新帝国暦ならぬ、西暦の春。
中央(トレセン学園)の空は、今日も分厚い雲に覆われているように、ラインハルト・フォン・ローエングラムの瞳には映っていた。
無論、気象学的な話ではない。この巨大な組織を支配する、旧態依然とした空気の淀みのことである。
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学園の最上層に位置する大会議室。そこに並ぶ豪奢な革張りの椅子には、日本ウマ娘界の重鎮たちがふんぞり返り、退屈な議論を空転させていた。
「――やはり、今年のクラシック戦線はメジロ家の令嬢を中心に回るでしょう。あの家の伝統や血統には、長距離の適性が約束されている」
「シンボリの系譜も外せませんな。伝統ある名家の指導を受けてきた彼女たちこそ、学園の秩序(オーダー)を守るに相応しい」
「いかにも。……地方から移籍を希望する者もおりますが、所詮は砂遊びの延長。中央の芝(ターフ)という檜舞台には、優美さが欠けている」
血統。伝統。格式。飛び交う言葉の数々は、まるで博物館の陳列棚から引っ張り出してきたかのような、古色蒼然とした価値観ばかりであった。
ラインハルトは、無造作に組んだ足先を苛立たしげに揺らし、冷ややかな視線を天井に向けていた。
かつて銀河を統一した覇者は今、奇妙な運命の悪戯により、この学園の「特別招聘トレーナー」という職に就いていた。だが、彼の日本人としての仮面の下にある知性は、この場の欺瞞を見抜き、激しい嫌悪感を抱いていた。
(……ここも同じか)
彼が最も憎むもの。それは、実力を伴わない特権階級であり、努力なき者が血筋だけであぐらをかく「門閥貴族」がごとき精神性である。この学園にはびこるエリート主義は、かつて彼が打倒し、葬り去ったゴールデンバウム王朝の悪臭を、嫌というほど思い出させた。
(才能とは、血の中に流れるものではない。魂の飢えの中にこそ宿るものだというのに。……どいつもこいつも、飼い慣らされた家畜のような眼をしている)
ラインハルトは立ち上がった。これ以上、この老害たちの妄言を聞いていれば、自分の精神まで腐り落ちてしまいそうだったからだ。
「おい、
理事の一人が、咎めるような声を上げた。ラインハルトは振り返りもせず、肩越しに、絶対零度の視線を投げつけた。
「用を思い出したのでな。……貴様らはせいぜい、血統書という名の枯れ木に水をやり続けるがいい。枯れ木に花は咲かんが、暇潰しにはなるだろう」
「なっ……貴様!」
「失礼する」
罵声を背に受けながら、ラインハルトは扉を開け放ち、会議室を後にした。その足取りは優雅であったが、胸の奥では、行き場のない苛立ちがマグマのように渦巻いていた。
■
廊下に出ると、ポケットの中で端末が振動した。差出人は『Y.W』――ヤン・ウェンリー。彼をこの世界に招き入れた張本人であり、現在は隠居生活と言う名の籠城戦を決め込んでいる、ターフの魔術師である。
『やあ。会議を脱走したそうだね? 早速、理事長から苦情のメールが届いたよ。「衝撃!! 君の紹介した男は、爆薬庫か何かか!?」とね』
ラインハルトは鼻を鳴らし、画面に指を走らせた。
『貴様こそ、私を謀ったな、ヤン。ここにあるのは「熱狂」などではない。私が最も嫌悪する「停滞」だ。……これならまだ、オーベルシュタインの小言を聞いている方がマシだったぞ』
即座に返信が来る。
『おやおや。……まあ、落ち着きたまえ。私は言ったはずだよ。「退屈なんて言葉は三日で忘れる」とね。君は今、どこを見ている? 綺麗に整備された花壇(ターフ)ばかり見ていないかい?』
ラインハルトは眉をひそめた。
『どういう意味だ』
『ダイヤモンドの原石というのは、得てしてショーケースの中にはないものさ。……もっと泥臭く、錆びついた場所。辺境の星々を見上げるように、視線を下げてみるといい。個人的なお勧めは……カサマツだ』
辺境。カサマツ。
その言葉に、ラインハルトの足が止まった。
(この学園、中央こそが『ウマ娘』の世界の全てだと錯覚していたが、確かに、その外側には広大な「未開拓領域」が広がっている。かつて、私も、貧しい下級貴族として蔑まれながら、姉と二人、辺境の星空を見上げていたではないか)
「……泥臭い場所、か」
ラインハルトは端末をしまい、進路を変えた。
向かう先は、駐車場。彼は無意識のうちに求めていたのかもしれない。洗練されたエリートたちが決して足を踏み入れない、血と汗と鉄の匂いがする、荒涼とした戦場を。
■
岐阜県、笠松。
木曽川のほとりに位置するその場所は、ラインハルトの知る「中央」の華やかさとは、対極にある光景だった。錆びついた鉄骨。塗装の剥げたスタンド。風に乗って漂うのは、手入れの行き届いた芝の香りではなく、川砂の乾いた匂いと、家畜の気配、そして煮込み料理の安っぽい湯気だけだ。
(……フン。俗悪な場所だ)
カサマツ・トレーニングセンター。
地方のウマ娘たちが研鑽を積むその施設を訪れたラインハルトは、仕立ての良いスーツに砂埃がつかないよう軽く払いながら、顔をしかめた。だが、なぜか不思議と不快な気分にはならない。少なくとも、あの会議室に充満していたカビ臭い偽善よりは、ここの空気の方がよほど正直で、生気に満ちている。
(ここは、生きるために走る者たちの世界だ。勝利だけが明日の糧となり、敗北はすなわち飢えを意味するのだろう)
その、単純明快な弱肉強食の理(ことわり)が、ラインハルトの肌には馴染んだようだ。
そして今日は、デビュー前の訓練生たちによる模擬レースが行われるという。ラインハルトは関係者席のパイプ椅子には座らず、コース脇のフェンス沿いに立った。
『最前線で戦況を見極める』
それが、彼なりの流儀だった。目の前のスタートラインに、訓練生たちが一列に並ぶ。
彼女たちの装いは、もちろん、煌びやかな勝負服などではない。使い古されたジャージ、体操着、まちまちだ。シューズも泥にまみれ、色あせている。だが、その瞳だけは、ギラギラとした光を宿している。
(……悪くない)
ラインハルトは腕を組み、冷徹な観察者の眼差しを向けた。そして。
合図の瞬間。
砂煙と共に、十数名の少女たちが飛び出した。ダート(砂)コース特有の、重く、鈍い衝撃音が地面を揺らす。
■
レースは混戦だった。中央のエリートたちのような洗練されたフォームで走るウマ娘はいない。だが誰もが必死に腕を振り、髪を振り乱し、泥を跳ね上げながら、ただ「前」を目指してもがいている。それは競技(スポーツ)というよりは、生存競争に近い。
だが。ラインハルトの慧眼は、その混戦の中にあって、ただ一点――奇妙なほどに存在感のない、「灰色」の影に釘付けになった。
それは、集団の後方に位置していた。
一際古びた、膝に継ぎ接ぎのある白いジャージ。ボサボサの芦毛の髪は手入れされておらず、顔には泥がついている。一見すれば、その他大勢の有象無象に過ぎない。
だが、その走りはどうだ。
ラインハルトは思わず息を呑んだ。彼女の周囲だけ、空気が歪んでいるように見えたからだ。
地面を蹴る、という表現は生温い。彼女の一歩は、地面を「食らって」いる。重心を極限まで低くし、地を這うような姿勢で、空間そのものを咀嚼し、嚥下しながら進んでいるかのような、異様な推進力だった。
第3コーナー。
灰色の影が動いた。外側から、強引にまくり上げていく。前の走者が蹴り上げる砂の塊をまともに浴びながら、彼女は瞬き一つせず、怯むどころか、さらに加速した。
(あのウマ娘は、――違う)
これは「走り」ではない。これは「捕食」だ。
前を行く獲物(ライバル)の背中を、その視線だけで射抜き、喉笛を食いちぎり、勝利という名の肉を貪り食わんとする、純粋で、凶暴な飢餓感。そこに、血統の良し悪しや、戦術の巧拙などという理屈が入り込む隙はない。
ただ、「速い」という一点のみが、彼女を怪物たらしめている。
彼女が通過した背後には、ペンペン草一本残らないのではないか。そう錯覚させるほどの、圧倒的な略奪だった。
「――行けッ!!」
気がつけば、ラインハルトは叫んでいた。自分でも信じられないほど、熱く、昂った声で。周囲の観客たちの怒号にかき消されそうなその声は、しかし、確実に彼の魂からの慟哭だった。
灰色の怪物が、最終直線で先頭に立つ。もはや、他の追随を許さない。圧倒的な、あまりにも圧倒的な大差。
そして、怪物がゴール板を駆け抜けた瞬間、ラインハルトの視界が白く染まった。ドクン、と心臓が跳ねる。全身の血が逆流し、脳髄が痺れるような感覚がつま先から脳天まで突き抜ける。
「――ああ、これだ」
(私が求めていたものは、これだったのだ。綺麗に整地された花壇で咲く薔薇ではない。泥水をすすり、嵐に耐え、それでも天を衝かんと伸びる、この強靭な雑草の生命力こそが―――)
ラインハルトは見ていた。その灰色のウマ娘の、泥だらけのジャージ姿に――。かつて、自分と共に夢を追いかけ、そして失われた、あの赤毛の親友の面影を。そして、彼自身が置き忘れてきた、あの頃の「飢え」を。
「……見つけたぞ」
ラインハルトは、震える手でフェンスを叩いた。その唇には、長く忘れていた、野心に満ちた獰猛な笑みが浮かんでいた。
■
模擬レース終了後の、コース脇。
そこは、熱狂から一転し、静寂に包まれていた。走り終えた訓練生たちが肩で息をする中、ラインハルトは迷うことなく、一人の少女のもとへと歩み寄った。
コンクリートの壁に背を預け、荒い息を吐いている灰色のウマ娘。
近くで見ると、そのジャージの傷み具合は一層酷かった。膝には擦り傷があり、頬には泥がついている。だが、その芦毛の髪の間から覗く瞳は、水晶のように澄み渡り、そして――底知れぬ空腹を訴えていた。
ラインハルトは、彼女の前に立ち塞がった。
「……見事な走りだった」
ウマ娘が顔を上げる。きょとんとした、あどけない表情。先ほどまでの、空間をねじ曲げるような鬼神のごとき走りが嘘のような静けさだ。
「……だれだ?」
「ラインハルト・フォン・ローエングラムだ。……貴様、名は?」
「……オグリキャップ」
オグリキャップ。
ラインハルトはその名を、舌の上で転がすように反芻した。飾り気はないが、質実剛健な響きだ。
「オグリキャップ。……単刀直入に言おう。私と共に来い」
ラインハルトは、彼女を見下ろし、厳かに告げた。まるで、全宇宙を手に入れるための契約を交わすかのように。
「このような辺境の泥道は、貴様の脚には狭すぎる。私が貴様を、中央へ……いや、天の頂(いただき)へと連れて行ってやる」
オグリキャップは首を傾げた。
「……中央?」
「そうだ。そこには、貴様よりも速いと
ラインハルトは手を差し伸べた。
――この手を取れば、彼女の運命は変わる。カサマツでのデビューを待たずして、彼女は一足飛びに修羅の道へと足を踏み入れることになる。そして同時に、ラインハルト自身の退屈な日々も終わりを告げるだろう。
オグリキャップは、じっとその手を見つめ――やがて、お腹を「ぐうぅ」と盛大に鳴らした。
「……あっちに行けば、ご飯を、いっぱい食べられるだろうか?」
「……は?」
予想外の問いに、ラインハルトは一瞬、虚を突かれた顔をした。
(覇道でも、名誉でもなく、飯か)
だが、次の瞬間、彼は悟った。そのあまりに動物的で、純粋な生存本能こそが、彼女のあの「捕食」のような走りの源泉なのだと。ラインハルトは、可笑しさを堪えきれずに吹き出した。
「ククク……ハハハハハ! 飯、か! いいだろう!」
彼は上機嫌に、胸を張って断言した。
「約束しよう! 私が貴様のトレーナーになった暁には、貴様の腹がはち切れんばかりの食事を用意してやる。……全宇宙の糧を奪ってでもな!」
「……ほんとうか?」
「ああ。ローエングラムの名にかけて誓おう。私の辞書に、嘘と節制という言葉はない」
オグリキャップの瞳が、パァッと輝いた。それは、レースの時以上かもしれない、強烈な光だった。
「……わかった。行く」
彼女は、泥だらけの手で、ラインハルトの手をしっかりと握り返した。
その手は小さく、しかし驚くほど力強かった。熱い血が通っている。生きている。
(そうだ。私は、これを欲していたのだ。感謝するぞ、ヤン・ウェンリー)
ラインハルトは、その手を強く握りしめた。泥と汗が混じり合った感触が、黄金の獅子に「生」の実感を与えていた。
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西暦の春。
笠松の片隅で交わされた、この小さな契約。それがやがて、中央の権威主義を根底から覆し、日本ウマ娘史に新たな伝説を刻むことになる「灰色の怪物」の快進撃の始まりであった。
後世の歴史家は記すだろう。
この日、新しい世界で、黄金の獅子は新たな牙を得た。
再び――、覇道への第一歩を踏み出したのである、と。