ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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第7話:超光速の2分30秒

 向こう正面。残り一〇〇〇メートル。

 

 アグネスタキオンは笑っていた。苦痛の笑みではない。歓喜の笑みだ。

 

(あはっ!あははははっ!)

 

 風が、かつてない密度で顔を叩く。景色が、見たこともない速度で後方へ吹き飛んでいく。速い。とてつもなく速い。

 

 そして何より――自由だ。

 

 今まで、彼女はずっとブレーキを踏みながら生きてきた。

 

「ここを超えたら壊れる」

「これ以上は危険だ」

 

 自分のガラスの脚を気遣い、本能に首輪をつけて飼い慣らしてきた。研究者という仮面を被り、走りたい欲求をデータ収集という名目にすり替えてきた。

 

 だが今はどうだ?踏み込める。地面が割れるほど強く蹴っても、脚は砕けない。カーブで遠心力に身を任せても、膝は悲鳴を上げない。

 

(凄いねぇ!君たちの仕事は完璧だよ、メカニックたち!)

 

 彼女は自分の脚を見下ろした。ヤンが設計し、トレーナーが育て上げた筋肉の鎧。それが今、きしみ声を上げながらも、彼女の全出力をガッチリと受け止めている。

 

 重い?

 鈍い?

 

(とんでもない!)

 

 この重さは「安心感」だ。どんなに暴れても壊れないという、絶対的な保証だ。この鋼鉄の繭があるからこそ、私は中の「蝶」を羽ばたかせることができる!

 

「……ふっ、ふふっ!」

 

 彼女はさらに加速した。

 

 ペース配分?――――知るものか。

 

 スタミナ管理?――――どうでもいい。

 

 

 

 今、この一瞬、私が世界で一番速ければ、それでいい!

 

 

 

 

 スタンドの特等席。

 ヤン・ウェンリーは双眼鏡を構えたまま、微かに口を開けていた。

 

「……信じられん」

 

 彼の計算では、タキオンはもっと苦しんでいるはずだった。筋肉の断裂による激痛、酸素欠乏による失速。それらを精神力でねじ伏せて走る「苦行」を想定していた。

 

 だが、レンズの向こうにいるタキオンの表情はどうだ。

 

 ―――笑っている。

 

 まるで、鎖を解かれた野獣のように。あるいは、初めて自転車に乗れた子供のように。心底、走ることを楽しんでいる。

 

「……痛みを感じていないのか?」

 

 いや、そんなはずはない。彼女の脚は今、物理的限界を超えて摩耗している。装甲(きんにく)は引きちぎれ、骨には強烈なGがかかっているはずだ。

 

「アドレナリン……いや、もっと根源的な快楽物質、か?」

 

 脳内麻薬が、痛覚信号を遮断しているのだ。「楽しい」「もっと走りたい」という純粋な快楽が、肉体の悲鳴を凌駕している。

 

「タァアアアキオォオオン!」

 

 その時、隣でトレーナーが叫ぶ。涙を流しながら、柵を乗り越えんばかりの勢いで。

 

「行けぇぇぇッ!お前の好きに走れぇぇぇッ!」

 

 ヤンはふと、トレーナーの横顔を見た。

 

 ―――彼もまた、タキオンと同じように笑っていた。理屈も理論もかなぐり捨てて、ただ大切な相手が輝いている姿を見て、魂を震わせている。

 

 ヤンは苦笑し、再び双眼鏡を覗いた。

 

「……やれやれ。これでは私の計算など、ただの紙切れ以下だな」

 

 彼女はもう、整備された機体でも、構造物でもない。

 

 ただの、走るのが大好きな一人のウマ娘だ。

 

「私が作ったのは檻でも鎧でもなく、彼女の魂を解き放つための「滑走路」だったというわけだ」

 

 

 第三コーナー。後続集団が動いた。テイエムオペラオー、メイショウドトウ、マンハッタンカフェ。現役最強のメンバーたちが、必死の形相で追う。

 

 だが、差は縮まらない。むしろ開いていく。

 

(……ッ、何故だ!)

 

 オペラオーが歯噛みする。

 

(何故、落ちてこない!?あれだけのペースで飛ばして、何故笑っていられる!?」

 

 常識では、暴走した「逃げ」は、最後には苦悶の表情で失速する。だがタキオンの背中からは、悲壮感が全く感じられない。楽しそうだ。水を得た魚のように、躍動している。

 

(……追いつけない)

 

 カフェが呼吸を乱しながら呟く。

 

(タキオンさんは今……『こちらの世界』にいない)

 

 彼女たちは悟らざるを得なかった。

 

 今日のアグネスタキオンは、誰かに勝つために走っているのではない。

 

 ただ、自分の魂を解き放つ遊びに没頭しているだけだ。

 

 その純粋な「遊び」に、勝負論理で挑んでも勝てるはずがない。

 

 

 第四コーナーを回り、最後の直線。中山レース場の心臓破りの急坂が待ち構える。重力という巨人が、彼女の脚にのしかかる。

 

 普通なら、ここで脚が止まる。だが、タキオンは止まらない。止まるどころか、さらにギアを上げた。

 

 ドッ! ドッ! ドッ!

 

 一歩踏み込むたびに、地面が悲鳴を上げる。そして同時に、彼女の中で「何か」が外れていく音がした。重い体が、嘘のように軽い。ヤンに作ってもらった鋼鉄の鎧が、熱を持って溶け出し、純粋なエネルギーへと変換されていく感覚。

 

 肉体という器(ハードウェア)が限界を超え、魂(ソフトウェア)だけが先行していく。

 

(ああ、なんて静かなんだ)

 

 歓声が消えた。風の音が消えた。自分の心臓の音さえも、はるか後方に置き去りにした。

 

 苦しくない。痛くない。

 ただ、ひたすらに気持ちがいい。

 私は今、光になっている。

 誰の許可もいらない。

 誰の目も気にしなくていい。

 ただ私が、私であるために。

 

「――――ッ!!」

 

 声にならない咆哮。

 彼女は坂を駆け上がる。

 視界が白く染まる。

 世界から色が消える。

 

 世界の形が崩れる。

 

 

 そして、ただ。

 

 

 「白い道」だけが残る。

 

 

 

 残り一〇〇メートル。

 極限の集中状態(ゾーン)の中で、アグネスタキオンはついに到達する。

 

 世界が止まった。

 

 スローモーションのように流れる景色。空気の粒子一つ一つがダイヤモンドのように輝き、彼女の肌を優しく撫でていく。

 

 そこは、完全な真空のような世界だった。

 

 重力も、摩擦も、しがらみも、恐怖も。

 

 全てが存在しない、絶対自由の領域。

 

(……ああ)

 

 彼女は目を見開いた。これが、彼女が追い求めて仕方が無かった―――。

 

『向こう側(リミットブレイク)』

 

 誰も知らない、超光速の領域。

 

 劇的なファンファーレが鳴るわけでも、神が降臨するわけでもなかった。

 

 ただ、圧倒的に透明で、どこまでも静かな「無」があった。

 

 だが、その「無」は虚無ではない。

 

 すべての雑音が取り払われた、純粋な充足感だ。

 

(……素晴らしい……だが……そうか)

 

 タキオンは心の中で呟いた。

 拍子抜けするほど、普通だった。

 もっと恐ろしく、もっと崇高なものだと思っていた。

 

 だが、ここにあるのは、今まで自分が走ってきた(未知)の延長線上にすぎない。

 

 未知()が既知になった瞬間。

 魔法は解けた。

 だが、失望はなかった。

 むしろ、清々しいほどのカタルシスがあった。

 

(ふふ。……こんなものか)

 

 彼女は思った。

 

(向こう側の景色そのものは、大したことはなかった)

 

 でも。

 

 ここまで走ってくる道のりは。

 

 モルモット君と歩んだ日々は。

 

 ヤン・ウェンリーと過ごした日々は。

 

 チーム・ヤンと共に走った時間は。

 

 

 

 ――――――死ぬほど、楽しかった。

 

 

 

(ああ……十分だ。これ以上ないほど、私は楽しみ尽くした)

 

 彼女の脳裏に、待っている二人の顔が浮かんだ。

 

(……ふふ。お腹いっぱいだよ。もうこれ以上は、一口だって入らない)

 

 美味しいご飯を作ってくれる助手。憎まれ口を叩きながら整備してくれた魔術師。

 

(帰るとしよう)

 

 彼女は最後の力を振り絞り、ゴールラインへと飛び込んだ。

 

 

 『アグネスタキオン、一着でゴールイン!!』

 『大レコード!伝説的な速さです!』

 

 ゴール板を通過した瞬間。タキオンは自ら脱力した。

 

(約束通り……だッ!)

 

 彼女はヤンに教えられた通り、受け身を取って地面に転がった。減速なしの転倒。体は激しく芝生の上を滑り、泥だらけになって回転する。

 

 格好悪い。無様だ。だが、立っていれば脚が砕ける。この転倒こそが、彼女を生かすための最後の「整備」だった。

 

 ズザザザッ……!フェンス際まで転がり、ようやく彼女の体は止まった。

 

 静寂。十万人の観衆が凍りつく。動かない。泥人形のように横たわったまま、ピクリともしない。

 

「タキオン!!」

 

 トレーナーが柵を乗り越えて駆け出す。ヤンが双眼鏡を下ろし、深く息を吐く。

 

「……セーフだ」

 

 彼は見ていた。倒れる瞬間、彼女が体を丸め、衝撃を逃がしていたことを。

 

 

 ターフの上。駆けつけたトレーナーが、泥だらけのタキオンに膝をついて呼びかけた。手足は泥まみれ、顔も芝だらけ。だが、彼女の胸は大きく上下し、生きていることを主張していた。

 

「タキオン!おい、タキオン!?」

 

 呼びかけに応え、タキオンがゆっくりと目を開けた。その瞳は、一点の曇りもなく輝いていた。

 

 まるで、最高に楽しい遊びを終えた子供のような顔で。

 

「……嗚呼、実に、楽しかった」

 

 第一声は、それだった。痛みよりも、疲労よりも先に、純粋な感想が漏れた。

 

「タキオン……!お前、体は!?」

「全身ボロボロさ。節々も痛い。……だが、不思議と気分はいい」

 

 彼女は仰向けのまま、冬の青空を見上げた。

 

 そこには、さっきまで見ていた「向こう側」の景色はない。

 

 ただの空だ。

 

 だが、その青さが、今はたまらなく美しく見えた。

 

「はは……。はははは!あーっはっはっはっはっはっ!!」

 

 笑いがこみ上げてきた。底抜けに明るい、満足しきった笑い声がターフに響き渡る。

 

「見れた見れた!なあんだ!『向こう側』ってやつは、案外大したことはなかったねぇ!」

 

 彼女はケラケラと笑い飛ばした。あれほど執着していた境界線を、まるでつまらない観光地だったかのように語る。

 

 ―――だって、そこに行くまでの全力疾走の方が、何百倍も楽しかったのだから。

 

「私の仮説通りだ!あースッキリした!」

「お前なぁ……!」

 

 トレーナーは脱力し、そして泣き笑いのような顔になった。

 

「よかった……!本当に、無事でよかった……!」

「モルモット君。お腹が空いたよ」

 

 タキオンはねだるように言った。

 

「約束のご飯だ。……味の濃いやつを、山盛り頼むよ」

「ああ!任せとけ!嫌って言うほど食わせてやる!」

 

 二人のやり取りを見下ろすスタンドで、ヤン・ウェンリーはフッと口元を緩めた。タキオンが、不器用に動く手でサムズアップを掲げているのが見えた。

 

(いい整備だったよ、魔術師(メカニック)君)

 

 そう、彼女の瞳は雄弁に告げていた。

 

「……そりゃどうも」

 

 ヤンは帽子を目深に被り直し、背を向けた。肩の荷が下りた。重く、厄介で、しかしどこか清々しい荷物だった。

 

「……やれやれ。二度と、こんな役回りは御免だね」

 

 彼は歩き出した。言葉とは裏腹に、足取りは軽い。

 

 今度こそ、本当に美味しい、平和な紅茶が飲めそうだ。




 歴史とは、時に皮肉な結末を迎える。

 すべてを犠牲にして追い求めた真理(向こう側)が、実は何でもない空っぽの場所であったりするように。

 だが、その空虚さを笑い飛ばせる強さこそが、アグネスタキオンという存在の真価なのかもしれない。

 彼女は証明した。

 速さの果てにあるのは、神の領域などではない。泥にまみれ、腹を空かせ、愛すべき共犯者たちと笑い合う「生」の実感こそが、何よりも尊いのだと。

 実験は終了した。

 魔術師はスパナを置き、科学者は白衣に戻る。だが、その心に残った熱量は、質量保存の法則を無視して、永遠に燃え続けるだろう。
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