ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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家族のハンバーグ

 トレーナー寮の一室は、かつてないほどの混沌と、そして暴力的なまでの温かい空気に満たされていた。

 

 それは「お見舞い」というよりは、もはや「占拠」に近い光景だった。

 

 

「ほら、魔術師君。ブロッコリーも食べたまえ。ビタミンCと葉酸だ。脳の神経伝達物質の合成には不可欠だよ」

「いや、タキオン……私は野菜スティックですでに……」

「文句を言うな。……ほら、あーん」

「……ええい、自分で食べる! 箸を貸しなさい!」

 

 ヤン・ウェンリーは、ソファの上で完全に包囲されていた。右翼からはアグネスタキオンによる栄養指導(物理)。左翼からはナリタブライアンによる肉の配給(強制)。そして正面からは、ライスシャワーが甲斐甲斐しくお粥を冷まして待機している。

 

 部屋の空気は一変していた。淀んだ空気は清涼な香りに上書きされ、散らかっていた本や空き瓶は姿を消していた。死者の国へ逃避しようとしていたヤンの魂は、物理的な快適さとカロリーの波状攻撃によって、強制的に現世(ここ)へと繋ぎ止められていた。

 

「……どうして、ここまでしてくれるんだい」

 

 ヤンは、ぽつりと漏らした。それは独り言に近い、弱音だった。

 

「私はただの、昼行灯の怠け者だぞ。……君たちに何かしてやれたわけでもない」

「はっ! なーに寝ぼけたこと言ってやがる!」

 

 バランスボールの上で跳ねていたゴールドシップが、ニカッと笑った。

 

「アンタが怠け者なのは百も承知だ! でもよぉ、アンタがいねーと、退屈で死んじまうんだよ! ゴルシ様の極上のイタズラを受け止めるサンドバッグがいねーとなぁ!」

「……サンドバッグ扱いは心外だがね」

「それに……」

 

 アグネスタキオンが、歴史書を本棚に直しながら言った。

 

「私の実験(プラン)を理解し、あまつさえ『もっと効率的な自滅方法』を提案してくる狂人は、世界広しといえども君くらいだ。……君に壊れられては、私の研究が停滞する」

「……買いかぶりだよ」

 

 ヤンは視線を落とした。だが、悪い気分ではなかった。彼女たちの言葉は、不器用で、利己的で、でも嘘のない「信頼」の証だったからだ。

 

 その時。アドマイヤベガが、壁掛け時計を見上げた。時刻は19時を回ろうとしている。

 

「……そろそろね」

 

 彼女は静かにカップを置き、立ち上がった。そして、玄関の方へ声をかけた。

 

「ウララ、入って。……準備完了よ」

 

 その合図と共に。バン!!と、本日二度目となる、勢いの良いドアの開閉音が響いた。

 

「おまたせしましたー!!」

 

 元気な声と共に、ピンク色の髪を揺らしてハルウララが飛び込んできた。その顔には、一等星にも負けない満面の笑みが輝いていた。そして、その手には、大きなお盆が高々と掲げられている。

 

「ジャジャーン! ウララ特製! 元気100倍、にんじんハンバーグだよー!!」

 

 ドサッ。テーブルの中央、ステーキやお粥の隙間に、その「最終兵器」が鎮座した。

 

 ヤンは、目を丸くした。それは……ハンバーグと呼ぶには、あまりにも前衛的な物体だったからだ。

 

 大きさは子供の顔ほどもある。形は歪な楕円形。表面は所々が炭のように黒く焦げているが、中心部は逆に不安になるほど柔らかそうだ。そして極めつけに、その頂上には、分厚く切られたニンジンのグラッセが突き刺さっていた。まるで、勝利の旗のように。

 

「……これは」

「あのね、アヤベちゃんに聞いたの! 元気がない時は、美味しいものを食べるのが一番だって!」

 

 ウララは、エプロンで手を拭きながら、誇らしげに胸を張った。

 

「だからあたし、一番得意なやつ作ったの! ……ちょっと火が強すぎて焦げちゃったけど、調理室のおばちゃんに味見してもらったから、お腹壊さないよ! 大丈夫!」

 

 その言葉に、部屋中が温かい笑いに包まれた。ブライアンが「フッ」と吹き出し、タキオンが「君には負けるねぇ」と肩をすくめる。アヤベだけは、真剣な眼差しでヤンを見つめていた。

 

 ヤンは、その「黒い塊」を見つめた。焦げた匂い。肉の匂い。そして、ニンジンの甘い匂い。それは、不格好で、失敗作で、でも、泣きたくなるほど一生懸命さが伝わってくる。

 

「……さあ、これがトドメだ」

 

 ナリタブライアンが、自分のフォークをヤンに渡した。

 

「トレーナー。私たちの総攻撃、受けきれるか?」

 

 ヤンは、震える手でフォークを受け取った。視界が、少し滲んだ。

 

 ―――6月1日。自分の死んだ日。

 

 だが、今、目の前には「始まり」がある。自分が守ろうとした未来の形が、こんなにも歪で、騒がしく、愛おしい形でここにある。

 

「……ああ。頂くよ」

 

 ヤンはフォークを入れた。表面は硬いが、中は驚くほど柔らかいそれを一切れ、口に運ぶ。

 

 ……ガリッ。焦げの苦味が広がる。

 

 ……しょっぱい。塩加減を間違えている。

 

 ……甘い。ニンジンの味がする。

 

 でも。優しい「家族」の味だった。

 

「……どう? 美味しい?」

 

 ウララが、キラキラした瞳で顔を覗き込んでくる。ヤンは、咀嚼し、飲み込んだ。喉の奥が熱かった。

 

「……ああ。美味しいよ、ウララ。……君のハンバーグは、世界一の味だ」

 

 ヤンは、ウララの頭を撫でた。そして、部屋にいる全員を見渡した。

 

 彼女たちは、何も聞こうとしない。

 

 なぜヤンが落ち込んでいたのか。

 

 今日が何の日なのか。

 

 

 その優しさに、ヤンは応えなければならないと思った。

 

 

 

「……一つだけ、話をしてもいいかな」

 

 ヤンが口を開くと、部屋の空気が静まり返った。

 

「今日はね……昔の……そう、昔の『友人』の命日なんだ」

 

 ヤンは、カップの中の揺れる水面を見つめながら語り出した。

 

「彼は……とても優秀で、少しばかり変わり者で、そして誰よりも平和を願っていた男だった。……けれど、時代がそれを許さなかった」

 

 それは、自分自身を語る行為。

 

「彼は望まぬまま戦場に立たされ、多くの部下を死なせ、多くの敵を殺した。……そして最後は、33歳という若さで、凶弾に倒れた。……志半ばで、守りたかった人たちを残して」

 

 部屋の隅で、ライスシャワーが小さく息を呑む音が聞こえた。

 

「私は今日になると、どうしても考えてしまうんだ。……彼が、彼らが生きられなかった今日という日を、私がこうしてのうのうと生きていていいのか。……彼らが欲しかったはずの平穏を、私だけが享受していていいのか、とね」

 

 重い沈黙が落ちた。生存者の罪悪感(サバイバーズ・ギルト)。その痛みは、言葉にせずとも伝わっていた。

 

 だが、その重い沈黙を破ったのは、やはりこの学園で一番の「太陽」だった。

 

「……いいに決まってるよ!

 

 ハルウララが、大きな声を上げた。彼女はヤンの正面に回り込み、その両手をぎゅっと握りしめた。

 

「ウララ……?」

 

「だって! そのお友達も、トレーナーさんが悲しい顔して暗いお部屋にいるより、ニコニコして美味しいご飯食べてる方が、ぜったいに嬉しいもん!」

 

 ウララは、真剣な眼差しで言った。理屈ではない。論理でもない。ただの、圧倒的な「肯定」。

 

「あたしならそうだよ! もしあたしがいなくなっても、トレーナーさんには笑っててほしい! 『ウララの分まで楽しんでやるぞー!』って、いっぱい遊んでほしい!」

 

「……っ」

 

「だからね、トレーナーさん。……生きてていいんだよ! 全然悪くないよ!」

 

 その言葉は、ヤンの胸の最も深い場所に突き刺さった。

 

「……そう、だねぇ」

 

 アグネスタキオンが、やれやれと肩をすくめた。

 

「非科学的だが、感情論としては正解だ。……死者は生者の幸福を阻害するために存在するわけじゃない。もし君の友人が、君の不幸を願うような狭量な人間ならば、そもそも友人になどなっていないだろう?」

「……違いない」

 

 ナリタブライアンが、フッと笑った。

 

「お前はお前だ、トレーナー。……誰かの代わりじゃない。お前が美味いものを食って、私たちのために走り回る。……それで十分すぎるほど、お前は生きている」

「お兄さま……」

 

 ライスシャワーが、ヤンの膝に手を置いた。

 

「ライスも、お兄さまが生きててくれて、嬉しいよ。……お兄さまがいなかったら、ライス、もっと寂しかったと思う」

 

 ヤンは、唇を噛み締めた。視界が滲んで、どうしようもなかった。

 

 彼女らは知らない。死んだ「友人」こそが、目の前のヤン・ウェンリー自身であることを。

 

 けれど、彼女たちの言葉は、時空を超えて、あの宇宙で死んだ男の魂を救い出していた。

 

『生きてていいんだよ』

 

 その単純な許可証(ゆるし)を得るために、彼は今日まで、重い足を引きずりながら歩いてきたのかもしれない。

 

 そしてそれは、彼が歴史書をどれだけ紐解いても見つからなかった、たった一つの「正解」だった。

 

「……ありがとう」

 

 ヤンは、震える声で言った。握り返したウララの手は、とても温かかった。

 

「……君たちの言う通りだ。

 

 ―――あいつも、きっとそう言うだろうな。『私の分まで、楽をしてくれ』とね」

 

 ヤンは、涙を拭わずに笑った。それは、今日一番の、嘘のない笑顔だった。




 歴史家は記述する。

 この日、魔術師を襲った憂鬱という名の包囲網は、たった一つの素朴な料理と、少女の無垢な言葉によって完全に瓦解した、と。

―――死者の願いは、生者の幸福の中にこそある。

 焦げたハンバーグの味が、男にそう教えた。彼はもう、過去の亡霊に怯えることはない。なぜなら、彼の手を引く温かい掌(いま)が、ここにあるのだから。

 雨は上がり、要塞には賑やかな日常が戻る。

 それは、英雄が求め続け、ようやく手に入れた、何気なくも愛おしい平和の景色であった。

 要塞は攻略された。

 だが、まだ足りない。

 その根底には「生存者の罪悪感」がいまだ燻っている。
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