ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第2話 平和な午後の不協和音

 ヤン・ウェンリーにとって、理想的な午後とは以下のような要素で構成されている。

 

 第一に、急ぎの仕事がないこと。

 第二に、手元に読みかけの歴史書があること。

 第三に、香り高い紅茶――ブランデーの添加率が三〇パーセント程度のもの――があること。

 

 そして第四に、誰にも邪魔されない静寂があることだ。

 

 

 十一月初旬。トレセン学園のトレーナー寮、ヤンの個室。彼は安楽椅子に深く身を沈め、至福の時を過ごしていた。

 先日の天皇賞での仕事は完璧だった。アグネスタキオンは無傷で勝利し、しばらくは大きなレースもない。次の有マ記念までは、基礎トレーニングのメニューさえ渡しておけば、あとは現場の担当トレーナーに任せておける。

 

「……平和だ」

 

 ヤンは本を閉じ、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。窓の外は冬晴れ。戦術も、謀略も、胃の痛くなるような決断も必要ない。このまま定年まで、いや、年金の受給資格を得るまで、この平穏が続いてくれればいいのだが、などとぼんやり考えていた。

 

 コン、コン。

 

 無情なノックの音が、そのささやかな願いを打ち砕く。ヤンは眉をひそめた。来客の予定はない。セールスか、あるいは理事長秘書からの無茶な呼び出しか。どちらにせよ、ろくな用事ではないだろう。

 

「……鍵は開いているよ」

 

 彼が投げやりに答えると、ドアがゆっくりと開いた。

 

 

 入ってきたのは二人。

 

 一人は、白衣を纏った栗毛のウマ娘、アグネスタキオン。もう一人は、彼女の担当トレーナーである青年――通称「モルモット君」だ。

 

「やあ、魔術師君。くつろいでいるところ悪いねぇ」

 

 タキオンはいつものように飄々とした口調だったが、その瞳には奇妙な熱が宿っていた。一方、トレーナーの青年は硬い表情をしていた。まるで、これから辞表を提出しに行くサラリーマンのような、悲壮な覚悟が滲んでいる。

 

「……なんだね、二人揃って」

 

 ヤンはマグカップを置いた。嫌な予感がする。歴史家の直感が告げていた。この平和な午後が終わる合図だと。

 

「次走の打ち合わせなら、まだ先でいいはずだ。今の君に必要なのは休息と、基礎体力の維持だけだからね」

「そのことで、お話があります」

 

 トレーナーが一歩前に出た。

 

「相談かい?」

「いいえ」

 

 青年は首を横に振った。直立不動の姿勢のまま、ヤンを真っ直ぐに見据えた。

 

()()()()()

 

 ヤンの背筋に、冷たいものが走った。軍隊組織において、部下からの「相談」は解決可能なトラブルだが、「報告」は往々にして、取り返しのつかない事態の事後承諾を意味する。

 

「……座りたまえ。紅茶でも淹れよう」

「いえ、結構です」

 

 トレーナーは頑なに立ったままだった。

 

「手短に済ませます。……我々は、次走の有マ記念において、作戦方針を根本から変更することを、タキオンと共に決定しました」

「変更?どういう風にだ」

「ヤンさんの考案した『負荷分散(セーフティ)』戦術を破棄します」

 

 青年は息を吸い込み、明確に告げた。

 

「アグネスタキオンの、()()()()()()()()()()()

 

 部屋の空気が凍りついた。ヤンは表情を変えずに、手元のマグカップを見つめた。液面に波紋一つ立っていない。

 

「……正気かね?」

 

 静かな問いかけだった。

 

「彼女の脚の状態は、君も熟知しているはずだ。ヤスリで削ったガラス細工。2000メートルですら、全力を出し続ければ砕け散る。……それを、中山の2500メートルで、制限なしで走らせる?」

「はい」

「それは自殺命令だ。トレーナーとしての職務放棄と言ってもいい」

「分かっています!」

 

 青年が叫んだ。その声は震えていた。

 

「分かっています……!私の役目が、彼女を安全に管理することだということも!それが彼女のためだということも!」

 

 彼は拳を握りしめ、隣に立つタキオンを見た。

 彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んでいる。

 その笑顔を見て、青年は再びヤンに向き直った。

 

「ですが……彼女が、望んでしまったんです」

「……」

「『ただ、走りたい』と。勝利も、記録も、将来もいらない。自分の命を燃やして、どこまで速く行けるのかを知りたい、と」

 

 ヤンは溜息をついた。やれやれ。若さとは、時に核弾頭よりも危険なエネルギーになる。

 

「それで?君はそれを許可したのか」

「止めましたよ!」

 

 トレーナーは顔を歪めた。

 

「でも、彼女は笑うんです。……今まで見たこともないような、心からの笑顔で。『走るのが楽しい』って」

 

 彼は自分の胸を叩いた。

 

「私は彼女のトレーナーです。彼女の体を守る義務がある。……でも、彼女の『魂』が、走るために生まれてきたその本能が、限界を求めているのを……私は、否定できなかった」

 

 論理ではない。感情論だ。だが、ヤンは知っている。歴史を動かすのはいつだって、理屈の通らない熱狂だということを。

 

「……では、レースで心中でもするつもりか?」

「いいえ」

 

 トレーナーは顔を上げた。その瞳から、迷いが消えていた。

 

「だから、貴方のところへ来ました。……ヤンさん。彼女の機体制御(ナビゲート)を、お願いできませんか」

 

 

「機体制御、だと?」

 

 ヤンは眉をひそめた。

 

「はい。私は無力です。彼女の情熱を肯定することはできても、彼女の全力を受け止める技術がない。……ただ走らせて、壊すことしかできない」

 

 トレーナーは深々と頭を下げた。プライドも、立場もかなぐり捨てた、なりふり構わぬ懇願。

 

「貴方の『魔術』が必要です。彼女を2500メートル、極限まで走らせつつ、ゴールの瞬間まで機体を維持する……そんな神業ができるのは、貴方しかいない」

「……買い被りだね」

「お願いです!彼女の……望みを叶えてやりたいんです!力を貸してください!」

 

 ヤンは沈黙した。安楽椅子の背もたれから体を起こし、テーブルに肘をついて指を組む。視線をトレーナーから、その横で腕を組んでいるタキオンへと移す。

 

「……タキオン君。君も、それを望んでいるのかね」

「ああ、もちろんさ」

 

 タキオンは一歩前に出た。白衣のポケットから一枚のレントゲン写真と、手書きのメモを取り出し、テーブルの上に広げた。

 

「見てくれたまえ。これが私の脚の現在の強度データだ」

 

 彼女は楽しそうに解説を始めた。

 

「通常のレースペースなら問題ない。だが、私が昨日体験した『全開』の負荷を掛ければ、スタートから1200メートル地点で左膝の靭帯が断裂、2000メートル地点で大腿骨が疲労骨折を起こす計算だ」

 

「……冷静な分析だ。自分の死期を予言する患者のようだね」

「褒め言葉として受け取っておくよ。……で、ここからが本題だ」

 

 タキオンは身を乗り出し、ヤンの顔を覗き込んだ。

 

「魔術師君。………今回のオーダーは『戦術』や『戦略』の類ではない」

「……」

「展開も、位置取りも、ライバルの動向も、そんなものはどうでもいい。私はゲートが開いた瞬間から、ゴール板を駆け抜けるその一瞬まで、脳髄が焼き切れるほどの全開で走りたい。故に」

 

 彼女は自分の脚をパン、と叩いた。

 

「必要なのはただ一つ。『耐久性』だ」

「……耐久性?」

「そうだ。私のこの脚が、全力の負荷に耐えきれず空中で折れることのないように。筋肉を、靭帯を、骨格のバランスを……君の知識で『補強』してくれ」

 

 彼女の要求は、アスリートがコーチにするものではなかった。言ってしまえば、暴走族が、違法改造工場の整備士にするようなオーダーだ。

 

「レース中に考え事をしたくないんだ。『ここで抑えなければ』とか『脚が痛む』とか……そんなノイズはいらない。私はただ、走るという行為そのものに没頭したい」

 

 ヤンは呆れたように二人を見比べた。

 

 トレーナーは、愛バの「わがまま」を叶え、かつ死なせないために、藁にもすがる思いでここにいる。ウマ娘は、自分の選手生命と引き換えにしてでも、一瞬の閃光になりたがっている。そして、その共犯者として、自分を選んだというわけだ。

 

「……言ってみれば、F1マシンの整備依頼だよ」

 

 タキオンはニカっと笑った。

 

「ドライバーの私は、アクセルをただただ踏み抜き、エンジンを思う存分に回す。司令塔であるモルモット君は理性を飛ばして指示を出す。……君には、ゴールまでタイヤが外れないような、最強のシャーシを作ってほしいんだ」

 

 

 部屋に沈黙が落ちた。

 

 時計の秒針の音だけが響く。

 

 ヤンは組んだ指を解き、冷めかけた紅茶を一口すすった。そして、静かに言った。

 

「……断る」

 

 短く、明確な拒絶だった。トレーナーが顔を上げた。

 

「や、ヤンさん……!」

「勘違いしないでくれたまえ」

 

 ヤンは言葉を被せた。その声には、いつもの飄々とした響きはなく、冷徹な理性が宿っていた。

 

「私は君たちの『心中』を手伝うつもりはないと言っているんだ」

「心中じゃありません!生きて帰すために、貴方の力が……」

「結果として同じことだ」

 

 ヤンは立ち上がり、窓際に歩み寄った。背中を向けたまま、言葉を続ける。

 

「いいかい。戦術というのは、生き残るためにあるものだ。兵士を生きて故郷に帰すため、国家を存続させるために、知恵を絞る。それが私の仕事だ」

 

 彼は振り返り、タキオンを射抜くように見た。

 

「だが、君の望みはなんだ?『全存在の燃焼』?『消し炭になるまで走る』?……それは生存戦略ではない。ただの自爆テロだ」

「……手厳しいねぇ」

 

 タキオンは肩をすくめたが、その表情から笑みは消えていない。

 

「だが、それが私の本能なんだ。止められないよ」

「なら、勝手にやりたまえ」

 

 ヤンは冷たく言い放った。

 

「君の脚は君のものだ。どう使おうと自由だ。……だが、生存を目指さない暴走に、手を貸す義理はない」

 

 彼は帽子を脱ぎ、テーブルの上に置いた。それは、交渉の決裂を意味していた。

 

「私は歴史家になりたかった。……教え子の脚を折る手伝いをするために、ここにいるわけでもない」

 

 ヤンの脳裏に、かつての記憶が過る。「国のために」と叫び、無謀な突撃を繰り返して散っていった兵士たち。彼らの死を、指導者たちは「美談」として称えた。

 

 だが、死は死だ。

 

 何も残らない。紅茶を飲むことも、昼寝をすることもできない、絶対的な虚無だ。彼は、若者がその虚無へと自ら飛び込むのを、黙って肯定するほど寛容ではなかった。

 

「……ヤンさん」

 

 トレーナーが一歩踏み出した。その目には涙が滲んでいた。

 

「貴方の言うことはもっともです。……これは狂気だ。間違っている。トレーナー失格だ」

「自覚があるなら、今すぐ彼女の出走を取り消したまえ」

「できません!」

 

 トレーナーは叫んだ。

 

「彼女にとって……ウマ娘にとって!走れないまま生きることは、死ぬことよりも辛いんです!その魂を殺して、肉体だけを生かしておくことが……本当に『生存』なんですか!?」

 

 痛切な問いかけだった。ヤンは眉をひそめた。

 

 生きながら死んでいる者。

 死してなお生き続ける者。

 

 歴史上、その定義は常に曖昧で、残酷だ。

 

「……議論は平行線だね」

 

 タキオンが割って入った。彼女はレントゲン写真を回収し、白衣のポケットにしまった。

 

「行こうか、モルモット君。魔術師君には、彼なりの理論がある。我々が、無理強いはできないよ」

「でも、タキオン……!」

「構わないさ。……私と君、二人でやろう」

 

 タキオンはヤンに向かって、一瞬だけ寂しげに微笑んだ。

 

「残念だよ、魔術師君。君なら、この矛盾したパラドックスを解いてくれると思ったんだがね」

「……」

「君のくれた『管理された勝利』は快適だった。だが、私には少し退屈すぎたようだ。……さようなら」

 

 タキオンはトレーナーの腕を引き、部屋を出て行った。バタン、とドアが閉まる。

 

 部屋には再び静寂が戻った。だが、先ほどまでの穏やかな平和は、もうどこにもなかった。残されたのは、苦い澱のような後味だけだ。

 

「……やれやれ」

 

 ヤンは独りごちて、空になったマグカップを手に取った。中身を注ごうとして、手が止まる。ポットの中身は、いつの間にか空になっていた。

 

「……生存を目指さない暴走、か」

 

 自分の言葉を反芻する。正論だ。間違ってはいない。だが、彼らの去り際の表情が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

 

 『死を覚悟してでも、輝こうとする意志』―――それを止める権利は、誰にある?安全な場所で紅茶を飲んでいる人間に、彼らの覚悟を否定する資格があるのか?

 

「まったく……、嫌な役回りだ」

 

 ヤンは安楽椅子に深く身を沈め、天井を見上げ、頭を掻いた。

 

 彼の理想的な、平和な午後は終わったのだ。そして、彼の胃痛を伴う長い思考の時間が、始まろうとしていた。




 歴史上、多くの指揮官が「名誉ある死」や「精神的勝利」という美名のもとに、数多の兵士を死地へと送り込んできた。

 ヤン・ウェンリーが最も嫌悪し、唾棄すべきと断じているのが、この種の精神論である。

 故に、彼がアグネスタキオンの「リミッター解除」の申し出を拒絶したのは、彼の人格に基づけば必然の行動であった。生存なき暴走に、戦術的価値はない。それは単なる自殺(バンザイ・アタック)に過ぎないからだ。

 だが、理屈では割り切れない感情が、時として正論を凌駕する。平和な午後に響いた不協和音。決裂した交渉。

残された空のマグカップは、彼に「生存とは何か」という、哲学的な問いを突きつけていた。
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