Hymn to King Helios
微睡(まどろ)みは、緩やかな波のように訪れた。
それは、騒がしい祝宴の後のことだったか。
あるいは、穏やかな午後の休息のひとときだったか。
定かなことは、ここがヤン・ウェンリーの愛するソファの上であり、心地よい静寂が満ちていたということだけだ。
意識の輪郭が溶けていく。
過去も、未来も、銀河も、地球も、すべてが暖かな琥珀色の中に混ざり合う。
■
ふと、懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
ブランデーを数滴垂らした、極上の紅茶の香り。
そして、カチャリ、とソーサーを置く、聞き慣れた丁寧な音。
「……やれやれ。随分と賑やかな老後をお過ごしのようですね、提督」
夢現(ゆめうつつ)の視界の中に、人影があった。
逆光で顔は見えない。だが、その声の響きも、呆れたような、それでいて親愛の情に満ちた口調も、ヤンが忘れるはずのないものだった。
「……君か。……いや、誰だったかな。随分と懐かしい気がするが」
「とぼけないでください。……まったく。ここでも『不精者』ぶりは変わらないようで、安心しましたよ」
影は、ヤンの向かいの椅子に腰掛けた。
その姿は、少年のようにも、大人のようにも見える。
窓の外の景色もまた、イゼルローンの星の海にも、府中の夕暮れにも見え、あるいはそのどちらでもないのかもしれない。
「報告があります。……あの後のことです」
影は、静かに語り始めた。
ヤン・ウェンリーがいなくなった後の、銀河の歴史を。
イゼルローン共和政府の奮闘。
カイザー・ラインハルトとの最終決戦。
シヴァ星域会戦での流血。
そして、多くの犠牲の果てに勝ち取った、バーラト星系の自治と、平和への第一歩。
「……そうか。ラインハルト公も、逝ったか」
「ええ。……貴方の望んだ『平和な時代』が、ようやく芽吹こうとしています。……僕たち、頑張りましたよ。本当に」
影の声が、少しだけ震えた気がした。
ヤンは、帽子を目深に被り直し、小さく頷いた。
そして、ふと、悪戯っぽく口元を緩めた。
「そうか……あちらでは、彼は星になったか。……なら、一つ、君が腰を抜かすような報告をしようか」
「はい?」
「ラインハルト・フォン・ローエングラムだがね。……彼もここにいるんだ」
影が、呆気にとられたように固まる気配がした。
「しかも、驚くべきことに、彼は『日本人』として転生していてね。……信じられるかい? 私と彼は、今じゃ良き友人だ。時々会っては、艦隊戦の代わりに、美味いコーヒーと紅茶を飲みながら、下らない議論をしているよ」
「…………ははっ。それは、凄い。……本当に、奇跡みたいな話ですね」
「全くだ。運命というやつは、どうも私の想像の及ばない脚本家らしい」
二人の間に、穏やかな笑い声が響いた。
時空を超えた、二人の魔術師の邂逅。
ひとしきり笑った後、影は居住まいを正した。
「……提督。もう一つだけ、報告があります」
「うん?」
「フレデリカさんのことです」
ヤンの動きが止まった。
帽子に手をやったまま、彼は息を呑んだ。
それは、彼が最も気に掛け、そして最も恐れていた名前だった。
「彼女は……最後まで、立派でした。貴方の意志を継ぎ、民主共和制の指導者として、その生涯を駆け抜けました」
「……そう、か」
ヤンは、深く、深く息を吐いた。
胸の奥に刺さっていた、最後の棘が抜けたような気がした。
「……彼女は、幸せだっただろうか」
「ええ。……きっと」
影は優しく、だが確信を持って告げた。
「貴方がくれた思い出と、貴方が遺した未来と共にありましたから」
ヤンは目元を覆った。言葉にならなかった。
ただ、何度も頷いた。
それが、彼にとって何よりの救済だった。
「……そろそろ、時間です」
影が立ち上がった。
「安心しました。貴方が、そこで幸せそうで」
「……もう行くのか?」
「ええ。あちらには、まだ僕の帰りを待っている人たちがいますから。……それに、貴方にも、貴方の帰りを待つ人たちがいるでしょう?」
影は、ヤンの手元を指差した。
「紅茶、冷めないうちにどうぞ。……貴方の好みの配合にしておきましたから」
「……ああ。ありがとう、ユリ――」
名前を呼ぼうとした瞬間、視界が白く揺らいだ。
■
「…………ん」
ヤンは目を覚ました。明かりの落とされたトレーナー室は静寂に包まれていた。窓の外には、星空が広がっている。部屋には誰もいない。
「……夢、か」
ヤンはソファから身体を起こし、凝り固まった首を回した。あまりにも鮮明で、都合の良い夢だ。自分の深層心理が見せた、泡沫(うたかた)の幻影に過ぎないだろう。
「……妙な夢を見たものだ」
ヤンはポリポリと頭を掻き、いつものように帽子を探して手探りでテーブルに手を伸ばした。
「さて、明日も早い……寮に戻るとしよう」
すると、その指先が、温かい陶器の感触に触れた。
「……え?」
ヤンは動きを止めた。
ローテーブルの上に、湯気を立てるティーカップが一つ、置かれていた。
「……誰か、来たのか?」
ヤンは震える手でカップを取り、香りを嗅いだ。
―――芳醇な茶葉の香りに、ほんのわずかなブランデーの香り。
「………………」
ヤンは周囲を見渡した。
誰もいない。
ただ、ウマ娘の耳のような、あるいは少年の髪のような影が、ドアの隙間からフッと消えたような気がした。
幻想か。あるいは、微睡みが見せた、一夜の奇跡か。
「……まったく」
ヤンは、夜空に向かって、静かにカップを掲げた。
「……これでは、うかつに昼寝もできないな」
魔術師は、穏やかに微笑んだ。
一口すすったその紅茶は、どこまでも温かく、そして少しだけ、塩辛い味がした。
それは、ヤン・ウェンリーの舌と記憶が完全に覚えている、宇宙で一番愛した味だった。
湯気が揺らめき、太陽と、月と、銀河の星々の光に溶けていく。
夢と現(うつつ)の、境界線で。
後世の歴史家は、このひとときの奇跡をいかに定義すべきであろうか。
それが不精な魔術師の見せた一時の幻影であったのか。
あるいは、彼を慕う乙女たちが、途方もない試行錯誤の末に、ついに魔術師の遠い記憶へと『追いついて』みせた愛すべき執念の結晶であったのか。
はたまた、ひたむきな想いが物理法則すら超える、この世界特有の奇跡――時空の彼方から届いた、かつての愛弟子による最後の手向け――であったのか。
真相は、もはや紅茶の湯気の中に消えて久しい。
だが、確かなことが一つだけある。
ヤン・ウェンリーという男は、あの一杯の、少しばかり塩辛い紅茶を飲み干したとき、自らを縛り続けていた「歴史」という名の重力から、ようやく、解き放たれたのだ。
過去への決別、そして愛した者たちが繋いだ未来への確信。
それらを胸に、彼はついに一人の人間として、この平和な時代の眩しさを、心の奥底から享受する許しを得たのである。
……そして、過去のすべてに折り合いをつけた彼は、ふと思い至ったのだ。
この奇妙で、しかし眩いばかりの「休暇」を独りで愉しむには、自分はあまりに不精すぎ、そして――。
『かつての好敵手の不在は、少々寂しすぎる』と。
―――こうして、魔術師は重い腰を上げた。懐に、一枚のパンフレットを忍ばせて。
終幕『皇帝と魔術師』
明日、1200。