嵐のような時間は、唐突に終わりを告げた。
「さて、長居は無用だ。明日のトレーニングに響く」
シンボリルドルフのその一言は、絶対的な号令だった。まだ遊び足りなそうなゴールドシップも、名残惜しそうなライスシャワーも、しぶしぶと帰路についた。
ハルウララは「また遊ぼうね!」と何度も手を振り、ナリタブライアンは「残りの肉は冷蔵庫に入れておいた」と言い残して去っていった。
「それではね、魔術師君。明日はレポートの感想を聞かせてくれ給えよ」
「……トレーナー君。また、明日」
パタン、とドアが閉まる。部屋に、静寂が戻ってきた。
■
ヤン・ウェンリーは、ソファに深く沈み込み、ほう、と長い息を吐いた。祭りの後の静けさだ。だが、彼が一日感じていたような、肌を刺す冷気はもうない。部屋にはアロマの優しい香りと、微かな料理の匂い。そして、花瓶に生けられた一輪の花が、確かに「生」の痕跡を残していた。
魔術師が死んだ日、6月1日が終わろうとしている。
けれど、今年のこの日は、涙と笑顔と、焦げたハンバーグの味で塗り替えられた。
(……良い人生の休日だった。この記憶さえあれば、私はもう、いつお迎えが来ても構わない、かな)
「……さて。もう寝るとするか」
ヤンは立ち上がり、シャツのボタンを緩めようとした。その時だった。
コン、コン、コン。
控えめな、しかし意志の強いノックの音がして、鍵のかかっていなかったドアが静かに開いた。
「……え?」
ヤンは驚いて振り返った。そこに立っていたのは、帰ったはずのアドマイヤベガだった。彼女は少し濡れた手をハンカチで拭きながら、部屋に入ってきた。
「アヤベ君? 帰ったんじゃなかったのか?」
「……大物はここの流しじゃ洗えないから。廊下の突き当たりの共用キッチンで片付けてきたわ」
言われてみれば、ウララが持ってきた巨大な皿や、ブライアンが持ち込んだフライパンが見当たらない。彼女は皆が帰る中、一人で後片付けをしてくれていたのだ。
「そ、そうか。すまない、そこまでさせてしまって……」
ヤンが恐縮して頭を下げると、アヤベは静かに首を横に振った。そして、玄関から真っ直ぐにヤンの元へと歩み寄る。その瞳は、昼間よりも鋭く、そしてどこか切迫していた。
「……礼には及ばないわ。その代わり、あなたに説教が残ってる」
「説教?」
アヤベはヤンの目の前で足を止め、その瞳を射抜くように見上げた。
「……『友人の命日』? ……嘘ね」
心臓が、ドクリと跳ねた。
「あなたのその目。……誰か他人を悼んでいる目じゃない。……自分自身を、どこか遠くに置き去りにしてきた目よ」
「……」
「私にはわかるわ。……あなた、まるで『自分が死んだ』みたいに、今日という日を恐れていた」
ヤンは言葉を失った。
この少女の感性は、時として魔術師の欺瞞さえも容易く見破る。彼女もまた、妹という「半身の死」を抱えて生きてきたからだ。
自分の一部が死に、残された半分だけで生きる苦しみ。その匂いを、彼女は敏感に感じ取っていたのだ。
「……勘弁してくれ。探偵ごっこは苦手なんだ」
ヤンは視線を逸らし、いつものように肩をすくめてお茶を濁そうとした。だが。
「茶化さないで!!」
アヤベは、ヤンの胸ぐらを掴んだ。強く、震える手で。Yシャツの生地が悲鳴を上げるほどに、強く。
「……っ、アヤベ君?」
「その顔よ。……まるで、間違って生き残ったのは自分の方だって。呼吸をしていること自体が申し訳ないって……そう言いたげな、その顔!」
アヤベの声は、怒りに満ちていた。だがその奥には、悲痛な響きがあった。
「わかるわよ。……私にはわかる。だって、私もずっとそうだったから。……『あの子じゃなくて、どうして私が』って、何千回も自分を呪ったから!」
ヤンは息を呑んだ。彼女の瞳に映っているのは、トレーナーとしてのヤンではない。自分と同じ傷を持ち、同じ雨に濡れている「同類」としてのヤンだ。魔術師の欺瞞は、彼女の前では無力だった。
「……買いかぶりだよ。私はそんな、高尚な……」
「まだ嘘をつくの!?」
アヤベはさらに強く締め上げた。ヤンの身体が揺らぐ。
「あなたが今日、誰を想っていたのかは知らない。……でもね、あなたは『あっち側』に行こうとしていた。……この部屋にいながら、魂だけ幽霊みたいに透けて……死人みたいに笑って!」
彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。
「……ズルいわよ。自分は『生きろ』って他人に言っておいて、自分だけ安全な場所から『思い出』の中に逃げ込むなんて」
「……」
「『友人』の元になんて、行かせない。……あなたはここにいるの。私たちと一緒に、泥にまみれて、汗をかいて、不格好なハンバーグを食べて……ここにいるのよ!」
アヤベは、ヤンの胸に額を押し付けた。
「……置いていかないでよ」
怒号は、いつしか懇願に変わっていた。
「あんな顔しないで。……私たちと一緒にいるのに、魂だけ別の場所にいるような顔、二度としないで」
「……アヤベ君」
「あなたが私を救ったんでしょう? 私の罪も、妹の想いも、全部背負って『走れ』って言ったんでしょう? ……なら、あなたも責任を取りなさいよ。勝手に絶望して、勝手に完結しないで」
それは、少女が大人に向けた、精一杯の「命令」だった。彼女にとって、ヤン・ウェンリーがいなくなることは、自分の「生」の肯定者がいなくなることと同義なのだ。
ヤンは、ゆっくりと息を吐いた。完敗だ。論理でも、詭弁でも、この熱量には勝てない。彼は、胸ぐらを掴む彼女の震える手に、自分の手をそっと重ねた。
「……わかった。約束するよ」
ヤンは、彼女の瞳を見つめ返した。今度は、逸らさずに。
「私はどこにも行かない。……過去の友人がどれだけ手招きしても、君たちがこんなに騒がしいんじゃ、行く暇もないさ」
「……絶対よ」
「ああ。来年の……いや、これから、6月1日は……そうだな。みんなで美味い紅茶でも飲みに行こうか。湿っぽい部屋はもう懲り懲りだ」
「……ええ。絶対に、よ」
アヤベは、ゆっくりと手を離した。その頬は涙で濡れていたが、表情には安堵の色が浮かんでいた。そして彼女は、乱れた呼吸を整えると、くるりと背を向け、ドアノブに手をかけた。
「……もし、気が向いたら、『士官学校』時代の話も聞かせてね」
一拍置いて。彼女は、もう誰もいない部屋であることを確認するように、少し声を潜めて言った。
「それじゃあ………、おやすみ、ウェンリー」
それは、同じ痛みを分かち合う『共犯者』同士にだけ通じる、静かで、合言葉のような特別な響きだった。
「ああ。おやすみ、アドマイヤベガ」
アヤベは一度だけ振り返り、不器用だが、確かに優しく微笑んで部屋を出て行った。
■
ドアが閉まる音がした。今度こそ、ヤンは一人になった。だが、そこにはもう、死の冷たさは微塵もなかった。
ヤンは窓辺に歩み寄った。彼女らが開け放ったその窓からは、湿った夜風が吹き込んでくる。雨は上がり、厚い雲の切れ間から、いくつかの星が瞬いていた。
―――6月1日が終わる。
『魔術師』ヤン・ウェンリーが死んだ日が終わる。
ヤン・ウェンリー『トレーナー』が生きる明日が始まる。
「……やれやれ。長生きをする、というのも、案外、楽じゃないな」
ヤンは、アヤベが置いていったふわふわの枕に顔を埋めた。そこには、日向のような温かい匂いが染み付いていた。
(おやすみ、ユリアン。おやすみ、フレデリカ。おやすみ、みんな………)
泥のような眠気が、彼を包み込んでいく。
(私はもう少し、この騒がしい世界に付き合うことにするよ)
今夜は、きっと――。
悪夢を見ずに済みそうだ。
(魔術師の休息日 完)
嵐は去った。
だが、最後に残った一陣の風が、魔術師の心の最も深い場所に触れた。
「置いていかないで」
その少女の叫びは、かつて彼が誰かに言いたかった言葉だったのかもしれない。
同じ傷を持つ者同士の静かな共鳴。
それは、ただの師弟でも、友人でもない、魂の共犯者としての契約更新であった。
雨上がりの夜空に、一等星が瞬く。
魔術師は枕に顔を埋め、泥のような眠りにつく。
その寝息は、久しく忘れていた安らかなリズムを刻んでいた。