ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第6話:点火―ignition

 十二月二十三日。中山レース場。有マ記念。

 

 それは日本のウマ娘レース界における総決算であり、ファン投票によって選ばれた夢の競演である。

 十万人を超える観衆の熱気が、冬の凍てつく空気を押し返し、レース場全体が巨大な生き物のようにうねっていた。

 

 

 パドックでは、選ばれし十六人のウマ娘たちが、次々にお披露目を行っていた。

 

 世紀末覇王、テイエムオペラオーを始め、そのライバルであるメイショウドトウや漆黒の刺客、マンハッタンカフェ。名だたる強豪たちがその美しく鍛え上げられた肢体を披露する中、観衆のどよめきが一点に集中した。

 

「おい……あれ、タキオンか?」

「なんか、太くないか?」

「太ったっていうか……ごついぞ」

 

 アグネスタキオン。彼女が登場した瞬間、パドックの空気が変わった。かつての彼女は、カミソリのように研ぎ澄まされ、今にも折れそうな儚さを纏った「光の粒子」だった。

 

 だが、今の彼女は違う。白衣の下の勝負服が張り裂けんばかりに隆起した太腿。丸太のように太くなったふくらはぎ。首回りから肩にかけての僧帽筋も、一回り大きく膨れ上がっている。

 

 美しくはない。サラブレッドというよりは、重戦車。あるいは、荷物を満載した輸送機のような重厚感。

 

「調整失敗か?」

「一ヶ月走ってないって噂は本当だったんだな」

「あんな重い体で、中山の坂を登れるのかよ」

 

 心ない野次が飛ぶ。無理もない。レースの常識で言えば、彼女の体は明らかに「仕上げすぎ(オーバーワーク)」か「太り過ぎ」に見える。スピードが殺されているようにしか見えないのだ。

 

 だが、同じ戦場に立つライバルたちの目は違った。

 

「……ほう」

 

 テイエムオペラオーが、足を止めた。その瑠璃色の瞳が、タキオンの異形の肉体を値踏みするように細められる。

 

「美しい羽根を捨てて、鋼鉄の鎧を纏ったか。……タキオン、それが君の出した『答え』なんだね?」

 

 覇王は、そこに「鈍重さ」ではなく「殺意」を見て取っていた。あれは贅肉ではない。自らの出力を受け止めるためだけに積み上げられた、純粋な耐久構造(フレーム)だ。

 

「……怖いですね」

 

 その隣で、マンハッタンカフェが小さく震えた。

 

「お友達が逃げていきます。……タキオンさんには近づくな、と。あれはもう、ウマ娘ではなく……爆弾そのものだと」

 

 彼女たちは本能で悟っていた。今日のアグネスタキオンは、勝負をしに来たのではない。何か別の、もっと恐ろしいことをしでかすつもりだと。

 

 

 スタンドの片隅でそれを見下ろすヤン・ウェンリーは、周囲の野次を聞き流しながら鼻で笑った。

 

「……愚かだね。タキオンの見た目で判断するとは」

 

 彼は知っている。一ヶ月間、地獄のような負荷に耐え、泥のような食事を胃に流し込み、骨を守るために積み上げられた「装甲板」の意味を。

 

 美しさなど不要。軽やかさなど邪魔だ。あそこにあるのは、2500メートルの全力疾走という、物理法則への挑戦に耐えるためだけに設計された、いわば「構造物」なのだ。

 

「行きましょう、ヤンさん」

 

 隣に立つトレーナーが、震える声で言った。彼の手は白く、祈るように組まれている。

 

「彼女を……見届けに」

「ああ。……特等席へ行こう」

 

 

 地下通路。本バ場入場を控えたウマ娘たちが整列している。緊張感で空気が張り詰める中、タキオンは一人、壁に寄りかかって目を閉じていた。

 

「……タキオン」

 

 声をかけられ、彼女は目を開けた。そこには、彼女の「共犯者」たちが立っていた。ヤンと、トレーナーだ。

 

「やあ。……わざわざ見送りかい?」

 

 タキオンはニヤリと笑った。その表情には、緊張の色は微塵もない。むしろ、これから始まる実験が楽しみで仕方がない子供の顔だ。

 

「最終チェックだ」

 

 ヤンは短く言い、タキオンの前に立った。彼女の膝、足首を一瞥する。バンテージの下で、筋肉が脈打っているのが分かる。

 

「機体の状態は?」

「最高さ」

 

 タキオンはその場で軽く跳ねた。ドン、という重い音が響く。コンクリートの床が微かに揺れた気さえする。

 

「重い。鈍い。体が鉛のように感じる。……だが、それがいい。この重さが、私を地面に繋ぎ止めてくれるアンカーだ」

「作戦は?」

「忘れたよ」

 

 彼女はあっけらかんと言った。

 

「ペース配分?位置取り?……そんなものは研究室に置いてきた。今の私の頭にあるのは、ただ一つ。『アクセルをベタ踏みする』という命令だけだ」

 

 それは、ヤンが最も嫌う「無策」だった。だが、今回に限っては、それが唯一の正解だ。

 

「……いいだろう」

 

 ヤンは頷き、帽子を少し上げた。その瞳が、タキオンを真っ直ぐに射抜く。

 

「行ってこい。……そして、帰ってこい」

 

 シンプルな命令。だが、そこには万感の想いが込められていた。

 

「タキオン!」

 

 トレーナーが叫ぶように言った。

 

「終わったら……また、ご飯作って待ってるから!今度は味付けも濃いめのやつを、好きなだけ!」

「ふふ。それは楽しみだねぇ」

 

 タキオンは二人に背を向け、光の射す出口へと歩き出した。

 

「安心してくれたまえ。……私は優秀な科学者だ。実験データを持ち帰らずに死ぬなんて、非効率なことはしないさ」

 

 彼女は手を振り、大歓声の待つターフへと消えていった。その背中は、かつてないほど大きく、頼もしく見えた。

 

 

 『中山レース場、芝2500メートル。グランプリ有マ記念。まもなく発走です』

 

 実況の声が響く。ゲート入りが進む。一番枠、アグネスタキオン。彼女は静かにゲートに収まった。ゲートの中は狭い。だが、今のタキオンには、そこがコックピットのように感じられた。

 

 彼女は深呼吸をした。

 

 冷たい空気が肺を満たす。

 

 心臓がゆっくりと、力強く鼓動を打ち始める。

 

(……聞こえるかい?私の細胞たち)

 

 彼女は体内の隅々に意識を巡らせた。一ヶ月間、いじめ抜いた筋肉。補強された関節。そして、充填されたエネルギーを感じる。

 

(お待たせしたね。……檻を開ける時間だ)

 

 隣の枠のウマ娘が、タキオンの異様な気配に気づいて一歩後ずさる気配がした。だが、タキオンはもう周囲など見ていなかった。観客の歓声も、遠い波音のようだ。

 

 彼女の視界にあるのは、一直線に伸びる緑の滑走路と、その先にあるゴール板だけ。

 

『全ウマ娘、ゲートイン完了……』

 

 一瞬の静寂。

 

 ヤンはスタンドで、思わず息を止めた。

 

 トレーナーは、手すりを強く握りしめた。

 

 そして。

 

『スタートしました!』

 

 ガシャン!

 

 運命の、ゲートが開く。

 

 その瞬間、中山レース場に衝撃が走った。

 

 

 通常、長距離レースのスタートは静かだ。各ウマ娘は、様子を見ながら位置取りを探り、スタミナを温存する。だが、一番枠のアグネスタキオンは違った。

 

 ズドン。

 

 爆発音にも似た足音と共に、彼女は飛び出した。「好スタート」などという次元ではない。まるで、カタパルトから射出された戦闘機の如く。

 

 一歩目で他ウマ娘を()()()()()し。

 

 二歩目で加速体制に入り

 

 三歩目でトップスピードに乗る。

 

「なっ……!?」

 

 実況アナウンサーが声を裏返した。

 

「アグネスタキオン、速い!いきなり行った!大逃げだ!」

 

 迷いがない。ためらいがない。最初の一歩から、筋肉繊維の全てを動員した最大出力。地面を蹴るたびに、芝生が根こそぎめくれ上がり、土塊が後方へ吹き飛ぶ。

 

(重い!……でも、進む!)

 

 タキオンは笑った。体が重い。以前のような、風に乗るような軽さはない。だが、その重質量が、圧倒的な推進力となって彼女を押し出す。軽い車体なら浮いてしまうほどの速度でも、この鋼鉄のボディなら地面を噛んで進める。

 

 風圧が顔を叩く。

 

 景色が流れる線になる。

 

 思考が白く塗りつぶされていく。

 

(ああ、これだ……!これが、私の全開の走りだ!)

 

 

 一方、後続のウマ娘たちは、信じられない光景を目にしていた。

 

 速すぎる。スタートから200メートル地点。既にタキオンは5バ身前方にいた。それは、短距離レース(スプリント)のペースだった。少なくとも、2500メートルを走るペースではない。

 

「正気!?」

「ついていったら潰れる!」

 

 後続のウマ娘が一斉にブレーキをかけた。あんなペースに付き合えば、共倒れになる。絶対にバテる。あんなもの、第一コーナーか、遅くとも向こう正面で脚が止まるはずだ。

 

 だが、一人だけ、冷や汗を流しているウマ娘がいた。今回は後方待機策をとっていたテイエムオペラオーだ。

 

(……違う)

 

 彼女は戦慄していた。前を行くタキオンの背中から感じるプレッシャー。それは「無謀な暴走」のそれではない。暴走なら、フォームが乱れる。息が上がる。

 

 ―――だが、彼女の走りは精緻だった。無骨で、荒々しく、地面を破壊するような走りだが、そのリズムには一分の狂いもない。

 

(あれは……最後まで保たせるつもりか!?)

 

 オペラオーは悟った。彼女はレースをしているのではない。「自分自身」という爆弾が爆発する前に、ゴールまで運び去ろうとしているのだ。

 

(追うべきか?いや、今動けばボクのスタミナが持たない!……待つしかないのか?覇王であるこのボクが、ただの傍観者として!?)

 

 覇王ですら動けない。それほどの「暴力的な速さ」が、中山のターフを支配していた。

 

 

 タキオンはトップスピードに乗ったままで、第一のコーナーに突っ込んだ。通常なら減速して回るカーブを、彼女は減速せずにそのまま侵入する。大きな遠心力が襲いかかる。左膝に、大きなGがかかる。

 

 ―――ミシッ。

 

 骨が軋む音が、体内で響いた。かつての体なら、計算上、彼女の脚はここで砕けていたはずだ。

 

 だが、ここに来て彼らの補強が正しかったことを、タキオンは知る。

 

(……走れる!)

 

 ヤンが設計し、トレーナーが育て上げた筋肉の鎧が、衝撃をガッチリと受け止め、分散させたのだ。分厚い大腿四頭筋がサスペンションとなり、骨への直撃を防ぐ。

 

(耐えた!……行ける!まだ踏める!)

 

 確信を持ったタキオンはさらに加速した。コーナーを抜け、正面ホームストレッチへ。後続との差は10バ身、15バ身と開いていく。常識外れのハイペースに観客はどよめきと歓声が上がる。

 

 1000m通過タイム、57秒フラット。

 

 観客席から上がるものが、悲鳴に変わる。

 

「バカな!あんなペースで保つわけがない!」

「自殺行為だ!タキオン、止まれ!」

 

 誰もがそう思った。だが、スタンドのヤンだけは、冷徹な目で彼女のフォームを見つめていた。

 

「……いいぞ」

 

 彼は呟いた。見るべきは彼女というの機体のブレだけだ。時計やデータの類は見る必要がない。

 

「潰れるものか。……その機体は、潰れる前にゴールに到達するように設計されている」

 

 これは暴走ではない。計算され尽くした、制御された破滅だ。燃料(スタミナ)など残す必要はない。ゴールラインの向こう側まで持っていくだけの燃料があれば、あとは空っぽでいい。

 

「行け、タキオン……!」

 

 隣でトレーナーが叫んでいる。ターフの上で、栗毛の怪物が咆哮を上げた。

 

 それは科学の実験であり、同時に、生命の爆発だった。

 

 

 誰も見たことのない、2分30秒の旅が始まった。




 それはレースではない。


 それは自殺行為でもない。


 それは、ただの物理現象の証明である。


 「質量×速度=破壊力」。この単純な公式を証明するために、科学者は自らを砲弾に変えた。

 美しさを捨て、重厚な鎧を纏った彼女が描く軌跡は、レースの常識(セオリー)を、ライバルたちの戦術を、そして観衆の理解を、遥か後方へと置き去りにしていく。

 音速の壁を超え、光速の領域へ。

 そして、彼女の魂の解放へ。
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