ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

76 / 86
 祭りの熱狂は去り、季節は巡る。

 ―――だが、歴史には決して忘却を許さない日付が存在する。



終章 魔術師の休息日
灰色の火曜日


 ―――5月31日、夕刻。

 

 トレセン学園の空は、ねっとりとした茜色に染まっていた。湿気を帯びた生ぬるい風が、明日の雨を予感させて、肌にまとわりつく。

 

 トレーナー室では、いつものように安っぽい紅茶の香りが漂っていた。だが、その香りはどこか、主人の心ここにあらずといった様子を反映してか、わずかに渋みが強かった。

 

「……お兄さま?」

 

 ライスシャワーは、不安げに小首をかしげた。彼女が淹れた紅茶を、ヤン・ウェンリーはカップに口をつけたまま、もう数分も動いていない。視線は手元の歴史書に落ちているが、ページをめくる指は止まっている。

 

「……あ。すまない、ライス。何か言ったかい?」

「ううん。……お紅茶、渋くなかったかなって」

「いや、とても美味しいよ。君の淹れる紅茶は、いつだって心を落ち着かせてくれる」

 

 ヤンは穏やかに微笑んだ。いつもの、人を安心させるような緩やかな笑みだ。けれど、ライスシャワーは感じ取っていた。その笑顔の膜が、今日はとても薄いことを。まるで、指で触れたらパリリと割れてしまいそうな、氷のような儚さを。

 

(お兄さま……どこか、遠くにいるみたい)

 

 ヤンはカップを置くと、ふう、と小さく息を吐いた。そして、無意識のうちに壁に掛かったカレンダーに目をやった。

 

 

 明日――6月1日。

 

 

 その日付を見た瞬間、彼の瞳の奥に、スッと暗い影が落ちたのを、ライスは見逃さなかった。

 

「……今日は、早めに上がるとするよ。少し、天気が崩れそうだからね」

 

 ヤンは立ち上がり、黒いベレー帽を被った。その背中は、いつもよりも少しだけ小さく、そして寒そうに見えた。

 

 

 廊下に出ると、実験器具を抱えた白衣のウマ娘とすれ違った。アグネスタキオンだ。

 

「やあ、魔術師君。帰宅かい?珍しく早いね」

「ああ。……明日に備えて、鋭気を養っておこうと思ってね」

「明日? ……ああ、そういえば明日の天気予報は雨だね。低気圧は脳のパフォーマンスを下げる。君のことだ、どうせ部屋で惰眠を貪るつもりだろう?」

 

 タキオンは軽口を叩きながら、ヤンの顔を覗き込んだ。

 

「……おい」

 

 そして、彼女は珍しく、その眉をひそめた。

 

「なんだい? タキオン」

「……君、焦点が合っていないよ」

 

 タキオンの鋭い指摘に、ヤンは一瞬だけ足を止め、それから困ったように肩をすくめた。

 

「乱視が進んだかな。……やれやれ、老化現象というやつは残酷だ」

「………それは大変だねぇ」

 

 タキオンはそれ以上追求しなかった。だが、すれ違いざま、彼女はその背中に強烈な違和感を覚えていた。

 

 生体反応はある。心拍も正常。だが、今の彼からは「生気」がごっそりと抜け落ちている。まるで、幽霊が歩いているような、希薄な存在感。

 

「ふん。誤魔化すのが下手だね。魔術師君は……」

 

 小さくなる背中を眺めながら、タキオンは独りごちた。

 

 

 ヤンはトレーナー寮への道を歩きながら、ふと自分の掌(てのひら)を握った。

 

 先ほどまで持っていたカップの温もりは、もう消えている。

 

 

 ――ポツリ。

 

 

 冷たい雫が、頬を濡らす。

 

「……降り出したか」

 

 あの日も、雨だっただろうか。

 

 ―――いや、宇宙に雨は降らない。

 

 あのテロリズムの凶弾に倒れた巡洋艦の通路は、無機質な静寂に包まれていたはずだ。

 

 けれど、記憶の中の「その日」は、いつも冷たく湿っている。

 

 33歳。

 

 志半ばで途絶えた時間。

 

 守れなかった約束。

 

 還(かえ)せなかった挨拶。

 

 ヤン・ウェンリーは、傘も差さずに雨の中を歩いた。

 

 寮の自室に戻ったヤンは、電気もつけずにソファに沈み込んだ。

 

 テーブルの上には、封を切っていないブランデーの瓶。

 

 彼は携帯端末を取り出し、短いメッセージを打ち込んだ。

 

『明日、有給休暇を申請する』

 

 

 

 ―――6月1日。

 

 

 

 それは、魔術師が死んだ日だ。




 肉体は再生しても、魂に刻まれた「終わり」の記憶は消えない。

 降り出した雨は、彼方からの呼び声か、それとも鎮魂歌(レクイエム)か。



 宇宙暦800年、6月1日、午前2時55分。



 それは、一人の魔術師がその波乱に満ちた生涯を閉じた時刻であり、同時に、残された者たちの時間が止まった瞬間でもあった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。