翌日、6月2日。
快晴。昨日の雨が嘘のような青空が広がっていた。
■
ヤン・ウェンリーは、いつものように昼過ぎにトレーナー室に出勤した。
心身のコンディションは悪くない。昨夜、騒がしい連中に強制的にリフレッシュさせられたおかげで、ここ数年で一番深く眠れたからだ。少し気恥ずかしさはあるが、まあ、礼の一言でも言って仕事に戻ろう。
そう思ってドアを開けた瞬間だった。
「――っ!?」
ヤンは思わず後ずさりした。デスクの上に、山ができていたからだ。お菓子の山。栄養ドリンクの塔。そして果物の籠。
「……なんだこれは。私はいつの間に祭壇に祀られたんだ?」
「遅かったわね、ヤン」
ソファで本を読んでいたアドマイヤベガが、呆れたように顔を上げた。その隣には、シンボリルドルフが苦笑いを浮かべて立っている。
「……どういうことだい、アヤベ君、ルドルフ。この供物の山は」
「君の人徳だよ、トレーナー君」
ルドルフが可笑しそうに言った。
「朝からひっきりなしだ。……『ヤン・ウェンリートレーナーが死にかけている』という噂を聞きつけた生徒たちが、見舞いの品を置いていった結果だよ」
「……はい?」
死にかけている?誰だ、そんなデマを流したのは。ヤンが問いかけるより早く、廊下からパタパタと足音が近づいてきた。
「あーっ! 魔術師ー! 生きてたー!!」
飛び込んできたのは、トウカイテイオーだった。彼女はヤンの姿を見るなり、安堵のため息をつき、手に持っていた「はちみつドリンク(特濃)」をドンと机に置いた。
「よかったぁ……。ボク、魔術師が『部屋の隅で灰になってる』って聞いたから、もうダメかと思ったよ!」
「灰にはなっていないよ。誰だ、そんなことを言いふらしているのは」
「ウララから聞いたよ!」
テイオーは無邪気に即答した。なるほど、犯人は確定した。
「ウララがね、『トレーナーさんが真っ暗なお部屋で消えちゃいそうだったの!みんなで助けてあげて!』って、朝から学園中で言ってたんだよ!」
「……頭が痛い」
ヤンはこめかみを押さえた。あの純粋な善意が、伝言ゲームの果てに「危篤説」まで進化しているらしい。
「まあまあ。でも、生きててよかったよ! ……ほら、ボクのとっておきの『はちみつ』あげるから! これ飲んで、ボクと勝負できるくらい元気になってよね!」
「あ、ああ。……ありがとう、テイオー」
テイオーが嵐のように去っていくと、入れ違いに、今度は少し気まずそうな顔をしたウマ娘が入ってきた。
ナイスネイチャだ。
彼女は手に、タッパーに入った手料理(煮物)を持っていた。
「……あー、その。なんていうか」
ネイチャは視線を泳がせながら、タッパーを机の隙間に押し込んだ。
「別に、アタシは関係ないんですけどね? ……ただ、商店街のおばちゃんが作りすぎちゃったから、余り物を持ってきてあげたっていうか」
「ネイチャ……」
「べ、別に心配したわけじゃないですからね!? ……ただ、ヤンさんが倒れたら、ウチの商店街の連中がうるさいから……それだけ!」
彼女は早口でまくし立てると、逃げるように部屋を出て行った。
ヤンは、温かいタッパーを見つめた。余り物と言うには、あまりにも丁寧に作られた煮物の匂いがした。
「……モテモテね」
アヤベが、皮肉っぽく、けれど少し楽しげに呟いた。
「ですわね。ごきげんよう、ヤン・ウェンリートレーナー。……お加減はいかが?」
優雅な声と共に現れたのは、メジロマックイーンだった。
彼女の手には、有名パティスリーのケーキ箱が提げられている。
「ゴールドシップがお世話になっているトレーナー様が、過労で倒れられたとお聞きしましたわ。……ゴルシの奇行によるストレスなら、名門メジロ家としても責任を感じますので」
「いや、ゴルシのせいではないんだが……」
「ふふ。お気になさらず。……甘いものは心を豊かにしますわ。これを食べて、またあのアホの相手をしてやってくださいまし」
マックイーンは優雅に一礼し、しかし去り際にふと振り返った。
「あ、中身はバウムクーヘンですの。……歴史を愛する貴方に、お似合いだと思いましてよ」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、颯爽と廊下を去っていった。
■
次々と現れる「チーム外」のウマ娘たち。
あのあともキングヘイローやカレンチャン、オペラオー、カフェ、そして今まで関わりのないはずだったウマ娘やトレーナーなども訪れ、机の上は、もはや差し入れの要塞の様相を呈していた。
廊下の陰から、噂の発信源であるハルウララが「トレーナーさん、みんなとお友達になって元気になれたかなぁ?」とニコニコ顔で覗いている。
「……やれやれ。これじゃあ仕事をするスペースがない」
「人気者は辛いわね、ヤン」
「茶化さないでくれ、アヤベ君。……私はただの、歴史家志望のトレーナーだぞ。アイドルのような扱いは困る」
「あら。あなたを『ただの』なんて思ってるのは、あなた自身だけよ」
アヤベは、積み上げられた菓子の山を指差した。
「あなたがそれだけ、みんなに何かを与えてきたって証拠じゃない。……諦めて受け取りなさい。それが『生き残った責任』よ」
「……手厳しいな」
ヤンは椅子に座り込み、天井を仰いだ。昨日は「死」に沈みそうだった空気が、今日は「生」と「糖分」で埋め尽くされている。
「……騒がしい学園だ。私が静かに歴史の彼方に消えることすら許してくれない」
ヤンのぼやきに、それまで黙って見ていたルドルフが、フッと笑った。
彼女は、ヤンのデスクの端に腰掛け、窓の外の青空を見上げた。
「諦めたまえ、トレーナー君」
「ルドルフ?」
「君はもう、『歴史の傍観者』ではいられないということだ」
ルドルフは、生徒会長としての威厳と、友人としての親愛を込めて告げた。
「君が蒔いた種だ。……君が彼女たちと向き合い、その走りを、その心を救ってきた。そして、それに影響された多くのウマ娘の心すらもだ。―――その結果が、この『祭壇』だよ」
「……私はただ、楽をするために効率的な指導をしただけで……」
「その言い訳は、もう通用しないな」
ルドルフは、ヤンの手元にある紅茶――アヤベが新しく淹れてくれたもの――を指差した。
「その紅茶のように、人々を温め、幸福にする魔術師(マジシャン)は、舞台袖には隠れられない。……君がどんなに『ただの歴史家』を気取っても、彼女たちは君を放っておかないさ」
「……」
「観念して、長生きしたまえ。……君がいなくなったら、この学園は火が消えたように寂しくなる。それに―――」
ルドルフはヤンの紅茶を一口飲み、穏やかに微笑んだ。
「君は私たちに寄りかかってくれた。……それが、とても嬉しかったんだ。『魔術師』も悪くないが、私はそちらの君のほうが、ずっと好ましく思うよ」
ヤンは、山積みの差し入れと、アヤベの呆れ顔と、遠くで聞こえるウララの笑い声を聞いた。
「……昨日は、すまなかったね」
「謝罪は不要だよ」
かつて、なりたくもない軍人になり、なりたくもない英雄になった。そして今、なりたくもない「アイドル(?)」になろうとしている。
だが、その騒がしさは、決して不快ではなかった。
「……わかったよ、ルドルフ」
ヤンは、マックイーンが置いていったバウムクーヘンの箱を開けた。
「とりあえずは、この甘すぎる包囲網を突破することから始めるとしよう。………とはいえ、一人では量が多すぎる」
「ふふっ。手伝おうか?」
「頼むよルドルフ。アヤベ君もだ。共犯者なら、カロリーも折半すべきだろう?」
「………仕方ないわね」
初夏の日差しが降り注ぐトレーナー室。ヤン・ウェンリーの災難は、甘く、騒がしく、そして温かいティータイムへと溶けていった。
―――6月2日。
ヤン・ウェンリーという人間の「新しい日常」が、また始まっていく。騒がしく、手のかかる、けれど愛すべき英雄たちと共に。
(魔術師の休息日 結)
嵐が去った後の空は高く、そして騒がしい。
魔術師の要塞は、再び――善意という名の砲撃によって陥落した。
供えられたのは、花ではなく菓子。
捧げられたのは、鎮魂の祈りではなく、未来を祝う笑顔。
歴史家は悟る。――もはや自分が、過去の記述者(傍観者)ではなく、未来を作る当事者になってしまったことを。
歴史家は記述する。――この日をもって、魔術師は「過去」への旅を終え、この騒がしくも愛おしい世界での「生」を受け入れた、と。
甘いバウムクーヘンの味と共に、彼は観念して新たな日常を受け入れる。騒がしくも愛おしい日々は続く。双子の星も、皇帝も、そして太陽も、彼の周りで輝き続ける限り。
数多の星々に囲まれて、ヤン・ウェンリーの航海は、これからも続いていく。
次回 ヤン・ウェンリートレーナーの短編集 最終話
『高みを行く者』
銀河の歴史も、あと1ページ。