―――だが、歴史には決して忘却を許さない日付が存在する。
灰色の火曜日
―――5月31日、夕刻。
トレセン学園の空は、ねっとりとした茜色に染まっていた。湿気を帯びた生ぬるい風が、明日の雨を予感させて、肌にまとわりつく。
トレーナー室では、いつものように安っぽい紅茶の香りが漂っていた。だが、その香りはどこか、主人の心ここにあらずといった様子を反映してか、わずかに渋みが強かった。
「……お兄さま?」
ライスシャワーは、不安げに小首をかしげた。彼女が淹れた紅茶を、ヤン・ウェンリーはカップに口をつけたまま、もう数分も動いていない。視線は手元の歴史書に落ちているが、ページをめくる指は止まっている。
「……あ。すまない、ライス。何か言ったかい?」
「ううん。……お紅茶、渋くなかったかなって」
「いや、とても美味しいよ。君の淹れる紅茶は、いつだって心を落ち着かせてくれる」
ヤンは穏やかに微笑んだ。いつもの、人を安心させるような緩やかな笑みだ。けれど、ライスシャワーは感じ取っていた。その笑顔の膜が、今日はとても薄いことを。まるで、指で触れたらパリリと割れてしまいそうな、氷のような儚さを。
(お兄さま……どこか、遠くにいるみたい)
ヤンはカップを置くと、ふう、と小さく息を吐いた。そして、無意識のうちに壁に掛かったカレンダーに目をやった。
明日――6月1日。
その日付を見た瞬間、彼の瞳の奥に、スッと暗い影が落ちたのを、ライスは見逃さなかった。
「……今日は、早めに上がるとするよ。少し、天気が崩れそうだからね」
ヤンは立ち上がり、黒いベレー帽を被った。その背中は、いつもよりも少しだけ小さく、そして寒そうに見えた。
■
廊下に出ると、実験器具を抱えた白衣のウマ娘とすれ違った。アグネスタキオンだ。
「やあ、魔術師君。帰宅かい?珍しく早いね」
「ああ。……明日に備えて、鋭気を養っておこうと思ってね」
「明日? ……ああ、そういえば明日の天気予報は雨だね。低気圧は脳のパフォーマンスを下げる。君のことだ、どうせ部屋で惰眠を貪るつもりだろう?」
タキオンは軽口を叩きながら、ヤンの顔を覗き込んだ。
「……おい」
そして、彼女は珍しく、その眉をひそめた。
「なんだい? タキオン」
「……君、焦点が合っていないよ」
タキオンの鋭い指摘に、ヤンは一瞬だけ足を止め、それから困ったように肩をすくめた。
「乱視が進んだかな。……やれやれ、老化現象というやつは残酷だ」
「………それは大変だねぇ」
タキオンはそれ以上追求しなかった。だが、すれ違いざま、彼女はその背中に強烈な違和感を覚えていた。
生体反応はある。心拍も正常。だが、今の彼からは「生気」がごっそりと抜け落ちている。まるで、幽霊が歩いているような、希薄な存在感。
「ふん。誤魔化すのが下手だね。魔術師君は……」
小さくなる背中を眺めながら、タキオンは独りごちた。
■
ヤンはトレーナー寮への道を歩きながら、ふと自分の掌(てのひら)を握った。
先ほどまで持っていたカップの温もりは、もう消えている。
――ポツリ。
冷たい雫が、頬を濡らす。
「……降り出したか」
あの日も、雨だっただろうか。
―――いや、宇宙に雨は降らない。
あのテロリズムの凶弾に倒れた巡洋艦の通路は、無機質な静寂に包まれていたはずだ。
けれど、記憶の中の「その日」は、いつも冷たく湿っている。
33歳。
志半ばで途絶えた時間。
守れなかった約束。
還(かえ)せなかった挨拶。
ヤン・ウェンリーは、傘も差さずに雨の中を歩いた。
寮の自室に戻ったヤンは、電気もつけずにソファに沈み込んだ。
テーブルの上には、封を切っていないブランデーの瓶。
彼は携帯端末を取り出し、短いメッセージを打ち込んだ。
『明日、有給休暇を申請する』
―――6月1日。
それは、魔術師が死んだ日だ。
肉体は再生しても、魂に刻まれた「終わり」の記憶は消えない。
降り出した雨は、彼方からの呼び声か、それとも鎮魂歌(レクイエム)か。
宇宙暦800年、6月1日、午前2時55分。
それは、一人の魔術師がその波乱に満ちた生涯を閉じた時刻であり、同時に、残された者たちの時間が止まった瞬間でもあった。