ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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外伝:共犯者たちのティーパーティー

 一月も下旬に差し掛かったある日の放課後。

 

 トレセン学園のトレーナー寮、ヤン・ウェンリーの私屋には、冬の柔らかな西日が差し込んでいた。部屋の中は、相変わらず資料の山と、飲みかけの紅茶のカップ、そして読みかけの歴史書で埋め尽くされている。「整理整頓」という概念が戦略的撤退をしたかのような有様だ。

 

「……それで?わざわざこんなむさ苦しい部屋まで、何の用だね?生徒会長殿」

 

 ヤンはソファの上の本をどかしながら、呆れたように言った。彼の目の前には、この混沌とした部屋には似つかわしくない、凛とした制服姿のウマ娘――シンボリルドルフが立っていた。

 

「なに、査察というわけではないよ。トレーナー君」

 

 ルドルフは苦笑し、手土産の包みをテーブルに置いた。

 

「ただ、先日の『作戦成功』の報告を、まだ正式に受けていなかったと思ってね。……生徒会長として、そして依頼主として」

「報告なら書面で出したはずだが?」

「『異常なし。以上』という一行だけの報告書がか?あれで受理されると思っているなら、君は歴史家より詐欺師に向いている。アドマイヤベガの件で学ばなかったのかい?」

「生憎と過去の出来事は忘れる主義でね。それよりも紅茶の一杯を楽しみたいんだ」

「全く。相変わらずだね、トレーナー君は」

 

 ルドルフは優雅にソファに腰を下ろした。ヤンはやれやれと溜息をつき、キッチンへ向かった。手土産の包みを開けると、中身は高級な茶葉だった。しかも、ブランデーによく合う銘柄だ。相変わらず、この皇帝は人心掌握に長けている。

 

「……で、ルドルフ。何が聞きたい?」

 

 ヤンはお湯を沸かしながら尋ねた。

 

「結果は知っての通りだ。タキオンは生還した。全治三ヶ月だが、春には復帰できる。……君の注文通り、ハッピーエンドだ」

「ああ、感謝しているよ」

 

 ルドルフの声は、いつになく真摯だった。

 

「だが、私が聞きたいのは結果ではない。……君がどうやって、あの『暴走』を『軟着陸』させたのかだ」

 

 ヤンはポットを持って戻り、二つのカップに紅茶を注いだ。芳醇な香りが部屋に広がる。

 

「大したことじゃない」

 

 ヤンは自分のカップに、こっそりと隠してあったスキットルから液体を垂らしながら答えた。

 

「物理の問題を物理で解いただけさ。精神論で骨は強くならないが、筋肉で固めれば折れにくくなる。……単純な力学だよ」

「単純、か」

 

 ルドルフは紅茶を一口含み、ほう、と息を吐いた。

 

「有マ記念のあのペース……。私でさえ、見ていて肝が冷えたよ。あれは自殺志願者の走りだった。それを『楽しい』と言い切らせて帰還させる手腕……。やはり君は魔術師だよ」

「よしてくれ。今回、私はただの整備士(メカニック)に過ぎないよ。それに……8割はタキオン本人の力さ」

「彼女の?」

「ああ。正直、私の当初の計画では、良くて大怪我。日常生活には戻れるが、レースは引退するのが関の山だと思っていた。だが、それが蓋を開けてみれば、当初予定していた数十倍のスピードで、彼女自身の脚が進化していったんだ」

「事実は小説より奇なり、と?」

「ああ。全く、君達ウマ娘の体と言うのは一体、どうなっているんだか」

 

 ヤンは安楽椅子に深く沈み込んだ。

 

「たが、見事にタキオンは生還してみせた。ま、それは喜ばしい事だ。しかしね、おかげさまで私の安息日は消滅してしまった。……あの患者、リハビリ中だというのに、もう次の『改造プラン』を持ってきやがる」

「ふふ。嬉しい悲鳴に聞こえるが?魔術師殿?」

「それはそれは。ルドルフ、君は幻聴が聞こえるようだね?あるいは都合のよい妄想をする癖が激しいと見える」

 

 軽口を叩き合う二人。そこには、共に難局を乗り越えた戦友のような空気が流れていた。

 

 その時だった。控えめな、しかし確かなノックの音が響いたのは。

 

 

「……客かい?」

 

 ルドルフが眉を上げた。

 

「いや、予定はないはずだが……」

 

 ヤンが立ち上がろうとした時、ドアがゆっくりと開いた。隙間から顔を覗かせたのは、鹿毛色の髪のウマ娘――アドマイヤベガだった。

 

「……失礼するわ。明かりがついていたから」

 

 彼女は部屋の中に入りかけ、ソファに座るルドルフの姿を見て足を止めた。

 

「……あっ。先客がいたのね。出直すわ」

「構わないよ、アヤベ君」

 

 ルドルフが手招きした。

 

「密談というわけじゃない。君も入りたまえ。……ヤン、カップはもう一つあるかい?」

「……洗っていないやつなら、山ほどあるよ」

 

 ヤンはキッチンから新しいカップを持ってきた。アヤベは少し躊躇いながらも、ルドルフの対面、ヤンの隣の丸椅子にちょこんと座った。普段なら決して交わらないであろう、皇帝と一等星。だが今日、この部屋においてのみ、二人の間には奇妙な共通点があった。

 

「アヤベ君も、タキオンの様子を見に来たのかい?」

 

 ヤンが紅茶を注ぐと、アヤベは両手でカップを包み込み、小さく頷いた。

 

「……ええ。カフェから聞いたわ。松葉杖をつきながら、食堂で大盛りカレーを食べていたって」

「食欲があるのは良いことだ。生存本能が正常に機能している証拠だからな」

 

 ヤンが言うと、アヤベは微かに口元を緩めた。

 

「そうね。……無事でよかったわ。本当に」

 

 その言葉には、実感がこもっていた。妹の死を背負い、かつて自らも破滅に向かおうとした彼女だからこそ、タキオンが生きて戻ってきたことの意味を、誰よりも深く噛み締めているようだった。

 

「君のおかげだよ、アヤベ君」

 

 ヤンは言った。

 

「あの夜、屋上で君が背中を押してくれなければ、私は今頃、彼女の葬式で弔辞を読んでいたかもしれない」

「……私は、何もしてないわ」

 

 アヤベは視線を逸らした。

 

「ただ……『厚かましくあれ』と言っただけ」

「厚かましく、か」

 

 その言葉に反応したのは、ルドルフだった。彼女は興味深そうにアヤベを見た。

 

「アドマイヤベガ。君がヤンに、そんな助言をしたのか?」

「……助言なんて大層なものじゃありません」

 

 アヤベは恐縮したように首を振った。

 

「ただ、この人が迷っていたから。……『生存か、尊厳か』なんて難しい顔をして」

 

 

 ここから、奇妙な「答え合わせ」が始まった。

 

「迷っていた、か」

 

 ルドルフは面白そうにヤンを見た。

 

「確かに、私のところへ来た時もそうだったな。……私は彼に言ったんだ。『子供に耐火服を着せるのが大人の役目だ』とね」

「耐火服……?」

 

 アヤベが瞬きをする。

 

「ああ。タキオンという流星が燃え尽きないように、奇跡(マジック)を使えと命じたのさ」

「……なるほど」

 

 アヤベは納得したように頷き、そしてジト目でヤンを見た。

 

「ヤン。あなた、生徒会長からも、私からも、同じようなことを言われていたのね」

「……まあな」

 

 ヤンはバツが悪そうに視線を泳がせた。

 

「私は言ったわ。『彼女を満足させて、その上で首根っこ掴んで引きずり戻せ』って」

「私は言ったな。『厚かましく、欲張りなハッピーエンドを目指せ』と」

 

 ルドルフとアヤベは顔を見合わせた。そして、同時にヤンを見た。

 

「「……つまり」」

 

 二人の声が重なった。

 

「君は、私たち二人に挟み撃ちにされて、逃げ場を失っていたわけか」

「仕方なく『整備士』になるしかなかったのね」

 

 部屋に一瞬の沈黙が落ち、次の瞬間、クスクスという忍び笑いが漏れた。ルドルフが肩を震わせ、アヤベも口元を手で隠して笑っている。

 

「……笑い事じゃないぞ」

 

 ヤンは不満げに紅茶をあおった。

 

「君たちのおかげで、私は不本意な労働を強いられたんだ。……歴史家が悪徳医師の真似事なんて、経歴に傷がつく」

「何を言う」

 

 ルドルフは笑い涙を拭いながら言った。

 

「そのおかげで、一人の天才が救われ、一人のトレーナーが絶望から救われた。……立派な功績じゃないか。それに、君は経歴なんて気にしないだろう?」

「そうよ」

 

 アヤベも続いた。

 

「それに、あなた自身も……満更でもなかった顔をしていたわよ?あの夜、屋上で」

「……記憶にないな」

 

 ヤンはそっぽを向いた。だが、否定はしなかった。ルドルフの「理屈」と、アヤベの「感情」。

 

 その両方から攻め立てられ、退路を断たれた結果とはいえ、彼自身もまた、その「無理難題」に挑むことに、ある種の高揚感を覚えていたことは事実なのだから。

 

 

 ひとしきり笑った後、ルドルフはふと真面目な顔に戻った。

 

「……だが、トレーナー君。これからが大変だぞ」

「分かっているよ」

 

 ヤンは重々しく頷いた。

 

「タキオンは『味を占めて』しまった」

 

 ルドルフは言った。

 

「全力を出しても壊れない体。恐怖を感じずに走れる快感。……それを知った彼女は、以前よりも貪欲に『速さ』を求めるようになるだろう」

「ええ」

 

 アヤベも同意する。

 

「カフェも言っていたわ。今のタキオンさんは、前よりも『重くて、熱い』って。……もう、誰も止められないかもしれない」

 

 かつては「壊れる恐怖」がブレーキになっていた。だが、ヤンがそのブレーキを物理的に破壊し、代わりに最強のエンジンとシャーシを与えてしまった。生まれたのは、リミッターの外れた怪物だ。

 

「責任は取ってもらうよ、魔術師殿」

 

 ルドルフは楽しそうに言った。

 

「今のタキオンは、君が作り上げた怪物だ。最後まで面倒を見る義務がある」

「……やれやれ」

 

 ヤンはマグカップをテーブルに置いた。コトリ、という音が響く。

 

「君たちは、私を過労死させる気か?」

「死にはしないさ。……君には優秀な助手(モルモット君)がいるじゃないか」

「彼も共犯者よ。……三人で仲良く、地獄の底まで付き合いなさい」

 

 ルドルフとアヤベは、顔を見合わせて悪戯っぽく微笑んだ。その表情は、まるで姉妹のように似ていた。

 

 立場は違えど、彼女たちは「走る者」としての共感で結ばれている。そして今、ヤン・ウェンリーという男を「いじる」ことにおいても、完璧な連携を見せていた。

 

 

 窓の外、日が沈みかけている。

 茜色の光が、散乱した部屋を優しく染めていた。

 

 ヤンは、楽しそうに談笑する二人を見つめた。

 

 皇帝シンボリルドルフ。

 一等星アドマイヤベガ。

 

 学園でも指折りの実力者たちが、こんな狭い部屋で、安物の椅子に座り、ヤンの淹れた紅茶を飲んでいる。奇妙な光景だ。だが、不思議と居心地は悪くなかった。

 

(……まあ、悪くないか)

 

 ヤンは心の中で独りごちた。平穏な老後は遠のいた。これからも、タキオンの無茶な実験に付き合わされ、ルドルフから無理難題を押し付けられ、アヤベから静かな圧力をかけられる日々が続くだろう。

 

 だが、誰も死なない。誰も欠けることなく、こうして紅茶を飲んで笑い合える未来が手に入った。それだけで、あの胃の痛くなるような一ヶ月間の労働には、十分な価値があったと言えるだろう。

 

(それに、新たなる知見も得た。ウマ娘の至上命題は、人間とは違う。―――ただ、走ること。そして、トレーナーの役割とは、その業(ごう)を背負った彼女らが、後悔すると判っている選択をしたとしても、最後まで隣にいてやることなのかもしれないな)

 

「……お代わりはどうだね?」

 

 ヤンはポットを持ち上げた。

 

「頂こうか。……君の淹れる紅茶は、不思議と落ち着く」

「私も。……少しだけ、お砂糖を入れてもいいかしら」

 

 ヤンは苦笑し、二人のカップに琥珀色の液体を注いだ。湯気が立ち上る。それは、戦いを終えた戦士たちと、それを支えた整備士の、ささやかで温かい休息の時間だった。

 

「……春になったら」

 

 ルドルフが不意に言った。

 

「大阪杯があるな。……タキオンの復帰戦には、ちょうどいい舞台だと思わないか?」

「……勘弁してくれ」

 

 ヤンは呻いた。

 

「私のスケジュール帳には、春まで『昼寝』としか書いてないんだ」

「ふふ。それじゃあ、私が書き換えておくわね」

 

 アヤベが小さく笑った。

 

 部屋に、柔らかな笑い声が響く。外は寒いが、この部屋の中だけは、春のように暖かかった。




(アグネスタキオン後編 完)

 平和とは、戦争と戦争の間の準備期間に過ぎない。

 だが、その束の間の休息こそが、トレーナーにとっての至上の報酬であることもまた真実だ。

 魔術師の要塞に、二人の「共犯者」が凱旋する。皇帝の論理と、一等星の感情。二方向からの包囲網により、魔術師の退路が完全に断たれたからこそたどり着いた、この場所。

 だが、観念して飲む紅茶の味は、魔術師に言わせればそう悪くはないらしい。


 アグネスタキオンという方程式は、中山の2500メートルを根拠として、ついに、正しいと証明された―――。


 ……否、まだ一つだけ、計算の合わない「項」が残っている。

 舞台は深夜の図書館。

 静寂の中で魔術師は、数式には記されざる『魔法』と邂逅する。
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