ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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魔術師の身の上話-あるいは、恒久的盟約について

 トレセン学園の桜並木は、幾度目かの満開の季節を迎えていた。

 

 「チーム・ヒューベリオン」の名は、今やトゥインクル・シリーズの伝説となっていた。だが、その伝説を作った司令室――トレーナー室は、静寂や威厳とは程遠い状態にあった。

 

 

「……やれやれ。私の部屋はいつから倉庫になったんだ」

 

 ヤン・ウェンリーは、部屋の主である長年愛用したソファに深く沈み込みながら、深いため息をついた。視線の先には、新入りのウマ娘たちが持ち込んだ巨大なぬいぐるみや、謎の健康器具、実験道具や、機材、そして、焼きそばパンやハチミツドリンクといった食料までもが山積みにされている。

 

 シンボリルドルフたちが第一線を退いた後も、彼の元には「第2世代」「第3世代」の問題児たちが次々と送り込まれてきていたのだ。

 

『名将ヤン・ウェンリーに指導を受けたい』

 

 という志願者はウマ娘であっても、トレーナーであっても後を絶たず、彼が夢見る「優雅な年金生活」は、光の速さで遠ざかっていた。

 

「諦めなさい、ヤン。……貴方が『拒絶』の下手くそな甘ちゃんである限り、この部屋が片付くことは一生ないわ」

 

 ローテーブルを挟んで向かい側の椅子に座り、優雅にコーヒーを飲んでいるのはアドマイヤベガだ。

 

 現役を引退し、指導者としての道を歩み始めた彼女は、こうして事あるごとに顔を出し、ヤンの補佐(という名の雑談相手兼、監視役)を続けている。その姿は、まるで長年連れ添った副官のように板についていた。

 

「手厳しいな、アヤベ君。……少しは同情してくれてもいいだろう」

「自業自得よ」

 

 そんな軽口を叩いていると、ドアがノックされ、懐かしい人物が入ってきた。

 

「邪魔するよ。……相変わらず、賑やかだなここは」

 

 シックな私服に身を包んだシンボリルドルフだった。既にトゥインクル・シリーズを卒業し、『ドリームトロフィーリーグ』の第一線で活躍する彼女は、かつての「皇帝」の鋭さを内に秘めつつ、成熟した大人の余裕を漂わせている。

 

「やあ、ルドルフ。……見ての通りだよ。君たちが残していった『伝統』のおかげで、足の踏み場もない」

「ふふ。後進が育っている証拠じゃないか。喜ばしいことだ」

 

 ルドルフは、アヤベの隣の椅子に腰を下ろした。アヤベが無言で、新しいカップに紅茶を注ぐ。流れるような連携だ。そこには、数多の戦場を共に駆け抜けた者たちだけの、阿吽の呼吸があった。

 

「……それで、ドリームリーグの方はどうだい?皇帝陛下」

「激戦だよ。過去の名ウマ娘たちがひしめいている。……まあ、退屈はしていないがね」

「それは何よりだ。君は退屈すると、ろくなことを考えないからな」

 

 ヤンがソファから尋ね、ルドルフとアヤベが椅子から答える。春の陽だまりのような、穏やかなトライアングルがそこにはあった。

 

「……それにしても。変わらないな、この部屋の空気は」

 

 ふと、ルドルフがソーサーを置き、部屋を見渡した。

 

 そこには、新入生たちが持ち込んだカオスな物品に混じって、彼女が現役時代に獲得したトロフィーや、アヤベが愛用していた星図のポスターが、雑然と、しかし大切に飾られている。

 

「外の世界は目まぐるしく変わる。私たちも立場が変わり、『伝説』などと呼ばれるようになった。……だが、ここに来れば、あの頃と同じだ」

「埃っぽくて、整理整頓がなされていない点がかい?」

「いいや。……優しくて、居心地の良い『体温』が、この部屋にはある。ここに来れば、君がいる。変わらずに、紅茶を飲んで、ボヤいている」

 

 ルドルフの言葉に、アヤベの手が止まる。彼女もまた、静かに頷いた。

 

「ええ。……現役時代、プレッシャーに押し潰されそうで眠れない夜も……ここに来れば、貴方がいて、紅茶を飲んで、難しそうな顔で本を読んでいた」

「……私がサボっていただけだと言っても、君たちは信じないんだろうね」

「信じないわ。だって、貴方の淹れる紅茶は……いつだって、私たちが一番欲しい温度だったもの」

 

 アヤベの言葉に、ヤンは照れ隠しに帽子を目深に被り直し、視線を逸らした。

 

 完璧を求められる皇帝と、贖罪を背負った一等星。

 

 二人が鎧を脱ぎ、ただの少女に戻れる場所。それが、この薄汚れたトレーナー室であり、ヤン・ウェンリーという男の隣だった。

 

 

 ルドルフはふと真面目な顔になり、ヤンを見つめた。

 

「君は私たちと共に、『歴史』を創ってくれた。……だが、ヤン。君自身はどうなんだ?」

「……私自身?」

「ああ。君はいつだって、歴史や戦術の講釈は垂れるが……『君自身』の歴史については、頑なに口を閉ざす」

「……そうね」

 

 アドマイヤベガも、静かに言葉を継いだ。

 

「貴方はいつも、どこか遠くを見ている。……私たちが知らない、もっと遠くて、悲しい場所を」

 

 二人の視線が、優しく、けれど逃がさないようにヤンを射抜いた。それは詰問ではない。長い時間を共有してきた友人としての、静かな「知りたい」という欲求だった。

 

 ヤンは苦笑し、視線をカップに落とした。

 

(……参ったな。やはり、彼女たちの目は誤魔化せないか)

 

 ヤンは、紅茶の香りを深く吸い込み、カップの中に揺れる琥珀色の液体を見つめた。そこには、かつて自分が飲み下してきた、数えきれないほどの苦い記憶が沈殿しているようだった。

 

 いつまでも、ただの「不思議なトレーナー」ではいられない。彼女たちの信頼に応えるには、自分も腹を割らねばならないだろう。

 

「……少し、昔話をしてもいいかな」

 

 この二人になら――今、この場所でなら、話せる気がした。

 

「私の、本当の昔話だ」

 

 アドマイヤベガが、静かにカップを置いた。その澄んだ瞳が、ヤンを真っ直ぐに見つめる。

 

「……ええ。聞かせてちょうだい」

 

 シンボリルドルフもまた、深く頷き、皇帝らしい包容力に満ちた笑みを浮かべた。

 

「ああ、もちろんだとも。君が語る『真実』、しかと受け止めよう」

 

 二人の静かな、しかし力強い肯定を受け、ヤンは小さく息を吐いた。そしてヤンは、散らかった部屋――新しい世代の希望が詰まった部屋――を見渡し、ぽつりと語り始めた。

 

「信じられないかもしれないが……。私は、この時代の、この星の人間じゃない」

 

 彼は語った。遥か未来、銀河の彼方で、人類が二つの陣営に分かれて殺し合っていた時代のことを。

 

 歴史家になりたかっただけの青年が、不本意ながら軍服を着せられ、数百万の将兵の命を預かることになった皮肉。『民主主義』という、最悪だが他のどの制度よりもマシな政治体制を守るために、多くの敵を焼き、味方を死なせたこと。

 

 『ヒューベリオン』という名の軍艦と共に、絶望的な戦場を駆け抜け、そして、志半ばで凶弾に倒れたこと。

 

「……無数の死体の上に立って、私は『英雄』と呼ばれた。……滑稽だろう? 人を殺すのが上手いというだけで、魔術師だの奇跡だのと持ち上げられてね」

 

 ヤンは自嘲気味に笑い、帽子を目深に被り直した。その影に隠された表情は、どこか迷子の子供のようだった。

 

「私はただ、歴史の傍観者になりたかっただけなんだ。……それなのに、随分と遠くまで来てしまった」

 

 語り終え、重い沈黙が落ちることを覚悟したヤンの耳に届いたのは、拍子抜けするほど優しい笑い声だった。

 

「……今更よ。貴方がどこか遠い場所を見ていたことなんて、最初から知っていたわ」

 

 アドマイヤベガが、ヤンの空になったカップに、新しい紅茶を注ぐ。コトリ、という音が静寂を優しく解いていく。

 

「それに……星は、どこから見ても星よ」

 

 彼女は静かに言った。その瞳は、ヤンがかつてイゼルローンで見上げた星空と同じくらい、深く、澄んでいた。

 

「貴方が銀河の彼方で見ていた星も、いま私たちがここから見上げている星も、輝きは変わらない。……貴方が背負っているものが『罪』だと言うのなら、それは私たちが背負っているものと、何も変わらないわ」

 

 妹を喪い、それでも走り続けることを選んだ一等星。彼女の言葉は、冷たく凍り付いていたヤンの記憶を溶かしていく。

 

「ああ。君がどの星から来たかなど些細な問題だ。君が君であることに変わりはない」

 

 続いて口を開いたのは、シンボリルドルフだった。彼女はヤンの目を見て、力強く頷いた。

 

「場所が銀河であろうと、極東の島国であろうと。……君が『誰かのために最善を尽くし、悩み続けた男』であることに変わりはないだろう?」

「……ルドルフ」

「君は、自分を殺戮者だと言うかもしれない。だが、君が守ったものの重さは、歴史が……何より、我々が知っている」

 

 皇帝は、かつてないほど優しい声で告げた。

 

「改めて言わせてもらおう。―――ようこそ、こちらの世界へ。……長い旅だったな、ヤン」

 

 その言葉は、勲章よりも、昇進辞令よりも、ヤンの胸に深く染み渡った。彼は驚いたように二人を見つめ、やがて、肩の力が抜けていくのを感じた。

 

「……参ったな」

 

 ヤンは困ったように眉を下げ、温かい紅茶を一口啜った。

 

「君たちには敵わない。……そんな風に肯定されてしまっては、歴史家としての客観的な自己評価が、音を立てて崩れてしまう」

 

 それは、ヤン・ウェンリーなりの、精一杯の感謝の言葉だった。

 

 

 だが、皇帝の「尋問」は、まだ終わってはいなかった。

 

「……軍人としての君の苦悩はよく分かった。だが、ヤン。プライベートはどうだったんだ?」

「え?」

「君のその紅茶への拘りや、家事能力の絶望的な欠如を見るに……君を支えた『家族』がいたはずだ。違うか?」

 

 鋭い指摘だった。ヤンは苦笑し、頭を掻いた。隠すつもりはなかったが、やはりこの皇帝の慧眼は誤魔化せない。

 

「……お見通しか。いたよ。生意気だが、紅茶を淹れる腕だけは天才的な被保護者(ユリアン)がね。……血は繋がっていなかったが、彼は私の自慢の息子であり、後継者だった」

 

 ヤンの軽口に、アドマイヤベガが口元を緩める。そして、彼女は核心に触れるように、静かに尋ねた。

 

「……それだけかしら? 貴方のその不器用な生活を支えたのは、息子さんだけじゃないでしょう?」

「…………」

 

 ヤンは一瞬だけ言葉を詰まらせ、そして、観念したように頷いた。左手の薬指にはもう指輪はない。けれど、魂に刻まれた重みだけは、今も消えていない。

 

「……妻が、いたよ。元々は私の副官でね。記憶力抜群で、有能で……私には過ぎた女性(ひと)だった」

 

 フレデリカ・グリーンヒル。

 

 パンケーキを焼けば装甲板のように硬く、サンドイッチを作れば具材の厚みがバラバラだったが、その笑顔は誰よりも美しかった。

 

「彼女はもういない。だが、私の記憶の中には、常に彼女がいる。……こんな過去を背負った男に、君たちのような友人ができて、彼女も草葉の陰で呆れているかもしれないな」

 

 自嘲気味に笑うヤン。しかし、二人の反応は、彼の予想を裏切るほど温かいものだった。

 

「……そうか。君は、誰かを深く愛し、愛された記憶を持っているのだな」

 

 ルドルフは、深く頷いた。その瞳には、一人の男の人生に対する、純粋な敬意が宿っていた。

 

「誇っていい。愛する者を失い、それでも立ち続けた君だからこそ……今の君があるのだろう」

「……そうね」

 

 アヤベもまた、静かに肯定した。

 

「貴方が過去に誰を愛していても、それは『貴方』の一部。……それを否定なんてしないわ。むしろ、その思い出ごと、貴方を受け入れたい」

 

 過去(フレデリカ)を否定しない。それどころか、その愛の記憶ごと、今のヤン・ウェンリーを肯定する。二人の瞳にあるのは、海のように深い受容だった。

 

「…………」

 

 ヤンは目を見開き、やがて、全身の力が完全に抜けていくのを感じた。

 

(……ああ、そうか。私は、許されたのか)

 

 ずっと胸の奥につかえていた、銀河の歴史という重すぎる澱(おり)。フレデリカへの断ち切れぬ想い。ユリアンへの思慕。それら全てを、彼女たちは「それでいい」と言ってくれた。

 

 もう、彼方にある過去を一人で見上げる必要はない。目の前に、過去も含めて愛してくれる最高の友人たちがいるのだから。

 

(これで、私のポケットの中身は空っぽだ)

 

 ヤンは心地よい脱力感と共に、二人の笑顔を見つめた。

 

(今の私は、奇跡の魔術師でも、同盟軍の元帥でもない。……ただの、彼女たちのトレーナーだ。……これで、ようやく枕を高くして眠れる。あとは、良き友人である彼女らと共に、穏やかな日々を過ごすだけだ)

 

 ヤンはカップに残った紅茶を飲み干し、すっかり弛緩した表情で、ほう、と息を吐いた。

 

 カチャリ、と。

 

 ソーサーにカップが戻る音が、平和な室内に響く。

 

 

 ―――だが、ヤン・ウェンリーが安堵したのも束の間、空気は妙な方向へと捻じれ始めた。

 

 二人の瞳の色が、ふっと変わったのだ。そこに宿るのは、ヤンの妻への敬意と、それ以上の――「生者」としての強烈な自負。

 

「……ヤン。君がその女性(ひと)をどれほど深く愛していたか、痛いほど伝わってきたよ」

 

 シンボリルドルフが、静かに口火を切った。彼女はカップを置き、真っ直ぐにヤンを見据える。

 

「彼女は君の歴史そのものだ。その美しい記憶を、誰にも侵す権利はない。……だが」

 

 皇帝は一度言葉を切り、少しだけ悲しげに、けれど断固として告げた。

 

「どれほど尊くても……『思い出』は、今の君の冷えた身体を温めてはくれない。君が風邪を引いた時にスープを作ることも、悪夢にうなされる背中をさすることも、ここにはいない彼女にはできないのだ」

 

「……その通りね」

 

 アドマイヤベガが、短く同意した。彼女はヤンの手元――かつて指輪があった場所――を一瞥し、そしてヤンの瞳を覗き込んだ。

 

「貴方の心は、彼女のものかもしれない。……でも、貴方の『命』は、今ここにあるわ」

 

 アヤベの声は、冷ややかだが、熱い。それは、生きることへの執着を知る者だけの響きだった。

 

「今の貴方を支え、不摂生を叱り、隣で息をして、共に明日を迎えることができるのは……この世界に生きる、私たちだけよ。――違う?」

 

 過去は変えられない。死者は蘇らない。だからこそ、残された時間を埋めるのは、今を生きる者の責務であり、特権だ。

 

「……君たちは。相変わらず私の一番痛いところを、容赦なく突いてくるね」

 

 ヤンは帽子を目深に被り直し、深いため息をついた。その表情には、まだ僅かな抵抗の色があった。

 

「思い出に浸ることすら、許してくれないわけか。……それは、いささか『生者の傲慢』というものじゃないかな?」

「傲慢で構わないさ」

 

 間髪入れず、シンボリルドルフが切り返した。彼女はヤンの目から逃げず、力強く断言する。

 

「君が過去に足を取られ、ここで停滞することこそ……君の歴史にとっても、奥方にとっても最大の不幸だ。……『歩みを止めるな』。それが、生き残った者の義務だろう?」

「う……。それは、その通りだが……」

 

 痛いところを突かれ、言葉に詰まるヤン。そこに、アドマイヤベガが淡々と事実を積み重ねる。

 

「……それに、思い出は貴方の健康を管理してくれないわ。栄養バランスの取れた食事も、適度な睡眠も、提供できるのは『現実』にいる私たちだけ。……これは哲学ではなく、物理的な事実よ」

 

 精神論(ルドルフ)と、物理論(アヤベ)。二つの側面から「現実を見ろ」と迫られ、ヤンは逃げ場を失った。

 

「……やれやれ。これだから、『生きている人間』というのは手強い」

 

 それは、歴史家としての皮肉であり、敗北宣言だった。いかなる詭弁を弄そうとも、目の前にある「揺るぎない現実」には抗えない。彼は、彼女たちの提示した「今を生きる権利」に、論理的に屈したのだ。

 

 そして、そんな静かで熱い彼女らの決意が、室内の温度と湿度をじわりと上げていく。

 

 

「……さて、ヤン。私たちは君の過去を受け入れた。そして君もこちらでの義務を自覚した。だから、我々の未来の話をしよう」

「未来の話?」

「ああ。大切な、大切な、未来の話だ」

 

 ルドルフが立ち上がった。彼女はゆっくりとローテーブルを回り込み、ヤンが座るソファへと近づいてくる。

 

「ドリームリーグは過酷だ。メンタルケアも含め、私生活を支えてくれるパートナーが必要だと痛感していてね」

 

 そして、躊躇なくヤンの右隣に腰を下ろした。ソファのスプリングが沈み込む。距離はゼロ。彼女の肩が、ヤンの肩に触れる。

 

「……どうだろう? 私の専属として、その身柄を、()()に預けてみては」

 

 ルドルフは、ヤンの腕に自分の腕を絡め、体重を預けるように身を寄せた。耳元で囁かれる甘い声。その瞳には、レース中にも見せないような、強烈な「勝負師」の色が宿っている。

 

「報酬は言い値で払うし、昼寝の時間も保証しよう。悪い話ではないと思うが?」

 

 それは、実質的な恒久的盟約、言い換えれば『プロポーズ』そのものだった。ヤンが右腕の重みと体温に硬直していると、正面から冷ややかな声が飛んできた。

 

「……ちょっと待って。その作戦には異議があるわ」

 

 アドマイヤベガだ。彼女はカップをソーサーにコトリと置くと、静かな、しかし絶対零度の視線をルドルフに向けた。そして彼女もまた、音もなく立ち上がった。

 

「ヤンの生活管理(ロジスティクス)は、引退後の私がずっと見てきたの。……今更、皇帝陛下にこの繊細な『補給線』の維持ができるとは思えないけれど?」

「ほう? 言ってくれるじゃないか、アドマイヤベガ。だが経験値の差など、これから埋めればいい」

「学習している間に、彼は栄養失調で倒れるわよ」

 

 アヤベはテーブルを回り込み、ヤンの左隣――わずかに空いていたスペースへと滑り込んだ。

 

「……私なら、今日の夕食の献立も、彼の胃袋に合わせて既に決定済みだわ」

「……何を作るつもりだ?」

「内緒よ。シンボリルドルフ」

 

 アヤベはヤンの左腕を抱え込み、自分の頬を彼の肩に乗せた。

 

 右に皇帝。

 

 左に一等星。

 

 両側面からの物理的な圧迫と、彼女らの少し高めの体温、そして甘やかな香りが、ヤンに襲い掛かる。

 

「ねえ、ウェンリー? 貴方はどっちの『官舎』に帰りたい?」

 

 二人の視線が、至近距離からヤンを射抜いた。

 

「ふふ。……迷う必要はないさ。賢明なトレーナー君なら、どちらが『最善手』か理解しているだろう?」

 

 両側面からの、完全包囲(フル・エンサーキュラメント)。それは、イゼルローン回廊の挟撃作戦よりも逃げ場のない、絶望的な戦況だった。

 

「え、あ、いや……私は、その……フレデリカが……」

 

 思わず、今はもう会えないであろう、妻の名を盾にした。それは卑怯な逃げ道だったかもしれない。だが、この鉄壁の包囲網を突破するには、彼女の威光に縋るしかなかった。

 

 だが。―――その「最後の逃げ道」すらも、二人の美女は想定済みだった。

 

「……ふ。賢明な副官殿なら、指揮官(あなた)を支える『後任』の必要性を、誰より理解しているはずだ」

 

 ルドルフが、耳元で甘く、しかし論理的に囁く。それは「ヤンの語った妻の存在」すらも味方につける、皇帝の弁論だった。

 

「……そうね。貴方が一人で不摂生をして早死にするより、私たちが管理して長生きすることを……彼女だって望むはずよ」

 

 アヤベが、頬をすり寄せながら、逃げ場のない正論を突きつける。それは「妻の願い」を代弁するような、一等星の慈愛(管理)だった。

 

「「……だから、その『言い訳』は却下(ナシ)」」

 

(―――参った……これは、逃げ場は、ない、か?いや、しかし……なんとかしないと。……いや、待て。何か、何か策があるはずだ……)

 

 ヤンは視線を彷徨わせた。戦術レベルでの言い逃れは不可能。戦略レベルでの撤退も不可能。せめて真正面から突破口を開こうと、彼は顔を上げた。

 

 だが、その瞬間。

 

 ―――カチャリ、と。

 

 真正面のドアが、内側から施錠されていたはずのドアが、鍵が開く音と共に、ゆらりと開いた。

 

「…………お兄さま?」

 

 そして、聞こえてきたのは鈴を転がしたような、可憐な声。―――そこに立っていたのは、漆黒のドレスに身を包んだライスシャワーだった。彼女もまたこの学園に教育者として残り、甲斐甲斐しくヤンの世話を続けているウマ娘の一人だ。

 

 そして、その人差し指には、ヤンの世話役らしく、鈍く光る「合鍵」がぶら下がっている。

 

「……ふぅん」

 

 彼女は、ヤンが二人の美女に挟まれている状況を見て――ゆっくりと、目を細めた。

 

「ら、ライス。丁度いい所に……」

 

 ヤンにとっては希望の光……となるはずだったが、ライスシャワーにとっては希望とは程遠い……むしろ、あってはならない現場だった。

 

「お兄さま」

 

 彼女は音もなく部屋に侵入すると、ヤンの膝の上にバスケットを置いた。ドン、と。重い音がした。中に入っているのは、完璧にアイロンがけされたヤンのシャツだ。

 

「シャツ、洗っておいたよ。あと、寮のシーツは変えておいてあげたから」

 

 彼女は短く告げた。ヤンはその顔を見て思わず息を呑む。

 そこにあったのは、かつての守られるだけのライスシャワーという少女の顔ではない。それは、この要塞(部屋)の兵站と環境を完全に掌握した、冷徹な管理者の顔だった。

 

「……お兄さまが、外で誰と『遊んで』いても、構わないけど」

 

 彼女はヤンの胸元に手を添え、逃げ場のない距離で微笑んだ。その瞳の奥には、青い炎のような静かな独占欲が揺らめいている。

 

「……最後に帰ってくる『家』は……ライスが守ってるから。――ね?」

 

 その言葉は、間違いなく、そして決定的な宣戦布告だった。

 

 空気が、ピリリと凍りつく。

 

 だが、百戦錬磨の皇帝と一等星が、その程度の「既成事実」で引き下がるはずもなかった。

 

「……ふふっ。相変わらず健気だね、ライスシャワー」

 

 沈黙を破ったのは、シンボリルドルフだった。彼女は余裕たっぷりに笑っているが、その瞳は笑っていない。彼女はヤンの右腕を抱きしめる力を強め、明確な「格の違い」を見せつけるように言い放った。

 

「だが、残念ながら認識が甘い。……掃除や洗濯など、その気になれば誰にでも代行できる『雑務』に過ぎない」

 

 彼女は、ヤンの耳元に唇を寄せ、ライスに見せつけるように囁いた。

 

「ヤンに必要なのは、君のような家政婦ではない。……彼の見てきた歴史、その哲学、そして未来を共有できる、対等な『伴侶』だ。……そうだろう、ヤン? 君の魂を真に満たせるのは、皇帝である私だけだ」

 

「……あきれた。ふたりとも、夢見がちすぎない?」

 

 間髪入れず、左側のアドマイヤベガが冷たく吐き捨てた。彼女は、ルドルフとライスを交互に睨みつけると、ヤンの左手を自分の胸元に強く押し当てた。

 

「歴史? 哲学? ……そんな抽象的なもので、彼が生きていけるとでも? 見て、この不健康な顔色を」

 

 アヤベは、ヤンの頬に自分の頬をすり寄せ、氷のような絶対零度の愛を囁く。

 

「彼に必要なのは、地位でも帰る場所でもない。……今日を生き延びるための『生命維持システム(わたし)』よ。私の徹底的な管理がなければ、彼は一週間で壊れてしまう。……ねえ、ウェンリー? 貴方は、私の管理下を選ぶわよね?」

 

「……ううん、ちがうもん」

 

 真正面のライスシャワーが、ゆらりと、青い炎を揺らめかせた。

 

「お兄さまは……ライスの焼いたパンと、ふかふかのベッドが一番好きなの。シンボリルドルフさんの難しい理屈も、アドマイヤベガさんの管理もいらない。……ライスだけが、お兄さまを癒やせるんだから」

 

 三者の視線が、ヤンの頭上で激しく交錯し、火花を散らす。バチバチ、と音が聞こえてきそうなほどの、―――三方向からの十字砲火(クロスファイア)。

 

 三人の美女が、同時にヤンに迫る。衣食住の全権を掌握された魔術師に、もはや逃走経路など、物理的にも社会的にも存在しなかった。

 

 思考が飽和した魔術師の脳裏に、ふと、ある少年の姿がよぎった。

 

 かつて銀河の果てで、どんな時も自分を支え、完璧なタイミングで紅茶を淹れてくれた、最愛の被保護者。

 

 彼は無意識のうちに、この世界にはいないその名前を呼ぶ。

 

 それは、銀河の歴史に名を残す智将が放ったとは到底思えない、あまりにも情けない救難信号だった。

 

「……ユリアン。紅茶のおかわりをくれないか……。……ブランデーを多めで頼む……」

 

----------------------

 

 後世の歴史家は、いささかの皮肉を込めてこう記している。

 

 宇宙(そら)の覇者たる、常勝の天才ラインハルト・フォン・ローエングラムですら成し得なかった「魔術師ヤン・ウェンリーの完全包囲」。

 

 それを成し遂げたのは、銀河帝国軍でも、自由惑星同盟軍でもなく、ましてや数十万、数百万の宇宙艦隊ではなく、―――極東の島国に住む3人の「ウマ娘」であった、と。

 

 ヤンがいずれの「官舎」を選択したか。あるいはイゼルローンの如く、各陣営を行き来する「回廊の管理者」として振る舞ったのか。それとも、3人を煙に巻いて「また別の選択肢」を選んだのか。

 

 歴史は、その詳細を記述していない。

 

 ただ一つ、確実なことがあるとするならば。

 

 彼の切望してやまなかった「静かなる年金生活」だけは、この世界においても、ついに「永遠に訪れなかった」という歴史的事実があるのみである。

 

 かくして――。

 

 魔術師の伝説が終わり、

 

 ヤン・ウェンリーの日常が始まる。




(ヤン・ウェンリートレーナーの短編集 結)

【あとがきに代えて】

 歴史とは、不可逆な奔流である。過去への遡行は許されず、一度確定した英雄たちの運命もまた、本来であれば覆ることはない。

 だが、物語という名の無限の海においては、その限りではないようだ。

 今回、筆者である私が試みたのは、一人の「年金生活を夢見る不精者」を、全く異なる物理法則――すなわち「ウマ娘」という情熱の塊のような存在――と衝突させるという実験であった。
 彼がかの地において、軍事力ではなく「トレーナー」としての才覚を発揮し、あろうことかラインハルト陛下とも友誼を結んだという事実は、正史には残らぬ幻影(イリュージョン)であったかもしれない。

 結果として、彼はここでも安息を得ることはできなかったわけだが、彼自身は案外、その「不自由な自由」を楽しんでいたのではないかとも思う。

 人間、適度な労働と、美味い紅茶、そして帰るべき場所があれば、それなりに幸福になれるものだ。

 そしてなにより、本記録の編纂に最後まで付き合ってくれた、忍耐強く、そして知的な読者諸賢に、心からの敬意と感謝を。

 この奇妙な、「ウマ娘プリティーダービー」と「銀河英雄伝説」のクロスオーバーという「イゼルローン回廊」を突破した皆様は、今すぐ各々の好む飲料にて喉を潤し、休息を取られたい。ブランデーでも、紅茶でも、あるいは栄養ドリンクでも構わないのだから。



 それでは、最後にグラスを掲げよう。



 我々が愛する、最も食えない政治体制と―――その首輪に繋がれながらも自由を謳った、ひねくれ者の提督(トレーナー)に。
 
 大地を駆け抜ける、愛すべき疾走者たちに。

 この奇跡の邂逅を可能にした、この世に存在する全ての『物語(コンテンツ)』に。

 そして、この邂逅の場を用意してくれた、我らが『ハーメルン』に。




 ―――乾杯(プロージット)
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