向こう正面。残り一〇〇〇メートル。
アグネスタキオンは笑っていた。苦痛の笑みではない。歓喜の笑みだ。
(あはっ!あははははっ!)
風が、かつてない密度で顔を叩く。景色が、見たこともない速度で後方へ吹き飛んでいく。速い。とてつもなく速い。
そして何より――自由だ。
今まで、彼女はずっとブレーキを踏みながら生きてきた。
「ここを超えたら壊れる」
「これ以上は危険だ」
自分のガラスの脚を気遣い、本能に首輪をつけて飼い慣らしてきた。研究者という仮面を被り、走りたい欲求をデータ収集という名目にすり替えてきた。
だが今はどうだ?踏み込める。地面が割れるほど強く蹴っても、脚は砕けない。カーブで遠心力に身を任せても、膝は悲鳴を上げない。
(凄いねぇ!君たちの仕事は完璧だよ、メカニックたち!)
彼女は自分の脚を見下ろした。ヤンが設計し、トレーナーが育て上げた筋肉の鎧。それが今、きしみ声を上げながらも、彼女の全出力をガッチリと受け止めている。
重い?
鈍い?
(とんでもない!)
この重さは「安心感」だ。どんなに暴れても壊れないという、絶対的な保証だ。この鋼鉄の繭があるからこそ、私は中の「蝶」を羽ばたかせることができる!
「……ふっ、ふふっ!」
彼女はさらに加速した。
ペース配分?――――知るものか。
スタミナ管理?――――どうでもいい。
今、この一瞬、私が世界で一番速ければ、それでいい!
■
スタンドの特等席。
ヤン・ウェンリーは双眼鏡を構えたまま、微かに口を開けていた。
「……信じられん」
彼の計算では、タキオンはもっと苦しんでいるはずだった。筋肉の断裂による激痛、酸素欠乏による失速。それらを精神力でねじ伏せて走る「苦行」を想定していた。
だが、レンズの向こうにいるタキオンの表情はどうだ。
―――笑っている。
まるで、鎖を解かれた野獣のように。あるいは、初めて自転車に乗れた子供のように。心底、走ることを楽しんでいる。
「……痛みを感じていないのか?」
いや、そんなはずはない。彼女の脚は今、物理的限界を超えて摩耗している。装甲(きんにく)は引きちぎれ、骨には強烈なGがかかっているはずだ。
「アドレナリン……いや、もっと根源的な快楽物質、か?」
脳内麻薬が、痛覚信号を遮断しているのだ。「楽しい」「もっと走りたい」という純粋な快楽が、肉体の悲鳴を凌駕している。
「タァアアアキオォオオン!」
その時、隣でトレーナーが叫ぶ。涙を流しながら、柵を乗り越えんばかりの勢いで。
「行けぇぇぇッ!お前の好きに走れぇぇぇッ!」
ヤンはふと、トレーナーの横顔を見た。
―――彼もまた、タキオンと同じように笑っていた。理屈も理論もかなぐり捨てて、ただ大切な相手が輝いている姿を見て、魂を震わせている。
ヤンは苦笑し、再び双眼鏡を覗いた。
「……やれやれ。これでは私の計算など、ただの紙切れ以下だな」
彼女はもう、整備された機体でも、構造物でもない。
ただの、走るのが大好きな一人のウマ娘だ。
「私が作ったのは檻でも鎧でもなく、彼女の魂を解き放つための「滑走路」だったというわけだ」
■
第三コーナー。後続集団が動いた。テイエムオペラオー、メイショウドトウ、マンハッタンカフェ。現役最強のメンバーたちが、必死の形相で追う。
だが、差は縮まらない。むしろ開いていく。
(……ッ、何故だ!)
オペラオーが歯噛みする。
(何故、落ちてこない!?あれだけのペースで飛ばして、何故笑っていられる!?」
常識では、暴走した「逃げ」は、最後には苦悶の表情で失速する。だがタキオンの背中からは、悲壮感が全く感じられない。楽しそうだ。水を得た魚のように、躍動している。
(……追いつけない)
カフェが呼吸を乱しながら呟く。
(タキオンさんは今……『こちらの世界』にいない)
彼女たちは悟らざるを得なかった。
今日のアグネスタキオンは、誰かに勝つために走っているのではない。
ただ、自分の魂を解き放つ遊びに没頭しているだけだ。
その純粋な「遊び」に、勝負論理で挑んでも勝てるはずがない。
■
第四コーナーを回り、最後の直線。中山レース場の心臓破りの急坂が待ち構える。重力という巨人が、彼女の脚にのしかかる。
普通なら、ここで脚が止まる。だが、タキオンは止まらない。止まるどころか、さらにギアを上げた。
ドッ! ドッ! ドッ!
一歩踏み込むたびに、地面が悲鳴を上げる。そして同時に、彼女の中で「何か」が外れていく音がした。重い体が、嘘のように軽い。ヤンに作ってもらった鋼鉄の鎧が、熱を持って溶け出し、純粋なエネルギーへと変換されていく感覚。
肉体という器(ハードウェア)が限界を超え、魂(ソフトウェア)だけが先行していく。
(ああ、なんて静かなんだ)
歓声が消えた。風の音が消えた。自分の心臓の音さえも、はるか後方に置き去りにした。
苦しくない。痛くない。
ただ、ひたすらに気持ちがいい。
私は今、光になっている。
誰の許可もいらない。
誰の目も気にしなくていい。
ただ私が、私であるために。
「――――ッ!!」
声にならない咆哮。
彼女は坂を駆け上がる。
視界が白く染まる。
世界から色が消える。
世界の形が崩れる。
そして、ただ。
「白い道」だけが残る。
■
残り一〇〇メートル。
極限の集中状態(ゾーン)の中で、アグネスタキオンはついに到達する。
世界が止まった。
スローモーションのように流れる景色。空気の粒子一つ一つがダイヤモンドのように輝き、彼女の肌を優しく撫でていく。
そこは、完全な真空のような世界だった。
重力も、摩擦も、しがらみも、恐怖も。
全てが存在しない、絶対自由の領域。
(……ああ)
彼女は目を見開いた。これが、彼女が追い求めて仕方が無かった―――。
『向こう側(リミットブレイク)』
誰も知らない、超光速の領域。
劇的なファンファーレが鳴るわけでも、神が降臨するわけでもなかった。
ただ、圧倒的に透明で、どこまでも静かな「無」があった。
だが、その「無」は虚無ではない。
すべての雑音が取り払われた、純粋な充足感だ。
(……素晴らしい……だが……そうか)
タキオンは心の中で呟いた。
拍子抜けするほど、普通だった。
もっと恐ろしく、もっと崇高なものだと思っていた。
だが、ここにあるのは、今まで自分が走ってきた
魔法は解けた。
だが、失望はなかった。
むしろ、清々しいほどのカタルシスがあった。
(ふふ。……こんなものか)
彼女は思った。
(向こう側の景色そのものは、大したことはなかった)
でも。
ここまで走ってくる道のりは。
モルモット君と歩んだ日々は。
ヤン・ウェンリーと過ごした日々は。
チーム・ヤンと共に走った時間は。
――――――死ぬほど、楽しかった。
(ああ……十分だ。これ以上ないほど、私は楽しみ尽くした)
彼女の脳裏に、待っている二人の顔が浮かんだ。
(……ふふ。お腹いっぱいだよ。もうこれ以上は、一口だって入らない)
美味しいご飯を作ってくれる助手。憎まれ口を叩きながら整備してくれた魔術師。
(帰るとしよう)
彼女は最後の力を振り絞り、ゴールラインへと飛び込んだ。
■
『アグネスタキオン、一着でゴールイン!!』
『大レコード!伝説的な速さです!』
ゴール板を通過した瞬間。タキオンは自ら脱力した。
(約束通り……だッ!)
彼女はヤンに教えられた通り、受け身を取って地面に転がった。減速なしの転倒。体は激しく芝生の上を滑り、泥だらけになって回転する。
格好悪い。無様だ。だが、立っていれば脚が砕ける。この転倒こそが、彼女を生かすための最後の「整備」だった。
ズザザザッ……!フェンス際まで転がり、ようやく彼女の体は止まった。
静寂。十万人の観衆が凍りつく。動かない。泥人形のように横たわったまま、ピクリともしない。
「タキオン!!」
トレーナーが柵を乗り越えて駆け出す。ヤンが双眼鏡を下ろし、深く息を吐く。
「……セーフだ」
彼は見ていた。倒れる瞬間、彼女が体を丸め、衝撃を逃がしていたことを。
■
ターフの上。駆けつけたトレーナーが、泥だらけのタキオンに膝をついて呼びかけた。手足は泥まみれ、顔も芝だらけ。だが、彼女の胸は大きく上下し、生きていることを主張していた。
「タキオン!おい、タキオン!?」
呼びかけに応え、タキオンがゆっくりと目を開けた。その瞳は、一点の曇りもなく輝いていた。
まるで、最高に楽しい遊びを終えた子供のような顔で。
「……嗚呼、実に、楽しかった」
第一声は、それだった。痛みよりも、疲労よりも先に、純粋な感想が漏れた。
「タキオン……!お前、体は!?」
「全身ボロボロさ。節々も痛い。……だが、不思議と気分はいい」
彼女は仰向けのまま、冬の青空を見上げた。
そこには、さっきまで見ていた「向こう側」の景色はない。
ただの空だ。
だが、その青さが、今はたまらなく美しく見えた。
「はは……。はははは!あーっはっはっはっはっはっ!!」
笑いがこみ上げてきた。底抜けに明るい、満足しきった笑い声がターフに響き渡る。
「見れた見れた!なあんだ!『向こう側』ってやつは、案外大したことはなかったねぇ!」
彼女はケラケラと笑い飛ばした。あれほど執着していた境界線を、まるでつまらない観光地だったかのように語る。
―――だって、そこに行くまでの全力疾走の方が、何百倍も楽しかったのだから。
「私の仮説通りだ!あースッキリした!」
「お前なぁ……!」
トレーナーは脱力し、そして泣き笑いのような顔になった。
「よかった……!本当に、無事でよかった……!」
「モルモット君。お腹が空いたよ」
タキオンはねだるように言った。
「約束のご飯だ。……味の濃いやつを、山盛り頼むよ」
「ああ!任せとけ!嫌って言うほど食わせてやる!」
二人のやり取りを見下ろすスタンドで、ヤン・ウェンリーはフッと口元を緩めた。タキオンが、不器用に動く手でサムズアップを掲げているのが見えた。
(いい整備だったよ、魔術師(メカニック)君)
そう、彼女の瞳は雄弁に告げていた。
「……そりゃどうも」
ヤンは帽子を目深に被り直し、背を向けた。肩の荷が下りた。重く、厄介で、しかしどこか清々しい荷物だった。
「……やれやれ。二度と、こんな役回りは御免だね」
彼は歩き出した。言葉とは裏腹に、足取りは軽い。
今度こそ、本当に美味しい、平和な紅茶が飲めそうだ。
歴史とは、時に皮肉な結末を迎える。
すべてを犠牲にして追い求めた真理(向こう側)が、実は何でもない空っぽの場所であったりするように。
だが、その空虚さを笑い飛ばせる強さこそが、アグネスタキオンという存在の真価なのかもしれない。
彼女は証明した。
速さの果てにあるのは、神の領域などではない。泥にまみれ、腹を空かせ、愛すべき共犯者たちと笑い合う「生」の実感こそが、何よりも尊いのだと。
実験は終了した。
魔術師はスパナを置き、科学者は白衣に戻る。だが、その心に残った熱量は、質量保存の法則を無視して、永遠に燃え続けるだろう。