『高みを行く者』
6月2日、午後。
ヤン・ウェンリー率いるチームヤンのトレーナー室は、物理法則を無視したような人口密度と、熱気に包まれていた。
「おいコラマックイーン! アタシの焼きそばパン取っただろ!」
「言いがかりはやめてくださいませ!それに、炭水化物の塊など私は……あむっ。……意外とイケますわね」
「食ってんじゃねーか!」
ゴールドシップとメジロマックイーンがソファで小競り合いをし、その横でトウカイテイオーが
「ボクははちみつパン!」
と叫んでいる。
「……あー、もう。こらテイオー、こぼさないの。おしぼり使う?」
「んー! サンキューネイチャ!」
ナイスネイチャが甲斐甲斐しく世話を焼き、その足元ではハルウララとライスシャワーが、積み木のようなバランスゲームに熱中している。
「ああっ! 倒れちゃうよー!」
「……ライスが、支える……!」
窓際では、ナリタブライアンが黙々とステーキ弁当(本日二個目)を平らげ、アグネスタキオンは怪しげな光を放つドリンクをアドマイヤベガに勧めている。
「どうだいアヤベ君。これを飲めば、睡眠効率が通常の三倍に……」
「……結構よ。永遠に眠ることになりそうだもの」
そして、その混沌(カオス)の中心で、ヤン・ウェンリーはシンボリルドルフと共に、呆れたように、しかし穏やかな顔で紅茶を啜っていた。
「……やれやれ。ここはいつから託児所になったんだ」
「ふふ。君の人徳だよ、トレーナー君」
騒がしく、無秩序で、手狭で。けれど、どうしようもなく温かい場所。6月1日の冷たい雨が嘘のように、部屋は「生」のエネルギーで満ち溢れていた。
■
―――だが、楽しい時間は永遠には続かない。
窓の外が茜色に染まり、影が長く伸び始める頃。祭りの終わりの時間が、静かに訪れた。
「……そろそろ、行くわ」
最初に腰を上げたのは、アドマイヤベガだった。彼女はウマホの画面――カレンチャンからの『ご飯できたよー☆』というメッセージ――を確認し、立ち上がった。
「カレンが夕食を作って待ってるから。……じゃあね、ヤン。ルドルフも」
「ああ。また明日、アヤベ君」
彼女は小さく手を振り、静かに部屋を出て行った。
「あ、ウララも行かなきゃ! キングちゃんが呼んでるの!」
次にハルウララが跳ね起きた。
「トレーナーさん、会長さん、またね! ……ライスちゃんも一緒に帰ろ!」
「……うん。お兄さま、おやすみなさい」
ウララとライスシャワーが、手を繋いでパタパタと廊下を走っていく。その背中に
「転ぶなよ」
とヤンが優しく声をかけた。
「さてと……。アタシもそろそろ行こうかな。今日は商店街の特売日だし」
ナイスネイチャが伸びをして、鞄を持った。
「えっ! 商店街!? だったらボクも行くー! 購買部にはない新作スイーツがあるって聞いたんだ!」
「ええっ? テイオーも来るの? ……まぁいいけどさ。じゃ、また、ヤンさん」
「ああ、また好きな時に来ると良い。テイオーもな」
「にしし。もちろん! じゃ、またねー魔術師! ほら行くよー!」
テイオーがネイチャの背中を押すようにして、賑やかに去っていく。
「マックイーン! 腹減ったからラーメン食いに行こうぜ! ゴルシ様のおごりだ!」
「なっ……!? わ、私はカロリー制限中……いえ、一杯だけなら……って、引っ張らないでくださいましー!! や、ヤンさん、ごきげんよう!」
「またなートレピッピ。明日も焼きそばパン用意しとけよな!」
「はいはい。判ったよ。マックイーンの分もだね」
「おうよ! 判ってんじゃねーか!」
ゴールドシップがマックイーンの襟首を掴んで引きずっていく。嵐のような二人が去ると、部屋は急に広くなったように感じられた。
「……私も行くとするか」
ナリタブライアンが、最後の肉を飲み込んで立ち上がった。
「食後の運動だ。外周を走ってから寮に戻る。……またな、トレーナー」
「ああ。ほどほどにな」
ブライアンは背中で手を振り、ストイックに走り去っていった。
「やれやれ。みんな元気だねぇ」
最後に残ったアグネスタキオンが、白衣を翻した。
「私も退散するとしよう。……今日はモルモット君が、私のために特製ディナーを用意しているらしくてね。冷めないうちに帰ってあげないと、彼が泣いてしまう」
「それは重畳。……彼によろしくな」
「ああ。……いい紅茶だったよ、魔術師君」
タキオンはニヤリと笑い、闇が濃くなり始めた廊下へと消えていった。
■
パタン、とドアが閉まる。あれほどの喧騒が嘘のように、部屋に静寂が満ちた。
残されたのは、散らかったお菓子の包み紙と、飲みかけのティーカップ。
そして、このチーム最初の二人。ヤン・ウェンリーと、シンボリルドルフだけ。
窓の外は、もう群青色の夕闇に包まれている。
「……静かになったな」
ヤンが呟くと、ルドルフは懐かしそうに目を細めた。
「ああ。……まるで、一番最初に戻ったようだね。君と私が、この部屋で二人きりだった頃に」
そう。全てはこの二人から始まったのだ。歴史家になりたかった怠け者の男と、理想を追い求めた孤独な皇帝が出会い、そして多くの星々が集った。
「そうだな、ルドルフ。最初、君が声をかけてきたときはどうしようかと思ったよ」
「はは。今でも覚えているよ、ヤン。……『お断りする』だったか。今考えても随分な言われようだった」
二人は顔を見合わせ、クスクスと笑い合った。あの日の拒絶があったからこそ、今の信頼がある。紅茶の湯気越しに交わされる視線は、どんな言葉よりも雄弁だった。
■
ひとしきり笑ったヤンは、ソファに深く背を預け、ふと思い出したように声をかけた。
「……そう言えばだ、ルドルフ。チームの名前の変更というのは、手続き上できるものなのかい?」
「ん?ああ、可能だよ。理事会への申請は必要だが、受理されないことはないだろう」
ルドルフは顔を上げ、少し面白そうにヤンを見た。
「何か良い案でも浮かんだのかな? ヤン」
「いや、なに。……いつまでも『チーム・ヤン』というのも、どうにも据わりが悪くてね。個人の名前を冠するのは、独裁的で趣味じゃない」
ヤンは頭をかいた。彼は権威や個人崇拝を最も嫌う。自分の名前がチーム名になっている現状は、彼にとってずっと背中の痒い事態だったのだ。
「私としては、それでも構わないと思っているのだがね?君という旗印の下に集まったウマ娘こそ、我々なのだから」
ルドルフは穏やかな微笑みをヤンに向けた。だがその時、彼の視線が自分ではなく、部屋の飾り棚の一角に注がれていることに気づいた。
釣られるように、彼女もそちらへ目を向ける。
そこには、一枚の写真が飾られている。深緑(ディープ・グリーン)の勝負服。翻る真紅のマント。その威風堂々たる姿は、見る者を圧倒するカリスマに満ちている。
ヤンは、その写真をじっと見つめていた。夕日に照らされたその「深緑」の色彩が、彼の記憶の底にある、ある光景を呼び覚ましていたからだ。
(……似ているな)
ヤンは目を細めた。ルドルフが纏うその色は、かつて彼が座乗し、星の海を共に征った、一隻の艦(ふね)の色によく似ていた。
決して最強の戦艦ではなかっただろう。美しく流麗なフォルムを持つ帝国の艦艇とは違い、無骨で、長く使ううちにあちこちガタがきていて、機関部からは常に異音がしていた。
だが、誰よりもタフで、誰よりも長く戦場に立ち続け、そしてヤン・ウェンリーという怠け者が降りるまで、その身を守り抜いた、最高の「家」。
その艦影が、写真の中のルドルフと重なる。
そして、その艦(チーム)に乗り込んできた、愛すべき乗組員(クルー)たちの顔が、走馬灯のように浮かんでは消えた。
―――ナリタブライアン。
『走らせろ』と不器用に訴えてきた怪物。彼女はさしずめ、艦の主砲だ。圧倒的な火力で、閉塞した戦況を一点突破する、頼もしすぎる矛。
―――ゴールドシップ。
予測不能のトリックスター。彼女は、どこへ飛んでいくか分からない危うさはあるが、常識という機雷原を笑いながら突破していく、最高の船の操舵手だ。
―――ライスシャワー。
小さな刺客。敵の懐に静かに忍び寄る彼女は、優秀な情報参謀か。その献身と、繊細な心遣いは、艦内の空気を常に清浄に保ってくれた。
―――アグネスタキオン。
マッドサイエンティスト。彼女は、艦の機関長だ。限界を超えようとするエンジン(脚)を、理論と狂気でねじ伏せ、未知の領域へと艦を推し進める。
―――トウカイテイオー。
不屈の帝王。何度折れても、何度傷ついても、必ず立ち上がるその姿は、ダメージ・コントロールの神髄。艦が沈まないのは、彼女のような「明るさ」が支柱にあるからだ。
―――ナイスネイチャ。
自らを脇役と呼ぶ彼女。だが、彼女のような存在こそが、艦隊の要だ。派手さはなくとも、確実に任務を遂行し、誰よりも周囲を見ている、熟練の副官。
―――ハルウララ。
負けない太陽。彼女は、艦の装甲そのものだ。どんな砲撃(敗北)を受けても、傷だらけになっても、決して砕けない笑顔。その強度が、この船だけではなく、トレセン学園という大きな船の、乗組員全員の心を守っている。
―――アドマイヤベガ。
星を背負う者。彼女とは、夜の静寂(しじま)を分け合った仲だ。同じ孤独を抱えながら、暗闇の中で進むべき星路を探す、星読みの航法士(ナビゲーター)。
そして、シンボリルドルフ。
自分を見出し、この場所へ引きずり込んだ、深緑の皇帝。
彼女こそが、この艦隊の旗艦(フラッグシップ)だ。
あまりに個性的すぎる僚艦(メンバー)たちをその威光で束ね、全責任を背負って先頭を行く、絶対的なヤンの支柱。
彼女という「王」が座乗しているからこそ、この寄せ集めの艦隊は、伝説へと辿り着けるのだ。
■
「……まあいいだろう。君がそう望むなら。それで、どんな名前にするつもりなんだい?」
ルドルフの声が現実に引き戻す。ヤンは、椅子に深く背を預け、写真の中の「深緑」と、ブラインドの隙間から見える夕空を見上げた。
「そうだな………」
ヤンは一度言葉を切り、ゆっくりと紅茶を一口啜った。
「一つだけ候補がある。ルドルフ。聞いてもらえるかい?」
立ち上る湯気の向こう側―――。
「もちろん。聞かせてもらおうか。ヤン」
その瞳の奥に、懐かしい友人のような艦の姿を映して。
「………ヒューベリオン(Hyperion)……『チーム・ヒューベリオン』だ」
その響きに、ルドルフは眉を微かに動かし、知識の引き出しを検索した。
「ヒューベリオン……。ギリシア神話の神族(ティターン)の名か。確か語源は……『高みを行く者』だったかな?」
「ああ。……皇帝だの、怪物だの、破天荒だの。このチームの面子を考えれば、妥当な名前だろう?」
ヤンは自嘲気味に笑った。だが、ルドルフは気づいていた。その名前を口にする時のヤンの視線が、自分の勝負服の写真に向けられていることに。そして、その声色がいつになく優しく、哀愁を帯びていたことを。
(……きっと、この名は、君にとってただの神話ではない)
言葉には出さない。けれど、彼がその名に込めた「祈り」のようなものは―――。
(君が語った『友人』……いや……、『君』自身に深く、関わりのある名前なのだろうね。ヤン)
――ルドルフには、確かに伝わっていた。
「……『高みを行く者』か。……フフッ、悪くない。我々に相応しい、誇り高い名だ。いいだろう、すぐに申請書を作成しよう。」
ルドルフは満足げに頷いた。
「これからは『チーム・ヒューベリオン』として、君の指揮下で覇道を往く」
「覇道は勘弁願いたいがね、皇帝陛下。……ま、友人として、ひとつ、よろしく頼むよ」
ヤンは紅茶を啜り、密かに安堵の息をついた。
この世界に、あの艦(ふね)の名前を残せたこと。
そして、その名前を背負うのが、かつての部下たちに勝るとも劣らない、―――愛すべき「家族」たちであることに。
◆◆◆◆◆
窓の外、暮れなずむ空に一番星が瞬き始めた頃。
歴史はここに、新たな一行を刻んだ。
かつて数多の砲火をくぐり抜け、自由のために戦った老朽艦の名は、時空を超えて、ターフを駆ける若き乙女たちの旗印として蘇ったのである。
魔術師ヤン・ウェンリーと、皇帝シンボリルドルフ。
そして、その旗の下に集いし、愛すべき英雄たち。
「チーム・ヒューベリオン」
彼らの前途に待ち受けるものが、輝かしい栄光か、それとも波乱に満ちた喜劇であるか。
それはまだ、歴史の予備知識を持たない彼ら自身にも知る由はない。
ただ一つ確かなことは、彼らの新たな航海が、今まさに錨を上げたということである。
(ヤン・ウェンリートレーナーの短編集 完)
これで大団円―――。
以上をもって、「ヤン・ウェンリートレーナーの短篇集」の記録は一応の終了を見る。
……と言いたいところだが、どうやら、まだ未公開の機密文書が残されているようだ。
後世の歴史家は、この時期のヤン・ウェンリーについて、奇妙な記述を残している。
『彼は戦場(レース)での勝利よりも、平穏であるはずの日常における座席配置――すなわち、右隣の皇帝と、左隣の一等星、そして、数多の星による "物理的圧迫" の回避に、その知略の全てを費やした』と。
それは、血の流れない、しかし胃の痛くなる「二正面作戦」。
あるいは、逃げ場なき「ヤン・ウェンリー包囲網」の記録である。
その詳細については、また稿を改めて記すこととしたい。
次回、エピローグ
明日、2月12日1900、出走。
『魔術師の身の上話-あるいは、恒久的盟約について』
なお、次回の閲覧に際しては、各自、好みの飲料――できれば、とびきりの紅茶を用意することを強く推奨する。