ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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不在の椅子と、小さな目撃者

 明くる日。6月1日、火曜日。

 

 朝から、世界を灰色に塗り潰すような、本降りの雨だった。

 

 

 放課後のトレーナー室。主のいない部屋は、暖房が効いているはずなのに、ひどく肌寒かった。

 

「……やっぱり、お休みなんだ」

 

 ライスシャワーは、誰もいないデスクの前に立ち尽くしていた。ホワイトボードには、黒いマーカーで一文だけ、走り書きが残されている。

 

『本日、所用により有給休暇を頂く。緊急の用件以外は却下だ。 ヤン』

 

 その文字はいつもの彼らしい癖字だったが、インクのかすれ具合が、書いた時の力のなさを如実に物語っていた。

 

 カラン。

 

 ライスのつま先に、小さな硬い物が当たる。視線を落とすと、ホワイトボードの真下に、黒いマーカーのキャップが転がっていた。

 

 ヤンは、決して物を粗雑に扱う人ではない。使い終わったペンは必ずキャップを閉める。本は栞を挟んで閉じる。それが彼の、歴史家としての几帳面な一面だ。

 

 その彼が、キャップを閉める余裕すらなく、あるいは気づかないまま、ペンを置き去りにした。

 

「……お兄さま」

 

 ライスは膝を折ると、震える指先でそれを拾い上げた。小さなプラスチックの塊。けれどそれは、ヤン・ウェンリーがこぼれ落とした「心の欠片」のように思えた。

 

 キュッ。

 

 ライスは、ボードのレールに放置されていたペンを取り、静かに、けれど強くキャップを閉めた。まるで、そうすることで、彼の不安定な心が少しでも元通りになることを祈るように。

 

 それから彼女は、そのペンを両手で包み込み、胸元でぎゅっと抱きしめた。

 

「……退屈だねぇ」

 

 ソファで足を組んでいたアグネスタキオンが、天井を仰いでぼやいた。彼女の膝の上には、分厚いレポート用紙の束がある。せっかく新しいトレーニングプラン――という名の実験計画――を持ってきたのに、プレゼン相手がいないのでは張り合いがない。

 

「この私が、わざわざデータを持ってきてやったというのに。……モルモット君なら尻尾を振って喜ぶところだよ」

「……タキオン。アンタのデータなんか見せられたら、休養日じゃなくて入院日になるだろ。あの人は賢明な判断をしている」

「随分と辛辣じゃあないか、ブライアン君。君も魔術師君が居ないと張り合いがないのかい?」

「……フン」

 

 窓際で腕組みをしていたナリタブライアンが、窓ガラスを叩く雨粒を睨みながら吐き捨てた。彼女もまた、今日はヤンと話したいことがあってここに来ていた。だが、不在と聞いて帰るでもなく、不機嫌そうにこうして部屋に居座っている。

 

「あーあ! つまんねーの! せっかくゴルシ様が、新作の激辛焼きそばパンを持ってきたのによぉ!」

「……お前は帰れ、ゴールドシップ」

「なんだよー。冷たいじゃねーかよーブライアーン」

「煩い」

 

 ゴールドシップがバランスボールの上で奇声を上げるのを、ブライアンが一蹴する。部屋には、ヤン・ウェンリーが担当する、あるいは「腐れ縁」で結ばれたウマ娘たちが、行き場を失って溜まっていた。

 

 いつもなら、ここに来ればヤンは「やれやれ」と言いながらも紅茶を出し、話を聞いてくれた。

 

 ―――だが、その「当たり前」が消えた部屋は、どこか寒々しく、そして不安だった。

 

「……ねえ、タキオン」

 

 重い沈黙を破ったのは、部屋の隅で膝を抱えていたアドマイヤベガだった。彼女は読んでいた文庫本を閉じ、静かな瞳でタキオンを見た。

 

「昨日のヤンの様子、どうだった? ……帰りに会ったんでしょ?」

「……ああ」

 

 タキオンは記憶を探るように、虚空を見つめた。

 

「……妙だったね。反応が遅かったというか、焦点が合っていなかった。会話をしていた時ですら、彼の目は、私を見ていなかったよ。私の背後にある壁、あるいはもっと遠くの『何か』を見つめているようだった」

 

 タキオンは、自分のこめかみを指先でトントンと叩いた。

 

「科学的に表現するなら、極度の解離状態だ。……肉体はここにあるのに、精神だけがログアウトしているような感覚。……あれは、思うに、単なる疲労じゃない」

 

 タキオンの分析を聞いて、アヤベは小さく頷いた。

 

 やはり、と。

 

「……知ってるわ。その眼のこと」

 

 アヤベの声が、雨音に混じって静かに響く。

 

「ヤンは誰かのことを、思い出しているのよ」

 

 アヤベは自分の胸に手を当てた。そこには、今はもう穏やかになったが、かつて自分を苦しめ、そして今は共に生きている「妹」の鼓動がある。ヤンが見せていた目。それは、生き残ってしまった者が、死者を想う時の目だ。

 

「今日という日が、彼にとって何の日なのかは知らない。……でも、彼は今、一人でその『過去』と向き合っている」

 

 その言葉に、部屋の空気が重くなった。

 

 あの飄々とした男が、たった一人で暗闇に沈んでいる。彼女らは想像するだけで、胸がざわついた。

 

 

 バン!!

 

 彼女らの空気が重くなり始めたその時、ドアが勢いよく開け放たれた。

 

「た、たいへーん!!」

 

 飛び込んできたのは、ピンク色の髪を揺らしたハルウララだった。彼女は雨合羽も着ておらず、ジャージはずぶ濡れで、髪からは水滴が滴り落ちていた。

 

 そして何より、その顔は涙と雨でぐしゃぐしゃだった。

 

「ウララ? どうしたんだ、そんなに濡れて」

 

 ブライアンが驚いてタオルを投げ渡す。ウララはそれを握りしめ、嗚咽混じりに訴えた。

 

「あ、あのね! 今日はお休みだって聞いたから、トレーナーさんと一緒に遊ぼうと思って、トレーナー寮に行ったの! ピンポンしたの!」

「……寮に行ったのか。で、居留守を使われたのか?」

「ううん、出てきてくれたよ。……でもね、トレーナーさん、なんか変だったの!」

 

 ウララは必死に身振り手振りで説明する。

 

「お部屋、真っ暗で……電気もつけてなくて。ニコニコしてくれたけど、目が全然笑ってなくて……。それに、『ごめんね、今日は遊べないんだ』って言う声が、すっごく小さくて……消えちゃいそうで……っ」

 

 ウララの目から、ボロボロと涙がこぼれた。いつも太陽のように明るい彼女が、ここまで取り乱している。それは、ヤンの状態が尋常ではないことを如実に物語っていた。

 

「あたし、怖くなって……どうしようって……」

 

 ウララの後ろから、足音が近づいてきた。生徒会長シンボリルドルフだ。彼女はウララの肩に優しく手を置き、深刻な表情で部屋に入ってきた。

 

「……廊下で泣いている彼女に会ってね。事情は聞いた」

 

 ルドルフは、ヤンのデスクに歩み寄ると、カレンダーの『6月1日』の日付を見つめた。

 

「彼がこの学園に来てから、毎年6月1日は必ず休暇を取っている。……そして、その翌日は決まって、ひどく疲れた顔をして出勤してくる」

 

 ルドルフは静かに告げた。

 

「私は、あえて理由は聞かなかった。……誰にでも、触れられたくない聖域はあるものだからな。そっとしておくのが、大人の礼儀だと思っていた」

 

 彼女は視線を巡らせた。不安に震えるライス、苛立つタキオン、そして唇を噛むウララ。

 

「……だが。どうやら今年は、我慢の限界のようだね。彼にとっても、私たちにとっても」

 

 

 ルドルフのその言葉が、引き金だった。アグネスタキオンが、立ち上がった。白衣を翻し、デスクの上に置いてあったヤンの手帳をパタリと閉じる。

 

「……非効率だね」

 

「うん?」

 

「実に非効率だ! 一人で暗い部屋に籠もって、過去の幻影と対話する? ……実に非生産的で、非科学的だ。そんなことをしても、脳内物質のバランスが崩れ、明日のパフォーマンスが低下するだけだよ」

 

 タキオンはニヤリと笑った。だがその目は、決して笑っていなかった。その瞳の奥には、友人を心配する焦燥が燃えていた。

 

「私のアドバイザーが、そんな非効率な状態に陥っているのを見過ごすわけにはいかないねぇ。……これは『強制メンテナンス』が必要だよ」

 

「……つまり?」

 

「強行突入さ。……魔術師君の脳内環境を、強制的にリセットしてやる」

 

 その言葉に、ゴールドシップが拳を鳴らした。

 

「へっ! そうこなくちゃな! アタシは湿っぽいのは性分じゃねえんだ! だったらよぉ、ゴルシ様特製の『元気が出るお見舞い』ってやつをかましてやろうじゃねえか!」

「……ライスも、行く」

 

 ライスシャワーが、涙を拭って前を向いた。小さな手が、固く握りしめられる。

 

「お兄さま、きっとお昼ご飯食べてないと思うの。……ライス、温かいお粥作ってあげたい」

「フン。粥なんかで力がつくか。……私が最上級のステーキを焼いてやる。無理やりにでも食わせれば、嫌なことなんざ忘れる」

 

 ナリタブライアンもまた、不敵に笑って立ち上がった。

 

 全員の視線が、最後にアドマイヤベガに集まる。彼女は、ため息を一つついて、本を置いた。

 

「……お節介な連中」

 

 アヤベは、窓ガラスに映る自分自身の顔を見た。

 

 かつて、誰にも踏み込まれたくないと思っていた自分。そんな自分の心のドアを、強引にこじ開けたのは、他ならぬヤン・ウェンリーだった。

 

 今、彼がそのドアを閉ざして、一人で泣いているのなら。

 

「少し、腹が立つわね……こじ開けるわよ」

 

 アヤベは振り返り、全員を見据えた。

 

「作戦会議よ。……目標、トレーナー寮、ヤン・ウェンリーの部屋。目的は、彼の『休息』の強制執行」

「あたしも! あたしも行く!」

 

 ウララが手を挙げる。アヤベは彼女の前に屈み込み、その目を見つめた。

 

「ウララ。……あなたには、一番重要な任務(ミッション)を頼みたいの」

「一番……じゅうよう?」

「ええ。ヤンの閉ざした心を溶かすための、とっておきの『秘密兵器』よ。……あなたにしか作れない、最高の魔法」

 

 アヤベはウララの耳元で、何かを囁いた。ウララの顔が、パァァっと輝く。涙が乾き、決意の光が宿る。

 

「うん! 任せて! あたし、それ得意だよ!」

「頼んだわよ。……タイミングは私が指示するから、それまで調理室で準備しておいて」

 

 ウララは「ラジャー!」と敬礼し、元気よく部屋を飛び出していった。その小さな背中を見送り、アヤベは残りのメンバーに向き直った。

 

「さて、私たちも行くわよ。……魔術師の要塞を落とすには、火力が必要だわ」

 

 雷鳴が轟く。

 

 雨脚は強くなる一方だったが、トレーナールームの空気は、熱を帯び始めていた。

 

 最強のウマ娘たちによる、前代未聞の「お見舞い作戦」。魔術師の孤独な要塞を攻略するための、作戦会議が始まった。




 孤独を愛する魔術師にとって、一人の時間は何よりも尊い聖域であるはずだった。

 だが、彼が作り上げたチームのクルーたちは、艦長の引き籠もりを許すほど寛容ではなかったらしい。

 理屈をこねる科学者、肉を焼こうとする怪物、そして秘密兵器を携えた太陽。

 彼女たちの辞書に「遠慮」という文字はない。

 そして、閉ざされた扉をこじ開けるために必要なものは、論理でも礼儀でもなく、ただ愚直で熱い「お節介」のみ。


 魔術師の要塞に、嵐が迫る。


 それは、彼の憂鬱を吹き飛ばす慈雨となるか、あるいは胃痛の種となるか。
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