ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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エピローグ:(Agnes)Tachyon replenishment

 年が明け、一月中旬。

 

 トレセン学園は、冬の寒さの中にありながらも、どこか浮き足立った空気に包まれていた。年末の有マ記念で見せつけられた、アグネスタキオンの衝撃的なレコード勝ち。そして、ゴール直後の劇的な転倒と生還。その話題は冷めることなく、むしろ伝説として語り継がれようとしていた。

 

 だが、そんな世間の喧騒とは無縁の場所が一つある。トレーナー寮の一室、ヤン・ウェンリーの部屋だ。

 

 

「……平和だ」

 

 ヤンは安楽椅子に深く身を沈め、湯気の立つマグカップを両手で包み込んでいた。中身は、紅茶:ブランデー=6:4という、昼間から飲むにはいささか危険な配合の液体だ。

 

 窓の外は雪。静かだ。電話も鳴らない。理事長室からの呼び出しもない。これこそが、彼が求めていた「理想的な老後(まだ現役だが)」の姿だった。

 

「あの暴走娘の整備も終わった。……私の仕事は完了だ」

 

 彼は自分に言い聞かせた。タキオンは無事に生還した。脚の怪我も、全治三ヶ月の重傷ではあるが、選手生命に関わるものではないと診断された。ヤンが設計した「筋肉の鎧」と「緊急停止プロトコル」が、完璧に機能した証拠だ。

 

 本来なら、これでハッピーエンドだ。

 彼女は「向こう側」を見て満足し、研究室に戻る。

 トレーナーは彼女の助手に戻る。

 ヤンは歴史書を読む生活に戻る。

 万事解決。めでたしめでたし。

 

 

 ……の、はずだったのだが。

 

 

 コン、コン、コン、コン。

 

「……居留守を使っても無駄だよ、魔術師君」

 

 扉の向こうから、聞き慣れた、そして二度と聞きたくなかった声がした。

 

 

 ヤンは天を仰ぎ、深いため息をついた。平和な時間は、常に脆く、短命であるというのが歴史の教訓だ。

 

「……鍵は開いている」

「失礼するよ」

 

 ドアが開き、松葉杖をついたウマ娘が入ってきた。アグネスタキオンだ。左脚には厚いギプスが巻かれているが、顔色は驚くほど良い。白衣を羽織り、いつもの不敵な笑みを浮かべている。

 

「やあ。相変わらず陰気な部屋だねぇ」

「最高の褒め言葉だ。……で、何の用だね?患者は大人しくベッドで寝ているべきだと思うが」

「退屈でね。リハビリがてら散歩に来たのさ」

 

 タキオンは勝手知ったる他人の家のように、ソファにどかっと座り込んだ。そして、テーブルの上に置かれたヤンのマグカップを鼻でくんくんと嗅いだ。

 

「……昼間から酒盛りかい?不良トレーナーだね」

「精神安定剤だよ。君のような予測不能な爆弾を相手にするには、これくらい必要だ」

 

 

 ヤンは新しいカップを取り出し、自分のと同じ――とはいえもちろん酒抜きの紅茶――を注いでタキオンに渡した。彼女はそれを一口すすり、満足げに息を吐いた。

 

「……美味いね」

「お世辞はいい。本題に入りたまえ」

 

 ヤンは安楽椅子に戻り、足を組んだ。

 

「君は『満足した』と言っていたはずだ。向こう側の景色を見て、仮説を実証して、お腹いっぱいになったと。……違うかね?」

「ああ、その通りさ」

 

 タキオンは頷いた。

 

「私の探究心は満たされた。あの有マ記念での全力疾走……あれは完璧な実験だった。データも取れたし、未知の領域も体験した。科学者としての私は、もうこれ以上望むものはない」

「なら、引退届でも書きに来たのか?それならば、喜んで代筆しよう」

「いや」

 

 タキオンは首を横に振った。そして、ギプスの巻かれた左脚を、愛おしそうに撫でた。

 

「誤算があってね」

「誤算?」

「君と、モルモット君のせいだよ」

 

 彼女は恨めしそうに、けれどどこか嬉しそうにヤンを睨んだ。

 

「君の設計した『補強工事』と、その後の彼による執念深いケア……。それらが完璧すぎたんだ。私の脚は、あの無茶な実験を経て、壊れるどころか、以前より強靭な『構造物』として再生しようとしている」

 

 ヤンは眉をひそめた。確かに、彼の設計は「壊れないこと」を最優先にした。だが、それはあくまで使い捨ての鎧としての設計だったはずだ。

 

「昨日の精密検査の結果だ」

 

 タキオンはポケットから一枚の紙を取り出し、テーブルに滑らせた。そこには、骨密度の数値や、筋繊維の回復予測が記されていた。ヤンがそれらを手に取ってみてみれば、殆どの数値は、レース前よりも向上していた。

 

「……バケモノめ」

 

 ヤンは呆れた。一度限界を超えて破壊された組織が、より強く太く修復される「超回復」。それが、常識外れのレベルで起きている。

 

「君たちが守り抜いてくれたおかげで、この脚はまだ『走れる』と言っているんだよ。……機能的にも、構造的にもね」

 

 

 タキオンは紅茶を飲み干し、窓の外を見た。雪が降る校庭では、寒さに負けずトレーニングに励むウマ娘たちの姿が見える。

 

「それに……うるさいんだよ、外野がね」

 

 彼女は肩をすくめた。

 

「私の病室には、毎日山のような手紙が届く。『感動した』『もう一度見たい』『次はいつ走るんだ』とね。……私が『もう満足した』と言っても、彼らが納得しないらしい」

「君は、他人の評価など気にしない質だろう?」

「以前ならね」

 

 タキオンは視線を戻した。その瞳には、かつてのような狂気じみた飢餓感はない。あるのは、憑き物が落ちたような穏やかさと、そして少しばかりの「責任感」だった。

 

「だが、考えを改めたよ。……この脚は、もはや私一人の所有物(リソース)ではない」

 

 彼女は自分の脚を指差し、そしてヤンを指差した。

 

「君が設計し、モルモット君が磨き上げ、そしてあの十万人の観衆が望んだ『共有財産』だ。……それを私一人のエゴで『満足したから廃棄処分』にするのは、科学的見地から見ても、あまりに非効率的な『資源の浪費』だと思ってね」

 

 それは、アグネスタキオンという少女の、第二の覚醒だった。自分のために走り、自分のために燃え尽きるつもりだった彼女が、他者の『想い』を、『願い』を受け入れ、それを背負って走ることを選んだのだ。

 

「……モルモット君は、なんて?」

 

 ヤンが尋ねた。

 

「泣いていたよ。『嬉しい』とね。……そしてすぐに、復帰に向けた半年間のリハビリメニューを作り始めた。鬼のような形相でね」

 

 タキオンは苦笑した。

 

「……彼、最近調子に乗っているんだ。『君の脚の管理者は僕だ』なんて言ってね。食事制限もさらに厳しくなりそうだ」

「いいことじゃないかタキオン。優秀な管理者がいれば、組織は長持ちするものだよ」

 

 

 タキオンは松葉杖をついて立ち上がった。

 

「そういうわけでね、魔術師君。……君には悪いが、まだ引退はできそうにない」

 

 彼女はヤンに向かって、手を差し出した。

 

「私は走るよ。今度は、私のワガママのためじゃない。……君たちが作り上げ、守り抜いたこの『最高傑作』を、世界に見せびらかすためにね」

 

 それは、新たな契約の申し出だった。以前のような「破滅への共犯関係」ではない。未来へ続く「希望の共犯関係」だ。

 

 ヤンは差し出された手を見つめ、やれやれと首を振った。

 

「……私の安息日は、当分お預けか」

「メンテナンス代は弾むよ。請求書はモルモット君に回しておいてくれ」

 

 ヤンは立ち上がり、彼女の手を握り返した。その手は温かく、力強かった。

 

「……いいだろう。ただし、条件がある」

「なんだい?」

「次は、もう少し優雅に勝ちたまえ。……泥だらけの転倒シーンは、心臓に悪い」

 

 タキオンはニカっと笑った。

 

「努力するよ。……まあ、約束はできないがねえ!」

 

 

 タキオンは松葉杖をつき直し、ドアへ向かおうとしたが、ふと立ち止まり、背を向けたまま言った。

 

「……それと」

 

 彼女の声のトーンが、少しだけ落ちた。

 

「すまなかったね。ヤン・ウェンリー」

 

 短い言葉だった。だが、そこには珍しく真摯な響きがあった。

 

「君の平穏な老後プランを、私のエゴで台無しにしてしまったこと。……そして何より、君に『嫌な役回り』を押し付けたことを、だ」

 

 彼女は知っていたのだ。ヤンがどれほどの葛藤を抱えて、あの「破壊的創造プラン」を提示したのかを。本来なら止めるべき立場の大人が、少女の暴走に手を貸す共犯者となる。その罪悪感を、彼一人に背負わせてしまったことを。

 

「……気に病むことはないさ」

 

 ヤンは安楽椅子に深く座り直し、新しい紅茶を一口啜った。

 

「私は『トレーナー』だ。ウマ娘の……君の()()()()に付き合うのは、給料に含まれている業務のうちだよ」

「……」

「それに、謝罪されるようなことは、君からは何もされていないが?―――私の記憶にあるのは、優秀な実験動物と、優秀なメカニックによる、極めて建設的な共同研究の記憶だけだ。しかも、有マ記念と言うグランプリの勝利、と言うオマケまで付いていた。私にとっては、過ぎた報酬だよ」

 

 ヤンは肩をすくめてみせた。

 

「過去の不手際を謝る暇があるなら、未来の勝利のための計算式でも考えてくれたまえ。……私の給料分くらいは、レースで働いてもらわないと困る」

 

「……ふっ、くくっ!」

 

 タキオンは肩を震わせ、そして振り返った。その顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。

 

「ああ、違いない! 君は本当に……食えない大人だよ、魔術師君!」

 

 彼女は白衣を翻した。

 

「……ああ、そういえば。一つ、記述の訂正(エラー修正)をしておこうか」

「記述の訂正?なんだ、もう引退する気になったのか?」

「まさか。君の名前の定義についてだよ」

 

 タキオンは白衣のポケットからメモ用紙を取り出し、ヤンに見せながら言った。

 

「先日、君の登録データを覗かせてもらったんだがね。『Yang』がファミリーネーム、『Wen-li』がファーストネーム……東洋式の表記だったわけだ」

 

 彼女は興味深そうにヤンを見つめた。

 

「つまり、個体名として呼ぶなら『ウェンリー』が正解、というわけかい?」

「……まあ、そうなるな。訂正するのも面倒で放置していたが」

 

 ヤンが肩をすくめると、タキオンは実験動物を観察するような目で彼を凝視した。

 

「ふむ……」

「な、なんだ」

「……()()()()()

 

 不意に、名前を呼ばれた。だが、そこには甘い響きなど微塵もなく、まるでビーカーのラベルを読み上げるような無機質さだった。

 

「…………」

「…………」

 

 数秒の沈黙の後、二人は同時に顔をしかめた。

 

「……止めてくれ。背中が痒くなる」

「同感だね。舌が腐りそうな響きだ」

 

 タキオンはケラケラと笑い飛ばした。

 

「やはり君には、得体の知れない『魔術師君』というコードネームか、あるいはフルネームでの記号的呼び出しが一番お似合いだよ。『ウェンリー』なんて人間味のある名前は、君のその怠惰な本質と矛盾(エラー)を起こしている」

「それはどうも。……君に褒められると、皮肉にしか聞こえんな」

「フフッ。……じゃあね、魔術師君。次に来る時までには、もっとマシな茶菓子を用意しておくことを勧めるよ」

 

 言い捨てて、タキオンは今度こそドアを開けて出て行った。

 

 

 タキオンが帰った後、ヤンは窓を開けた。

 冷たい風が、酒の入った火照った頬を冷やす。

 

 雪道を、松葉杖をつきながら歩いていくタキオンの姿が見えた。

 校門のところには、傘を持って彼女を待つトレーナーの姿がある。

 彼らは合流し、何やら言葉を交わしながら――おそらく今夜の夕食のメニューについてだろう――並んで歩いていった。

 

 その背中は、もはや「いつ壊れるか分からないガラス細工」ではなかった。太く、強く、どこまでも頼もしい「恒星」の輝きを放っていた。

 

「……歴史家としては、記述の訂正が必要だな」

 

 ヤンは呟いた。彼は当初、彼女を「一瞬の閃光」と定義していた。だが、彼女は燃え尽きなかった。だが、その光は、多くの人々の手によって燃料を注がれ、形を変え、より長く、より強く輝く光へと進化した。

 

 それはきっと、ヤン・ウェンリーが最も好む種類の「想定外」だった。彼はマグカップを持ち上げ、遠ざかる二人の背中に向かって、静かに祝杯を挙げた。

 

 春になれば、彼女はまた走るだろう。今度は、誰かの悲鳴ではなく、歓声を背に受けて。

 そして、その傍らには、常に胃薬を手放せない不器用なトレーナーと、紅茶をすする怠惰な魔術師の姿があるはずだ。

 

 それは、平和で、騒がしく、愛すべき未来の景色だった。




 契約とは、本来、双方の合意と利益に基づいて結ばれるものである。

 だが、稀代のマッドサイエンティストと不精な魔術師の間において、その常識は通用しないらしい。

 「実験終了」の報告は、新たな「長期研究」の開始宣言へとすり替えられた。魔術師は天を仰ぐ。安息の日々は遠のき、胃薬と紅茶の消費量は増える一方だ。

 だが、去り行く背中に向けたその眼差しは、決して冷たくはない。

 さて、一件落着―――。

 そう思って安楽椅子に沈む彼の元へ、次なる来訪者が現れる。それは、彼をこの騒動に巻き込んだ「黒幕」たちによる、事後承諾の答え合わせだ。
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