ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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カーテンコール、あるいは蛇足
Hymn to King Helios


 微睡(まどろ)みは、緩やかな波のように訪れた。

 

 それは、騒がしい祝宴の後のことだったか。

 

 あるいは、穏やかな午後の休息のひとときだったか。

 

 定かなことは、ここがヤン・ウェンリーの愛するソファの上であり、心地よい静寂が満ちていたということだけだ。

 

 意識の輪郭が溶けていく。

 

 過去も、未来も、銀河も、地球も、すべてが暖かな琥珀色の中に混ざり合う。

 

 

 ふと、懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。

 

 ブランデーを数滴垂らした、極上の紅茶の香り。

 

 そして、カチャリ、とソーサーを置く、聞き慣れた丁寧な音。

 

「……やれやれ。随分と賑やかな老後をお過ごしのようですね、提督」

 

 夢現(ゆめうつつ)の視界の中に、人影があった。

 

 逆光で顔は見えない。だが、その声の響きも、呆れたような、それでいて親愛の情に満ちた口調も、ヤンが忘れるはずのないものだった。

 

「……君か。……いや、誰だったかな。随分と懐かしい気がするが」

 

「とぼけないでください。……まったく。ここでも『不精者』ぶりは変わらないようで、安心しましたよ」

 

 影は、ヤンの向かいの椅子に腰掛けた。

 

 その姿は、少年のようにも、大人のようにも見える。

 

 窓の外の景色もまた、イゼルローンの星の海にも、府中の夕暮れにも見え、あるいはそのどちらでもないのかもしれない。

 

「報告があります。……あの後のことです」

 

 影は、静かに語り始めた。

 

 ヤン・ウェンリーがいなくなった後の、銀河の歴史を。

 

 イゼルローン共和政府の奮闘。

 

 カイザー・ラインハルトとの最終決戦。

 

 シヴァ星域会戦での流血。

 

 そして、多くの犠牲の果てに勝ち取った、バーラト星系の自治と、平和への第一歩。

 

「……そうか。ラインハルト公も、逝ったか」

 

「ええ。……貴方の望んだ『平和な時代』が、ようやく芽吹こうとしています。……僕たち、頑張りましたよ。本当に」

 

 影の声が、少しだけ震えた気がした。

 

 ヤンは、帽子を目深に被り直し、小さく頷いた。

 

 そして、ふと、悪戯っぽく口元を緩めた。

 

「そうか……あちらでは、彼は星になったか。……なら、一つ、君が腰を抜かすような報告をしようか」

 

「はい?」

 

「ラインハルト・フォン・ローエングラムだがね。……彼もここにいるんだ」

 

 影が、呆気にとられたように固まる気配がした。

 

「しかも、驚くべきことに、彼は『日本人』として転生していてね。……信じられるかい? 私と彼は、今じゃ良き友人だ。時々会っては、艦隊戦の代わりに、美味いコーヒーと紅茶を飲みながら、下らない議論をしているよ」

 

「…………ははっ。それは、凄い。……本当に、奇跡みたいな話ですね」

 

「全くだ。運命というやつは、どうも私の想像の及ばない脚本家らしい」

 

 二人の間に、穏やかな笑い声が響いた。

 

 時空を超えた、二人の魔術師の邂逅。

 

 ひとしきり笑った後、影は居住まいを正した。

 

「……提督。もう一つだけ、報告があります」

 

「うん?」

 

「フレデリカさんのことです」

 

 ヤンの動きが止まった。

 

 帽子に手をやったまま、彼は息を呑んだ。

 

 それは、彼が最も気に掛け、そして最も恐れていた名前だった。

 

「彼女は……最後まで、立派でした。貴方の意志を継ぎ、民主共和制の指導者として、その生涯を駆け抜けました」

 

「……そう、か」

 

 ヤンは、深く、深く息を吐いた。

 

 胸の奥に刺さっていた、最後の棘が抜けたような気がした。

 

「……彼女は、幸せだっただろうか」

 

「ええ。……きっと」

 

 影は優しく、だが確信を持って告げた。

 

「貴方がくれた思い出と、貴方が遺した未来と共にありましたから」

 

 ヤンは目元を覆った。言葉にならなかった。

 

 ただ、何度も頷いた。

 

 それが、彼にとって何よりの救済だった。

 

「……そろそろ、時間です」

 

 影が立ち上がった。

 

「安心しました。貴方が、そこで幸せそうで」

 

「……もう行くのか?」

 

「ええ。あちらには、まだ僕の帰りを待っている人たちがいますから。……それに、貴方にも、貴方の帰りを待つ人たちがいるでしょう?」

 

 影は、ヤンの手元を指差した。

 

「紅茶、冷めないうちにどうぞ。……貴方の好みの配合にしておきましたから」

 

「……ああ。ありがとう、ユリ――」

 

 名前を呼ぼうとした瞬間、視界が白く揺らいだ。

 

 

「…………ん」

 

 ヤンは目を覚ました。明かりの落とされたトレーナー室は静寂に包まれていた。窓の外には、星空が広がっている。部屋には誰もいない。

 

「……夢、か」

 

 ヤンはソファから身体を起こし、凝り固まった首を回した。あまりにも鮮明で、都合の良い夢だ。自分の深層心理が見せた、泡沫(うたかた)の幻影に過ぎないだろう。

 

「……妙な夢を見たものだ」

 

 ヤンはポリポリと頭を掻き、いつものように帽子を探して手探りでテーブルに手を伸ばした。

 

「さて、明日も早い……寮に戻るとしよう」

 

 すると、その指先が、温かい陶器の感触に触れた。

 

「……え?」

 

 ヤンは動きを止めた。

 

 ローテーブルの上に、湯気を立てるティーカップが一つ、置かれていた。

 

「……誰か、来たのか?」

 

 ヤンは震える手でカップを取り、香りを嗅いだ。

 

 ―――芳醇な茶葉の香りに、ほんのわずかなブランデーの香り。

 

「………………」

 

 ヤンは周囲を見渡した。

 

 誰もいない。

 

 ただ、ウマ娘の耳のような、あるいは少年の髪のような影が、ドアの隙間からフッと消えたような気がした。

 

 幻想か。あるいは、微睡みが見せた、一夜の奇跡か。

 

「……まったく」

 

 ヤンは、夜空に向かって、静かにカップを掲げた。

 

「……これでは、うかつに昼寝もできないな」

 

 魔術師は、穏やかに微笑んだ。

 

 一口すすったその紅茶は、どこまでも温かく、そして少しだけ、塩辛い味がした。

 

 それは、ヤン・ウェンリーの舌と記憶が完全に覚えている、宇宙で一番愛した味だった。

 

 湯気が揺らめき、太陽と、月と、銀河の星々の光に溶けていく。

 

 夢と現(うつつ)の、境界線で。




 後世の歴史家は、このひとときの奇跡をいかに定義すべきであろうか。

 それが不精な魔術師の見せた一時の幻影であったのか。

 あるいは、彼を慕う乙女たちが、途方もない試行錯誤の末に、ついに魔術師の遠い記憶へと『追いついて』みせた愛すべき執念の結晶であったのか。

 はたまた、ひたむきな想いが物理法則すら超える、この世界特有の奇跡――時空の彼方から届いた、かつての愛弟子による最後の手向け――であったのか。

 真相は、もはや紅茶の湯気の中に消えて久しい。

 だが、確かなことが一つだけある。

 ヤン・ウェンリーという男は、あの一杯の、少しばかり塩辛い紅茶を飲み干したとき、自らを縛り続けていた「歴史」という名の重力から、ようやく、解き放たれたのだ。

 過去への決別、そして愛した者たちが繋いだ未来への確信。

 それらを胸に、彼はついに一人の人間として、この平和な時代の眩しさを、心の奥底から享受する許しを得たのである。

 ……そして、過去のすべてに折り合いをつけた彼は、ふと思い至ったのだ。

 この奇妙で、しかし眩いばかりの「休暇」を独りで愉しむには、自分はあまりに不精すぎ、そして――。


『かつての好敵手の不在は、少々寂しすぎる』と。


 ―――こうして、魔術師は重い腰を上げた。懐に、一枚のパンフレットを忍ばせて。


終幕『皇帝と魔術師』


明日、1200。
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