日はとっぷりと暮れ、トレセン学園は夜の静寂に包まれていた。
生徒たちは寮に戻り、明日のトレーニングに備えて休息を取っている時間だ。遠くから聞こえていた電車の走行音も途絶え、ただ冷たい冬の風が、校舎の隙間を吹き抜ける音だけが響いている。
ヤン・ウェンリーの足は、自室のベッドではなく、校舎の屋上へと向かっていた。重い鉄の扉を押し開ける。錆びた蝶番が、キィ、と小さな悲鳴を上げた。
一歩踏み出すと、張り詰めた冷気が頬を撫でた。頭上には満天の星空。冬の澄んだ空気のおかげで、普段よりも星々が近く、鋭く輝いているように見える。
―――その星明かりの下、一人のウマ娘がフェンスに寄りかかり、微動だにせず空を見上げていた。
アドマイヤベガ。
夜闇に溶けるような青い勝負服ではなく、今日はシンプルなジャージ姿だ。なめらかな髪が、弱い風に揺れている。
ヤンはあえて声をかけなかった。彼女が星と対話している時間を、無粋な足音で乱すのを躊躇ったからだ。彼は扉のそばで立ち止まり、ポケットの中で冷え切った手を温めながら、しばらく彼女の背中を眺めていた。
一分、あるいは二分。沈黙だけが流れる。やがて、彼女は振り返ることなく、独り言のように呟いた。
「……こんばんは、ウェンリー」
夜露のように静かな声だった。彼女はこちらを見ていない。だが、その意識は正確にヤンの存在を捉えていた。
「やはり、ここにいたか」
ヤンは苦笑して、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。
「邪魔をしてすまないね。……星の機嫌はどうだい?」
「……悪くないわ」
アヤベはそこで初めて、ゆっくりと視線を空から外し、ヤンの方へ向けた。その瞳は、夜空の色を映して深く澄んでいる。
「こんな時間に、どうしたの?あなたは誰よりも早く、ベッドに入りたがる人なのに」
「全くだ。本来なら今頃、毛布に包まって平和な夢を見ているはずだったんだがね」
ヤンは肩をすくめ、彼女の隣に並んだ。そして、コートのポケットから、自販機で買った温かい缶紅茶を二つ取り出した。カチャリ、と二つの缶が触れ合う音がする。
「お近づきの印だ。……あるいは、相談料の前払いと言ってもいい」
一つを彼女に差し出す。
「……相談?私に?」
アヤベは小首をかしげ、少しの間を置いてから、それを受け取った。冷え切った指先に、スチール缶の熱がじんわりと伝わる。彼女はその温かさを確かめるように、両手で包み込んだ。
「珍しいわね。あなたが迷っているなんて」
「迷っているわけじゃないさ。ただ……確認したいだけだ」
ヤンはプルタブを開けた。その無機質な音が、静寂に響く。一口すする。甘ったるい人工的な味が、疲れた脳に少しだけ優しかった。
そして、ヤンはただ、彼女と同じように夜空を見上げ、白く濁った息を吐き出した。
■
「……綺麗な夜だ」
ヤンが言った。
「ああいう星を見ていると、地上の悩み事がちっぽけに思えてくる。……だが、残念ながら私は重力に縛られた人間でね。地上のしがらみから逃れられない」
アヤベは何も言わず、ただ紅茶の湯気を眺めている。聞いてくれている。その確信を得て、ヤンはぽつりと語り始めた。
「ある生徒がね、死に急いでいるんだ」
アヤベの手が、わずかに止まった。
「彼女は自分の脚が壊れると分かっていながら、リミッターを外して走りたいと言い出した。……理由は『本能』だそうだ。走るのが好きだから、燃え尽きてもいい。そんな子供じみた理屈で、破滅へ向かおうとしている」
風が吹いた。屋上のフェンスが微かに震える音。アヤベはまだ口を開かない。彼女の沈黙は、拒絶ではなく、言葉を選んでいる沈黙だ。
「私はそれを止めたよ。それどころか、一度は、破滅への道を閉ざしたはずだった」
ヤンは続けた。
「生存こそが最優先だ。生きていればこそ、紅茶も飲めるし、後悔もできる。……死んでしまえば、全て終わりだ。虚無だよ」
彼は横目でアヤベを見た。彼女は、夜空の一点を――彼女にとっての特別な一等星を――探すように見つめている。妹の死を背負い、贖罪のために走っていた彼女。
「生き残ってしまった」という罪悪感(サバイバーズ・ギルト)に苛まれていた彼女なら、生存の尊さを誰よりも理解しているはずだ。
「だが、周囲は言うんだ。『止めるな』と。『彼女の魂を生かせ』とね。……やれやれ、どいつもこいつもロマンチストばかりで困る」
ヤンは缶を揺らし、残りの量を確認した。
「君ならどう思う?アヤベ君。……やはり、止めるべきだと思うだろう?」
問いかけが、夜の闇に溶けていく。アヤベはすぐには答えなかった。一口、紅茶を口に含む。喉を通る温かさを感じ、ほぅ、と息を吐く。そして、ゆっくりとヤンに向き直った。
「……その子の気持ち、分かる気がする」
予想外の答えだった。ヤンは眉を上げた。
「君もロマンチストの仲間入りかね?」
「違うわ」
アヤベは静かに首を振った。その動作は緩やかで、どこか寂しげだった。
「ロマンなんかじゃない。……もっと切実な、呼吸と同じくらい当たり前のことよ」
彼女は再び空を見上げた。
「トレーナー。あなたは私に教えてくれたわよね。『生きろ』って」
「ああ」
「『君は君のために、厚かましく幸せになればいい』って」
それはかつて、彼女が幻影に押しつぶされそうになっていた時に、ヤンがかけた言葉だった。その言葉があったからこそ、彼女は今、こうして穏やかに星を見上げることができている。
「でもね、ウェンリー。……もしあの時、あなたが私から『走ること』を取り上げていたら、私はどうなっていたと思う?」
彼女の問いかけに、ヤンは言葉に詰まった。
「『もう走らなくていい。ただ安全に、普通の女の子として生きなさい』と言われていたら……」
アヤベは言葉を切り、自分の足元を見つめた。
「私はきっと、生きていられなかった」
淡々とした口調だった。だからこそ、その言葉には絶対的な真実味があった。死の淵を歩いた者だけが知る、冷徹な実感だ。
「ウマ娘にとって、走ることは生きることそのものなの。……たとえそれが苦しくても、痛みを伴うものでも。走ることを奪われた生なんて、ただ、心臓が動いて、生かされているだけ。苦しいから、呼吸をしない。そんなこと、あなたは出来る?」
彼女は自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動を確かめるように。
「その子が……タキオンさんが、破滅と引き換えにしても走りたいと願ったのなら。……それを『ダメだ』と否定することは、彼女の魂を殺すのと同じことよ」
「……魂の殺人、か」
「ええ。止めれば、肉体は生き残るでしょうね。でも、彼女の中の『魂』は死ぬわ。……一生、空を見上げて『あそこに行けたはずなのに』って後悔し続ける、抜け殻になる」
ヤンは苦い顔をして、冷めかけた紅茶を飲み干した。ルドルフと同じ論理だ。だが、アヤベの言葉は、より深く、鋭く、ヤンの胸に刺さった。彼女自身が、かつて「抜け殻」になりかけた経験者だからだろう。
「じゃあ、どうすればいい」
ヤンは問いかけた。試すような口調ではなく、道に迷った旅人のように。
「見殺しにしろと言うのか?『どうぞ、お好きなように燃え尽きてください』と、手を振って見送るのが、正しい人間のあり方なのか?」
アヤベは黙っていた。ただ、じっとヤンの目を見つめている。その瞳に、ふっと柔らかな光が灯った。そして、彼女は小さく笑った。それは冷笑ではなく、どこか懐かしむような、優しい笑みだった。
「……そんなことしたら、私が軽蔑するわ」
「手厳しいな」
「だって………あなたは、そんな無責任な事をする人じゃないもの」
■
アヤベはフェンスから背を離し、ヤンに一歩近づいた。星明かりが彼女の髪を銀色に照らし、神秘的な輝きを放っている。
「ヤン・ウェンリー。……あなたは私に『厚かましく生きろ』と言った」
「ああ、言った覚えがある」
「なら、あなたも厚かましくなればいいのよ」
「……私が?」
「そうよ」
彼女はヤンの目を見据えた。その視線は、夜風の中でも揺らぐことはない。
「彼女の望みを叶えてあげなさい。……
「……矛盾しているぞ」
「矛盾上等よ」
彼女はきっぱりと言い放った。
「全力で走らせて、満足させて、その上で『はい、時間切れ。生きて帰れ』って、首根っこ掴んで引きずり戻せばいい。……それくらいのワガママ、あなたなら通せるでしょう?」
アヤベの瞳には、強い信頼の色があった。かつて、妹への贖罪という呪縛から、彼女自身を強引に引きずり出した男への信頼。魔術師と呼ばれる男なら、それくらいの奇跡は起こせるはずだという、無邪気ですらある期待。
「彼女にとっての幸せが、燃え尽きることにあるなら……それを叶えて、なおかつ『厚かましく生きて帰す』のが、あなたの魔術でしょ?」
ヤンは言葉を失った。痛いところを突かれたからに他ならない。
―――彼は常々「楽をしたい」「責任を取りたくない」と公言しているが、その実、手の届く範囲の人間を見捨てることは、決して、できなかった。アドマイヤベガの瞳は、それを見抜いているのだ。
長い、長い沈黙が流れた。ヤンは空になった缶を握りしめ、夜空を見上げた。
無数の星々が、彼を見下ろしている。
―――まるで『さあ……不敗の魔術師、ヤン・ウェンリー
「……君は、私を買い被りすぎだ」
ヤンは帽子を目深に被り、視線を逸らした。
「私はただの歴史家志望だよ。……神様じゃない」
「でも、私の神様代わりにはなってくれたわ」
アヤベは悪戯っぽく微笑んだ。
「行ってあげて。……あの子、きっと待ってるわよ。意地悪で、理屈屋で、でも誰よりも優しい『共犯者』を、ね」
■
ヤンは大きな溜息をついた。肺の中の空気をすべて入れ替えるような、深く、重く、そして未練がましい溜息だ。だが、その溜息と共に、胸の中に溜まっていた迷い――あるいは「常識」という名のブレーキ――は、夜の冷気の中へと吐き出されていた。
ルドルフは「大人の知恵」として命じた。それは、組織の長としての政治的判断であり、同時に走者としての共感に基づくものだ。
アヤベは「生存者の願い」として背中を押した。それは、死線を超えた者だけが知る、残酷なまでの真実の重みだ。
そして何より、タキオン自身のあの瞳が心に残っている。狂気と紙一重の、純粋すぎる探究心を持つ、あの瞳を。
(もし、あちらの世界――自由惑星同盟軍の司令官としてなら、私はこの作戦案を即座に破り捨て、提案者を軍法会議にかけていただろう)
「生存」を犠牲にした勝利など、戦術的には下の下だ。兵士を死地へ送り込むことを美学とし、精神論で物理的劣勢を覆そうとする指揮官は、ヤンが最も軽蔑し、唾棄すべき人種だ。それは歴史上、数多の国家を滅ぼしてきた「愛国心」という名の集団自殺に他ならない。
(……だが、どうだ。今、私が感じているこの空気は、あの陰鬱な戦場のそれと同じだろうか?)
―――否、ここはイゼルローンではない。そして彼女たちは、国家の強制によって銃を持たされた兵士ではない。
自らの意志で、自らの脚で走ることを選んだ「ウマ娘」だ。
彼女たちの「それ」は違う。誰に命じられたわけでもない。背中に銃を突きつけられたわけでもない。ただ、己の魂がそう叫ぶから、自ら笑って、満足気に、燃え盛る業火へと飛び込んでいく。
(そうだ。この世界に来て、嫌というほど見てきたはずだ。彼女たちにとっての「走る」という行為の定義を。それは『集団自殺』と切り捨てるには、あまりに能動的で、始末に負えないほど純粋な……『生の燃焼』だ)
走ることを奪うことは、すなわち死であるという、この世界の理(ことわり)を。それは単なる移動手段でもなければ、富や名声を得るための競技ですらない。
呼吸。
鼓動。
瞬き。
彼女たちにとって走ることは、生命活動そのものなのだ。
人間の歴史を紐解けば、一枚の絵のために視力を捧げた画家や、地図の空白を埋めるために二度と戻らぬ荒野へ消えた冒険家の記録は枚挙に暇がない。凡人の私からすれば「理解し難い狂気」であり、生産性の欠片もない行為だ。だが、彼らにとって「それを奪われること」は、肉体的な死よりも恐ろしい「魂の窒息死」を意味する。人間ですらそうなのだ。ならば、走るために生まれたウマ娘にとって、その意味は―――。
(……いや、よそう。その思考は危険だ)
ヤンは頭を振り、魅入られかけた「美学」を振り払った。
(生存こそが私の至上命題だ。生きていればこそ、紅茶も飲めるし、後悔もできる。死んでしまえば、レースで走れなくなってしまえば、全て終わりだ)
死を賛美する精神論への、生理的な嫌悪。それこそが、彼が腐敗した軍隊の中で守り抜いてきた唯一の倫理(モラル)であり、幾多の若者を無意味な玉砕(バンザイ・アタック)から救ってきた理由でもある。
「情熱」や「本能」という美しい言葉で、破滅を正当化してはならない。それは歴史上、最も多くの血を吸ってきた論理だ。
だが、その鉄壁のはずの「正論」が、ここでは音を立てて軋んでいる。
その時、ヤンは自身の論理に潜む「死角」に、はたと気がついた。
(―――そもそも、ウマ娘にとっての『生存』とは、医学的な定義だけで完結するものなのか?……その時、彼女はまだ『アグネスタキオン』でいられるのか?)
もし、ここで彼女の『本能』にブレーキをかけ、望みのままに走る権利を剥奪してしまえば、どうなる。
彼女は絶望の中でただ呼吸をするだけの肉塊となり、二度と笑うことも、明日を夢見ることもなくなった、としたら。
(それは、私の定義する『生存(のちの楽しみ)』と言えるのか?……いや。それは戦死者名簿(カジュアルティ・レポート)に名前が載らないというだけの、ただの『生物学的な延命』に過ぎないのではないか)
安全という名の檻の中で、ただ損耗しないように管理される肉体。そんなものを維持することを、ヒューマニズムとは呼ばない。
それは『保護』ですらない。―――ただの『飼育』だ。
そして、本人の意思を無視して「安全」や「幸福」を強制することは―――私が最も嫌悪する「慈悲深き独裁者」の論理だ。
(相手のためを思って、自由を奪う。……それは権力者が好む、最も安易で、最も醜悪な『善意』の形だ。私は彼女のよき友人にはなりたいが、支配者にはなりたくない)
――民主主義の基本は、個人の権利の尊重にある。そこには当然、「自らの意志で破滅する権利」も含まれている――などと、あちらの世界で口にすれば、おそらく。
『閣下、それは見事な詭弁ですな』
とシェーンコップあたりに毒づかれるのがオチだろう。だが。
(詭弁上等、郷に入っては郷に従うまでさ)
ふと、赤坂での夜が脳裏をよぎる。
ラインハルト・フォン・ローエングラムでさえも、この平和な世界でグラスを掲げ、あろうことか「民主主義」に乾杯してみせたのだ。
かつての宿敵が、自らの殻を破って「変化」を受け入れた。
(ならば、私がいつまでも過去の理屈にしがみついているのは、いささか格好がつかないというものだろうね)
彼はふと、これまでに関わってきた少女たちの顔を思い浮かべた。
(私の知る常識(ロジック)が通用しない世界で、それでも、私は)
彼女たちがゴール板を駆け抜けた瞬間の、あの眩いばかりの輝きを。
(私は――案外、嫌いではないと思ってしまっている)
軍人時代には味わえなかった、純粋な生の賛歌。面倒で、胃が痛くなり、責任ばかりが重いこの仕事。だが、その輝きを、一番近くで見守ることのできるこの特等席を。
(このどうしようもなく理不尽で、不合理で……。しかし、愛すべき厄介者たちと歩む……。
……いや、彼女たちの輝きに魅入られた『トレーナー』という職業を名乗り続ける覚悟があるのならば―――ヤン・ウェンリーという個人の逃げ場は、どこにも無いのだろう)
ヤンは空になった缶を高く放り投げた。カラン、と乾いた音が夜の屋上に響く。それは、彼の中でスイッチが切り替わる音だった。
「……やれやれ。私の安息日は、当分お預けになりそうだ」
彼はアヤベに向き直った。
「礼を言うよ、アヤベ君。……君のおかげで、覚悟が決まった」
「どういたしまして」
アヤベは満足そうに頷いた。
「……期待してるわよ。あの子の走りと、あなたの『お手並み』を」
「ああ。……精々、胃に穴が空かない程度に頑張るさ」
ヤンは手を振り、屋上の出口へと向かった。重い鉄の扉を開け、階段へと足を向ける。
廊下を歩きながら、彼の脳内では既に歯車が回り始めていた。もはや「やるかやらないか」ではない。「どうやるか」だ。
(……戦術論は破棄だ。必要なのは物理的な補強)
彼は歩きながらシミュレーションを重ねる。
(具体的に考えろ。筋肉を鎧に変える方法は。骨への衝撃を分散させるためのフォーム改造は必要か?……そして、ゴール板を過ぎた瞬間の強制停止プロトコルは……)
それは、歴史家の仕事ではない。だが、今の彼に必要なのは、ペンではなくスパナだ。向かう先は自室ではない。理科準備室だ。
まだ明かりがついているかは分からない。だが、あのマッドサイエンティストのことだ。きっと彼が来ることを計算に入れて、紅茶の準備をして待っているに違いない。
■
理科準備室のドアの前で、ヤンは足を止めた。
ドアの隙間から、光が漏れている。中から、話し声が聞こえた。
「……もうそろそろタキオン。今日の所は帰ろう」
「いや、もう少しだ。ここの計算式が……」
トレーナーとタキオンの声だ。夜も更けているというのに、門限破りはいつもの事。まだやっている。彼らもまた、必死なのだ。
ヤンは一度だけ深呼吸をした。
これから始まるのは、教育的指導ではなく、共犯契約の締結だ。一度足を踏み入れれば、もう後戻りはできない。タキオンという暴走特急と共に、破滅の淵を綱渡りすることになる。
「……全く。割に合わん仕事だ」
彼はノックもせずに、勢いよくドアを開けた。
バンッ!という大きな音に、室内の二人が振り返った。アグネスタキオンは机に向かい、何やら膨大な計算式をホワイトボードに書き殴っていた。その傍らには、疲労困憊のトレーナーがいる。
ヤンの姿を見て、タキオンは手を止めた。驚いた様子はない。まるで、数式通りの解が現れたかのような、納得顔だ。
「やあ、魔術師君。……何か忘れ物かな?」
彼女はニヤリと笑った。ヤンは部屋に入り、乱雑に積まれた資料の山を避けて、彼らの前まで歩み寄った。そして、帽子を脱ぎ、テーブルの上に置いた。
「ああ、忘れ物だ」
ヤンは言った。
「君たちに、まだ教えていない歴史の教訓があったのを思い出してね」
「ほう?それはどんな?」
ヤンはホワイトボードのマーカーを一本取り上げ、キャップを外した。
「『英雄は、ベッドの上で死ぬべきだ』という教訓さ」
そして、タキオンが書いていた「自壊を前提とした加速プラン」の上に、大きくバツ印を書き加えた。
「なっ……!?」
トレーナーが驚きの声を上げる。タキオンは目を丸くし、それから面白そうに目を細めた。
「……つまり?」
「プラン変更だ」
ヤンは宣言した。その声に、もはや迷いはなかった。
「私が引き受けよう。……君の、その硝子の脚の『整備』を」
その瞬間、タキオンの表情が輝いた。それは科学者の顔でも、ウマ娘の顔でもない。
待ち望んでいたプレゼントをもらった、子供のような無垢な笑顔だった。
「……ハハッ!そう来なくちゃいけない!忙しくなるぞ、モルモット君!」
ここから先は、地獄への特急便ではない。
生存への綱渡りだ。
ヤン・ウェンリーは、覚悟を決めてその第一歩を踏み出した。
後世の歴史家は語る。
ヤン・ウェンリーが、その生涯において「戦術家」の看板を下ろし、「整備士(メカニック)」の工具を手に取った稀有な事例である、と。
死線を超えた生存者(アドマイヤベガ)の言葉が、彼の最後の迷いを断ち切った。ただ心臓が動いているだけの状態を、彼女たちは「生」とは呼ばない。その痛切な叫びを受け入れた時、彼はついに「生存」の定義を書き換えたのである。
『英雄はベッドの上で死ぬべきだ』
『だが、そのベッドに辿り着くまでは、泥にまみれてでも走り抜けねばならない』
共犯契約は結ばれた。次なる舞台は、年末のグランプリ。硝子の脚を補強するのは、不敗の魔術師が編み出す「物理的(フィジカル)な奇策」である。