ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

86 / 86
黄金の退屈、あるいは灰色の衝撃

 新帝国暦ならぬ、西暦の春。

 

 中央(トレセン学園)の空は、今日も分厚い雲に覆われているように、ラインハルト・フォン・ローエングラムの瞳には映っていた。

 

 無論、気象学的な話ではない。この巨大な組織を支配する、旧態依然とした空気の淀みのことである。

 

 

 学園の最上層に位置する大会議室。そこに並ぶ豪奢な革張りの椅子には、日本ウマ娘界の重鎮たちがふんぞり返り、退屈な議論を空転させていた。

 

「――やはり、今年のクラシック戦線はメジロ家の令嬢を中心に回るでしょう。あの家の伝統や血統には、長距離の適性が約束されている」

「シンボリの系譜も外せませんな。伝統ある名家の指導を受けてきた彼女たちこそ、学園の秩序(オーダー)を守るに相応しい」

「いかにも。……地方から移籍を希望する者もおりますが、所詮は砂遊びの延長。中央の芝(ターフ)という檜舞台には、優美さが欠けている」

 

 血統。伝統。格式。飛び交う言葉の数々は、まるで博物館の陳列棚から引っ張り出してきたかのような、古色蒼然とした価値観ばかりであった。

 

 ラインハルトは、無造作に組んだ足先を苛立たしげに揺らし、冷ややかな視線を天井に向けていた。

 

 かつて銀河を統一した覇者は今、奇妙な運命の悪戯により、この学園の「特別招聘トレーナー」という職に就いていた。だが、彼の日本人としての仮面の下にある知性は、この場の欺瞞を見抜き、激しい嫌悪感を抱いていた。

 

(……ここも同じか)

 

 彼が最も憎むもの。それは、実力を伴わない特権階級であり、努力なき者が血筋だけであぐらをかく「門閥貴族」がごとき精神性である。この学園にはびこるエリート主義は、かつて彼が打倒し、葬り去ったゴールデンバウム王朝の悪臭を、嫌というほど思い出させた。

 

(才能とは、血の中に流れるものではない。魂の飢えの中にこそ宿るものだというのに。……どいつもこいつも、飼い慣らされた家畜のような眼をしている)

 

 ラインハルトは立ち上がった。これ以上、この老害たちの妄言を聞いていれば、自分の精神まで腐り落ちてしまいそうだったからだ。

 

「おい、()()()()君。どこへ行くつもりだ? 会議はまだ終わっていないぞ」

 

 理事の一人が、咎めるような声を上げた。ラインハルトは振り返りもせず、肩越しに、絶対零度の視線を投げつけた。

 

「用を思い出したのでな。……貴様らはせいぜい、血統書という名の枯れ木に水をやり続けるがいい。枯れ木に花は咲かんが、暇潰しにはなるだろう」

「なっ……貴様!」

「失礼する」

 

 罵声を背に受けながら、ラインハルトは扉を開け放ち、会議室を後にした。その足取りは優雅であったが、胸の奥では、行き場のない苛立ちがマグマのように渦巻いていた。

 

 

 廊下に出ると、ポケットの中で端末が振動した。差出人は『Y.W』――ヤン・ウェンリー。彼をこの世界に招き入れた張本人であり、現在は隠居生活と言う名の籠城戦を決め込んでいる、ターフの魔術師である。

 

『やあ。会議を脱走したそうだね? 早速、理事長から苦情のメールが届いたよ。「衝撃!! 君の紹介した男は、爆薬庫か何かか!?」とね』

 

 ラインハルトは鼻を鳴らし、画面に指を走らせた。

 

『貴様こそ、私を謀ったな、ヤン。ここにあるのは「熱狂」などではない。私が最も嫌悪する「停滞」だ。……これならまだ、オーベルシュタインの小言を聞いている方がマシだったぞ』

 

 即座に返信が来る。

 

『おやおや。……まあ、落ち着きたまえ。私は言ったはずだよ。「退屈なんて言葉は三日で忘れる」とね。君は今、どこを見ている? 綺麗に整備された花壇(ターフ)ばかり見ていないかい?』

 

 ラインハルトは眉をひそめた。

 

『どういう意味だ』

 

『ダイヤモンドの原石というのは、得てしてショーケースの中にはないものさ。……もっと泥臭く、錆びついた場所。辺境の星々を見上げるように、視線を下げてみるといい。個人的なお勧めは……カサマツだ』

 

 辺境。カサマツ。

 

 その言葉に、ラインハルトの足が止まった。

 

(この学園、中央こそが『ウマ娘』の世界の全てだと錯覚していたが、確かに、その外側には広大な「未開拓領域」が広がっている。かつて、私も、貧しい下級貴族として蔑まれながら、姉と二人、辺境の星空を見上げていたではないか)

 

「……泥臭い場所、か」

 

 ラインハルトは端末をしまい、進路を変えた。

 

 向かう先は、駐車場。彼は無意識のうちに求めていたのかもしれない。洗練されたエリートたちが決して足を踏み入れない、血と汗と鉄の匂いがする、荒涼とした戦場を。

 

 

 岐阜県、笠松。

 

 木曽川のほとりに位置するその場所は、ラインハルトの知る「中央」の華やかさとは、対極にある光景だった。錆びついた鉄骨。塗装の剥げたスタンド。風に乗って漂うのは、手入れの行き届いた芝の香りではなく、川砂の乾いた匂いと、家畜の気配、そして煮込み料理の安っぽい湯気だけだ。

 

(……フン。俗悪な場所だ)

 

 カサマツ・トレーニングセンター。

 

 地方のウマ娘たちが研鑽を積むその施設を訪れたラインハルトは、仕立ての良いスーツに砂埃がつかないよう軽く払いながら、顔をしかめた。だが、なぜか不思議と不快な気分にはならない。少なくとも、あの会議室に充満していたカビ臭い偽善よりは、ここの空気の方がよほど正直で、生気に満ちている。

 

(ここは、生きるために走る者たちの世界だ。勝利だけが明日の糧となり、敗北はすなわち飢えを意味するのだろう)

 

 その、単純明快な弱肉強食の理(ことわり)が、ラインハルトの肌には馴染んだようだ。

 

 そして今日は、デビュー前の訓練生たちによる模擬レースが行われるという。ラインハルトは関係者席のパイプ椅子には座らず、コース脇のフェンス沿いに立った。

 

『最前線で戦況を見極める』

 

 それが、彼なりの流儀だった。目の前のスタートラインに、訓練生たちが一列に並ぶ。

 

 彼女たちの装いは、もちろん、煌びやかな勝負服などではない。使い古されたジャージ、体操着、まちまちだ。シューズも泥にまみれ、色あせている。だが、その瞳だけは、ギラギラとした光を宿している。

 

(……悪くない)

 

 ラインハルトは腕を組み、冷徹な観察者の眼差しを向けた。そして。

 

 合図の瞬間。

 

 砂煙と共に、十数名の少女たちが飛び出した。ダート(砂)コース特有の、重く、鈍い衝撃音が地面を揺らす。

 

 

 レースは混戦だった。中央のエリートたちのような洗練されたフォームで走るウマ娘はいない。だが誰もが必死に腕を振り、髪を振り乱し、泥を跳ね上げながら、ただ「前」を目指してもがいている。それは競技(スポーツ)というよりは、生存競争に近い。

 

 だが。ラインハルトの慧眼は、その混戦の中にあって、ただ一点――奇妙なほどに存在感のない、「灰色」の影に釘付けになった。

 

 それは、集団の後方に位置していた。

 

 一際古びた、膝に継ぎ接ぎのある白いジャージ。ボサボサの芦毛の髪は手入れされておらず、顔には泥がついている。一見すれば、その他大勢の有象無象に過ぎない。

 

 だが、その走りはどうだ。

 

 ラインハルトは思わず息を呑んだ。彼女の周囲だけ、空気が歪んでいるように見えたからだ。

 

 地面を蹴る、という表現は生温い。彼女の一歩は、地面を「食らって」いる。重心を極限まで低くし、地を這うような姿勢で、空間そのものを咀嚼し、嚥下しながら進んでいるかのような、異様な推進力だった。

 

 第3コーナー。

 

 灰色の影が動いた。外側から、強引にまくり上げていく。前の走者が蹴り上げる砂の塊をまともに浴びながら、彼女は瞬き一つせず、怯むどころか、さらに加速した。

 

(あのウマ娘は、――違う)

 

 これは「走り」ではない。これは「捕食」だ。

 

 前を行く獲物(ライバル)の背中を、その視線だけで射抜き、喉笛を食いちぎり、勝利という名の肉を貪り食わんとする、純粋で、凶暴な飢餓感。そこに、血統の良し悪しや、戦術の巧拙などという理屈が入り込む隙はない。

 

 ただ、「速い」という一点のみが、彼女を怪物たらしめている。

 

 彼女が通過した背後には、ペンペン草一本残らないのではないか。そう錯覚させるほどの、圧倒的な略奪だった。

 

「――行けッ!!」

 

 気がつけば、ラインハルトは叫んでいた。自分でも信じられないほど、熱く、昂った声で。周囲の観客たちの怒号にかき消されそうなその声は、しかし、確実に彼の魂からの慟哭だった。

 

 灰色の怪物が、最終直線で先頭に立つ。もはや、他の追随を許さない。圧倒的な、あまりにも圧倒的な大差。

 

 そして、怪物がゴール板を駆け抜けた瞬間、ラインハルトの視界が白く染まった。ドクン、と心臓が跳ねる。全身の血が逆流し、脳髄が痺れるような感覚がつま先から脳天まで突き抜ける。

 

「――ああ、これだ」

 

(私が求めていたものは、これだったのだ。綺麗に整地された花壇で咲く薔薇ではない。泥水をすすり、嵐に耐え、それでも天を衝かんと伸びる、この強靭な雑草の生命力こそが―――)

 

 ラインハルトは見ていた。その灰色のウマ娘の、泥だらけのジャージ姿に――。かつて、自分と共に夢を追いかけ、そして失われた、あの赤毛の親友の面影を。そして、彼自身が置き忘れてきた、あの頃の「飢え」を。

 

「……見つけたぞ」

 

 ラインハルトは、震える手でフェンスを叩いた。その唇には、長く忘れていた、野心に満ちた獰猛な笑みが浮かんでいた。

 

 

 模擬レース終了後の、コース脇。

 

 そこは、熱狂から一転し、静寂に包まれていた。走り終えた訓練生たちが肩で息をする中、ラインハルトは迷うことなく、一人の少女のもとへと歩み寄った。

 

 コンクリートの壁に背を預け、荒い息を吐いている灰色のウマ娘。

 

 近くで見ると、そのジャージの傷み具合は一層酷かった。膝には擦り傷があり、頬には泥がついている。だが、その芦毛の髪の間から覗く瞳は、水晶のように澄み渡り、そして――底知れぬ空腹を訴えていた。

 

 ラインハルトは、彼女の前に立ち塞がった。

 

「……見事な走りだった」

 

 ウマ娘が顔を上げる。きょとんとした、あどけない表情。先ほどまでの、空間をねじ曲げるような鬼神のごとき走りが嘘のような静けさだ。

 

「……だれだ?」

「ラインハルト・フォン・ローエングラムだ。……貴様、名は?」

「……オグリキャップ」

 

 オグリキャップ。

 

 ラインハルトはその名を、舌の上で転がすように反芻した。飾り気はないが、質実剛健な響きだ。

 

「オグリキャップ。……単刀直入に言おう。私と共に来い」

 

 ラインハルトは、彼女を見下ろし、厳かに告げた。まるで、全宇宙を手に入れるための契約を交わすかのように。

 

「このような辺境の泥道は、貴様の脚には狭すぎる。私が貴様を、中央へ……いや、天の頂(いただき)へと連れて行ってやる」

 

 オグリキャップは首を傾げた。

 

「……中央?」

 

「そうだ。そこには、貴様よりも速いと()()()強敵がひしめいている。整えられた芝の上で、温室育ちのエリートたちが、貴様のような『異物』を待っているのだ。……どうだ? 喰らい尽くしてみたいとは思わんか?」

 

 ラインハルトは手を差し伸べた。

 

 ――この手を取れば、彼女の運命は変わる。カサマツでのデビューを待たずして、彼女は一足飛びに修羅の道へと足を踏み入れることになる。そして同時に、ラインハルト自身の退屈な日々も終わりを告げるだろう。

 

 オグリキャップは、じっとその手を見つめ――やがて、お腹を「ぐうぅ」と盛大に鳴らした。

 

「……あっちに行けば、ご飯を、いっぱい食べられるだろうか?」

「……は?」

 

 予想外の問いに、ラインハルトは一瞬、虚を突かれた顔をした。

 

(覇道でも、名誉でもなく、飯か)

 

 だが、次の瞬間、彼は悟った。そのあまりに動物的で、純粋な生存本能こそが、彼女のあの「捕食」のような走りの源泉なのだと。ラインハルトは、可笑しさを堪えきれずに吹き出した。

 

「ククク……ハハハハハ! 飯、か! いいだろう!」

 

 彼は上機嫌に、胸を張って断言した。

 

「約束しよう! 私が貴様のトレーナーになった暁には、貴様の腹がはち切れんばかりの食事を用意してやる。……全宇宙の糧を奪ってでもな!」

「……ほんとうか?」

「ああ。ローエングラムの名にかけて誓おう。私の辞書に、嘘と節制という言葉はない」

 

 オグリキャップの瞳が、パァッと輝いた。それは、レースの時以上かもしれない、強烈な光だった。

 

「……わかった。行く」

 

 彼女は、泥だらけの手で、ラインハルトの手をしっかりと握り返した。

 

 その手は小さく、しかし驚くほど力強かった。熱い血が通っている。生きている。

 

(そうだ。私は、これを欲していたのだ。感謝するぞ、ヤン・ウェンリー)

 

 ラインハルトは、その手を強く握りしめた。泥と汗が混じり合った感触が、黄金の獅子に「生」の実感を与えていた。

 

 

 西暦の春。

 

 笠松の片隅で交わされた、この小さな契約。それがやがて、中央の権威主義を根底から覆し、日本ウマ娘史に新たな伝説を刻むことになる「灰色の怪物」の快進撃の始まりであった。

 

 後世の歴史家は記すだろう。

 

 この日、新しい世界で、黄金の獅子は新たな牙を得た。

 

 再び――、覇道への第一歩を踏み出したのである、と。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

地方トレセンを舐めるなよ!(作者:鼻毛王)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

▼才能に溢れすぎた、一人のウマ娘。▼地方トレセンの一つ、笠松トレセンの再興に助力し、中央一強体制を崩しにかかる。▼『中央のウマ娘の方が強い』▼そんな常識を叩き壊すお話。▼*シンデレラグレイに触発されて執筆した作品です。▼


総合評価:3156/評価:8.51/連載:48話/更新日時:2026年04月16日(木) 18:00 小説情報

その瞳に勝利を(作者:カニ漁船)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

「わたしは勝つわ、トレーナー!」▼「頑張って支えるよ」


総合評価:2792/評価:8.83/完結:74話/更新日時:2026年05月14日(木) 23:00 小説情報

TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

「間違っちゃって、ごめんね」▼ 理不尽な三女神の手違いにより、前世サラリーマンの記憶を持つTS転生ウマ娘として目覚めた主人公、ロールフィヨルテ。競争馬の魂を継げず、虚弱な体しか持たない彼女に、三女神が与えたのは「歴代競走馬の運命と能力を借りる」という規格外のチート能力、『非存在の血統(Blood of null)』だった。▼ただし、問題が一つ。幼い彼女の脆弱…


総合評価:5210/評価:7.27/完結:79話/更新日時:2026年02月06日(金) 06:00 小説情報

癒しのヘッドスパ(作者:灯火011)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

ウマ娘のトレーナーが、ヘッドスパの才能があった世界線です。▼ウマ娘の耳周りとかすんげぇ凝ってると思うんですよね。ええ。▼※2026/04/15、連載に変更しております。▼※2026/05/06、完結いたしました。ご覧いただき感謝感激。


総合評価:3563/評価:8.42/完結:32話/更新日時:2026年05月06日(水) 19:00 小説情報

ウマ娘恋愛相談掲示板 約束の絶景(作者:アマシロ)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

『異次元の寂しがり屋』のセルフ三次創作です。


総合評価:3503/評価:8.82/完結:8話/更新日時:2026年03月02日(月) 21:42 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>