ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第5話:魔術師の変節

 深夜の理科準備室。

 

 ホワイトボードに書き殴られた複雑な計算式を、ヤン・ウェンリーは黒板消しで無造作に消し去った。アグネスタキオンとその担当トレーナーは、呆気にとられたようにその背中を見つめていた。

 

「……消してしまうのかい?私の傑作プランだったのだが」

「却下だ。あんなものはプランではない。良くて遺書の下書きだ」

 

 ヤンは冷たく言い放ち、真っ白になったボードに向き直った。そして、黒のマーカーを走らせた。

 

「そんなものより、よっぽどいいプランがあるんだよ」

 

 彼が描き始めたのは、コース図でもラップタイムの表でもなかった。それは、アグネスタキオンの骨格図だった。関節、筋肉、腱。それらを簡略化した線で描き、所々に矢印や数値を書き込んでいく。それは医学書というよりは、建築物の設計図や、橋梁の構造計算図に近かった。

 

「いいかい、タキオン君。そしてモルモット君」

 

 ヤンは書き終えた図を指し棒で叩いた。

 

「これより、全ての『走行トレーニング』を禁止する」

「……は?」

 

 トレーナーが素っ頓狂な声を上げた。

 

「そ、走行禁止!?レースまであと一ヶ月もないんですよ!?走らなきゃスタミナも勘も鈍ってしまう!」

「走れば摩耗する」

 

 ヤンは即答した。

 

「今の彼女の脚は、ひび割れたガラスだ。本番前に少しでも負荷をかければ、そのひびは広がる。……練習で脚を使い潰して、本番で散るつもりか?」

「そ、それは……」

「我々の目的は『勝利』ではない。『完走』だ。それも、全出力での完走だ」

 

 ヤンはタキオンの左脚の膝部分に、赤ペンでグリグリと丸を付けた。

 

「君の最大の弱点はここだ。左膝の靭帯。高速旋回時のGに耐えられない。……だが、靭帯そのものを鍛えることは不可能だ」

「その通りだね」

 

 タキオンが頷く。

 

「ゴムの強度は変えられない。なら、どうするんだい?」

「周囲を固める」

 

 ヤンは膝の周囲に、何重もの線を書き加えた。

 

「大腿四頭筋、ハムストリングス、そして深層のインナーマッスル。これらを極限まで肥大化させ、硬化させる。……つまり、筋肉のギプスで患部をガチガチに固定するんだ」

「筋肉の……鎧、か」

「そうだ。柔軟性は犠牲になる。ストライドも伸びなくなるかもしれない。だが、衝撃吸収性(ダンピング)と剛性は飛躍的に向上する」

 

 ヤンは振り返り、二人に宣言した。

 

「これから一ヶ月。君には『走る事に特化したウマ娘』ではなく、『走る要塞』になってもらう。……美しさも、軽やかさも捨てろ。ただ、物理的衝撃に耐えうる頑丈な構造体へと進化するんだ」

 

 それは、アスリートに対する指導ではなかった。F1マシンのシャーシ補強、あるいは戦車の装甲追加のプランだった。

 

「……ほう、それはまた、面白い発想をするねぇ!」

 

 タキオンは目を輝かせた。

 

「生物としての進化の袋小路を、工学的アプローチで突破しようというわけか。……ゾクゾクするねぇ」

「笑っている場合じゃないぞ」

 

 ヤンは釘を刺した。

 

「地獄を見るぞ。……走る楽しさなど微塵もない、地味で退屈な苦痛の日々だ。それに耐えられるか?」

「愚問だね」

 

 タキオンは白衣を翻した。

 

「私は科学者だ!実験のためなら、どんな苦痛もデータ(快楽)に変換してみせるとも!」

 

 

 翌日から、奇妙なトレーニングが始まった。

 場所はグラウンドではない。学園の地下にあるウエイトトレーニングルーム、および理学療法室だ。

 

「負荷を上げろ……あと二キロ追加だ」

「ぐっ……!き、キツい……!」

 

 レッグプレスにしがみつくタキオンの額から、玉のような汗が噴き出す。彼女の細い脚が、数百キロの鉄塊を押し上げている。筋肉の繊維一本一本が悲鳴を上げ、断裂寸前まで追い込まれる。

 

「止めるな。あと三回」

 

 ヤンはストップウォッチを見ながら、無慈悲に告げる。

 

「悲鳴を上げているのは筋肉じゃない。脳が『これ以上は危険だ』と誤認しているだけだ。……君の骨格はまだ耐えられる。構造計算上はな」

 

 ヤンの目は冷徹だった。彼はタキオンを「少女」としても「生物」としても見ていなかった。そこにあるのは、有マ記念という過酷な戦場に投入される「機体」であり、彼はその強度不足を補うために、必要な部品(筋肉)を発注し、取り付けているに過ぎない。

 

「……く、ふふッ!……計算通り、かよッ!」

 

 タキオンは歯を食いしばり、鉄塊を押し上げた。ガシャン!という金属音が響く。

 

「ッハー……ハー……きつい、ねぇ!」

「休憩二分。その間に補給だ」

 

 ヤンの指示が飛ぶと、待機していたトレーナーが駆け寄った。彼の手には、シェイカーとタッパーが握られている。

 

「タキオン!補給食だ。食べてくれ」

「……うげ……また、あれかい?」

 

 タキオンはげんなりとした顔をした。なぜなら、ヤンから渡された「栄養管理マニュアル」は、料理のレシピではなかったからだ。

 

 「体重1kgあたり2.5gのタンパク質」「必須アミノ酸の厳密な配合」などが記された、化学実験の指示書に近いものだ。結果として出来上がるのは、味気ない鶏胸肉のペーストや、薬品のような味のするゼリーばかり。

 

 だが、トレーナーが差し出したタッパーの中身は、少し違っていた。茹でた鶏胸肉だが、ハーブで香り付けされ、丁寧にほぐしてある。付け合わせのブロッコリーも、彩りよく並べられていた。

 

「……ヤンさんの指示通りの栄養価は守ってる」

 

 トレーナーはタオルでタキオンの汗を拭きながら言った。

 

「でも、少しでも美味しくなるように、低温調理で柔らかくしてみたんだ。……どうかな?」

 

 タキオンはフォークで肉片を口に運んだ。噛みしめる。パサパサしていない。しっとりとしていて、微かにレモンの香りがする。

 

「……ああ、悪くないよ、モルモット君」

 

 タキオンは口元を緩めた。

 

「上出来だ。……君、最近料理の腕が上がったんじゃないか?」

「君が完食してくれるなら、三ツ星シェフにだってなってやるさ」

 

 トレーナーは笑ったが、その指先には無数の切り傷や火傷の跡があった。彼が、タキオンの体を気遣い、毎晩キッチンで格闘している証拠だ。

 

 ヤンが「肉体の整備」を行うなら、トレーナーが行っているのは「心の整備」だ。

 

 非人間的な訓練の中で、彼女が「ただの機械」になってしまわないよう、人間味(ヒューマニティ)を繋ぎ止める。それが、彼の役割だった。

 

「……ありがとう、モルモット君」

 

 タキオンは小さな声で礼を言い、タッパーを空にした。胃袋に落ちたのは、単なるタンパク質ではない。「生きて帰ってこい」という、彼の『祈り』……願いそのものだった。

 

 

 食事が終わると、ヤンが近づいてきた。

 

「触診だ。脚を出したまえ」

 

 タキオンはベンチに座り、まだ熱を帯びている太腿を晒した。ヤンは無表情に手を伸ばし、筋肉の硬度と張りを確かめる。そして、その指先がピタリと止まった。

 

「……なんだ、これは」

 

 ヤンの眉間に深い皺が刻まれた。

 

「どうしたんだい?何か異常でも?」

「……異常だらけだ」

 

 ヤンは信じられないものを見る目で、タキオンを見上げた。

 

「トレーニングを開始して、まだ五日だぞ?通常の生理学なら、筋繊維の破壊と修復のサイクルには最低でも四十八時間はかかる。……これほどの筋肥大が、たった数日で起こるはずがない」

 

 指先に伝わる感触は、明らかに異質だった。パンプアップによる一時的な膨張ではない。筋繊維そのものが、鋼のワイヤーのように太く、硬く変質し始めている。一ヶ月かけて到達するはずだった目標値の5割を、彼女はわずか数日でクリアしていた。

 

「……君は、何をした?禁止薬物でも使ったか?」

「失敬な。私はルールを守る主義だよ」

 

 タキオンは楽しそうに、自分の脚を撫でた。

 

「だが、心当たりはあるね。……私の細胞が、叫んでいるのさ」

「叫んでいる?」

「ああ。『早く走らせろ』とね。この脚は、有マ記念という戦場に間に合わせるために、自らの設計図を書き換えているのかもしれないよ」

 

 渇望による強制進化。生物学の常識では説明がつかない。

 

「それに、仮説ならある。……『時間』だよ、メカニック君」

「時間?」

「ああ。私の細胞が、未来の『到達点』を予知しているのさ」

 

 彼女の瞳が、妖しく光った。

 

「有マ記念のゴール板。そこで光速に至るという『確定した未来』が、現在の私の肉体を強引に引きずり上げている。……原因があって結果があるのではない。結果が先にあり、肉体がそれに辻褄を合わせようと加速進化しているのさ」

 

「……因果律の逆転か。馬鹿げている」

「ふふ。だが、現にこの脚はある」

 

 だが、目の前の現実は、彼女の肉体が「走る要塞」へと変貌しつつあることを示していた。ウマ娘という種のポテンシャルなのか、あるいはアグネスタキオンという個体の狂気なのか。

 

 ヤンは背筋に冷たいものを感じた。自分が整備しているのは、単なる競技用車両ではない。時空の法則すらねじ曲げようとする、正真正銘の「怪物」なのだと。

 

(……やれやれ。これでは、計算をやり直さなくては。だが……もしかすると、なんとかなるかもしれない)

 

 ヤンは内心で舌を巻いた。この「異常な進化速度」があれば、間に合うかもしれない。

 

(いや……、間に合わせる)

 

 ヤンは指に力を込めた。この、理屈の通らない怪現象(オカルト)さえも、計算式に組み込む。それが魔術師の仕事だ。

 

「……ペースを上げるぞ。君の肉体がそれを求めているなら、限界まで追い込み、飯を食わせてやる」

「望むところだとも、メカニック君」

 

 

 一週間、二週間と時間が過ぎた。学園内では、アグネスタキオンの動向について様々な噂が飛び交っていた。

 

「おい、聞いたか?タキオンが全然走ってないらしいぞ」

「故障か?天皇賞のダメージが残ってるんじゃ……」

「いや、地下のジムに籠もりっきりらしい。ボディビルダーにでもなるつもりか?」

 

 グラウンドに姿を見せない有マ記念の有力候補。ライバルたちは不気味に思ったが、当のタキオン陣営は沈黙を守っていた。

 

 ある日の夕暮れ。廊下を歩いていたタキオンは、マンハッタンカフェとすれ違った。カフェは足を止め、タキオンの姿をじっと見つめた。

 

「……変わりましたね」

 

 カフェが呟いた。

 

「そうかい?体重は二キロ増えたがね」

「いえ、重さではありません。……密度です」

 

 カフェは、霊的な何かを感じ取っていた。以前のタキオンは、カミソリのように鋭く、触れれば切れるような危うさがあった。だが今の彼女は、鉛の塊のような、鈍重だが決して動じない「重み」を纏っている。

 

「『お友達』が言っています。……今のあなたは、爆弾みたいだって」

「ふふ。言い得て妙だね」

 

 タキオンはニヤリと笑った。

 

「安心してくれたまえ、カフェ。私は今、殻の中でエネルギーを圧縮しているのさ。……全ては、あの一瞬に爆発するためにね」

 

 彼女は歩き出した。足取りは重い。筋肉の鎧が体にのしかかっている。だが、その不自由さすら愛おしかった。なぜならこの重みは、翼を広げるための発射台なのだから。

 

 

 そして、十二月下旬。

 

 有マ記念の三日前。理学療法室に、ヤン、タキオン、トレーナーの三人が集まっていた。

 

 タキオンは検査台の上に座り、両足を投げ出している。

 

 だが、その脚は、一ヶ月前とは別物だった。細く儚げだった「硝子の脚」は消え失せていた。代わりにそこにあるのは、鋼鉄のワイヤーを束ねたような、太く、隆々とした筋肉の鎧に覆われた脚だ。

 

 美しくはない。サラブレッドというよりは、ばんえい競馬の馬のような、無骨な力強さが、そこにはあった。

 

 ヤンは無言で触診を行った。膝の関節、足首の可動域、筋肉の反発力。全てを入念にチェックしていく。

 

「……右膝、異常なし。大腿筋膜張筋、硬度良好。ハムストリングス、反応速度正常」

 

 ヤンの手つきは、医師のそれではなく、やはり整備士のそれだった。そしてあらかたのチェックを終えた彼は頷き、一歩下がった。

 

「……完成だ」

 

 その言葉に、トレーナーが息を飲んだ。タキオンは、自分の脚を愛おしそうに撫でた。

 

「これが、私の新しい脚か」

「そうだ。速く走るための脚ではない。……壊れないための脚だ」

 

 ヤンは帽子を被り直し、厳しい口調で告げた。

 

「いいかい、タキオン。この脚の耐久テストは行っていない。ぶっつけ本番だ」

「ああ」

「理論上の耐久限界は、中山の芝2500メートル。それに、ゴール後の減速エリアを含めたプラス100メートル」

 

 ヤンはタキオンの目を覗き込んだ。

 

「だが、私の保証期間はゴールまでだ。……ゴール板を過ぎて、減速に入った瞬間、その機体の保証は切れる。おそらく、反動が一気に来るだろう」

「……つまり?」

「ゴールしたら、即座に倒れろ。……格好悪くてもいい。受け身を取って転がるんだ。立っていれば、自重と疲労で骨が砕ける」

 

 それは、あまりにもギリギリの設計だった。例えるならば、いつ爆発するかもしれない時限爆弾を抱えて走るようなものだ。

 

 ―――だが、タキオンは無邪気に、そして嬉しそうに笑った。

 

「十分さ。……いや、最高だ」

 

 彼女は台から降りた。ドン、と重い音が床に響く。

 

「ありがとう、最高のメカニックたち。……君たちが作り上げてくれたこの『重さ』が、私には翼のように軽く感じるよ」

 

 彼女は拳を握りしめ、二人の男を見た。一人は、彼女の食事を、心を支え続けてくれたトレーナー。もう一人は、彼女の体を、生存への道を設計してくれた魔術師。

 

「見せてあげるよ。……私たちの最高傑作を」

 

 

 アグネスタキオンという、機体の整備は終わった。あとは、パイロットが乗り込み、エンジンを点火するだけだ。

 

 ヤンは一人、理科準備室の後片付けをしていた。

 

 散乱した資料、プロテインの空き容器、そして黒板に残された骨格図。それらを整理しながら、彼はふと、窓の外を見た。冬の夜空。アヤベと見た時と同じように、星が輝いている。

 

「……やれやれ」

 

 彼は紅茶を一口飲んだ。

 明日、あの方程式が実証されるのか、それとも崩壊するのか。歴史家としては、結果をただ記述するだけだ。だが、整備士としては、自分の仕事の不備がないことを祈るしかない。

 

「………ああ、胃が痛い」

 

 その時、ふと机の上に置かれたタッパーが目に入った。モルモット君が置き忘れたものだろうか。蓋を開けてみると、そこにはメモが添えられていた。

 

『ヤンさんの分も作りました。……ありがとうございます』

 

 中には、タキオンが食べていたのと同じ、丁寧に調理された鶏胸肉が入っていた。ヤンは苦笑した。

 

「……賄賂か。安く見られたものだ」

 

 彼は一切れつまんで口に入れた。味は薄い。だが、不思議と悪くない味がした。これは、祈りの味だ。誰かを大切に想う、愚直で温かい祈りの味。

 

「……頼むぞ」

 

 誰にともなく、彼は呟いた。それは神への祈りではなく、彼が作り上げた「部品」たちへの檄だった。

 

 ―――筋肉よ、切れずに耐えろ。

 

 ―――骨よ、砕けずに支えろ。

 

 ―――そして、あの無謀な科学者を、そして彼女を待つあの愚直な青年を、必ず笑顔で再会させろ。

 

 遠くで、風の音が響いた。決戦の時は近い。光速の供物が、祭壇へと捧げられる時が来る。




 戦争の勝敗は、開戦前の「兵站」と「整備」で決する。それがヤン・ウェンリーの持論であり、歴史の真理である。

 彼はアグネスタキオンという機体を、物理法則に従って補強しようと試みた。だが、事態は魔術師の計算を超えて加速する。

 わずか数日で完了した肉体改造。

 それは生物学的進化か、あるいは確定した未来が現在を侵食する「因果律の逆転」か。

 それとも、この世界特有の………。

 整備士は戦慄する。自分がハンマーを振るっている相手は、ただのアスリートではなく、時空の壁すら食い破ろうとする「怪物」なのだと。

 それでも、男は整備をやめない。怪物が空中で分解しないよう、最後のネジを締め上げる。

 次回、いよいよ決戦。

 舞台は中山の直線、光の彼方へ。
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