ラインハルトの表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……『ラインハルト様、ようやくワインの味がわかる相手が見つかりましたね』と、安堵しているかもしれん」
ヤンは、その言葉を聞いて、小さく目を見張った。銀河を統べる皇帝が、一人の青年に戻ったような顔をしていたからだ。ヤンは、帽子を持ち直し、深く被り直した。
「生憎、私にはワインなどという高貴な味は判りません。ですが」
ヤンは手元のブランデーグラスを軽く揺らし、照れ隠しのように肩をすくめた。
「……そのお方が安堵してくれるなら、私の、今日のこの散財も無駄ではなかったということでしょう」
ヤンは、自分のグラスを静かに持ち上げた。
「では、この世界の友人代表として、改めて乾杯しましょうか」
彼は夜空を見上げるように、一つ一つ、噛み締めるように言葉を紡いだ。
「我々に『友人』というひとつの解(こたえ)を示してくれた、頑固な老提督と……、『砲火』ではなく『グラス』を交わせる、この退屈で平和な巡り合わせ……。
そして、―――貴方の大切なご友人のために」
最後の言葉が落ちた瞬間、ラインハルトの瞳が微かに揺れた。そして彼はグラスを持ち上げると、口の端をニヤリと吊り上げる。……それは、ヤンの示した敬意に対する、皇帝なりの最大の返礼だった。
「……フン。―――友として振る舞う以上、あの老人達の『最期の流儀』にも付き合わねばなるまい」
彼は、かつて通信機越しに見た、誇り高き敵将の最期をなぞるように、グラスを掲げる。そして、なぞるように言葉を紡いだ。
「『―――
ヤンは目を見開いた。それは、専制君主である彼が口にするには、最も似つかわしくない言葉だったからだ。だが、ラインハルトは悪びれもせず、グラスを掲げた。
「今夜だけは唱和してやろう。……プロージット(乾杯)」
「……!……ええ、プロージット」
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が鳴った。それは、銀河の歴史がどんなに変わろうとも、決して消えることのない、二人の英雄の和解の音だった。
■
会計を済ませた二人は、店の外に出た。
夜風が心地よい。見上げれば、あの懐かしき星の海ほどではないが、この東京の空にも、わずかだが星が見えた。
「……堪能させてもらったぞ、ヤン・ウェンリー」
迎えのリムジンに乗り込む直前、ラインハルトは振り返った。
「やはり、あの老人の予言通り、卿は臣下には向かん。……だが、酒を酌み交わす相手としては、なかなかどうして、悪くない」
「光栄です、ラインハルト・フォン・ローエングラム。ただ、……次は割り勘で頼みます。民主主義においては、『友人と飲む酒は、対等であるべき』ですからね」
ヤンが憎まれ口を返すと、ラインハルトは、
「その知見、預かっておこう」
と不敵に笑い、車中の人となった。走り去るテールランプを見送りながら、ヤン・ウェンリーは夜空を見上げた。
そして、星々の彼方にいるはずの、恩師に愚痴をこぼす。
(やれやれ。貴方の余計な遺言のおかげで、よりにもよってカイザーと友人にさせられてしまいましたよ。ビュコック提督)
魔術師は帽子を目深に被り、雑踏へと消えていく。
(ま、案外と………悪い気はしないですが、ね)
―――その足取りは、かつて銀河の命運を一身に背負っていた頃には決して在り得なかった、一人の自由な市民のそれだった。
皇帝の休息日 結