ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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星を見上げる共犯者

 嵐のような時間は、唐突に終わりを告げた。

 

「さて、長居は無用だ。明日のトレーニングに響く」

 

 シンボリルドルフのその一言は、絶対的な号令だった。まだ遊び足りなそうなゴールドシップも、名残惜しそうなライスシャワーも、しぶしぶと帰路についた。

 ハルウララは「また遊ぼうね!」と何度も手を振り、ナリタブライアンは「残りの肉は冷蔵庫に入れておいた」と言い残して去っていった。

 

「それではね、魔術師君。明日はレポートの感想を聞かせてくれ給えよ」

「……トレーナー君。また、明日」

 

 パタン、とドアが閉まる。部屋に、静寂が戻ってきた。

 

 

 ヤン・ウェンリーは、ソファに深く沈み込み、ほう、と長い息を吐いた。祭りの後の静けさだ。だが、彼が一日感じていたような、肌を刺す冷気はもうない。部屋にはアロマの優しい香りと、微かな料理の匂い。そして、花瓶に生けられた一輪の花が、確かに「生」の痕跡を残していた。

 

 魔術師が死んだ日、6月1日が終わろうとしている。

 けれど、今年のこの日は、涙と笑顔と、焦げたハンバーグの味で塗り替えられた。

 

(……良い人生の休日だった。この記憶さえあれば、私はもう、いつお迎えが来ても構わない、かな)

 

「……さて。もう寝るとするか」

 

 ヤンは立ち上がり、シャツのボタンを緩めようとした。その時だった。

 

 コン、コン、コン。

 

 控えめな、しかし意志の強いノックの音がして、鍵のかかっていなかったドアが静かに開いた。

 

「……え?」

 

 ヤンは驚いて振り返った。そこに立っていたのは、帰ったはずのアドマイヤベガだった。彼女は少し濡れた手をハンカチで拭きながら、部屋に入ってきた。

 

「アヤベ君? 帰ったんじゃなかったのか?」

「……大物はここの流しじゃ洗えないから。廊下の突き当たりの共用キッチンで片付けてきたわ」

 

 言われてみれば、ウララが持ってきた巨大な皿や、ブライアンが持ち込んだフライパンが見当たらない。彼女は皆が帰る中、一人で後片付けをしてくれていたのだ。

 

「そ、そうか。すまない、そこまでさせてしまって……」

 

 ヤンが恐縮して頭を下げると、アヤベは静かに首を横に振った。そして、玄関から真っ直ぐにヤンの元へと歩み寄る。その瞳は、昼間よりも鋭く、そしてどこか切迫していた。

 

「……礼には及ばないわ。その代わり、あなたに説教が残ってる」

「説教?」

 

 アヤベはヤンの目の前で足を止め、その瞳を射抜くように見上げた。

 

「……『友人の命日』? ……嘘ね」

 

 心臓が、ドクリと跳ねた。

 

「あなたのその目。……誰か他人を悼んでいる目じゃない。……自分自身を、どこか遠くに置き去りにしてきた目よ」

「……」

「私にはわかるわ。……あなた、まるで『自分が死んだ』みたいに、今日という日を恐れていた」

 

 ヤンは言葉を失った。

 

 この少女の感性は、時として魔術師の欺瞞さえも容易く見破る。彼女もまた、妹という「半身の死」を抱えて生きてきたからだ。

 自分の一部が死に、残された半分だけで生きる苦しみ。その匂いを、彼女は敏感に感じ取っていたのだ。

 

「……勘弁してくれ。探偵ごっこは苦手なんだ」

 

 ヤンは視線を逸らし、いつものように肩をすくめてお茶を濁そうとした。だが。

 

「茶化さないで!!」

 

 アヤベは、ヤンの胸ぐらを掴んだ。強く、震える手で。Yシャツの生地が悲鳴を上げるほどに、強く。

 

「……っ、アヤベ君?」

「その顔よ。……まるで、間違って生き残ったのは自分の方だって。呼吸をしていること自体が申し訳ないって……そう言いたげな、その顔!」

 

 アヤベの声は、怒りに満ちていた。だがその奥には、悲痛な響きがあった。

 

「わかるわよ。……私にはわかる。だって、私もずっとそうだったから。……『あの子じゃなくて、どうして私が』って、何千回も自分を呪ったから!」

 

 ヤンは息を呑んだ。彼女の瞳に映っているのは、トレーナーとしてのヤンではない。自分と同じ傷を持ち、同じ雨に濡れている「同類」としてのヤンだ。魔術師の欺瞞は、彼女の前では無力だった。

 

「……買いかぶりだよ。私はそんな、高尚な……」

「まだ嘘をつくの!?」

 

 アヤベはさらに強く締め上げた。ヤンの身体が揺らぐ。

 

「あなたが今日、誰を想っていたのかは知らない。……でもね、あなたは『あっち側』に行こうとしていた。……この部屋にいながら、魂だけ幽霊みたいに透けて……死人みたいに笑って!」

 

 彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。

 

「……ズルいわよ。自分は『生きろ』って他人に言っておいて、自分だけ安全な場所から『思い出』の中に逃げ込むなんて」

「……」

「『友人』の元になんて、行かせない。……あなたはここにいるの。私たちと一緒に、泥にまみれて、汗をかいて、不格好なハンバーグを食べて……ここにいるのよ!」

 

 アヤベは、ヤンの胸に額を押し付けた。

 

「……置いていかないでよ」

 

 怒号は、いつしか懇願に変わっていた。

 

「あんな顔しないで。……私たちと一緒にいるのに、魂だけ別の場所にいるような顔、二度としないで」

「……アヤベ君」

「あなたが私を救ったんでしょう? 私の罪も、妹の想いも、全部背負って『走れ』って言ったんでしょう? ……なら、あなたも責任を取りなさいよ。勝手に絶望して、勝手に完結しないで」

 

 それは、少女が大人に向けた、精一杯の「命令」だった。彼女にとって、ヤン・ウェンリーがいなくなることは、自分の「生」の肯定者がいなくなることと同義なのだ。

 

 ヤンは、ゆっくりと息を吐いた。完敗だ。論理でも、詭弁でも、この熱量には勝てない。彼は、胸ぐらを掴む彼女の震える手に、自分の手をそっと重ねた。

 

「……わかった。約束するよ」

 

 ヤンは、彼女の瞳を見つめ返した。今度は、逸らさずに。

 

「私はどこにも行かない。……過去の友人がどれだけ手招きしても、君たちがこんなに騒がしいんじゃ、行く暇もないさ」

「……絶対よ」

「ああ。来年の……いや、これから、6月1日は……そうだな。みんなで美味い紅茶でも飲みに行こうか。湿っぽい部屋はもう懲り懲りだ」

「……ええ。絶対に、よ」

 

 アヤベは、ゆっくりと手を離した。その頬は涙で濡れていたが、表情には安堵の色が浮かんでいた。そして彼女は、乱れた呼吸を整えると、くるりと背を向け、ドアノブに手をかけた。

 

「……もし、気が向いたら、『士官学校』時代の話も聞かせてね」

 

 一拍置いて。彼女は、もう誰もいない部屋であることを確認するように、少し声を潜めて言った。

 

「それじゃあ………、おやすみ、ウェンリー」

 

 それは、同じ痛みを分かち合う『共犯者』同士にだけ通じる、静かで、合言葉のような特別な響きだった。

 

「ああ。おやすみ、アドマイヤベガ」

 

 アヤベは一度だけ振り返り、不器用だが、確かに優しく微笑んで部屋を出て行った。

 

 

 ドアが閉まる音がした。今度こそ、ヤンは一人になった。だが、そこにはもう、死の冷たさは微塵もなかった。

 

 ヤンは窓辺に歩み寄った。彼女らが開け放ったその窓からは、湿った夜風が吹き込んでくる。雨は上がり、厚い雲の切れ間から、いくつかの星が瞬いていた。

 

 ―――6月1日が終わる。

 

『魔術師』ヤン・ウェンリーが死んだ日が終わる。

 

ヤン・ウェンリー『トレーナー』が生きる明日が始まる。

 

「……やれやれ。長生きをする、というのも、案外、楽じゃないな」

 

 ヤンは、アヤベが置いていったふわふわの枕に顔を埋めた。そこには、日向のような温かい匂いが染み付いていた。

 

(おやすみ、ユリアン。おやすみ、フレデリカ。おやすみ、みんな………)

 

 泥のような眠気が、彼を包み込んでいく。

 

(私はもう少し、この騒がしい世界に付き合うことにするよ)

 

 今夜は、きっと――。

 

 悪夢を見ずに済みそうだ。




(魔術師の休息日 完)

 嵐は去った。

 だが、最後に残った一陣の風が、魔術師の心の最も深い場所に触れた。

「置いていかないで」

 その少女の叫びは、かつて彼が誰かに言いたかった言葉だったのかもしれない。

 同じ傷を持つ者同士の静かな共鳴。

 それは、ただの師弟でも、友人でもない、魂の共犯者としての契約更新であった。



 雨上がりの夜空に、一等星が瞬く。

 魔術師は枕に顔を埋め、泥のような眠りにつく。

 その寝息は、久しく忘れていた安らかなリズムを刻んでいた。
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