ヤン・ウェンリーは、約束通り焼きそばパンを買ってきた。
トレセン学園の購買で、学生たちに混じってパンを一つだけ買う伝説のトレーナーの姿は、異様な光景だったに違いない。彼はそれを、トレーナー寮の自室でふんぞり返っている芦毛のウマ娘――ゴールドシップに、やけくそ気味に放り投げた。
「さあ、約束の品だ。これで、私との間の馬鹿げた賭けは終わりにして、金輪際私の前に現れないでくれたまえ」
「んー、うめー!」
ゴールドシップはヤンの言葉など聞かず、焼きそばパンを頬張りながら部屋を物色している。
「よし、決めた!今日からここをゴルシちゃん秘密基地その2にする!」
「人の話を聞きたまえ。ここは君の秘密基地ではないし、私は君のトレーナーでもオモチャでもない」
ヤンは、こめかみを押さえながら、最後の理性を振り絞って交渉を試みた。
「いいかね。私は君を指導する気も、管理する気も毛頭ない。だが、君という不可解な現象は少しだけ、ほんの少しだけ興味深い。だから、こうしよう。私は君の『観察記録』をつけ、分析結果を提示する。君はそれを見て、好きにすればいい。その代わり、私の部屋のドアを蹴破るのはやめて、紅茶の葉には触らないこと。どうだ?」
ゴールドシップは、パンを飲み込むと、ニッと笑った。
「おっけー!よく分かんねーけど、面白そうだから採用!じゃあ、次の宝塚記念、アタシがどうやったら勝てるか、ちょー面白いレポート、よろしくな!」
嵐のように言い放つと、彼女は
「あ、マックイーンにドロップキックしてくるの忘れてた!」
と叫びながら、窓から飛び出していった。
残されたヤンは、破壊されたドアノブと静寂を取り戻した部屋で、深いため息をついた。
「……どうやら、私の人生で最も非論理的な戦争が始まってしまったらしいなぁ」
ヤンは、伝統的なレース戦略を立てることを、早々に放棄した。あのゴールドシップの前では無意味だと悟ったからだ。その代わりに、彼は一冊の分厚いノートを用意し、表紙にこう記した。
『ゴールドシップ観察日誌』
それは、もはやトレーナーの業務ではなかった。未知の生物を研究する、フィールドワークに近い行動だった。
彼は、ゴールドシップの過去のレース映像だけでなく、トレーニング中の奇行、食堂でのメニューの選び方、他のウマ娘(主にメジロマックイーン)との意味不明なやり取り、果ては蝶を追いかけてコースを逸脱した時間まで、あらゆる行動を記録、分析し始めた。
彼の仮説はこうだった。
『彼女の行動は、一見ランダムに見えるが、単なる気まぐれではない。我々とは全く異なる論理体系と価値観に基づいた、彼女なりの最適行動なのではないか?目的は、勝利ではなく、別の何か。その『何か』を突き止めない限り、彼女の行動予測は不可能だ』
宝塚記念の数日前。ヤンは、気づけば部屋にいたゴールドシップに、レポートを放り投げていた。
「これが、君の次のレースに関する私の分析結果だ」
ヤンが渡したのは、レース展開の予測ではなく、心理分析レポートのようなものだった。
『対象(ゴールドシップ)の直近72時間の行動分析結果:
・トレーニング中に歌を歌い始める(頻度:4回)
・メジロマックイーンにちょっかいを出す(頻度:11回)
・空の雲を17分間見つめる(頻度:1回)
以上のデータから、対象の『退屈メーター』は現在82%の危険水域に達していると推定される。この状態では、ゲート内での静止、スタート直後のコース逸脱など、『予測不能なドラマティック行動』の発生確率は73%に達する』
「なんだこれ、ゴルシちゃん取扱説明書かよ!あはは!」
「全く笑いごとではないよ。そこで、一つの提案だ。レース前に、君の退屈メーターを低下させるための、適度な刺激を与える。『新規性指数7.3以上』のアクティビティが望ましい。例えば、オレンジでジャグリングをしてみるとか」
「ジャグリング!?面白そうじゃん!でも却下!」
ゴールドシップはレポートを放り投げると、
「ま、見てろって」
と不敵に笑い、今度はドアを開けて、静かにヤンの元から去っていった。
そして、宝塚記念当日。ヤンは観客席で、胃の痛みを覚えながらレースを見守っていた。果たして、彼女は何をしでかすのか。
ゲートが開く。
―――出た。
完璧なスタートだった。これまでで最も、教科書通りで、美しく、普通のスタートだった。それは、彼女が起こしうる限り、最も予測不能な行動だった。
スタジアムがどよめく。ヤンは思わず双眼鏡を落としそうになった。
『ゴールドシップ、今日はやる気だ!完璧なスタートを切りました!』
レースは、驚くほど順調に進んだ。彼女は優等生のように好位置をキープし、無駄のない走りで最終コーナーを回る。誰もが思った。「今日の彼女は、本物だ」と。
だが、魔術師だけは、そのあまりの「普通さ」に、最大の警戒を覚えていた。
最後の直線。勝利が目前に迫った、その瞬間。ゴールドシップは、何の前触れもなく、突如として大きく外側に斜行した。最も距離ロスが大きく、最も非合理的な進路へ。
『あーっと、ゴールドシップ、なぜか外へ!大きく外へ持ち出したー!』
悲鳴と混乱。だが、彼女はそんなのお構いなしだった。わざわざ遠回りしたコースを、まるでスキーでもするように楽しみながら駆け抜け、それでもなお、2着に5バ身もの差をつけて圧勝してしまった。
それは、論理と常識に対する、あまりに鮮やかな嘲笑だった。
レース後。ヤンは、疲れ果てた顔で、鼻歌を歌いながら戻ってきたゴールドシップに問い詰めた。
「……なぜだ。なぜ、あの場面で外へ行った。最短コースを通れば、ほぼ間違いない確率で、もっと楽に勝てていたはずだろうに」
ゴールドシップは、きょとんとした顔でヤンを見ると、次の瞬間、心の底から可笑しそうに笑った。
「だって、つまんねーじゃん、普通に勝っても」
彼女は、悪戯っぽく片目をつむる。
「それにさ、大外からだと、ゴール前のアンタの焦った顔がよーく見えたんだ。だったら大外回るしかねーじゃん」
その瞬間、ヤンは全てを理解した。彼女の行動原理。その根源にある『何か』。それは、勝利への渇望ではない。記録への執着でもない。
ただ一つ。『退屈との戦い』。
彼女にとって、レースとは、己の退屈を紛らわすための、最高の舞台(ステージ)なのだ。その根底は、どこか、ナリタブライアンとも共通している。
ヤンは、天を仰いで、頭を掻きながら、長い長い、深いため息をついた。
これは、ウマ娘を指導するのとは訳が違う。自分は、気まぐれで、退屈を嫌う、混沌の神を楽しませる道化師、つまりはエンターテイナーにならなければならないのだ。
「……焼きそばパン」
ゴールドシップが、当然のように手を差し出す。
「……承知した」
ヤンは、観念したように答えた。
「だが、明日からは君の『退屈メーター』の数値化と、その変動要因に関するより詳細なデータ収集に協力してもらう。ノートを持って私の部屋に来たまえ」
「いーやだね!」
ゴールドシップは元気にそう言うと、スキップしながら去っていった。
残されたヤンは、頭痛をこらえながら、手元の『観察日誌』に新たなページを開いた。そこに、震える文字で、こう書き記す。
『仮説:対象の勝利条件は、レースの面白さ(エンターテインメント性)の最大化である。今後の分析は、この仮説を基軸に再構築する必要がある』
魔術師の、最も奇妙で、最も非論理的な航海が、本格的に始まってしまった。