第1話 魔術師の詐術、計算のズレ
歴史とは、大局的に見れば「補給」と「兵站」の記述に他ならない。
いかに優れた英雄であろうと、胃袋が満たされていなければ剣は振るえないし、燃料の尽きた戦艦はただの鉄の棺桶だ。
故に、勝利の方程式とは極めてシンプルである。
敵よりも長く、自軍の継戦能力を維持すること。あるいは、自軍のリソースが尽きるその一秒前に、敵の喉元を食い破ることだ。
■
東京レース場、天皇賞(秋)。芝2000メートル。
秋晴れの空の下、スタンドの最上段に近い関係者席で、ヤン・ウェンリーは紙コップの紅茶――に見せかけた、安物のブランデー入りの液体――をすすりながら、眼下の戦場を見下ろしていた。
「……やれやれ。私の本職は歴史家であって、詐欺師ではないんだがね」
彼は独りごちた。ターフの上では、十数人のウマ娘たちが疾走している。
その中団、バ群のポケットに身を潜めているのは、白衣をモチーフにした勝負服を纏う栗毛の少女――アグネスタキオンだ。彼女の走りは、奇妙なほどに静かだった。
周囲のライバルたちは、彼女の存在を過剰に警戒している。かつて彼女が見せた「異次元」の末脚。それがいつ放たれるのか、どのタイミングで仕掛けてくるのか。その恐怖が、他陣営の思考を縛り付けている。ある者は彼女を牽制するために無駄に足を使い、ある者は彼女の背後を取ろうとして位置取りに腐心する。
だが、誰も知らない。それが、ヤン・ウェンリーの描いた「詐術」であることを。
『いいかい、タキオン君。君の脚は硝子細工だ。2000メートル全力を出し続ければ、確実に砕ける。だから、君は走ってはいけない』
『レースの九割を「移動」に使い、残りの一割だけを「疾走」に使うんだ』
ヤンの戦術は、タキオンの脚が耐えられる「限界距離」を正確に逆算し、そこに至るまでの道程を徹底的に省エネ化することにあった。
周囲の警戒心を利用し、レース全体のペースを意図的に落とさせる。タキオンが動かないことで、全体を膠着させる。そうして、彼女の脚の耐久値を温存し、ゴール手前の「壊れない距離」に入った瞬間にのみ、全出力を解放する。
いわば、未来への債務不履行を前提とした、ギリギリの自転車操業。戦術的には邪道。だが、生存戦略としては唯一の正解だ。
「……残り400。射程圏内(キルゾーン)だ」
ヤンが呟いた瞬間だった。第4コーナーを回り、直線に入ったタキオンが動いた。
それまでの「移動」が嘘のような、爆発的な加速。溜めに溜め込んだエネルギーを一気に解放し、硝子の脚が悲鳴を上げる寸前のギリギリの出力で、ターフを切り裂いていく。
速い。
圧倒的に、速い。
だが、それはわずか十数秒の出来事だ。
彼女は鮮やかに先頭に躍り出ると、後続に2バ身の差をつけてゴール板を駆け抜けた。
一着、アグネスタキオン。
タイムは優秀。レース運びも完璧。スタンドが沸き立つ。新たな中距離の覇者に対する称賛の嵐。ヤン・ウェンリーは、手元のストップウォッチをカチリと止め、その数字を確認すると、大きく安堵の息を吐いた。
「よし。……脚は壊れていないな」
彼は帽子を目深に被り直し、椅子の背もたれに体重を預けた。勝ったことへの興奮など微塵もない。あるのは、危険な任務を無事故で終えた現場指揮官のような、実務的な達成感だけだ。
「作戦目標は完遂。友軍(タキオン)は無傷で帰還した。これ以上の戦果はない」
彼は紙コップに残った液体を飲み干した。ドラマチックな展開など不要。ハラハラするような接戦も、感動的な逆転劇もいらない。ただ、誰も壊れず、予定通りにコトが進み、平和に終わることが、彼の至上命題だった。
「退屈な勝利だが、歴史家が好むのはこういう静かな結末だよ」
これで今夜は美味い紅茶が飲めそうだと、ヤンは悠々と席を立った。
■
控室へと引き上げる地下通路。
アグネスタキオンは、荒い息一つ吐かずに歩いていた。汗もほとんどかいていない。心拍数も、既に平常値近くまで戻っている。
(……壊れては、いない)
彼女は自分の左脚を見下ろした。痛くない。熱くもない。ヤン・ウェンリーの戦術は完璧だった。彼女の脚の脆さを補うために、レースの大半を「死んだふり」で過ごさせ、最後の最後、ほんの一瞬だけ輝かせる。
そのおかげで、勝てた。脚も守られた。タキオンが研究を続けてきたのは、この脚で速く走るためだ。その目的は、極めて効率的に達成されたはずだ。
「タキオン!おめでとう!」
担当トレーナー、――モルモット君が駆け寄ってきた。彼は満面の笑みで、タキオンの手を握った。
「すごい末脚だった!作戦通りだね!ヤンさんの言った通り、脚への負担もなさそうだ!」
「……ああ、そうだね」
タキオンは努めて明るく振る舞い、頷いた。
「魔術師君の計算には恐れ入るよ。私の脚は、まるでジョギングをした後みたいにピンピンしている」
彼女は嘘をついていない。本当に、ジョギング程度にしか感じられなかったのだ。それが、どうしようもなく不満だった。
(私は、走るために、そして向こう側を見るために研究をしてきた)
彼女は心の中で独白する。
(だが、今の私はどうだ?『脚を壊さないこと』が至上命題になり、走ることそのものが制限されている。
―――魔術師君は満足だろうさ。彼は私を「生還」させた。目の前のモルモット君も、私が無事に帰ってきたことを心から喜んでいる)
この完璧なハッピーエンドに、水を差すことなどできない。
「……ねえ、モルモット君」
「ん?どうしたの?」
「……いや、なんでもないよ。さあ、帰ろうか。今日のデータを分析しなくちゃいけない」
彼女は言葉を飲み込んだ。
タキオンは、胸の奥に空いた巨大な穴を隠すように、白衣の裾を翻して歩き出した。
■
その日の夜、東京は冷たい雨に見舞われた。季節外れの豪雨がアスファルトを打ち叩き、街の熱気を奪っていく。
トレセン学園、理科準備室。消灯時間をとうに過ぎたその部屋には、実験器具の作動音と、窓を打つ雨音だけが響いていた。
アグネスタキオンは、モニターの明かりだけに照らされた暗がりで、椅子に深く沈み込んでいた。画面に映し出されているのは、昼間のレースにおける自身のバイタルデータだ。
『心拍数、正常』
『乳酸値、基準以下』
『脚部負荷、危険域への到達なし』
完璧だ。ヤン・ウェンリーの戦術(プラン)通り、彼女は無傷で、最小限のコストで勝利を手にした。だが、彼女はモニターを睨みつけたまま、無意識のうちに爪先で床を叩いていた。
タッ、タッ、タッ、タッ……。
一定のリズムを刻むその音が、彼女の焦燥を代弁していた。眠れない。あの「退屈な勝利」の余韻が、胸の奥で燻り続け、脳髄を焼き焦がしている。
「……うるさいですね」
不意に、部屋の奥から低い声がした。闇の中から、湯気の立つマグカップを手にした影が現れる。マンハッタンカフェだ。彼女はこの実験室の常連であり、夜な夜な怪しげな――しかし香りは絶品の――珈琲を淹れに来る「同類」だった。
「……やあ、カフェ。起きていたのかい」
「ええ。……ですが、珈琲を楽しもうにも、ノイズが酷くて」
カフェは不機嫌そうに目を細め、ぼんやりとした視線をタキオン――ではなく、タキオンの背後にある虚空に向けた。
「……雨音のことかい?すまないね、自然現象は私の管轄外だ」
「いいえ。雨音ではありません」
カフェは静かに首を振った。
「あなたの足音ですよ」
「足音?」
タキオンは自分の足元を見た。今は止めている。椅子に座ったままだ。
「私は座っているが」
「心の足音です。……行ったり来たり、走り出したそうにウズウズして。私の『お友達』たちが、怖がって逃げてしまいます」
タキオンは虚を突かれたように口を開き、それから苦笑を漏らした。この同居人(ラボ・メイト)の霊感には敵わない。
彼女の言う通りだ。タキオンの肉体はここにあるが、魂はずっとスタートゲートの前で足踏みをしている。リミッターを解除し、泥の中を駆け抜ける瞬間を夢見て、暴れ回っている。
「……ふふ。君には隠し事はできないねぇ」
タキオンは立ち上がった。白衣を脱ぎ捨て、ジャージの襟を正す。そして、ロッカーから泥汚れ用の古いトレーニングシューズを取り出した。
「少し、お友達に詫びを入れてくるよ」
「……外は雨ですよ」
「構わないさ。今の私には、少し冷たすぎるくらいのシャワーが必要だ」
タキオンは靴紐をきつく結んだ。その指先には、実験をする時のような繊細さはなく、獲物を狩りに行く獣のような力強さが宿っていた。
「……そうですか」
カフェはそれ以上、何も言わなかった。止めるつもりもないようだった。彼女はただ、手に持った珈琲の香りを楽しみ、静かに背中を向けた。
「……風邪を引いても、知りませんよ」
「ああ。後のことは、明日の私が考えるさ」
タキオンはニヤリと笑い、理科準備室の重い扉を開けた。湿った夜風が吹き込んでくる。彼女は振り返ることなく、闇の中へと駆け出していった。
残された部屋には、再び雨音と、深く焙煎された珈琲の香りだけが漂っていた。
■
タキオンは音もなく部屋を出た。向かう先は、屋外コース。傘はいらない。今の彼女に必要なのは、この燻る熱を冷ますための冷たい雨だけだ。
深夜のコースは、泥の海と化していた。
照明も落ち、闇に包まれた世界。
タキオンはスタートラインに立った。
冷たい。雨が容赦なく体温を奪う。だが、体の内側にある「芯」のような部分は、むしろ熱を帯びていた。
「……スタート」
彼女は飛び出した。ヤンの指示ではない。ペース配分もない。最初の一歩から、泥を蹴り上げ、全力で加速した。
バシャッ―――。
足場が悪い。一歩進むたびに体力が削がれていく。
今日のレースとは真逆だ。効率の欠片もない。ただの消耗戦。
だが。
「……ッ、ははッ!」
笑いがこみ上げてきた。
楽しい。どうしようもなく、楽しい。
我慢しなくていい。「まだだ」「今は抑えろ」と、自分を押し殺す必要がない。踏み込みたい時に踏み込み、加速したい時に加速する。筋肉が軋み、心臓が早鐘を打ち、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
その「生体反応」の全てが、彼女に告げていた。
――お前は今、生きているぞ、と。
(そうだ、これだ!)
タキオンは雨の中を疾走しながら、確信した。
(私が欲しかったのは、スマートな勝利じゃない!この、血の味がするような『全開』の感覚だ!)
硝子の脚?知ったことか。壊れるのが怖くて走れるか。
私は科学者である前に、ウマ娘だ。走るために生まれてきた。その本能を、理屈で檻に閉じ込めるなんて、生物として間違っている!
「うおおおおぉぉぉぉッ!!」
咆哮が夜空に響く。彼女はコースの直線を、泥を巻き上げながら駆け抜けた。誰の目も気にせず、何の制約もなく。ただ、自分の気が済むまで。
やがて、彼女は力尽きたように足を止め、泥の中に大の字に倒れ込んだ。
雨粒が顔を叩く。
体中が泥だらけで、足は鉛のように重い。
だが、今日の昼間、表彰台の上で感じたあの空虚さは、跡形もなく消え去っていた。
「……はは。なんだ、そうか」
彼女は泥まみれの手を空にかざした。
「私は、ただ、自分の脚で思い切り走りたかっただけじゃないか」
単純明快な事実。研究も、実験も、すべてはこの瞬間のためにあったはずだ。なのに、いつの間にか「研究を続けること」が目的になり、「走ること」をセーブしていた。
「……感謝しなくちゃいけないねぇ、魔術師君には」
彼女は共犯者の顔を思い浮かべた。ヤン・ウェンリーは完璧な仕事をした。彼がくれた「管理された勝利」があったからこそ、タキオンは気づくことができたのだ。自分が求めているのは「勝利」でも「生存」でもなく、ただこの瞬間の「燃焼」なのだと。
彼の戦術は正しい。だが、私の目的とはズレてしまった。ならば、契約内容を変更するしかない。
「有マ記念」
彼女はターゲットを定めた。年末のグランプリ。芝2500メートル。あそこなら、私の全てをぶつけるに不足はない。
「……実験計画の変更だ」
彼女は立ち上がり、雨に打たれながら宣言した。
「テーマは『完全燃焼』。……被検体(わたし)が消し炭になるまで、アクセルを踏み続ける」
そのためには、協力者が必要だ。私を止める者ではなく、私の暴走を支えてくれる者が。
「まずはモルモット君」
そして、彼と共に一人、説得せねばなるまい。
損耗を極端に嫌うくせに、『まともな計算が出来ない』と宣った、あの男を。
■
翌朝。
早朝のトレーナー室。
担当トレーナー――モルモット君は、コーヒーを淹れながら昨日のレースデータの整理をしていた。
そこへ、ドアが開く音がした。
「やあ。おはよう、モルモット君」
「おはよう、タキオン。……って、どうしたんだその格好!?」
トレーナーは目を丸くした。
入ってきたタキオンは、いつもの白衣姿ではあったが、足元は泥だらけのトレーニングシューズのままで、髪も少し乱れていた。何より、その瞳の輝きが違った。昨日のレース後のような、澱んだ静けさではない。獲物を狙う肉食獣のような、ギラついた光を放っている。
「少し、朝練をしてきてね」
タキオンは悪びれもせず、ソファにドカっと座り込んだ。
「ねえ、モルモット君。単刀直入に言おう」
「……なんだい?」
トレーナーは居住まいを正した。タキオンの纏う空気が、冗談めいたものではないと悟ったからだ。
「有マ記念だ」
彼女は告げた。
「あそこで、私はリミッターを外す。……魔術師君の作戦も、君の心配も、全て無視して。最初から最後まで、私の好きに走る」
「なっ……!?」
トレーナーは言葉を失った。
「ま、待ってくれ!正気か!?2500メートルだぞ!今の君の脚でそんなことをしたら……確実に壊れる!」
「壊れるかもしれないね」
タキオンはあっけらかんと言った。
「でも、それでもいいんだ。……いや、そうしなきゃ、私は私でなくなってしまう」
彼女は自分の胸を拳で叩いた。
「ここがね、熱いんだ。昨日の夜、雨の中で走って気づいた。私は、ただ速く走ることが好きなんだって。……それを抑え込んで生き長らえるくらいなら、一瞬で燃え尽きた方がマシだ」
トレーナーはタキオンの顔を凝視した。
彼女は本気だ。
科学者としての探究心ではない。もっと根源的な、ウマ娘としての本能がそう叫んでいる。ここで「ダメだ」と言うことはできる。トレーナー権限で出走を取り消すこともできる。だが、それは彼女の魂を殺すことになるのではないか?
「……タキオン」
トレーナーの声が震えた。
「それは……君の、本当の願いなのか?」
「ああ。嘘偽りのない、純粋なワガママさ」
沈黙が流れた。トレーナーは俯き、強く拳を握りしめた。彼は知っていた。自分が彼女に惹かれた理由を。その危ういまでの速さと、光り輝くような情熱に魅せられたからこそ、彼は「モルモット」として彼女の隣にいることを選んだのだ。
「……分かった」
長い沈黙の後、トレーナーは顔を上げた。その目には、涙が滲んでいたが、同時に強い覚悟の光が宿っていた。
「君がそれを望むなら……僕は止めない」
「おや。いいのかい?君の職務放棄になるよ」
「いいさ。……僕は君のトレーナーだ。君の願いを叶えるのが、僕の仕事だ」
彼は涙を拭い、タキオンを真っ直ぐに見つめた。その表情は、もう保護者ではなかった。共犯者の顔だった。
「でも、ただ壊させはしない。……君が全力で走っても壊れないように、僕ができることは全部やる。君の脚を、絶対に守ってみせる」
「……ふふ。頼もしいねぇ」
タキオンは満足げに笑った。最高の理解者は確保した。あとは、もう一人。あの理屈屋の魔術師に、新しい契約書を突きつけに行かなくてはならない。
「さあ、行こうかモルモット君。……ヤン・ウェンリーのところへ。彼こそ、この計画の最後のピースだ」
窓の外には、冬の気配を含んだ青空が広がっていた。
硝子の脚を持つ怪物は、今、自らの意志で檻を破り、荒野へと歩み出した。
『勝利とは何か』
ヤン・ウェンリーの定義によれば、それは「目的を達成し、かつ味方の損害を最小限に抑えること」である。その意味において、この日の天皇賞(秋)は、彼が描いた最も理想的な「完全勝利」であったはずだ。
だが、魔術師は一つだけ計算違いを犯していた。彼が管理しようとしたのは、燃料と弾薬で動く戦艦ではなく、不合理なほどの熱量を秘めた「生物」であったという事実だ。
硝子の脚を持つ怪物は、無傷での生還を喜ばなかった。
冷たい雨の中、彼女が見つけた「完全燃焼」という名の解。それは、管理された平和を愛する怠け者にとって、最も厄介な変数の出現を意味していた。
歴史の歯車が、わずかに狂い始めた瞬間である。