東京、某所。
洗練されたオープンカフェのテラス席で、二人の男が向かい合っていた。
一人は、黒髪のくたびれた男。もう一人は、日本人の、しかしその佇まいからは隠しきれない覇気とカリスマ性を感じさせる青年だ。
テーブルの上には、指し掛けのチェス盤と、コーヒー、そして紅茶が置かれている。
特にチェスは、ルールこそ2人の知るものであったが、馴染みのないカタチの駒がいくつもあり、特に騎士の駒についてはウマ娘を形取っていた。
「……チェックメイトだ。ヤン・ウェンリー」
青年――ラインハルトが、つまらなそうに駒を弾いた。ヤンの完敗だ。
「参ったな」
ヤンは頭を掻き、ぬるくなった紅茶を啜った。
「精彩を欠くな、ヤン。……貴様、それでも私が宇宙で唯一認めた男か?」
「手厳しいな、ラインハルト。……こちとら、連日の猛特訓と管理生活で、思考回路がショート寸前なんだよ」
「ほう?」
ラインハルトは、面白そうに眼を輝かせた。
「噂は聞いているぞ。……なんでも、貴様の屋敷は今や難攻不落の要塞と化しているそうではないか。数多の乙女たちによる、艶やかな包囲網……。平和な世では、魔術師も形無しだな」
「茶化さないでくれ。……あれは包囲網なんて生易しいものじゃない。十字砲火(クロスファイア)だ。私は毎日、物理的にも精神的にも逃げ場がないんだよ」
ヤンが心底うんざりした様子でボヤくと、ラインハルトは喉を鳴らして笑った。
「ククク……ハハハハハ! 傑作だ! イゼルローンを無血で落とした魔術師が、平和な世では少女たちに手も足も出ないとは! ……平和とは、実に残酷なものだな」
「笑い事じゃないさ。……毎日が緊急事態なんだ」
「だが、自業自得ではないか? 以前、酒の席で貴様自身がこぼしていたろう。『私は奥手で、副官への求婚には何年もかかった』とな」
「……私が、そんなことを?」
「言ったさ。『それに比べて君は、一夜の契りを即座に正妃への道へと繋げた。……その決断の速さが羨ましいよ』とな。あの時の貴様の情けない顔は、よく覚えているぞ」
ラインハルトは、チェスの盤面――追い詰められた王(キング)――を指先でコツンと叩いた。
「学習しない男だ。貴様がそうやって決断を先延ばしにし、煮え切らない態度を取り続けるから……彼女たちも強硬手段(包囲)に出るしかなかったのだろう?」
ラインハルトの容赦ない追撃に、ヤンはぐうの音も出ずに、ただ虚空を仰いだ。
「戦場の鉄則だぞ、ヤン。主導権を放棄した指揮官は、包囲殲滅される運命にあるとな」
「勘弁してくれラインハルト。頼むからこれ以上、敗将を追撃しないでくれよ」
敗将の嘆き。だが、その響きには奇妙な安らぎが満ちていた。
かつて数万光年の彼方で、互いの首を狙い、銀河の覇権を争った二人の英雄。だが、干戈(かんか)を交えた者同士にしか分からぬ共感というものが、世の中には存在するらしい。
歴史家が知れば卒倒しかねないこの光景こそ、運命という名の三流脚本家が用意した、最大の皮肉であり、また最高の粋な計らいなのかもしれなかった。
■
「私の話はもういいだろう。で、……君こそどうなんだ? 若き天才実業家として、世界を相手に覇道を突き進んでいるんだろう? 浮いた話の一つや二つ」
「ああ、ないわけではない。だが、その件についてはまた酒の席でな、ヤン」
そう言って、ラインハルトはふっと笑いを収め、顔を曇らせた。
「……しかし、この世界のビジネスとやらは、私にとっては数字遊び(ゲーム)以下だ。そこに思想も、芸術もない。……あまりに俗悪で、退屈ですらある」
彼はコーヒーカップを見つめ、溜息をついた。その横顔には、かつて銀河を統べた覇者ゆえの、深い孤独と倦怠が滲んでいる。
ヤンは少し考え込み――やがて、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「……それなら、うってつけの場所がある」
ヤンは、懐から一枚のパンフレットを取り出し、テーブルの上を滑らせた。そこに書かれているのは、『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』の文字。
「……なんだ、これは?」
「君も、どうせ暇なら……トレセン学園に『トレーナー』としてくればいい」
ヤンは、かつての好敵手の目を真っ直ぐに見据えた。
「あそこはいいぞ。理屈が通じない猛獣や、君以上の天才や、常識外れの怪物がひしめいている。……退屈なんて言葉は、三日で忘れるだろうさ」
「……ほう」
「それに、君のその冷徹なまでの知略と、カリスマ性。……間違いなく、最高のトレーナーになれる」
ラインハルトが、パンフレットを手に取った。その瞳に、久しぶりに見る「野心」の光が宿る。
「……私に、あのような少女たちの指南役になれと?」
「不服かい? ……言っておくが、覚悟した方がいいぞ」
ヤンは、カップに残った紅茶を飲み干し、一瞬だけ、遠い目をした。
―――それは、かつて数多の命を宇宙の塵へと変えた、あの忌まわしい閃光を、今なお網膜の裏に見つめているかのような瞳だった。
「彼女たちの走りは……理屈じゃない。例えるなら、光だ」
「光?」
「ああ。……ターフという名の戦場に立つ彼女たちは、一切の妥協も、大人の政治的な打算も持たない。ただひたすらに、己の魂を削るようにして前へと突き進む」
ヤンはそこで言葉を区切り、ひどく疲れたような、それでいて抗いがたい熱を帯びた吐息を漏らした。
「特に、自分が担当し、手塩にかけたウマ娘が限界を超えて懸命に走るその姿……。あれはいけない。一度見たら、永遠に網膜に焼き付いてしまって離れないんだ。例えるならば……」
ヤンは言葉に詰まる。なぜなら、彼は、その光を表現する術を持たないからだ。
(何に例えればいい? 夜空を彩る流星雨か? 超新星の輝きか?―――いや、そんな受動的な天体現象と一緒にすべきではない。彼女たちは己の意志で命を燃やしているのだ。では、歴史に名を残す偉大な芸術がもたらす感動か? ……違う。そんな上品で静謐なものではない。もっと直接的で、暴力的で、見る者の理性を有無を言わさず蒸発させるような、絶対的で抗いがたい光をどう表現する)
ヤンは、かつて歴史家を志した己の引き出しから、何かふさわしい、平和で美しい言葉を探そうとする。だが、駄目だった。彼の血生臭い半生がそれを許さなかったのだ。どれほど思考を巡らせても、脳裏に浮かび上がってくるのは、悲しいかな、たった一つの情景だけだった。
「……まるで、至近距離で炸裂した『雷槌(トールハンマー)』だ」
ヤンは自嘲気味に笑い、首を振った。
「軍事の歴史しか知らない私の、貧困な語彙では……それしか思い浮かばない。だが、その衝撃は比喩じゃない。本当に、直撃を生身で食らったかのような錯覚に陥る」
魔術師の、挑発的で、どこか狂気すら孕んだ警告。
「熱狂という名の奔流に、『ウマ娘』に、
ラインハルトは少しの間、呆気にとられていたが――やがて、その唇に、獰猛で、かつ純粋な好奇心の笑みを浮かべた。
「……脳を焼く、閃光か。……卿ほどの男が、そう、言い切るのだな」
彼は楽しそうに立ち上がり、パンフレットを懐にしまった。
「いいだろう」
そして、盤上で倒されていた『王(キング)の駒』を拾い上げ、カツン、と中央に立て直した。
「ヤン・ウェンリー。その挑発、乗ってやる。『ウマ娘』とやらが、私が全霊を懸けるに足る光か……見定めてやろう」
ヤンは静かに笑い、盤上の『騎士(ナイト)』の駒を一つ指で摘み上げ――
「ああ。……せいぜい、大火傷しないように祈ってるよ」
そのまま、ラインハルトが立てた王の眼前へと、ことり、と置いた。
「――ようこそ。ラインハルト・フォン・ローエングラム」
それは、かつて銀河を揺るがした二人の英雄が、新たな「戦場」で再び相まみえることを告げる、静かなる開戦の合図だった。
「戦術も、戦略も、理屈すらも通用しない。――逃げ場のない、熱狂へ」
午後の柔らかな日差しの中で、二人の間に流れる静かな熱気だけが、東京の空へと溶けていく。
彼らの戦いの日々は、形を変え、新たな歴史を刻み始めたようだ。
―――後世の歴史家は、この奇妙な年代記(クロニクル)をいかに評価すべきであろうか。
数万光年の彼方で銀河を二分した英雄たちが、極東の島国で少女たちの駆ける姿に一喜一憂し、あまつさえ色恋沙汰による「包囲網」に頭を抱えるなどという記述は。
正統な歴史書であれば、一笑に付されるか、あるいは異端の偽書として、焚書の憂き目に遭うのが関の山であろう。
だが、血と硝煙に塗れた星の海ではなく、ターフの匂いが風に舞うこの世界で、彼らが確かに息づき、悩み、そして笑っていたのだとしたら――――。
銀河の歴史が、また1ページ