ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第3話:皇帝の倫理学

 トレセン学園、本校舎。長い廊下の突き当たりにある重厚な扉の前で、ヤン・ウェンリーは少しだけ躊躇した。

 

 中から、副会長エアグルーヴの鋭い叱責の声が漏れ聞こえていたからだ。どうやら、予算申請の不備をやらかしたどこぞの部の部長が絞られているらしい。

 

「……引き返すなら今か」

 

 ヤンが踵を返そうとしたその時、扉が勢いよく開き、涙目のウマ娘と、それを追いかけるようにエアグルーヴが飛び出してきた。そして入れ替わりに、凛とした声が飛んでくる。

 

「そこにいるのはトレーナー君か?入ってくれたまえ。紅茶の湯加減がちょうど、君好みに仕上がっているよ」

 

 見つかっては仕方がない。ヤンは諦めて、生徒会室へと足を踏み入れた。そこは学園の中枢であり、規律と秩序の象徴である。

 マホガニーの執務机、壁一面の書架、そして歴代の名ウマ娘たちの肖像画。その厳粛な空間の主、シンボリルドルフは、優雅にティーカップを傾けていた。

 

「やあ、ルドルフ。相変わらず耳が良いね」

「君の足音は特徴的だ。……今回は……、迷いと、怠惰と、少しばかりの憂鬱が混ざった独特のリズム、だろうか」

「これは皇帝自ら、なかなか手厳しい分析だね。ここはひとつ、褒め言葉として受け取っておこう」

 

 ヤンは勧められるままにソファに腰を下ろした。目の前には、湯気を立てるロイヤル・ドルトンのカップ。香りは極上のダージリン。ヤンが普段愛飲している、ブランデー入りの安物とは格が違う。

 

「で、飛び出していったエアグルーヴ君は?随分慌てていたようだが」

「書類の修正指導で別室へ行ったよ。少々立て込んでいたんだ。でも、君が来てくれたおかげで、ようやく一息つける」

 

 ルドルフは苦笑し、自身のカップを置いた。その瞳は理知的で、深淵のような落ち着きを湛えている。だが、同時にヤンの内面を見透かすような鋭さも秘めていた。

 

 

「……それにしても珍しいね、トレーナー君。君が自分からここへ来るとは。……いつもなら、『昼寝の邪魔だ』と文句を言いながら、我々をトレーナー室から追い出す側だろう?」

「人聞きが悪いな、ルドルフ。私はただ、美味しい紅茶をご馳走になりに来ただけさ。……暇だったものでね」

 

 嘘だった。ヤン・ウェンリーが自ら動く時は、大抵ろくでもない悩みを抱えている時だ。

 ルドルフはそれを察していたが、あえて追求しなかった。しばらくの間、カチャリという陶器の触れ合う音だけが、静かな部屋に響いた。

 

「……生徒会長殿。一つ、質問をよろしいだろうか」

 

 紅茶を半分ほど飲んだところで、ヤンが口を開いた。

 

「かまわないが、かしこまってどうしたんだい?私に答えられることなら」

「君にとって、『正しい教育者』の定義とはなんだね?」

 

 唐突な問いだった。だが、ルドルフは動じず、窓の外の秋空を眺めながら答えた。

 

「難しい問いだな。……だが、一般論で言うなら、『生徒を正しい未来へと導く者』だろうか。彼女たちの才能を開花させ、夢を叶えさせ、そして社会に貢献できる立派なウマ娘へと育てる。それが私たちの使命だからね」

「なるほど。ルドルフらしい模範解答だ」

 

 ヤンは肩をすくめた。

 

「では質問を変えよう。……もし、生徒が望む『未来』が、破滅へと繋がっていたとしたら?教育者はどうすべきかな」

 

 ルドルフの目が細められた。彼女はゆっくりと視線を戻し、ヤンを射抜いた。

 

「……ああ、アグネスタキオンのことか?」

 

 さすがは皇帝だ。情報の耳が早い。ヤンは観念したように溜息をついた。

 

「話が早くて助かるよ。……そうだ。あのマッドサイエンティストと、その共犯者の話だ」

 

 

 ヤンは事の顛末を語った。タキオンが「本能」に目覚めたこと。有マ記念でリミッターを外そうとしていること。担当トレーナーがそれに同意し、自分に協力を求めてきたこと。そして――自分がそれを「生存なき暴走」として拒絶したこと。

 

「……私は断ったよ」

 

 ヤンは淡々と言った。

 

「勝利を目指さない暴走。生存を度外視した特攻。……そんなものに手を貸す義理はない。それは私の信条に反する」

 

 彼は言葉を切り、ルドルフを見た。

 

「君もそう思うだろう?生徒会長として、友人として、彼女が死に急ぐのを止めるべきだと」

 

 ルドルフは沈黙していた。彼女は腕を組み、目を閉じて思索に耽っていた。

 ヤンの主張は正しい。教育的観点からも、人道的観点からも、タキオンの行動は「自殺行為」であり、阻止すべきものだ。だが、ルドルフの沈黙は肯定の沈黙ではなかった。

 

「……ヤン」

 

 やがて、彼女は静かに口を開いた。

 

「君の言っていることは正しい。論理的に、倫理的に、一点の曇りもなく正論だ」

「なら……」

「だが、それは『()()』の論理だ」

 

 ルドルフは目を開けた。その瞳には、皇帝としての威厳と、ウマ娘としての哀切が混在していた。

 

「私たちウマ娘は、走るために生まれてきた。……これは比喩ではない。遺伝子に刻まれた呪いにも似た運命だ」

 

 彼女は自分の胸に手を当てた。

 

「速くありたい。誰よりも先へ行きたい。……その渇望は、時に食欲や睡眠欲、そして生存本能さえも凌駕する。君たち人間には理解し難いかもしれないがね」

「……だから、死んでもいいと?」

「違う。そうではない」

 

 ルドルフは首を振った。そして立ち上がり、窓際に立った。眼下には、多くのウマ娘たちがトレーニングに励むグラウンドが広がっている。

 

「想像してくれ。……翼を持った鳥が、一生空を飛ばずに、籠の中で安全に生きることを強要されたとしたら。その鳥は『生きている』と言えるのか?」

 

 ヤンは言葉に詰まった。それは、彼が最も嫌悪する「美学」の匂いがしたからだ。

 

「生きているさ」

 

 ヤンは反論した。

 

「心臓が動いていれば、それは生きているということだ。生きていれば、紅茶も飲めるし、本も読める。……死んでしまえば、どんな高尚な理想も無意味だ」

「ああ、そうだね。実に、君らしい答えだ」

 

 ルドルフは寂しげに微笑んだ。

 

「だが、タキオンは鳥だ。……いや、そもそも、ウマ娘は、彼女は自ら燃え上がる流星だ。彼女にとって、燃焼なき生は、緩慢な死と同義なのかもしれない」

 

 ルドルフは窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。そこには、完璧な「皇帝」ではない、一人の走る者の顔があった。

 

「私も……実は、かつて望んだことがある」

 

 彼女の声は、独白のように静かに響いた。

 

「『皇帝』と呼ばれ、七冠という栄光を手にした。私は常に強く、正しく、そして合理的であらねばならなかった。……だがね、ヤン。レースの最中、ふと思うことがあったんだ」

 

 彼女は自身の拳を握りしめた。

 

「このまま、誰の指示も受けず、ペース配分も忘れ、ただ筋肉が千切れるまで加速し続けたら、どんな景色が見えるのだろうかと」

「……」

「ゴール板など関係ない。勝利すらどうでもいい。ただ、風になりたい。音を置き去りにして、世界の果てまで駆け抜けたい。……そんな衝動に、身を焼かれる夜があった」

 

 それは、学園の誰もが知らない、シンボリルドルフの深淵だった。理性の仮面の下で渦巻く、原初の本能。

 

「だが、私には背負うものがありすぎた。期待、責任、理想、そして私に憧れる後輩たち。……それらが私を『皇帝』という枠に留まらせた」

 

 彼女は振り返り、ヤンを真っ直ぐに見た。

 

「私のトレーナーも……、君もまた、私を厳しく律してくれた」

 

 その瞳は潤んでいるように見えた。

 

「だから私は自制し、凱旋門を勝利できた。理性を、自ら選んだんだ。……だからこそ、私は思うことがある。

 ―――もし、何もかも捨てて、ただ本能のままに走ろうとする者がいるのなら。それは、他人から見れば明らかな愚行かもしれない。……だが同時に、それは、最も純粋な『ウマ娘の完成形』なのかもしれない、とね」

 

 彼女はタキオンに、自分が見ることのできなかった「IF(もしも)」を重ねていた。それは羨望であり、同時に、決して辿らせてはならない破滅への道でもあった。

 

「私は生徒会長として、彼女を止めるべきなのだろう。……だが、同じウマ娘として、彼女の翼を折りたくないとも思っている。……この矛盾が分かるか?ヤン」

 

 

 ヤンはカップに残った紅茶を見つめた。渋みが口の中に広がる。

 

 ルドルフの言葉は重い。彼女自身の魂の叫びだ。だが、現実は物理だ。感情では解決しない。

 

「……哲学的な話は分かった。だが、現実は残酷だ」

 

 ヤンは現実を突きつけた。

 

「彼女の脚は耐えられない。意志の力で骨が硬くなるわけじゃない。……走れば壊れる。それは確定した未来だ」

「だからこそ、君がいるのではないか?」

 

 ルドルフの言葉が、鋭い刃のようにヤンの胸に突き刺さった。

 

「……なんだって?」

「君は魔術師だ。……常識では勝てない戦を、奇策と計算で覆してきた男だ」

 

 ルドルフはヤンの前に歩み寄り、机に手をついて顔を近づけた。

 

「ヤン。私は、こういう事には疎い。だから、二つの選択肢しか思い浮かばない。……『止めて生かす』か、『走らせて殺す』か。その二択だ」

「それ以外に何がある」

「あるはずだ。魔術師である君になら」

 

 皇帝の瞳が、射抜くような光を放つ。

 

「『走らせて、なおかつ生還させる』という、第三の選択肢が」

 

 ヤンは息を飲んだ。それは、タキオンのトレーナーが懇願したことと同じだ。だが、ルドルフの言葉には、より強い強制力と信頼が含まれていた。

 

「彼女の本能が破滅を求めているなら、それを安全に達成させる方法を考えるのが、大人の知恵ではないか?」

 

 ルドルフは諭すように言った。

 

「子供は無茶をするものだ。火の中に手を突っ込もうとする。……それをただ縛り付けるのが教育ではない。耐火服を着せてやるか、火の温度を調整してやるのが、保護者の――いや、魔術師の仕事だろう?」

「……無茶苦茶な理屈だ」

 

 ヤンは苦笑した。

 

「耐火服なんて売っていない。そもそも、一度火の温度を調節してやってもいる。だが、彼女が飛び込もうとしているのは、太陽の核融合炉だぞ」

「なら、君が作るんだ」

 

 ルドルフは即答した。

 

「歴史家なのだろう?過去のあらゆるデータと、君の持つ戦術眼を総動員して、太陽に焼かれない翼を織り上げるんだ」

 

 彼女はヤンの肩に手を置いた。その手は温かく、強かった。

 

「止めれば、彼女の心は死ぬ。放っておけば、彼女の体は壊れる。……どちらもバッドエンドだ。君はそんな結末を好まないはずだ」

「……」

「厚かましく、欲張りなハッピーエンドを目指したまえ。……彼女が全力を出し切り、満足して、そして五体満足で帰ってくる。そんな奇跡を演出できるのは、この学園で君しかいない」

 

 

 長い沈黙が流れた。ヤンは天井を見上げた。古い肖像画のウマ娘たちが、自分を見下ろしているような気がした。

 

(全く、どいつもこいつも)

 

 死にたがりの生徒に、それに同調する愚直なトレーナー。そして、かつて「走りたかった」過去を持つ皇帝。全員が、ヤンに向かって「不可能を可能にしろ」と迫ってくる。

 

(私の安息は、一体どこにあるんだか)

 

 ヤンは帽子を被り直し、立ち上がった。

 

「……やれやれ」

 

 その顔には、諦めにも似た苦笑いが浮かんでいた。

 

「君は政治家に向いているよ、ルドルフ。……嫌がる人間に、無理難題を押し付け、あげくに少しばかりのやる気まで引き出す才能がある」

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

 ルドルフは満足げに微笑んだ。

 

「では、ヤン。この、三つ目の選択肢を見つける難題。君は、受けてくれるのかい?」

「……約束はできない」

 

 ヤンは背を向け、ドアへと向かった。

 

「だが……思考実験くらいはしてみよう。太陽まで飛んで、溶けずに帰ってくる方法があるかどうか、ね」

「期待しているよ。……タキオンを、頼んだ」

 

 背後からの声を背に受けて、ヤンは生徒会室を出た。

 

 

 廊下は静かだった。だが、足音は止まらない。なぜなら、ヤンの足は、自然と資料室の方へと向いていたからだ。そして無意識のうちに、思考は既に回転を始めている。

 

 ――全力を出し切り、かつ壊れない限界点。

 ――肉体の強度不足を補うための、物理的なアプローチ。

 ――戦術(タクティクス)ではなく、整備(メンテナンス)という観点。

 

(戦術で勝たせるのではない。……物理的に、壊れない機体を作る)

 

 ヤンは顎に手を当てた。

 

(一番現実的なのは筋肉を鎧に変える。骨への衝撃を、極限まで筋肉で吸収させるフォームへの改造。……そして、ゴール板を過ぎた瞬間の強制停止プロトコル)

 

 それは、歴史家の仕事ではない。モータースポーツのエンジニアの領域だ。だが、彼の脳内のライブラリには、古今東西のあらゆる戦術だけでなく、兵站や装備に関する知識も眠っている。

 

「……これじゃあトレーナーというより、整備士(メカニック)、だな」

 

 彼は昨日のタキオンの言葉を思い出した。『F1マシンの整備依頼』―――あながち、間違った例えではなかったのかもしれない。

 

「全く。……歴史家が悪徳医師の真似事とは、世も末だ」

 

 彼はボヤきながら、しかしその足取りは、もはや「逃走」のものではなかった。

 

 

 だが、まだ最後のピースが足りない。論理と技術の裏付けはできそうだ。だが、心情的な「納得」がまだだ。

 

 自分自身への言い訳と言ってもいい。「死に急ぐ者を助ける」という行為に対する、倫理的な免罪符が欲しい。

 

「……アヤベ君にでも、愚痴を聞いてもらうか」

 

 彼は進路を少し変えた。「生存」の意味を、誰よりも深く、痛いほどに知る少女。

 

 アドマイヤベガ。

 

 彼女なら、この狂った計画に対して、何と言うだろうか。

 

 ヤン・ウェンリーは歩き出した。その背中には、もう迷いはなかった。あるのは、厄介な仕事を押し付けられたサラリーマン特有の、憂鬱と覚悟が入り混じった哀愁だけだった。




「皇帝」と呼ばれる存在は、常に孤独であり、そして誰よりも強欲である。

 シンボリルドルフは、生徒会長としての「倫理」と、一人のウマ娘としての「本能」の狭間で揺れていた。

 彼女はヤンに求めた。止めるのでもなく、見殺しにするのでもない。「走らせて、なおかつ生還させる」という、第三の選択肢を。

 それは、太陽に近づきすぎたイカロスに対し、蝋の翼が溶ける前に帰還せよと命じるに等しい、無茶な要求であった。

 だが、不可能を可能にするからこその「魔術師」である。外堀は埋められた。歴史家志望の男は、好むと好まざるとに関わらず、未知の領域への挑戦権を握らされたのである。
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