ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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魔術師の補講、あるいは「想い」の質量

 学園の大図書館。時刻は深夜二時を回っていた。

 

 トレセンその奥深くにある閲覧スペースで、ヤン・ウェンリーは頭を抱えていた。テーブルの上には、ウマ娘の生理学、運動力学、スポーツ医学、果ては最新の遺伝子工学に関する専門書が山のように積み上げられている。

 

「……どうやっても計算が合わない」

 

 ヤンは呻き、紅茶を一口啜った。先日の有マ記念でアグネスタキオンは見事にあちら側を見て、そして生還した。それはいい。最高の結果だ。だが、その過程には、どうしても説明のつかない「穴」があった。

 

 彼は手元のメモ――タキオンの身体データの推移グラフを睨みつけた。

 

「一ヶ月だぞ?たったの四週間だ。それで、どうしてあそこまでのタキオンの脚が補強されたんだ?」

 

 ヤンが指示したトレーニングと食事管理は、確かに効率的なものだった。だが、どんなに効率を上げても、細胞分裂の速度には限界がある。筋繊維の破壊と修復、結合組織の硬化。それらが定着するには、どう見積もっても最低三ヶ月は必要だ。一ヶ月であの強度に達するなど、人間の医学でも、ウマ娘の生理学でもあり得ない。

 

「そもそも、もしあの短時間で補強が可能だったなら……あのマッドサイエンティストが自分でやっているはずだ」

 

 そう。アグネスタキオンは天才だ。自分の体を実験台にしている彼女が、「脚の補強」そして「短期間での超回復」の可能性を見落とすはずがない。

 

 彼女がそれを諦めていたということは、理論上不可能だったからだ。

 

 そもそも、そうでなければタキオンとヤンの出会いもなかっただろう。破滅に向かう少女、それを止めたヤン。前提が崩れてしまう。

 

 それなのに、なぜか今回に限っては、現実に彼女の脚は鋼鉄へと変わった。

 

(なぜだ? 私の計算式が間違っていたのか? それとも、あのトレーナーの料理に魔法の粉でも入っていたのか?)

 

「……実に、非論理的だ。納得がいかない」

 

 ヤンは椅子に深く身を沈めた。歴史家として、不可解な事象を放置するのは気持ちが悪い。

 

 必ず理由があるはずだ。特異点。変異。あるいは環境要因。彼はページをめくり続けたが、答えはどこにも載っていなかった。

 

 

 ヤンが深い溜息をついた時、コツ、コツ、と静かな足音が近づいてきた。

 

「……遅くまで熱心ですね、ヤンさん」

 

 顔を上げると、そこには理事長秘書の駿川たづなが立っていた。手にはお盆を持ち、湯呑みとお茶請けの菓子が乗っている。彼女はいつもの穏やかな笑みを浮かべていたが、この深夜の図書館においては、どこか人知を超えた雰囲気すら漂わせていた。

 

「やあ、たづなさん。……見回りで?」

「ええ。明かりが漏れていましたので」

 

 たづなはテーブルの上の惨状(とブランデーの香り)を見て、苦笑しながらお盆を置いた。湯呑みから立ち上るのは、香り高い緑茶だ。

 

「差し入れです。……根を詰めすぎると、見えるものも見えなくなりますよ」

「恐縮です。……しかし、どうにも行き詰まっていてね」

 

 ヤンは礼を言い、緑茶を一口啜った。渋みが頭をスッキリさせる。彼は愚痴のようにこぼした。

 

「計算が合わないんだ。……彼女の脚を強化した時の時間的な意味での速度。それがどうにも物理法則を無視しているように早くてね。何か、決定的な『変数』を見落としているようなんだが……」

 

 たづなは、積み上げられた専門書を一瞥し、静かに言った。

 

「ヤンさん。ウマ娘という存在を、単なる『生き物』として定義しすぎてはいませんか?」

「……どういう意味です?」

「彼女たちは、ただ筋肉と骨で走るわけではありません」

 

 たづなは窓の外、星空を見上げた。

 

「名前を受け継ぎ、歴史を受け継ぎ……そして何より、誰かの『想い』を背負って走るのです」

「……想い?」

「ええ。応援してくれる人の声、支えてくれる人の祈り。……そういった『目に見えない力』が、時に肉体の限界を超えさせる。……()()()は、そういう生き物なんですよ」

 

 彼女は意味深に微笑むと、一礼した。

 

「では、私はこれで。……あまり夜更かしなさいませんように」

 

 たづなは去っていった。足音もなく、幻のように。

 

「……想い、か」

 

 ヤンは残された緑茶を見つめた。

 

「それは、つまり、精神論か。……歴史家としては、あまり信用したくない変数だがね」

 

 しかし、たづなの言葉は、喉に刺さった小骨のように、ヤンの頭に残っていた。

 

 

 ヤンは気分転換にと席を立ち、静まり返った書架の間を歩く。

 

「………ん? 忘れ物か」

 

 ふと、近くの閲覧テーブルに目が止まった。誰かが置き忘れたのだろうか。専門書が並ぶこのエリアには不釣り合いな、薄い本が一冊置かれていた。

 

「……『ウマ娘と、星の約束』?」

 

 それは、子供向けの絵本だった。表紙には、デフォルメされた可愛らしいウマ娘が、夜空に向かって走っている絵が描かれている。普段のヤンなら気にも留めないだろう。だが、思考が飽和していた彼は、気まぐれにその本を手に取った。

 

 パラ、パラとページをめくる。内容は単純な御伽噺だ。

 

 足の遅いウマ娘がいた。

 誰よりも速く走りたかったが、体が弱く、すぐに転んでしまう。

 彼女は薬草を探したり、魔法使いにお願いしたりするが、速くはなれない。

 

 ヤンは苦笑した。まるで誰かさんのようだな、と。

 

 だが、物語の終盤。夜空を見上げるページで、ヤンの手が止まった。そこには、ひらがなで、優しいリズムの言葉が並んでいた。

 

『ごはんで ぐんぐん おおきく なあれ。』

『かけっこ びゅんびゅん はやく なあれ。』

 

 当たり前のことだ。物理的な因果関係。だが、次のページに書かれた一節が、彼の視線を釘付けにした。

 

『でもね。もっと もっと とおくへ いきたい ときはね。』

 

『だれかの「おもい」を ぎゅっと こめるの。』

『だれかの「ねがい」を ぎゅっと こめるの。』

『そうするとね、ふしぎ。』

 

『あしが つばさに かわるんだよ。』

『その つばさは とっても つよくて。』

『どんな あらしでも ぜったいに おれたり しないんだよ。』

 

 

「……「願い」に、「想い」、だと?」

 

 ヤンは眉をひそめた。非科学的だ。ロマンチシズムの極みだ。だが、その言葉を読んだ瞬間、脳内で散らばっていたパズルのピースが、カチリと音を立てて嵌まった気がした。

 

『誰かの『想い』を背負って走るのです』

 

 さきほどの、たづなさんの言葉が蘇る。

 

「……そうか」

 

 ヤンは本を閉じた。タキオンの肉体改造。その材料となったのは、確かにタンパク質やアミノ酸だった。

 

 だが、それらを通常あり得ない速度で結合させ、定着させた「触媒」があったのだとしたら?

 

 ――タキオン自身の「自由に走りたい」という、魂を焼くほどの純粋な渇望。

 ――トレーナーの「生きてほしい」という、献身的な祈り。

 ――ヤン自身の「帰ってこい」という、不器用な命令。

 

 ――そして、タキオンの走りを見たい人々の、多くの想いと、願い。

 

「……馬鹿げている」

 

 ヤンは独りごちた。だが、否定もできなかった。

 

 質量保存の法則を無視して、彼女の脚は増強された。そこに追加された「未知の質量」の正体が、我々の「想い」や「願い」だったとするならば。

 

「……想いが、願いが翼になる、か。物理学者が聞いたら卒倒するだろうな」

 

 彼女の脚を覆っていたあの強靭な筋肉。あれは、ただのタンパク質の塊ではなかった。

 

 我々の願いが結晶化した、空を飛ぶための――そして決して折れない「見えない翼」だった。だからこそ、あんな無茶な暴走に耐えきることができたのだろう。

 

 

 ヤンは本を元の場所に戻した。スッキリした顔をしていた。

 

 論理的には破綻している。だが、歴史家としては納得できる。

 

(なぜならば。歴史とは、往々にして――)

 

 ―――1人の人間の「非合理的な情熱」や「祈り」が、不可能を可能にしてきた、『希望』という記録でもあるのだから。

 

「……やれやれ。私の計算が合わないわけだ」

 

 彼は帽子を被り直した。計算式に「おもい」や「ねがい」なんて変数は組み込めない。だからこそ、この世界は、レースは、トレーナーは、『ウマ娘』は、面白く、そして厄介なのだ。

 

「今日のところは、『魔法』の存在を認めてやろう」

 

 ヤンは図書館の出口へと歩き出した。足取りは軽い。

 

 明日、あのマッドサイエンティストに会ったら言ってやろう。

 

『君の脚は、我々の想いと願いでできた翼だ』と。

 

 きっと彼女は、茶化しながらも、

 

「魔術師君らしくない。随分とポエミーだね」

 

 そう言いながら、嬉しそうに笑うに違いない。




(アグネスタキオン後編 結)


 すべての事象は、数式で記述できる。


 そう信じていた魔術師は、深夜の図書館で一つの解に辿り着いた。


 それは、歴史家が最も警戒し、しかし心の奥底では最も信頼している不確定要素。
 質量を持たないはずの「想い」が、物理的な翼へと変わる奇跡。

 彼はその夜、計算尺を置き、目に見えない変数の存在を認めた。




 そして、季節は巡る。

 春が過ぎ、湿った風が吹き始める頃、魔術師の瞳に再び古い影が落ちる。

 それは、決して忘れることのできない、あの日の記憶。





 次編

 ヤン・ウェンリートレーナーの短編集

 終章 『魔術師の休息日』

 運命の特異点―――『6月1日』

 これは、彼と、彼女たちの物語。

 2月6日 0255 出走








 ―――銀河の歴史が、また1ページ。
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