ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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怪物と魔術師3―退屈と喝采

 無敗の三冠ウマ娘、ナリタブライアン。

 

 その次なる舞台は、年末のグランプリ、有マ記念。世間の熱狂は、一つの期待に集約されていた。

 

『史上最高の姉妹対決』。

 

 三冠ウマ娘のナリタブライアンと、その年の春の天皇賞・宝塚記念を制した現役最強の姉、ビワハヤヒデ。二人の怪物が初めて同じターフに立つ。誰もが、歴史が動く瞬間を待ち望んでいた。

 

 ナリタブライアン自身も、そうだった。口には出さない。態度にも見せない。だが、彼女がこれまでの過酷なトレーニングに耐え、ヤンの難解な『設計図』をこなし続けてこられたのは、ただ一つの理由からだった。

 

―――姉の背中に、追いつくために。

 

 自分と同じ、あるいはそれ以上の力を持つ唯一無二の存在。ビワハヤヒデとの戦いだけが、彼女を本気にさせる唯一の目標だった。

 

 だが、歴史は時として非情である。菊花賞から数週間後、一本のニュースが、すべての期待を打ち砕いた。

 

「ビワハヤヒデが引退、か」

 

 だが、ヤン・ウェンリーだけは、冷めた目で戦況を分析していた。その日、ブライアンはトレーニングを休んだ。誰にも行き先を告げず、姿を消した。

 トレーナー寮の一室で、ヤンはその事実と、ビワハヤヒデ引退を伝えるニュースを紅茶と共に静かに受け止めていた。

 

「やれやれ。―――歴史上、偉大なライバルを失った英雄は、決まって二つの道に進む。急速に衰退するか、あるいは、己自身を最大のライバルとして、さらなる高みを目指すかだ。君は、どちらを選ぶのだろうね」

 

 翌日、トレーニングに出てきたブライアンは、まるで魂が抜けた抜け殻のようだった。走りに、あの圧倒的な覇気がない。ただ、惰性で脚を動かしているだけ。

 

 ヤンはそんな彼女に、声をかけた。

 

「目標を失ったかね」

「……うるさい」

「君が戦いたかった相手がいなくなった。気持ちはわかる。だが、君の姉君は、君に同情されることを望むかね? むしろ、君がここで立ち止まることこそ、彼女の誇りを最も傷つけることにはならないか?」

 

 ヤンは、一枚のレポートを差し出した。

 

「これは、君の姉、ビワハヤヒデの全レースデータと、現在の君のデータを比較分析したものだ。そして、これが二人が万全の状態で有マ記念を戦った場合の、仮想シミュレーションの結果だよ」

 

 ブライアンが目を通すと、そこには衝撃的な結果が記されていた。

 

 

『勝率:ナリタブライアン 38.4%、ビワハヤヒデ 61.6%』

 

 

「……なんだ、これは」

「事実だ。菊花賞を制した今の君の実力では、万全の彼女には勝てん、ということだ。彼女は、まだ君の先にいる」

 

 その言葉は、ブライアンの心に突き刺さった。消えかけていた闘志の残り火に、再び酸素が送り込まれる。目標は変わった。姉と戦うのではない。姉さえも超える、絶対的な存在になるのだと。

 

 そして、有マ記念。

 

 姉のいないターフで、ブライアンは走った。その走りは、怒りや悲しみではなかった。引退した姉に届けるかのような、静かで、孤高で、あまりに完璧な走りだった。

 

 結果は、圧勝。だが、ゴール後、大歓声の中で彼女の表情は満たされない。そこにいるべき、たった一人のライバルがいなかったからだ。

 

 

 ファンは熱狂し、新たな時代の到来に酔いしれた。

 

 だが、レース後、ブライアンは一人、誰もいないコースを静かに見つめていた。その横顔に浮かぶのは、歓喜でも達成感でもなく、どこか色褪せた『退屈』の色だった。そこに、ヤンがぬるい紅茶を片手に現れる。

 

「どうやら、君は退屈しているらしいな、怪物さん」

「……」

 

 ブライアンは答えなかった。だが、それが肯定であることは、ヤンにはお見通しだった。

 

「君は勝ちすぎた。そして、強くなりすぎた。もはや、君に並び立つライバルは存在しない。歴史上、最強であるがゆえに、戦うべき敵を見失った英雄は少なくない。そしてその多くは、内なる退屈によって自滅していった」

 

「……私は、どうすればいい」

 

 初めて、ブライアンがヤンに走ること以外の問いを投げかけた。ヤンは、夕日に染まるターフを見つめながら、静かに答えた。

 

「さあね。だが、君の物語はまだ終わらんよ。君が本当に戦うべき敵は、もうターフの上にはいないのかもしれないな」

 

 年が明け、春。

 

 ブライアンの次なる目標は、長距離の頂点、天皇賞(春)。彼女のトレーニングは、もはや孤高の領域にあった。誰も彼女のペースについていけず、彼女もまた、誰かに合わせることをやめた。ヤンの『設計図』通りに身体を仕上げ、レースに勝つ。その完璧な方程式に、かつて感じた魂の震えは、もうなかった。

 

 そんなブライアンの心を見透かすように、レース数日前、ヤンは一枚のレポートを彼女に渡した。天皇賞(春)の『設計図』。しかし、それは奇妙なほどに不完全だった。

 

 最終直線、最後の600mからの戦術記述が、ごっそりと抜け落ちている。そして、その空白部分には、ただ一文だけが記されていた。

 

『―――ここから先は、君が書け』

 

「……どういう意味だ」

「最終コーナー手前までは、私の論理に従え。だが、そこから先は、君自身の本能に従え、ということだ」

 

 ヤンは、いつになく真剣な目で彼女を見た。

 

「私は君に、完璧な走り方を教えた。だが、君が『なぜ走るのか』、その答えを教えることはできない。それは、君自身が見つけるものだ」

 

「……好き勝手やって、それで私の足が壊れたら?」

 

 彼は、ふっといつもの気だるげな表情に戻った。

 

「それで壊れたとしても、まあ、その時はその時だ。歴史に残る壮大な自爆劇だと思えば、悪くないだろうし、そうなった時は私も一緒に、学園を去ろう」

 

 ナリタブライアンはギョッとした。学園を去ろう、と言ったこのトレーナーは、本気でそう言っているのだと直感で感じ取ったからだ。

 

「アンタにそこまでしてもらう義理は無い」

 

 とはいえその実は、ただ単純に『引退できる』というヤンの本心に他ならないのだが。

 

 そして迎えた天皇賞(春)、当日。

 

 レースは、ヤンのシミュレーション通り、完璧に進んだ。ブライアンは理想的なポジションで、脚の力も温存したまま、最終コーナーを回る。外に出せば、確実に勝てる。これまで何度も繰り返してきた、勝利の方程式。

 

 だが、彼女の心は動かなかった。このまま勝っても、何も変わらない。また、あの『退屈』が続くだけだ。

 

 そう思った時。不意に、目の前が塞がれた。数人がスパートをかけるためにブライアンの前に壁として立ちはだかったのだ。目の前に、ウマ娘一頭がようやく通れるかどうかの、針の穴のような進路が見えた。常識ではありえない。危険で、愚かで、非合理的な選択肢。

 

 しかし、その瞬間。

 

 ブライアンの脳裏に、姉の走りが鮮やかに蘇った。常に強くあって、誰にも道を譲らず、己の全てを懸けて真っ向からライバルを叩き潰していた、あの絶対的な走り。

 

『―――臆するな、ブライアン』

 

 幻聴のように、姉の声が響いた気がした。気づけば、目の前に、わずか一人分の隙間が空いているその場所に、目線が固定される。常識ではありえない、最も危険な内ラチ沿いの進路。ヤンの『設計図』が、頭の中で警報を鳴らす。

 

 だが、ブライアンは初めて、その警報を自分の意志で、無視をする。

 

 姉に挑戦するかのように。退屈な自分自身に決別するかのように。

 

 彼女は、自らの本能に全てを賭けた。

 

 今まで積み上げてきた、ヤンの『設計図』を破り捨てる、禁じ手。だが、彼女の魂は、その危険な香りに、歓喜に打ち震えていた。

 

『―――ここだ』

 

 ブライアンは、ためらいなく、その内側の隙間へと突っ込んだ。

 

 その走りは、もはやヤンが設計した効率的なものではない。かつての、荒々しく、危険で、破滅と隣り合わせだった頃の、彼女自身の走り。だが、今の彼女には、ヤンが与えた完璧な肉体と知識がある。論理と本能が、矛盾したまま奇跡的な融合を果たす。

 

 その走りは、これまで以上に荒々しく、危険で、そして神々しいほどに美しかった。

 まるで、ターフを切り裂く黒い稲妻。観客も、実況も、誰もが言葉を失い、ただその軌跡に魅入られた。

 他を全く寄せ付けず、先頭でゴール板を駆け抜ける。

 

 ゴール後、初めてブライアンの顔に、心の底からの歓喜とも言える、激しい感情の昂りが浮かんでいた。それは、姉という幻影を超え、自分だけの走りを見つけ出した、怪物の咆哮だった。

 

 観客、解説者、ライバルたち、そしてヤン・ウェンリー。そこにいた誰もが息を飲む、伝説と語り継がれるであろう走りで、彼女は勝利した。

 

 レース後、ブライアンの元にヤンがやってきた。彼はデータを睨むでもなく、ただ、満たされた表情の彼女を見ていた。

 

「……言われた通り、アンタを無視した」

「ああ、見ていたよ。実に非合理的で、愚かで、そして……」

 

 ヤンは、心の底から楽しそうに、滅多に見せない笑顔で言った。

 

「最高の走りだった」

 

 彼は、満足げに頷いた。

 

「どうやら君は、退屈という最大の敵にも勝てたらしいな。私の歴史研究も、これでようやく一区切りつけられそうだ」

 

 その言葉に、ブライアンは初めて、ヤンに向かってハッキリと首を横に振った。

 

「……まだだ」

 

 彼女は、魔術師の目をまっすぐに見据える。

 

「アンタは、まだ私の走りを見る義務がある」

 

 その言葉は、命令でも、懇願でもなかった。ただ、同じ景色を見て、同じ歴史を創っていく、唯一無二の共犯者に対する、絶対的な要求だった。

 

「皇帝のついででも構わない。私に付き合え、魔術師」

 

 ヤン・ウェンリーは、天を仰ぎ、やれやれと肩をすくめた。だが、その口元には、困ったような、それでいて嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 

「やれやれ。どうやら私の引退は、まだ当分、先のことになりそうだ」

 

 怪物と魔術師の物語は、終わらない。『設計図』を越えた先で、二人がこれからどんな歴史を書き記していくのか。それは、まだ誰も知らない。

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