トレーナー寮、3階の角部屋。
そこは、トレセン学園でも屈指の変人にして、稀代の戦略家、ヤン・ウェンリーの居城である。
時刻は夕刻。
雨はまだ、しとしとと降り止まない。
■
ドアの前には、およそこの場には不釣り合いな集団が整列していた。
生徒会長、三冠ウマ娘、天才科学者、刺客、そして予測不能のトリックスターに、一等星。
「……一応確認しておくが、これは安否確認のための緊急措置だ。決して不法侵入ではない」
シンボリルドルフは、少しバツが悪そうに咳払いをしてから、手に持ったマスターキーを掲げた。
生徒会長権限の行使―――本来ならプライバシーの侵害として躊躇われる行為だが、今の状況を理事長に伝えたところ、「非常事態(コード・レッド)」と認定された。
「細かいことはいいから、早く開けたまえよ会長。……中の空気が淀んでいるのが、ドア越しでもわかる」
アグネスタキオンが、苛立たしげに試験管を弄びながら急かす。アドマイヤベガは無言で頷き、臨戦態勢をとっている。最後尾には、大きな掃除道具とお粥の入った鍋を抱えたライスシャワーと、高級ステーキ肉が入ったクーラーボックスと卓上コンロ、フライパンを担いだナリタブライアン。
そして、なぜかサングラスをかけ、業務用のアロマディフューザーを抱えたゴールドシップがいた。
ガチャリ。金属音が冷たく響き、ドアロックが解除された。
「……行くぞ」
ルドルフがノブを回し、ゆっくりとドアを開ける。
■
そこは、まるで、破棄された要塞だった。
魔術師の部屋の中は、深海の底のように暗い。時刻は夕方だというのに、遮光カーテンは閉め切られ、電気もついていない。湿った空気と、古い紙の匂い。そして、わずかなアルコールの香りが漂う。
その奥、リビングのソファに、黒い影がうずくまっていた。ヤン・ウェンリーだ。彼は膝の上に開いたままの古い歴史書を置き、手にはブランデーグラスを持ったまま、石像のように固まっていた。
「……誰だい」
侵入者の気配に気づいたのか、掠れた声が響く。その声には、覇気も、いつもの飄々としたユーモアもない。ただ、疲れ切った老人のような、乾いた響きがあった。
「今日は休業だと……言ったはずだがね……」
ヤンは顔を上げない。上げる気力すらないようだった。その姿を見た瞬間、ウマ娘たちの心臓が、ズキリと痛んだ。
いつも自分たちを導き、守り、時には適当にあしらってくれる「大人」の姿はそこになかった。そこにいたのは、過去という亡霊に取り憑かれ、時間の流れから置き去りにされた、一人の無力な青年だった。
(……やっぱり)
アドマイヤベガは、唇を噛んだ。彼は今、ここにはいない。死者の国を彷徨っている。それならば、彼がしてくれたように、誰かが手を引いて、こちら側に引き戻さなければならない。
最初に動いたのは、アグネスタキオンだった。
「……突入開始だ」
彼女が指を鳴らす。それが合図だった。
「――っ!?」
ヤンが反応するより早く、タキオンは白衣を翻して壁際のスイッチに飛びついた。
バチッ!
部屋の照明が最大光量で点灯する。いきなりの眩しさに、暗闇に慣れきっていたヤンの網膜が悲鳴を上げ、彼は呻いて目を覆った。
「うっ、まぶし……!」
「光量不足だ魔術師君! セロトニンの分泌が止まっているじゃあないか! カーテンも開放するよ!」
シャーーッ!タキオンは容赦なくカーテンを開け放ち、窓を開けた。湿った風が入ってくるが、淀んだ死の空気よりはずっとマシだ。
「な、なんだ、君たちは……!?」
「救援部隊だ、黙って座ってろ!」
次に動いたのはゴールドシップだ。彼女はヤンの目の前に仁王立ちすると、持っていた奇妙な機械――アロマディフューザーをコンセントに突き刺した。
「ゴルシちゃん特製、『憂鬱ぶっ飛びアロマ』噴射ァ!!」
「ご、ごほっ!? なんだこの匂いは……!?」
「ラベンダーとカモミール、隠し味にミントだ! 肺の中の湿っぽい空気を入れ替えやがれ!」
プシューッ!という音と共に、強烈だが、確かに清涼感のある香りが部屋に充満する。ヤンの思考を支配していた、血と硝煙と雨の記憶―――死の匂いが、物理的に上書きされていく。
「お兄さま! お部屋、片付けるね!」
ライスシャワーが、エプロン姿で駆け回る。散らかった本を積み上げ、飲みかけのグラスを回収し、テーブルを拭く。その手際は魔法のように素早く、そして甲斐甲斐しかった。
「ら、ライス……? なぜ君まで……」
「じっとしてて。……お兄さまは、ただ座っててくれればいいの」
ライスはヤンの前に跪くと、その膝の上に乗っていた、分厚く古い書物に手を伸ばした。こわばっていたヤンの指先から、優しくそれを抜き取る。
パタン。
小さな音がして、歴史書が閉じられた。
それはまるで、彼を縛っていた古い運命の扉が、静かに閉ざされた音のようだった。
ライスはそれをサイドテーブルに置くと、代わりにふかふかのブランケットをヤンの膝に掛けた。その小さな手の温もりが、ヤンの凍りついた心を溶かしていく。
だが、ウマ娘たち、チームヤン同盟の攻撃と言う名のケアはまだ終わらない。
「腹が減っては戦はできん。……そう言ったのはお前だぞ、トレーナー」
ドサリ、とキッチンに食材が置かれた。ナリタブライアンだ。彼女は慣れた手つきで卓上コンロに火をつけ、持参した分厚いステーキ肉をフライパンに投下した。
ジュウゥゥゥーーッ!!
肉の焼ける暴力的な音が、静寂を粉砕する。香ばしい脂の匂いが、アロマの香りと混じり合い、強烈な「生」のエネルギーとなって部屋を満たしていく。
「ブライアン、ここは私の部屋なんだが……」
「知るか。……顔色が悪すぎる。血が足りない証拠だ。レアで焼いてやるから、全部食え。トレーナー」
ヤンは呆然としていた。一分前まで、ここは世界の終わりのような孤独な場所だったはずだ。
それが今や、光と匂いと音の洪水。学園祭の前夜のような騒がしさが、ヤンの孤独を許さない。誰も彼もが、勝手に動き回り、勝手に世話を焼き、勝手にヤンの「死」を否定していく。
「……どう?少しは目が覚めた?」
不意に、隣に重みを感じた。アドマイヤベガが、当然のようにヤンの隣のソファに座り込んでいた。彼女の手には、最高級の低反発枕と、ふわふわのクッションが抱えられている。
「アヤベ君……」
「これ、あげる。……今のあなたに必要なのは、安っぽい感傷じゃなくて、良質な睡眠よ」
彼女は強引にヤンの背中にクッションを押し込んだ。ふわりとした感触が、強張っていた背中の筋肉を強制的に緩ませる。
「……お節介な連中だ」
ヤンの口から、力のない、しかし本音の言葉が漏れた。
「知ってるわ。……あなたの生徒だもの、似たのよ」
アヤベは静かに言った。彼女は励まさない。「元気を出して」とも言わない。ただ、寄り添う。ヤンが見ていた「過去」を否定せず、けれど「今」ここにいる自分たちの体温を伝えるように、肩を並べる。
「……やれやれ」
ヤンは、観念したように息を吐いた。抵抗する気力も、理由も、もう奪われていた。極め付けに目の前でルドルフが、自分の愛用するティーセットを取り出し、勝手にお湯を沸かしているのだから。
「……いい茶葉を持ってきた。ダージリンのファーストフラッシュだ」
ルドルフは、流れるような所作で紅茶を淹れる。カップに注がれる琥珀色の液体。立ち上る芳醇な香り。
「君が好きなブランデーを数滴垂らそうかと思ったが……今日はやめておこう。純粋な香りを楽しんでくれたまえ」
「……恐れ入ります、会長」
差し出されたカップを、ヤンは両手で受け取った。
―――温かい。
陶器越しに伝わる熱が、冷え切っていた指先を解凍していく。張り詰めていた糸が、プツリと切れる音がした。
「……参ったな。私の要塞も、随分と脆いものだ」
ヤンは苦笑し、カップの湯気越しに、騒がしい室内を見渡した。タキオンが換気扇を回し、ゴルシがバランスボールで跳ね、ライスがお粥をよそい、ブライアンが肉をひっくり返している。
無秩序で、非合理的で、騒々しい。
でも、どうしようもなく「生きている」。
逃げ場はない。部屋の隅にあるカレンダー。6月1日の日付。そこには、かつて失った友人の笑顔ではなく、今、目の前で騒いでいる少女たちの姿が重なって見えた。彼女たちは、ヤンの過去を知らない。けれど、ヤンの「今」を守ろうと、必死に戦ってくれている。
(やれやれ)
魔術師は苦笑を浮かべ、ひとまずは身を任せる事にした。
だが、チームヤン同盟にはまだ「最後の仕上げ」が残っている。
この騒がしい宴の締めくくりにふさわしい、太陽のような少女と、彼女が運んでくる「特大の愛」が、調理室で産声を上げようとしていた。
難攻不落と思われた魔術師の要塞は、驚くほどあっけなく陥落した。
勝因は、圧倒的な物量でも巧妙な策略でもない。ただ、相手を思いやる「お節介」という名の火力である。
ステーキの匂いとアロマの香り。騒々しくも温かい混沌の中で、魔術師は知る。死者のための静寂よりも、生者のための喧騒こそが、今の自分に必要な処方箋であることを。
だが、作戦はまだ終わらない。
後方で待機していた「秘密兵器」が、いよいよそのベールを脱ぐ時が来た。小さな手が運ぶ、とびきり大きくて、不格好な魔法とは。